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十年間病と戦つて来た私の経験

 私が肺を病んでからもう十年になる。高等学校時代に、友達の間で、大学へはひる迄には死ぬだらうと噂され、大学時代にも、某先生から顔色の悪いことを注意されたくらゐであるが、それでも、学校だけは一学期も休まないで、兎に角大正三年の十二月、東大の医学部を出た。義母が生きて居れば、(父は私の中学時代に死に、兄弟姉妹のない私は義母と二人暮しであつて、義母は私の卒業するのを待つて、ひとり寂しく、尾張の田舎の家に留守番して居てくれた)臨床家になつて郷里へ帰らねばならなかつたが、義母が、私の卒業すると同時に死んだので、元来臨床家になることの嫌ひであつた私は、生理学教室で永井潜先生に学び、かたゞゝ(※1)法医学教室で、三田定則先生の教(をしへ)を受けることになつた。
 ところが大正四年の冬、とうゝゝ(※2)私は熱を出して床に横はらねばならなくなつた。右肺の下葉の一部分が冒されて居るといふことに定(き)まつて、私は、かねて私の好きであつた片瀬に転地することになり、それから約(およ)そ九ヶ月間、郷里に帰つたり、森ヶ崎へ行つたり、再び片瀬へ来たりして居るうちにすつかり健康を恢復し、人から見ちがへられる程太つたので、教室へ帰つて研究を続けた。翌大正六年には、本郷千駄木町に居を卜して、二年前に結婚した妻と同棲し、その年の冬、文部省留学生を命ぜられ、欧洲戦争中のことゝて、十二月の上旬、アメリカに向つて横浜を出発した。出発前、身体検査を受けたが、冒された肺は完全に治癒して居た。
 アメリカに上陸して、直ちに私はボルチモアに行つたが、その年は殊に寒くて、殆んど雪の絶える日はなかつた。然し、私は一度も病気をせず、大正七年三月ニユヨークのに(※3)移り、夏には華氏百二十度の暑さに出逢つたが何ともなく、十月、流行性感冒の大流行を来した時に私も罹つたけれど、肺炎にならずに済み、大正八年の六月、大西洋を渡つてロンドンに転学する迄は、極めて達者であつた。
 ニユーヨークの一ヶ年半はコーネル大学の研究室で研究を続け、ロンドンに行くなり、ミツドル・セツクス・ホスピタルで研究に従事し、夜遅くまでも研究室に閉ぢこもることが屡(しばしば)であつた。十月頃になつて友達に逢ふと、私の顔色のよくないことを告げられたが、名物の霧に閉ざされた陰鬱な日が続くやうになつてからは、自分でも何となう疲労を覚え、遂には熱発するやうになり、咯痰が殖えて来たので、愈よ再発したのだと思つて、ブライトンといふ海岸の町に転地したが、病気は少しも軽快しなかつた。然し、いつまでもぶらゞゝ(※4)して居る訳にもならぬので、大正九年三月の末にパリーに移住したが、病気は少しづゝ重つて行き、咯痰に赤いものがまぢるやうになつたが、それでも我慢して外出して歩くと、とうゞゝ(※5)五月の始めに大咯血をやつて、床につかねばならなくなつた。約二ヶ月間ホテルの一室で、看護婦と共に静養したが七月になつてから、やつと床を離れることが出来るやうになつたので、彼(かの)地の医師の勧めによつて、大西洋沿岸のアルカシヨンに転地して九月まで滞在し、九月下旬マルセーユを出帆し、十一月上旬、兎にも角にも帰朝することが出来、十二月、上京して診察して貰ふと右肺全部が、ひどく冒されて居るといふことで、郷里に帰つて静養することになり、帰朝と同時に、東北大学教授に任ぜられたけれども、大正十年の二月、流行性感冒から肺炎を患ひ、一時危篤に陥つて九死に一生を得、更に四月に大咯血を起し、床を離れることが出来なかつたので、十一年五月休職を命ぜられたのである。それから漸次快方に向つたが、十二年九月、あの関東大地震があつて二三日過ぎた頃、突然咯血を起し、あまりに沢山の血を吐いたので、一時は危(あやふ)いかと思つたけれども、幸ひに再び恢復して、十月の末、名古屋に家を新築して移り、爾来今日に至る迄、起居には左程の不自由を感ぜず暮して来たのである。勿論私の肺は、今尚ほ依然として冒されて居り、一二町の道を歩くさへも困難ではあるけれど、読書と執筆には些の障害もなく、いはゞ、病と戦ひ乍ら仕事を為しつつあるのである。

