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外科手術の今昔

 第十九世紀の半ば頃、英国の名宰相であつた、ロバード・ピール(※1)は、六月二十九日(一八五〇年)の朝、馬から落ちて、左の胸と肩とに重傷を負つた。時の名外科医ベンジヤミン・ブローヂー(※2)を始め、数人の医師が駆けつけて診察すると、鎖骨骨折を起して居て、その破片のために、頸静脈が傷いたらしく、傷口から血が徐々に迸つて居た。ところが、議会では非常に大胆であつたピール(※3)も、疼痛に対しては極端に過敏であつたために、医師が手を触れてよく検査しやうとしても許さなかつたので、医者連は如何することも出来ず、遂に三日の後彼は六十二歳を一期として死んだのである。
 若しその時、その三年前に発見された「クロヽフォルム」麻酔法が一般に行はれて居たならば、疑ひもなく、容易にこの大政治家を救ふことが出来たのであるが、発見早々のことであつたから、之を施さなかつたらしい。かくの如く、麻酔法が発見される迄は、単に疼痛に堪へ難いといふ理由のために、適当な外科的処置を受くることを拒み、みすみす死んだ者がどれ位沢山あつたか知れない。
 麻酔法が無かつた時代の外科手術が、どれ程残酷なものであつたかは、読者諸君にも想像が出来やう。患者はまるで、死刑の日を待つ囚人のやうに手術の近づくのを心配したものである。だから外科医は地獄の赤鬼か青鬼のやうに思はれたのであつた。実際また余程冷酷にならなければ外科医は勤まらなかつたのである。いざ手術といふときには、腕節の強い男どもが、患者を鷲づかみにする。外科医が刀を突き刺す。患者が悲鳴をあげてもがく。もがかせまいと無理無体に抑へる。血はどしゝゝ(※4)溢れ出る。その血を鋸屑に吸はせる。といふ有様で、気の小さいものなら、大抵一目見たばかりで気絶する位であつた。
 時として、前記ピール(※5)のやうな過敏な患者は疼痛のために「シヨツク」を起して死ぬことがあつたが、さもない患者でも、少し手術が長びけば出血のために死に、又幸ひに、疼痛にも出血にも堪へ得ても、手術後傷口が膿んで、高熱を出し、毒が全身に廻つて死ぬものが極めて多かつたのである。

 この物凄い手術の光景を見て、せめて手術の際の疼痛だけでも無くする方法は無いかと、考へた人は随分沢山あつたが、中にも、スコツトランド(※6)エヂンバー(※7)大学の医学生ジエームス・シンプソン(※8)は、一時、医学を中止して法律を修めやうかと思つた程、手術の光景に怖気づいたゞけ、人一倍、その方法に就て思ひを悩ましたのであつた。彼は一八八一年生れのスコツトランド(※9)人であるが、二十九歳のとき母校の産科学の教授に任ぜられてからも、たえず「疼痛を除く方法」を考へたのである。
 彼は先づ太古からの歴史を繰つて、さういふ方法が記載されてないかを検べた。すると印度に産する大麻が、たしかにさういふ疼痛を除く薬であるとわかつた。そして彼は希臘の詩聖ホーマー(※10)が記して居る「子ーペンチー」(忘憂薬)なるものは、たしかにこの大麻であると考へた。即ち、太古の人々は外科手術の際、疼痛を除く薬即ち麻酔薬として印度の大麻を用ひて居たらしいのである。
 それから中世紀に於ては、麻酔薬として大麻の代りに「マンドレーク」(狼毒)と称する植物が使用されて居ることがわかつた。沙翁の戯曲の中にも度々この植物の麻酔作用が記されてあつて、外科手術の際にもたしかに応用されたものらしい。
 更に近世に至つては「アルコホル」の麻酔作用が手術に応用せられたこともわかつたが、何れにしてもそれ等の方法は、シムプソン(※11)の時代には最早、常用麻酔法として、行はれて居なかつたのである。
 次に、彼は薬剤を用ふる方法以外の、疼痛を除く方法を調べて見た。すると、太古の猶太人が、割礼(小児の陰茎包皮を環状に切り去る宗教上の儀式)を行ふ際、小児の頸動脈を圧迫して意識を失はしめ、然る後手術を行つたことが記録せられ、また一般手術の際にも第十六世紀頃までかゝる方法が応用されたことがわかつたが、この方法はあまりに野蛮で残酷のやうであるから、用ひて見る気にはならなかつた。
 そこで更に、彼は、太古から、印度、波斯、埃及に行はれた催眠術に眼をつけて見た。丁度第十七世紀の末から、催眠術はメスメル(※11)によつて「メスメリズム」の名で復活させられたゝめ、彼は、手術前患者に催眠術をかけてはどうかと考へ、催眠術を研究して見たが、やはりどうも面白くなく、遂に途中でその研究を中止した。

