インデックスに戻る

熱誠と表情

◇誠が天を感動せしめた例

『至誠天に通ず』といふ言葉がある。昔から人の誠が天を感動せしめたと伝へらるゝ例が沢山ある。試みに『雨乞ひ』に就いて見るも(、)(※1)小野小町は『千早振る神も見まさば立ちさわぎ、天の川戸の樋口あけたまへ』と詠じて雨を降らし、能因法師は『天の川苗代水にせき下せ(、)(※2)雨ふらします神ならば神』と詠じて雨を降らし(、)(※3)寳井其角は『夕立や田を三めぐりの神ならば』と吟じて雨を降らした。又、鴨長明がある年の八月十五夜が曇つたとき、『ふき払へ、わが加茂山の峰の嵐、こはなほざりの秋の空かは』と詠じてむら雲を消散せしむることが出来たやうな例を見ると、和歌なり俳句なりはある場合に中々威力を持つて居たやうに見える。紀貫之は古今和歌集の序に『力をもいれずして天地(あめつち)を動かす』ものは歌だと言つたが、これはどうも受取り難い説で、力を入れればこそ、換言すれば熱誠をこめてこそ、始めて天地を動かすことが出来るのではあるまいか。
 室鳩巣の駿台雑話に、
『洞庭湖の辺(ほとり)に水神の祠あり。大湖を渡る人は是に水難をのがるゝやうに祈る事になんありける。ある商人(あきうど)毎年大湖をわたる程に、その祠をふかく信じて、往来に必(かならず)賽祈せしが、ある年湖上にて風に遇ひて船破れて、つひに溺死しけり。その子湖辺に到り、父の死を悲しみつゝ怨悔する余りに、わが父此祠を多年信仰して、祭奠(さいてん)聊か懈(をこた)らざりしに、冥助なかりしこそ遺恨なれ。明日は必ずこの祠を焚かんと思ひきはめていねたりし其夜の夢に、水神ふかく恐るゝけしきにて、汝わが罪をゆるさば、湖上にて楽を奏して、其恩に報ずべし。さればとてわれ祠をやかるゝを恐るゝにあらず、又汝が怒気のいきほひに恐るゝにもあらず。唯心のそこに必ず焚かんと決断したる一念、我にこたへて敵しがたき程にかく謝する(※4)、といひけるとぞ。もとより斉東の野語、信ずるにたらぬ事なれども、神は決行におそるゝといふ事(※5)、道理ある事なり』
と述べ、なほその次に、駿府の『うは狐』のことを書いて居る。即ちこの狐に半巾(ハンカチ)をあたへるとき、誰がどんなに力を入れても必ず取られてしまふので、ある時大久保彦左衛門が之を聞いて、俺は決して取られまいといつて試みて見たら果して狐は『あな恐ろし』といつて逃げ去つた。彦左衛門はその時、もし狐が取りにかゝつたら、俺の手もろ共切つて落すつもりであつたと言つた。
 以上は人間の至誠又は一心が天神地祇を感動せしめ、又は鬼神妖怪を怖れしめた例であつて、かくの如き例証は到底枚挙に(いとま)(※6)なく、読者の既によく存知して居らるゝ所であらう。当節の人々は、かやうな歴史上の奇蹟を、科学的に説明しようとする傾向があつて、前記の雨乞ひなどは、歌や俳句の力でなく、全く偶然の出来事と解釈しやうとする。なる程、かの由井正雪の雨乞ひは、ある天文に精通した男から、近い内に雨が降ると聞いて企て、果して雨を降らし得たのであるから、誠が天に通ずるなどといふことはあり得べきでないといふ人があるかもしれぬが、かゝることは鹿爪らしく議論するのも烏滸がましいから、自分は茲で弁解も説明もしないつもりである。

