近ごろ私は H. B. Irving(英国の名俳優)の著 Last Studies in Criminology を読み、欧洲犯罪史上有名な、フランスのラ・ロンシエール La Ronciere 事件の詳細を知ることが出来たからその梗概を述べて、女性の一面の考察がして見たいと思ふのである。この書は、英、仏の過去に於ける四つの著名な冤罪事件の委細を如実に記述したもので、著者自身の意見の記述は比較的少ないが、犯罪研究者に是非一読を御勧めしたいと思ふ好個の参考書である。
一八三四年八月のある夕、ロアール河に位するフランスの一市サウミユールの騎兵学校長モレル将軍の家で、モレル夫人がピアノを弾じて居ると、街頭から誰かゞ賞讃の大声を発したので、夫人が驚いて窓を開けて見ると、士官らしい男が彼方で妙な身振をして立つて居た。程経て、その場に居合せた一人娘のマリー(問題の女性)が、用事あつて二階に行き、帰つて来ると母親に向つて、今、二階の窓から、ある男が、家の傍を流れて居るロアール河に身投げしたところ、附近の人々によつて助け上げられたと物語つた。すると翌日夫人の許に無名の手紙が届いて、あなたを恋して居るが、この恋は遂げられないから身投したけれど果さなかつたといふ旨が書かれてあつた。(この身投げのことは後に至つて精密に調べられたが、誰も身投げのあつたことなどは知らなかつた。)
モレル将軍の家は巴里にあり、家族は夏だけ、このサウミユールに来て将軍と共に住むのであつて、家族は夫人と、十六歳の娘のマリーとその弟のロベールから成つて居る。夫人は身分ある家の生れで、非常に美しく、娘のマリーも夫人によく似て居た。マリーは幼時より非常に小説を好んだが、夫人はそれを欲せずして、聖書や、もつと硬い文学書を読むやうにたへず忠告して居たのである。
無名の手紙を貰つた夫人は、昨年の十一月と今年の四月にも同じやうな無名の手紙を巴里で受取つたことを思ひ出した。その時の手紙には二回共、マリーの家庭教師兼女中なる二十四歳の英国女アレン嬢と、秘密団「ベーアド・アームス」に気をつけよと書かれてあつたが、別にこれまで怪しいことは少しも起らなかつたのである。
八月下旬のある夜、モレル将軍は騎兵学校の士官を招いて晩餐会を開いた。翌朝マリーは母親に向つて、「昨夜私の隣りに坐つた士官のロンシエールさんが、お母さんの肖像を指して、あなたのお母さんは実に美しいですな。それだのにあなたはお母さんに少しも似て居ない」と語つた旨を告げた。この士官は名をエミール(Emile de la Ronciere)と言ひ、その父は有名な老将軍であるが、今年三十歳の彼は、これまで美貌が仇となつて素行が修まらず、従つて父と意見が合はずして、自分勝手に騎兵となり、昨年からこの地に来て居たのである。始め巴里から情婦を連れて来て同棲して居たが、今はそれを返して、ルーオーといふ寡婦の家に寄寓して居た。上官にも同僚にも評判はよくなかつたが、最近は真面目になつて居たので、モレル将軍から晩餐に招かれた訳である。
一両日の後モレル夫人は E. de la R と署名した手紙を受取つた。
「あなたを崇拝する私の名をあなたに告げたくてならない。私がお嬢さんに書いたことをあなたは不快には思つて下さるまい。あなたがお嬢さんを愛してゐないことを私はよく知つて居ます(。)(※1)私はお嬢さんをどこまでも苦しめてやらうと思ふのです。この冬を見ていらつしやい。既に私はお嬢さんの悪口を書いた無名の手紙を三十本、巴里の知人に送りました。私は、今日あなたの家の周囲を徘徊して居ます。あなたが外出なされば、私の愛を受けて下さつた証拠と思ひます。」
