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肺結核と闘つて得た私の経験

◎病を撃退する鉄石の意志

 私が過去十年間、肺結核と闘つて得た経験は、近く一書として公にするため、只今執筆中であつて、到底短い紙面では書き切れないから、此処では二三の要点について述べて見やうと思ふ。
 肺結核患者は何より先に、生に対する強い強い執着を持たなければならない。何処までも生きやう、飽くまで人間らしい生活をしやうといふ鉄よりも、石よりも堅い意志を持たなければならないのである。ところが、病がはかゞゝ(※1)しく治つて行かぬときは、だんゞゝ(※2)とその心が薄らいで来て、「とても治ることは不可能であるかも知れん。」といふやうな弱音を吐くやうになる。中には、肺尖カタルの診断を受けてさへ、死の宣告を受けたやうに思ふ臆病な人もある。さういふ弱音を吐いたり、又はさういふ臆病な性質を持つて居たら、先づ恢復は愚か再起はむづかしいと思はねばならないのである。生きて居る人間は誰でも「死」の覚悟をして居る必要があるが、肺結核患者の死の覚悟は、所謂他動的な死の覚悟で、換言すれば死ぬための死の覚悟であるから、さういふ覚悟をもつて居ては病を征服するのはむづかしいのである。之に反して私の言ふ死の覚悟は生きるための死の覚悟で、換言するならば、死ぬくらゐの元気で病を撃退するといふ意味である。死の覚悟をしたならば、少しぐらゐの苦痛は何でもない。少しぐらゐ熱が出たとて、又、少しぐらゐ血を吐いたとて何でもない。「うきことのなほこの上もつもれかし」といふ元気で病と戦つたならば、少くとも病の存在など、何の障害にもならず、生きて行くことが出来ると思ふ。

◎些細な病状に捉はるゝな

 一般に現今の肺結核患者には迎苦的の心が乏しいやうである。肺病にかゝると避苦安楽の生を貪ることを、さもゞゝ(※3)自分の特権であるかのやうに考へて居る人が少くない。さらでだに、短かい人生を、たとひ病気になつたとて、うかうかとして暮すことは、実に勿体ないではないか。いつ治るともわからない将来のある時機を夢想して、現在の尊い光陰を浪費するといふことは、どう考へて見ても良策と名づけ得ない。而も現代の医術は決して、肺病の治る時期を保証してはくれぬのである。かうすれば治る、ああすれば治るといつても、それはたゞ医師が気やすめに言ふに過ぎぬのであつて、どんな名医でも、結核の治癒を保証してはくれないのである。して見ると結核患者は医師に便(たよ)つて居ることは出来ず、さりとてその外には便(たよ)るものとてはなく、便(たよ)り得るものはたゞ自分自身だけである。即ち自分の心より他に便(たよ)るものはないのであるから、どうしても自分の心を鉄石の如くするのが最も肝要である。
 毎日々々検温したり、一週間毎に体(※4)を計つて見たりして、少し温度が高いとて顔色を変へ、少し体重が減じたとて悲観するなどは、要するに肺病の奴隷となつた人の所為であつて、本当に生きんとする人の所為ではない。さういふ人は、たとひ結核が治癒しても、もはや、再発を恐れて人並の活動は出来ぬのである。だから、病気であるうちに人並みの活動をなし得るやうな習慣をつけて置くことが肝要である。それには些細な症状にとらはれないで、一日も早く、真面目な生活を営む方針を計画するがよいと思ふ(※5)。「病人だから」と言つたとて世間は何の容赦もしてくれない。病人だから借金は返さなくてもよいといふ掟もなければ、病人だから、デパートメント・ストーアの品物が半額で買へるといふ規則もないのである。して見れば病気に罹つたゞけが損といふことになるのであるから、肺病患者は、須らく、その運命を悲しむことをやめ大(おほい)に強くならなければならぬと思ふ。