 よく、人々は私に向つて、そんなに物を書かないで、ちと静養してはどうだと忠告してくれる。さういふ時、私は、物を書くこそ、私にとつて唯一の静養法だと答へるのである。実際、何もしないで、ぼんやりして暮すほど、私にとつて恐ろしいことはないのである。ぼんやりして居ると、私の考へはすぐ病気の方へ向く。それが如何にも堪へられぬのである。難病を治す最大の秘訣は、「病気を忘れる」ことであるが、私のやうな修養の足らぬものは、じつ(※6)として居ては決して病気を忘れることが出来ぬから、どうしても好きな書き物をして病を忘れるより外はないのである。私を診察し治療してくれる医師も口を揃へて、「物を書くな、静かにして居れ」と忠告してくれたけれど、それ等の医師は、悲しいかな、自分で患つた経験がないのであるから、じつとして居るときの、堪へられぬ苦しみを知つて居ないので、私はこの点だけは医師の忠告に従はなかつたのである。大正十年六月、私は床(とこ)の上に横はつて、堪へ難い寂しさに襲はれたため、病苦を忘れる手段として、「学者気質」なる随筆を仰向きになつた儘書いた、何にしろ首をあげることもならぬ重態であるから、一行書くにも可なりに骨が折れ、参考書も、看護のものに支へて貰つて読むといふ有様であつた。漸くそれを書き終ると、偶然にも、東京日々新聞社から、私が東北大学に居るものと思つて、三十回位の続きものを書いてくれぬかといふ依頼があつたので、私は早速上記の「学者気質」を送つたのである。
 さて「学者気質」が新聞に載ると、何でも一部の人々は、これくらゐのものが書けるならば、何故、東北大学へ帰つて来ないかと噂したさうである。私はそれを聞き伝へて頗る情なく思つた。大学へ行きたいことは山々であるが、寝床の上で、首も上がらぬ状態では、何とも致し方がないからである。それと同時に、世間一般の人々は、病気をしたら、何も出来ないもの、否、何もしてはならぬものと思つて居るのだなと、つくゞゝ(※7)感じたのである。
 然し私は、医師が何と言はうが、自分の信ずる所を行つて来た。そして今でも、慢性病の養生は自分の好きな仕事に我を忘れる程熱中するに限ると思つて居る(※8)。病が重るのは畢(※9)病の方に気を取られるが為であつて、病を忘れたならば、身体に具つて居る自然治癒力が働いて、自然に病勢は消退するものと、私はかたく信じて居るのである。この信念のもとに、大正十一年の春から、今日に至る迄、興に乗じて筆を執り、約十種ほどの著述をして来たのである。健康であつたならば恐らく、これだけの著述は出来なかつたであらう。病気中なればこそ仕事が出来たのであると私は思つて居る。昔から、病と戦ひ乍ら数多くの著述を残した人は少くなく、人々はそれを感心して居るやうであるけれど、私に言はせれば、病気であつたればこそ、それだけの仕事が出来たのであつて、仕事によつて病気を忘れて病勢を衰へしめ、更に益々仕事をすることが出来るといふ有様であるから、決して不思議でも何でもなく、当然すぎる程当然なことである。正岡子規も床(とこ)の上に横はり乍ら、随分沢山の仕事をしたが、若し子規に筆を持つことを禁じたならば、或はもつと早く死んでしまつたかも知れない、慢性病に罹つた人は須らく勤勉でありたいと思ふ。

 咯血、ことに大きな咯血をしたときだけは、さすがに私は筆を執らない。咯血の時は、絶対に安静にしなければ血がとまらないからである。その代り私は看護の人に書物を読んで貰つて病を忘れることにして居る。そして血がとまつた当座もなほ執筆はしないで、自分で読書することにして居る。パリーで咯血したときは英国から探偵小説を取り寄せて、一日に少くとも一冊の割で読んだ。日本へ帰つて咯血したときも、随分沢山探偵小説を読み、そのため今日では、ぼつゝゝ(※10)探偵小説の創作を試みるほどの探偵小説好きになつてしまつた。尤も、病床の上に居る間には、単に探偵小説に限らず、西洋の有名な古典を片つぱしから読んだ。私のやうに身体にヒヾの入つたものは、いつ何時死なないとも限らぬから、せめて生きて居るうちに出来るだけ多くの書物を読んで置きたいと思ふからである。幸ひに病気中に読んだ書物は比較的よく頭に残つてくれるので嬉しく、これも病気の賜ものだと感謝して居るのである。
 私は大きい咯血をしても、決して「死」などを考へず、時期が来れば必ずとまるものだと思つて来た。それがために、あまり狼狽することなく、いつも徐々に、健康を、咯血以前のレベルにまで恢復することが出来たのである。慢性病を重らせる人は、要するに病気について考へ過ぎるからである。他人に病気だと思はれともないといふ一種の虚栄心に駆られて、つまらぬ心配に浮き身をやつすからである。自分の病気は結局自分自身の心を主として治すより外に道はないのであるから、少なくとも私と同じ病に悩んでゐる人は、すべからく上記の虚栄心を捨てゝ自分の得意な仕事に心を打ちこんで、病気を忘れて貰ひたいと思ふ。病を治すことにあせらず、先づ病と戦ふことに力を注いで、生活して行くべきものではあるまいか。治るのを待つて仕事をする覚悟で居たら恐らく、仕事をする機会はなからうと思ふから、仕事をすることによつて病と闘ひ、もつて病を治すやうに取り計らふのが、最も賢いやり方ではあるまいか。

(※1)原文の踊り字は「ぐ」。
(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文ママ。
(※4)原文の踊り字は「ぐ」。
(※5)原文の踊り字は「ぐ」。原文ママ。
(※6)原文圏点。
(※7)原文の踊り字は「ぐ」。
(※8)原文圏点。
(※9)原文ママ。
(※10)原文の踊り字は「く」。

底本:『実業之日本』大正14年7月1日号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1925(大正14)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2007年2月26日 最終更新:2017年9月29日)