夫人は直ちにこの手紙を将軍に見せた。将軍がそのとき窓から外を眺めると家の前の橋の上にロンシエールが立つて居た。
夫人と同時に娘のマリーもRと署名した手紙を受取つた。
「僕は君が憎くてならない。君を殺して膾にしても慊らない。今に君の幸福と心の平和を奪つて見せる。もう君の家の三人の者は僕の味方にしたので、君の家の何事もよくわかる。この手紙はピアノの上に置く。君、冗談だと思ひ給ふな。真剣だよ」
マリーの家庭教師のアレン嬢も同時に手紙を受取つた。
「モレル嬢に話して下さい。彼女は世界中で一番厭な女だと。彼女の母は何といふ美人でせう。娘の方が母親より十歳も年上に見える。土曜日の舞蹈会は面白かつたが、彼女のためにすつかり汚されて了つた」
同じ頃、騎兵学校の一士官デスツイリも「一士官より」と書いた手紙を受取つた。デスツイリは、非常に謹厳な男で、将軍家の者どもから愛せられ、六月に学校を去るのであつたが、マリーの八月の誕生日に、彼の描いた画を送るとて今まで滞在して居たのである。
「君は幸福であるが、僕は君及びモレル家の幸福を傷けやうと思つて居る。僕はモレル嬢とソーフアの上で楽しく語つた。そして彼女に告げた。――デスツイリ君はもうサウミユールに滞在しませぬよ。頻りに帰りたがつて居ます。何でも父親が同君の一身上のことで相談があると言つて来たさうです――と。」
デスツイリはこの手紙の発信者をロンシエールだと思ひ、その後ある舞蹈会でマリーに逢つたので、自分が帰宅することを誰かに聞いたかと訊ねると、マリーは始め答へなかつたので「ロンシエール君ですか」と念を押すと「はあ」と顔を赤らめて答へた。すると三日目にデスツイリはまた手紙を受取つた。
「僕は今日マリーに侮辱の手紙を送つた。それにはデスツイリと署名した。召使に五フラン与へたから、手紙はたしかに彼女の手に入るだらう。」
更に九月八日にデスツイリは第三の手紙を受取つた。
「君は万事をモレル夫人に打明けたやうだが、僕にとつては却つて都合がいゝ。僕はマリーの筆蹟を真似ね(※2)て、茲に一通の手紙を封入して置く。これをモレル夫人に渡したまへ。君のヒロインは必ず、一室に閉ぢこめられて了ふだらう。僕は「君は醜く、馬鹿だ」と書いた紙片を彼女の室や書籍の中へ入れて置いた。」
同封の手紙にはかう書かれてあつた。
「あなたは何故私を愛しては下さらないの。私は本当に悲しくてなりません。土曜日の晩私はあなたとダンスしたかつたけれど、あなたはきいて下さらなかつた。私は神様にあなたの気の変るやう祈つて居ります。私は誓つてあなたを愛します。……マリー・ド・モレル」
この第三の手紙を、デスツイリは将軍に示さねばならぬと思つた。ところが将軍も同時に一通の手紙を受取つた。
「将軍よ、僕は閣下の一家に不幸を与へたいと願ふ者です。然しサウミユールは悲劇を生ぜしめるには少し不適当です。それで僕はデスツイリ君を使つて僕の願望を成就しやうと思ひ、僕が破壊しやうと思ふ女の手蹟を真似て手紙を書き、その手紙をモレル夫人に示すやうにしました。彼は恐らく自身の恋の破れたのを怒つて復讐の手段を取るでせう。(下略)
この手紙の終りには署名の代りに、カムブロン将軍が、ウオータールーで用ひたといはれて居る乱暴な言葉が書れてあつた(。)(※3)
将軍は、ロンシエールの仕業だとは思つたが、娘のためを思つて、デスツイリにも打捨てゝ置くやうに語つた。すると九月十四日又もやデスツイリは次の手紙を受取つた。