◎長い間の安静は合理的でない

 すべて肺病患者は、病に対する恐怖心が強過ぎる。少しばかりの熱があると、もう我慢がしきれなくて安静状態にはひらうとする。尤もその恐怖心を生ぜしめた責任は医師にもあるのであつて、医師は肺病患者に接すると、一にも安静、二にも安静を勧め、さもゝゝ(※6)安静が唯一無二の良法であるかの如く説くから、中には二年、三年に渡つて安静を続け、再び起つ能はざる状態に陥り、遂には大安静(死)に移るといふやうな皮肉な例が甚だ多いのである。
 急性疾患の際、十日や一ヶ月の間安静にして居るのは、如何にも有意義のことであるが、慢性病の患者を二年なり三年なり安静にせしむるといふことは、どう考へて見ても合理的であるとはいへない、その証拠には安静でもつて必ずしも結核は治らぬではないか。さういふと、多くの医師は、安静にして居てそれで治らねば運命と諦めるより他はないといふかも知れぬが、運命を諦めるくらゐならば、何も安静にしないで、始めから大(おほい)に活動しつゝ運命に任せた方がよいではないか。なほ又、多くの医師は、二年、三年安静にして居れば必ず治るけれども、多くの患者は外見上安静にして居ても、絶対安静を行ひ得ないから治らぬのだと弁解するかも知れない。然し乍ら、医師の言葉に恐怖を抱いて居る肺患者は、医師の想像する以上に安静を行ふものであつて、いはゞ人間の行ひ得る最大限度の安静を保たうと努力するのであるから、それ以上の絶対安静を望むことは人間を理解したものでないといはねばならぬのである。

◎真に生きやうとする心

 之を要するに、安静といふものは、何年も何年も続けるべき性質のものでは決してないのである。安静は心臓をしてなるべく疲労させまいとする目的を主として推奨されて居るやうであるが、凡て人間の機官(※7)といふものは、之を適度に使用しなければ却つて萎縮して弱くなるものである。心臓もその通りであつて、運動によつて鍛へなければ萎縮するにきまつ居(※8)るから、一年も二年も安静にして居たなら、心臓はいゝ気になつて怠けてしまひ、たうとう身体を起きて働かせるだけの力を出すことが出来ぬやうになる筈である。さうなつては、たとひ肺の方は治りかけても、床(とこ)の上で僅かに生存を続けて居るに過ぎず、生きて居ても死んで居ても同じだといふやうな人間を拵らへてしまふことになる。
 だから私は一定の期間安静を続けたならば、たとひ少しぐらゐの発熱はあつても、最初は床(とこ)の上に起き上り、次に室内を歩行し、だんゝゝ(※9)心臓を練習させた方がよいと思ふのである。少少歩行して、それで病が急に悪くなるやうな体質の所有者だつたなら、たとひ安静を続けたところが、長いこと生きて居るのは六ヶ敷いであらう。真に生きやうとする心さへ確定すれば、少しぐらゐの冒険は何でもなくなり、遂に病を征服することが出来るのである。
 今の医学は、どちらかといふと外的条件に重きを置き過ぎて、人間そのものを顧みることをしない。日光だとか、空気だとか、美味だとかいふものは、結核療養にとつては抑もの末であつて、それ等の外的条件にのみ拘泥して、兎や角言つて居る間は、先づゝゝ(※10)結核退治は覚束ないであらう。真に生きんとする意志を樹立し、その目的のために、空気を利用し、日光を利用し、美味を利用してこそ、始めて、十分なる効果を収めることが出来るのである。

(※1)(※2)原文の踊り字は「ぐ」。
(※3)原文の踊り字は「ぐ」。原文ママ。
(※4)(※5)原文ママ。
(※6)原文の踊り字は「く」。
(※7)(※8)原文ママ。
(※9)(※10)原文の踊り字は「く」。

底本:『実業之日本』大正14年12月1日号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1925(大正14)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2007年2月26日 最終更新:2007年2月26日)