 すると、一八四四年、太西洋(※12)を距てた南方の大陸から突然新麻酔法が提唱された。即ちアメリカ(※13)の歯科医ホレース・ウエルス(※14)は、「笑気」即ち「酸化窒素」を患者に嗅がしめて痛み無しに歯を抜くことが出来、その弟子のモートン(※15)は「エーテル」を嗅ぐ麻酔法を発見し、この「エテール」麻酔法は、暫くの間に米国は勿論欧洲にも伝へ拡められた。
 一八四六年十二月、シムプソン(※16)ロンドン(※17)に来て、ロンドン(※18)で最初に「エーテル」麻酔法を試みた師のリストン(※19)に逢つてその方法を聞き、翌年正月直ちに産科に応用したが、間もなく「エーテル」麻酔法に慊らぬ感を抱き「エーテル」よりももつと有効な物質はないかと、助手と共に、多数の薬剤を自ら吸入して試み、遂に一八四七年の暮に、「クロロフオルム」を捜し当て、かくして、シムプソン(※20)は人類の一大恩人となつたのである。
 現今では「クロロフオルム」と「エーテル」とが併用されて居り、なほ、「コカイン」その他の薬剤による局所麻酔法が行はるゝに至つたが、「クロロフオルム」麻酔法の発見は、何と言つても医学上の一大発見といはねばならない。
 茲に序に述べて置きたいのは、上古の支那及び日本に於ける麻酔法である。支那では三国時代(今より約千五百年前)に、魏の華陀といふ外科医が、麻沸散といふ麻酔薬を患者に飲ませて手術したことが記録されて居るが、この麻沸散なるものゝ主要な成分は印度の大麻であるといはれて居る。但し、麻沸散の使用は華陀一代だけで絶えて後には行はれなかつた。日本では文化年間(約百二十年前)紀州の外科医華岡青州が、通仙散なる麻酔薬を手術に応用したが、その主成分は曼陀羅華即ち俗にいふ「きちがひなすび」であつて、その作用は前記の「マンドレーク」の作用と、よく似て居る。読者はこれ等のことと、西洋の麻酔剤史と比較して頗る興味の深いことを覚られるであらうと思ふ。

 かくて外科手術の際の第一の難問題は解決されたが、なほ手術後の創傷の化膿には外科医もよほど頭を悩まさゞるを得なかつた。折角、うまく手術をしても化膿のために命を失ふものが甚だ多く、それを防ぐために、創傷を出来得る限り、清潔に保つこと、縫合する糸として銀線を用ふること、膿がよく出るやうに排膿管を用ふること、出来るだけ度々繃帯を取り換へることなどが推奨されたが、やはりどうもうまく化膿を防ぐことが出来なかつた。一たい手術後どれ位の割で、化膿のため全身に毒がまはつて死ぬかといふことを、英国の外科医ジヨセフ・リスター(※21)が自分の勤務して居る病院で一八六四年から二年間の統計を取つて見たところ、実に、手術を受けた患者の約半数に達したことを知つた。リスター(※22)は如何にもして、この化膿を防ぎたいものと腐心したが、悲しいかな化膿の原因がわからなかつたので、いゝ考が浮ばなかつたのである。

 すると折もよく化膿の原因がフランス(※23)パストール(※24)によつて明かにされた。即ち創の化膿は、空気中に居る微生物が創口に寄生繁殖するものであるとわかつたため、リスター(※25)はこの微生物を殺す方法さへ工夫すれば、化膿は防ぎ得ると推定し、パストール(※26)の滅菌法、即ち熱を用ふる滅菌法は人間には応用出来ぬから、化学的物質を用ゐて滅菌を行はうと思ひ、塩化亜鉛などを試みたのである。と、恰度その少し以前から、英国カーライル(※27)といふ町で、下水の消毒のために石炭酸が用ひられて居ることを知り、一八六五年九月十二日、始めて、「複雑骨折」の手術に石炭酸を用ひて、予期の如き好成績を得、遂に一八六七年約二年間の経験を纏めて学界に報告した。これが彼の有名な「実地外科に於ける防腐の原理に就て」といふ論文である。かくてリスター(※28)は防腐法の発見者として、永へに人類の恩人として記念さるゝに至つたのである。

 第三の難問題は即ち、手術の際の出血の処置であつて、手術の時間が長いときは患者は出血のために命を失ふことが稀ではなかつた。それ故、外科医は出来得る限り短時間に手術を行はねばならなかつた。当時は、出血を少くするために、焼火箸で組織を焼く方法などが行はれたけれども、もとより完全な止血法ではなく、殊に手足を切断する際には、大きい動脈が切断されるため、患者の危険は甚だしかつた。が、幸ひにして、手足切断の際の危険は独逸人フリードリツヒ・フオン・エスマルヒ(※29)によつて取り除かれたのである。その方法は極めて簡単で、たゞ最初「ゴム」の繃帯で手術しやうと思ふ部分をかたく巻いて血を遂ひ、然る後「ゴム」管できはめて強く締るのであるが、これによつて、手術は極て容易となり、且患者の生命は絶対に安全となつた。これを通常、エスマルヒ(※30)氏の人工的駆血法と呼で居る。
 第十九世紀に於ける以上三つの発見は、之を外科学の三大進歩と称へ、所謂旧外科学と新外科学との境界をなすものであるから、この三つの事項とその発見者の名とは何人と雖も記憶して置かねばならない。

(※1)(※2)(※3)原文傍線。
(※4)原文の踊り字は「く」。
(※5)原文傍線。
(※6)(※7)原文二重傍線。
(※8)原文傍線。
(※9)原文二重傍線。
(※10)(※11)原文傍線。
(※12)原文ママ。
(※13)原文二重傍線。
(※14)(※15)(※16)原文傍線。
(※17)(※18)原文二重傍線。
(※19)(※20)(※21)(※22)原文傍線。
(※23)原文二重傍線。
(※24)(※25)(※26)原文傍線。
(※27)原文二重傍線。
(※28)(※29)(※30)原文傍線。

底本:『西洋医談』(克誠堂書店・大正12年6月15日発行)

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1923(大正12)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2017年11月3日 最終更新:2017年11月3日)