「君は僕の言つた通りを行はなかつたが、僕にも覚悟がある。彼女は君を崇敬し、夜分十一時頃窓際に凭つて君の来るのを見て居たことさへある。君も一週に三度も訪ねたり又、橋の上を散歩したりするので、彼女は君の愛を信じて居る。然し君注意したまへ、彼女は今にすつかり破壊されて了ふから。さうなつたら。(※4)両親も彼女を顧みなくなる。来年の一月だ。覚えて居たまへ。序に言ふが、僕は彼女を熱愛して居る、否彼女の金を愛して居るのだ。(下略)」
この手紙にはRと署名してあつた。デスツイリは取り敢へず将軍にこの手紙を見せたので、将軍も遂に意を決して、九月二十一日の舞蹈会の夜、ジヤクマン大尉立合の上、ロンシエールに向つて「今後はもう僕の家に出入することを許さぬからそのつもりで居てくれたまへ」と言ひ渡すと、ロンシエールは一言も言はず敬礼して去つた。其処で将軍は愈ロンシエールが手紙の差出人であると思ひ込んだ。
ところが、その翌日ロンシエールはジヤクマン大尉を訪ねて何故に将軍が自分の出入を禁じたかを訊ねた。そこで大尉は無名の手紙のことに就て語るとロンシエールは顔色を変へて驚き(、)(※5)自分は少しもそんな手紙を書いた覚えはないと、頻りに弁解しそんな冤罪を蒙ることは軍人に取りて殺人罪に問はれたよりも辛いと語つた。
九月二十四日の朝六時のことである。アレン嬢は慌ただしく将軍夫妻を起して、四時間前マリーがとんだ災難に出逢つた旨を告げた。マリーは両親の室の真上に眠り、その隣りにアレン嬢が眠つて居たが、午前二時頃マリーは窓ガラスの破れる音に眼を醒すと、一人の男が室に闖入して来たので、驚いて椅子の後ろに隠れると、男は彼女の方に近づいて来た。赤い軍帽を被り耳まで隠れる程のカラーを附け、「復讐に来たんだ」と言つて椅子を取り除け、彼女の肩を抓み、寝衣を引き裂き、手巾で猿轡を嵌め、縄を以て全身を締り、腕と胸を強く殴打して、「将軍の言葉と、無名の手紙を書いた男に復讐するのだ」と言ひ乍ら、なほも鋭い刀を太股の間に二回挿し込んだ。その傷の痛さにマリーが大声を揚げたので、アレン嬢が扉を開けにかゝつた。すると男は「これで沢山だ」と言つて、箪笥の上に一本の手紙を置き、窓から出て行き、「しつかり持つてくれ」と誰かに言つて(、)(※6)やがて足音が遠く消え去つた。
アレン嬢がやつとの事でマリーの室に入ると、マリーは板の間の上に横はり、手巾と縄で締られて、その傍には血が二三滴こぼれて居た。十分間の後マリーを寝台に休ませ、以上の話を聞き、月あかりに外を見たが、何人の姿も見えなかつた。その後四時間を経て、アレン嬢は始めて将軍夫妻に告げたのである(。)(※7)
マリーはアレン嬢と母親には、男はたしかにロンシエールであつたと語つたが、父親には、暗くてよくわからなかつたと告げた。そして三週間後始めて、母親に太股の傷のことを語つた(。)(※8)
曲者が箪笥の上に残した手紙にはかう書かれてあつた。
「水曜日午前一時。――この犯罪が如何なる動機で行はれたかを君は知つて居ませう。僕は君を愛し、崇敬したが、君は僕の言ふことを聞かなかつた。だからその復讐をしたのである。あの男は愚かにも将軍に何もかも話して了つた。それ故僕は彼と決闘しやうと思ふ。僕はそれから巴里へ行つて、このことを世間に言ひふらすのだ。君の苦痛は僕の今迄の苦痛 (※9)比すれば何でもない」
その朝将軍はまた、郵便によつて一通の手紙を受取つた。
「水曜日午前四時。閣下は僕の手紙を一笑に附せれたが、僕は閣下の考へられる以上に危険なことを御承知下さい。僕は窓から令嬢の室にしのび入り、令嬢を寝台の端にたほして、彼女の名誉を奪ひ、彼女の血を出して、再び誰にも見られずに去りました。次の室で女が頻りに扉をあけやうとしたが、僕が予め錠をかけておいたので駄目でした。(中略)今や万事成功しました(。)(※10)僕が手紙を配らせたのはあなたの家の召使のサムエルです。いつも彼に五フラン宛与へました。若し僕に窓以外の危険の少ない場所からしのび込ませるなら、千フラン遣るがどうだといつても、彼はそれを拒みました。これから三月後に僕はサウミユールを去つて巴里に行き、このことを公にします。」
茲に於て、将軍は非常に煩悶し始めた。といふのは、もしこれを公にすれば、娘の名誉を傷けるからであつて、熟考の結果将軍はやはり永久にこの事を秘密の儘に葬らんと決心した。
その同じ日、デスツイリもまた一通の手紙を受取つた。
「君は実に恥知らずだ。君は卑怯にも将軍に告げてしまつた。云々」
と悪口の限りが尽してあり、署名には Emile de la Ron――としてあつたので、デスツイリも遂に決心して、決闘しやうと言ひ送つた。
ロンシエールはデスツイリの決闘状を受取つて非常に驚き、友人のアムベールに「僕は実に不幸な目に逢つた。僕は無名の手紙に就ては何も知らない」と書き送つてデスツイリに話して貰ふやう歎願した。けれどデスツイリはどうしても決闘を主張したので、愈ロアール河の堤で決闘が行はれ、ロンシエールが勝つた。ロンシエールは傷いた相手の手を取り、「僕は何も知らない(。)(※11)今日のことはお互に忘れやう」といふと、デスツイリは「君が白状するなら忘れる」と答へた。
その夕方マリーは又もや無名の手紙を受取つた。「僕は遂に決闘に勝つた。見たまへ悪はこの世で栄えることを。君の恋人は僕のために瀕死の傷を受けたのだ。僕は嬉しくてならぬ。(中略)僕は何も君を悪んでは居ないが、君の母の僕に対する態度が気に喰はぬから、君に侮辱を与へたのだ。君の名誉は僕と結婚することによつてのみ保たれる。(下略)」
デスツイリとその友人共は、どうしてもロンシエールに白状せしめやうとしたのが(※12)、ロンシエールは頑として無実を主張した、そこでアムベールはロンシエールに向つて、「裁判沙汰になりさうだから、学校を罷めて、この地を去りたまへ」と手紙で忠告した。するとロンシエールはデスツイリに向つて、「法廷へ持ち出されるといふことは、たとひ僕が無実でも、父の名誉を傷けることになるから、僕は堪へられない。だから手紙は僕が書いたと白状するから、どうか今迄のことは闇に葬つてくれたまへ。尤もこの自白は一家の名誉を傷けないためにするので、如何ばかり苦しいかといふことを察してくれたまへ。」と書いた(。)(※13)けれどもデスツイリは、これで満足出来ず、次のやうに返事した。「三人の筆蹟鑑定家に見て貰つたところ、手紙は君の手だといふから、君は五年の禁錮に処せられねばならぬ。それに君の自白はまだ充分でない。君は将軍や将軍夫人や、令嬢に送つた手紙も君のだといふことを自白してほしい。(中略)事件はもう公になりかゝつて居るから、闇に葬ることは出来ぬ。友人どもは非常に憤慨して居るから、早く学校を退きたまへ。(下略)」
この手紙の中の筆蹟鑑定家云々のことは全く作り事であつたが、ロンシエールは益驚いて、「更に一家のためになることなら、手紙は総て僕の書いたものだと白状する。今晩僕はこの地を去るから、どうか万事穏便にしてくれたまへ」とデスツイリに書き送つた。デスツイリはこれでもまだ満足が出来ず、一友をして将軍家の召使ひのサムエルが果して彼の共謀者であるかを訊ねしめた。ロンシエールは、自分が罪人になるのはかまはぬが、罪の無い人をも罪人にすることは出来ぬと答へた。
九月二十五日ジヤクマン大尉が将軍に、ロンシエールが万事を白状して暇を乞ひましたと告げると将軍は驚いて、どんなことを白状したかを訊ね、「その夜のこと」を言はなかつたのに安心した。将軍家の召使のサムエルも同じ日に暇を出されたので(、)(※14)ロンシエールは巴里への途上サムエルに逢つて、千二百フランを出すが、手紙は誰が書いたか聞かしてくれと言ふと、サムエルも同じことを言つて彼に訊ね返した。ロンシエールは巴里の親戚なる一士官を訪ねて一伍一什を告げると、その士官は金とピストルを机の上に持つて来て、もし本当にさうだつたら、金を持つてフランスを去るか、ピストルで頭を撃てと詰つた。ロンシエールは飽くまで無実を言ひ張り、どうかして事実の真相を知りたいから援助してくれと歎願した。士官はそれ故、またサムエルを呼んで訊いて見たが、彼は何も知らなかつた。
ところがロンシエールの去つた日、モレル夫人の許に、E. de la R と署名した一通の手紙が届いた。
「あなたは多分私が復讐をし遂げて満足したと思つて居るでせう。私はあなたの家のことは何から何までよく知つて居ます。いくら用心なさつても、私の一存で万事巴里に知れて了ひますよ。(中略 (※15)私は令嬢を殺したと思つて、これはしまつたと思ひました。もう殺して居たら、今度はあなたを辱しめるつもりでした。令嬢は命だけは助つたが、たとひ妊娠しないとしても、十分汚辱せられたではありませぬか。凡てはあなたの仕打が因です。(」)(※16)
マリーは、かゝる恐ろしい目に逢つたにも拘はらず、五日後にはいつもの如く舞蹈会に出たりして、あまり心配した様子もなかつた。
二週間後、十月十二日に、モレル夫人はまた一通の手紙を受取つた。
「二週間手紙を書かなかつたから、私が後悔したとでも思つて居らるゝかもしれぬが、どうしてゝゝゝゝ(※17)私はあなたの家のある人と文通して、万事知つて居ます。この手紙はその人に託してサウミユールで投函して貰ひます。あなたは私をフランスから追放したいでせうが、たとひそうなつても私は「ベーアド・アームス」の一員ですから、その手で復讐します。(中略)私は令嬢と結婚したいのです。(中略)最初は私はあなたを恋したのですが(、)(※18)あなたはそれを拒んだから、かやうな復讐をしたのです。私はあなたと将軍とが令嬢の結婚のことを相談して居たと聞きました。もしやあなたが急いで娘を結婚させるつもりではないかと思ひましたが、そうでないとわかりました。(中略)いゝですか、私の要求を拒絶すると直ちに、巴里で公表しますぞ」
モレル夫人は無論、黙つて打棄てゝ置いた。すると十月二十一日、マリーが、便所から出て来るなり、気絶してたほれたので人々が驚いて駆けつけて見ると、彼女の手に一枚の紙が握られて居た。
その紙は E・R と署名した手紙で、「何事もないと思つて安心して居るといけませんよ。君の両親も、デスツイリ君も、こゝ二三ヶ月の内に、あの世の人となるのだ。君が僕の言ふことを聞かぬから、僕は彼に復讐するのだ」と書かれてあつた。正気がつくと、マリーは「あの赤い毛の男が、父さんや母さんを殺す」と叫び、二日間興奮して就寝した。
二日過ぎ、モレル夫人は更に一通の手紙を受取つた。
「あなた方が私に就て奸んで居らるゝことに対し、私は必ず復讐します。何なりとおやりなさい。(中略)私は金が欲しいのだ。娘と共に私に下さい。さもなくば血を見ますぞ。ギスケ氏に頼みになつたとて駄目です。私はいつまでも手紙を書き送ります(。)(※19)巴里では死があなたを待つて居ます。」
この手紙を見てから、将軍も遂に意を決して、巴里に行き、検事に逢つて、数々の手紙を渡し、九月二十四日の娘の災難をも語つたので、十月二十八日ロンシエールは官憲の手に逮捕され監禁された。
ところが彼の監禁後一ヶ月を経た十一月二十八日、デスツイリは E. de la RonSiere といふ綴りの間違つた署名の手紙を受取り、その手紙と同時に V.M といふ人の添書があつて「ロンシエール君は貴下の住所を知らず、小生より転送してくれとの事でした」と書かれてあつた。
「日曜日、巴里にて。僕は今囹圄の人となつて断頭台に送らるるかもしれぬ憐れな地位にある。僕は君に切願して、僕を救つてくれむことを欲する。(中略)僕はモレル嬢に恋し、殺意を以て彼女の室に入つたが、その時僕は彼女に、彼女が君を愛して居ないことを言はしめやうとした。ところが彼女は口を噤んで居たので、僕は彼女を傷けたのだ(中略)巴里に来てから僕は僕の仲よしの将軍家の女中の手によつて令嬢に脅迫の手紙を渡したところ、令嬢はそれを見て病気に罹つたといふ話だ。(中略)僕は何事も君に白状したから、どうか僕の家名を傷けぬやうに(、)(※20)君に救つて貰ひたいと思ふ。僕は裁判の際、何もかも否定するつもりだ。僕は君に信頼する、この手紙は焼き捨てゝくれたまへ。」
十二月初め、モレル夫人は令嬢を伴つて、フアレーズに行き三週間滞在して、十二月二十二日、更に巴里をさして出発した(。)(※21)翌日の晩方九時頃車が将軍邸に近づいた時、車の外へ右腕を出して居たマリーが「あ、痛つ、」と悲鳴を挙げて腕を引き込むなり、膝の上に紙玉が落ちた。夫人は直ちに車から外を見た所、帽子を被つた女が彼方に走り去るのを認めた。一枚の紙の上には「モレル夫人、緊要」と書かれ、他の紙の上にはかう書かれてあつた。「私はS町の宗教団の一員ですが、そこで皆さんのなされた噂をお伝へしませう。ある方はあなたが善良なる母親ならば、令嬢を襲つた男を法廷に送らないで、その男に令嬢を嫁がしめるべきだと申して居られます。またある方は、あの夜令嬢の室に闖入したのは士官ではなくて召使の男だらうと申して居られます。又ある方はもう闖入の噂が事実であつて、あなたが慈悲のある方ならば、令嬢を三ヶ月経ぬ内にその男と結婚せしむべきであると言つて居られます。以上聞いた儘を御伝へ致します。」
夫人が車の窓から見た女は多分、二日前に巴里に帰つた、女中のジユリーであらうといふことになり、ジユリーは程なく逮捕せられた。この以前ロンシエールと共に、既にサムエルも逮捕せられ監禁されたのである。
予審判事がロンシエールに向つて「君はモレル嬢殺人未遂で拘引されたのだ」と言ひ渡すと、ロンシエールは椅子から飛び上つて驚いた。其処で、判事が数々の手紙を示すと、「僕はたゞつまらぬことが書いてあるばかりだと思ひました」と弁解したが、モレル嬢に対面せしめたところ、令嬢はあの夜の男はこの人だと言ひ切つた。
一たび事情が新聞に公にせらるゝや、世間の同情は一斉に、可憐の少女マリーの身に集つた。ことにロンシエールは素行が終まらなかつたので、人々はこの恐ろしい犯罪行為はロンシエールの為たことゝして少しも疑はなかつた。ところが段々取り調べが進むに連れ、ロンシエールは別に従来犯罪的行為はしなかつたことが明かとなり、ことに有名な四人の筆蹟鑑定家の証言が公にせらるゝに至つて事件は世人の興味の焦点となつた。といふのは、筆跡鑑定家の言に依ると、あの手紙は凡て同一人の筆になり、而もそれはロンシエールの筆蹟ではなく、かのマリー・ド・モレルと署名してデスツイリに送られたのはたしかに女の手になつたものだといふことになつたからである。而もなほ二人の筆蹟鑑定家は、そのマリー・ド・モレルと署名した手紙と V・M と署名した添書はマリーの本来の筆蹟 (※22)、他の十八本の手紙はマリー自身が、違つた手を真似て書いたものに外ならぬと断言したのである。
このことを聞いて世人は大に驚き且つ判断に苦しんだ。わづか十六歳の而も上流の家庭で、厳格に育てられた少女が、かやうな恐ろしい奸計を果して策し得るであらうか? 世人は皆かゝることは金輪際あり得るものでない。やはりロンシエールの仕業で、而も筆蹟鑑定家をも迷はす程巧みな手紙を送つたところを見ると、ロンシエールは実に恐ろしい怪物であると結論して了つたのである。
予審は実に八ヶ月罹つて、一八三五年六月二十九日公判が開かれた。巴里のあらゆる階級の人々が傍聴に出かけ、その中には文豪ヴイクトル・ユーゴーも居た。マリーはその三月前から一月四回宛神経病性発作に襲はれたので出席すること難く、午後十二時が訊問に都合のよい時機であると医師が述べたので、マリーの訊問だけはその時間に行ふことゝなつた。ロンシエールの父将軍も、嘗てはロンシエールと仲がよくなかつたが、この事が起つたとき、息子の潔白を信じて疑はず、如何なる費用をも厭はぬからと言つて息子を励まし、当日も傍聴席に出かけて来た。裁判官も検事も弁護士も、何れも当時最も有名な人々であつた。
裁判の詳細は茲には省略する。ロンシエールの無罪の証拠は極めて有力であつたが、七月四日、陪審官は女中のジユリーと召使のサムエルには無罪、ロンシエールには十年の禁錮を宣告した。一八四三年国王ルイ・フイリツプは彼の刑期を二年減じ、一八五〇年、当時の司法大臣バローの好意によりて事件の再調査が行はれ、ロンシエールは優良な地位に任命された。
読者はかの無名の手紙の内容、その他上記の諸多の事情からして、無論ロンシエールの無罪を信じて居られるであらうと思ふ。裁判の誤謬に就ては今茲に論ずべき範囲ではなく、若し犯人がロンシエールでないとしたならば、果して、筆蹟鑑定家の言の如く、マリーの作り狂言であつたとして説明し得るかを考察して見たいと思ふのである。
マリーはその後、外交官の某侯爵と結婚し、平安な家庭生活を送つたが、時折有名な神経病学者シヤルコーの世話になつたと言はれて居る所から見ると、彼女が若い時から神経病性素質を持つて居たことは考へるに難くなく、ことに公判の時に、神経病性発作に襲はれて居たことを考へ合せると愈明かである。其処で注意すべきことは、彼女とロンシエールと初めて逢つたのが八月の下旬であり、曲者が彼女の室に闖入したのが九月の下旬であり、便所から出て気絶したのが十月の下旬であり、車の中へ誰かゞ手紙を投げ込んだのが十二月の下旬であり、神経病的発作のため公判廷へ出られなかつたのが七月の下旬であることである。換言すればこの事件に於ける最も著しい出来事が、皆月の下旬に起つて居ることである。これは果して偶然のことであるか、又は何かの原因があつて然らしめたのであらうか?
彼女の生理的状態の記載は原著に欠けて居るから断言は出来ないが、私はこれ等の時間が彼女の月経期でありはしなかつたかと思ふのである。月経期には健全な女子でも、多少精神が抑鬱状態に陥つたり或は反対に興奮状態を呈したりするもので、神経質性の女子ではことに著しく、そのため種々の犯罪的行為を演ずることはロンブロゾー、クラフト・エービング其他の学者が夙に注意し記載して居る所である。万引、放火、殺人の如き犯罪が月経期の女性によつて行はれた例証は従来甚だ多い。この場合にモレル夫人はマリーの十五歳の時始めて無名の手紙を受取つたのであるが、その頃をマリーの月経の初潮か又はそれより間もない時分と見ることは出来ないであらうか。(初潮としては少し普通より遅過ぎるかもしれぬが)
マリーは幼より小説が好きであつた。之れによつて彼女は色色の空想を描き、或は恋愛、或は犯罪等に憧がれたことは察するに難くない。然るに母親はかゝる小説を読むことを禁じたので、それが母親に対する無名の手紙の発送となつたのではあるまいか。そしてロンシエールを見るに至つて、彼を利用して、自分の変つた慾望を満足せしめやうとしたのであらう。当時の多くのフランス人は、十六歳の少女では、あのやうな内容の手紙は書き難いと考へたけれども、小説などを耽読したものであるとすれば、少しも奇異とするに足らない。殊にその内容が、時とすると、乱れ勝なる所は若い女性の作物と見做すに足るのである。
読者は、彼の女の作り狂言が、如何に執拗であるかに驚かれたであらう。飽くまで自分の目的を遂行せんとして、周囲の事情を顧みず、自分の行為が他人に如何なる迷惑を与ふるかといふことは少しも念頭に置かないで、一本調子に進んで行くところは、また女性の犯罪に極めて多い所である。かくの如き「モノメニア」monomania はことにヒステリー性の女子に屡現はるゝ現象である。アワースラーの探偵小説「深紅の腕」、コーナン・ドイルの最近の作「ソーア橋事件」には、婦人の「モノメニア」に依る犯罪が巧みに描かれてあるが、かゝる「モノメニア」は屡数人、数十人の殺人をも平然として行はしむるものである。欧洲の犯罪史上に現はるゝ女性毒殺者が、屡数十人乃至百人以上の人を毒殺した如きは、毒殺の面白さ即ち一面から言へばこの「モノメニア」に依るものと解釈すべきであらう。
エリスは女性の犯罪は、男子よりもその惨酷の程度が大なるのを特徴とするといひ、その原因は、ロンブローゾーの所謂「女子は男子よりも一般に痛覚が遅鈍である」ことにも依らうが、目的のために手段を選ばぬといふ「モノメニア」もその一原因と見るべきであらうと思ふ。而もその目的たるや、あるひは嫉妬その他の動機に依る一定の目的たる場合もあるが、この場合に於けるが如く無目的強ひていへば人に災難を与へやうといふ目的たる場合が甚だ多く、ロンシエールのやうに犠牲に選ばれた者ほど、いゝ災難である。昔から「女の一念」の恐ろしいことが説かれてあるが、女性にはかくの如き一面のあることを記憶しなければならぬ。
ロンシエール事件は、犯罪学上は勿論、女子教育上我等に教ふる所が尠くない。私はこの一篇に於て、自分の意見を述ぶるよりも事件の記載を主としたのであるから、読者は事実に従つて各自に深く考察してほしいと思ふ。なほ犯罪史ことに「裁判」の歴史に興味を持たるゝ人は是非共原著に就て研究せられむことを望む。
(※1)原文句読点なし。
(※2)原文ママ。
(※3)原文句読点なし。
(※4)(※5)句読点原文ママ。
(※6)(※7)(※8)原文句読点なし。
(※9)原文一文字空白。
(※10)(※11)原文句読点なし。
(※12)原文ママ。
(※13)(※14)原文句読点なし。
(※15)原文一文字空白。閉じ括弧なし。
(※16)原文閉じ括弧なし。
(※17)原文の踊り字は「く」。
(※18)(※19)(※20)(※21)原文句読点なし。
(※22)原文一文字空白。
底本:『解放』大正12年1月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1923(大正12)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2017年4月21日 最終更新:2017年4月21日)