◇人間の誠が人を感動せしめた例

 次に人間の誠が他の人を感動せしめた例もまた数多い。日蓮が龍ノ口の首の座で、太刀取りの眼を晦ましたが如き、親鸞が稲田の草庵で自分を殺さんとした山伏を、一目で懺悔せしめた如きこれで、至誠が他人を動かすことは、たとひ科学的説明が十分なし得ないにしても、その可能であることを疑ふ人は少ないであらう。総じて人の心はその外貌にあらはるゝものであるが、就中熱誠の迸り出づる場所は昔から眼であると考へられて居る。実際、眼付によつてその人の心を読むことが出来るのは、誰しも日々経験する所である。他人にヂツと睨まれること即ち凝視されることは甚だ気味が悪いもので、西洋では古来悪魔の凝視といふことを非常に恐れたものである。希臘(ギリシヤ)神話の中のゴーゴンの伝説に、ゴーゴンに睨まれると、立ち所に化して石となると言はれて居たのも、恐らく凝視されることの不快から生み出された伝説であらう。人間が蛇を嫌ふのは蛇の眼が恐ろしいからであるらしく、蛙は蛇に睨まれて身がすくみ、鼠は猫に睨まれて身がすくむ。同様に悪魔に睨まれると病気になると考へて、西洋では、その悪魔の凝視を避けむために、指環や護符を身につける習慣が発生した。文豪で学者であつたトーマス、ブラウンが、ある人から、『悪魔でも嘘言(うそ)を言ひますか』とたづねられたら、『たとひ地獄でも嘘言(うそ)は許されない』と答へたといふが、悪魔の心に虚偽がないから、その眼に睨まれると、病気にかゝるといふ迷信を生じたのかも知れない。日本でも九州には蛇神の伝説があつて、蛇神の家に生れたものが、誠の心を以て睨んだときは、必ず相手を、蛇の動くやうな挙動をする病気にならしめ得ると伝へられ、岡本綺堂氏の『半七聞書帳』の中の一篇『甘酒売り』に巧みにその消息が描かれてある。
 人が一心になるとその眼は凄い。近松巣林子の浄瑠璃『女殺油地獄』で、河内屋與兵衞が金を奪はんためにお吉を殺さうとするとき、『燈(ともし)油に映る刃の光。お吉びつくり、『今のは何ぞ與兵衞様』『いや何でも御座らぬ』と、脇差後(あと)に押隠す。『それゝゝ(※7)急度(きつと)目もすはつて、なふ恐ろしい(※8)顔色。その右の手爰(ここ)へ出さしやんせ』』と描かれてあるのは、如何にも巧い。昔から英雄豪傑と称せらるゝ人の眼は催眠力を持つて居たと言はれて居るが、それは生れつきにさういふ特有な眼を持つて居たからでもあるけれど、その眼から迸る彼等の熱誠がよく人を動かしたものと考へても差支ないであらう。『炯々たる眼光人を射る』といふが、内心に至誠の念が欠けて居ては、人を射落すことは六ヶ敷からうと思ふ。催眠術をかけるに際して、いかにその形式だけを行つても、施術者に誠がない時は、多くは成功しないものである。

◇一心は自己の力をも増す

 以上は至誠の他人に対する威力を述べたのであるが、一心はまた自己の力をも非常に増すものである。大高子葉は『何のその岩をも通す桑の弓』と言つたが、一心になるとき、人は意外の仕事を成し得るものである。誰であつたかその名を忘れたが、虎と思つて矢を放つたところ、石を二三寸穿たので、その後石だと思つて何度矢を放つても、少しも之を穿つことが出来なかつたといふ話がある。『里見八犬伝』の中に書かれてある名刀村雨丸は、平常、之を振りまはしても何のこともないが、殺気を含むで之を振りまはすと、その尖端から村雨の如く水が迸り出づると言はれて居る。もとより之は作り話であるが、一心といふものゝ偉力をシムボライズしたものと見ることが出来やう、『名筆傾城鑑』に、吃(ども)の又平の一心を書いて、『「サア又平殿、覚悟さつしやれ、今生の望は切れたぞや、此庭の手水鉢を石塔と定め、こなたの絵姿を書きとゞめ、此場で自害しその跡の贈号を待つばかり、」と硯引寄せ墨すれば、又平点頭(うなづ)き筆を染め、石面に指向ひ、是生涯の名残の絵姿は苔に朽つる共、名は石魂にとゞまれと、我姿を我筆の念力(ねんりよく)や徹(とほ)しけむ、厚さ尺余の御影石、裏へ通つて筆の勢、両方より一度に書きたる如し。将監大きに驚き入(いり)、「異国の王羲之、趙子昴が石に入(いり)、木に入(いる)も和画において例(ためし)なし、師に勝つたる名画工ぞや、浮世又平を引かへ、土佐の又平光起(みつおき)と名乗べし」』とあるのも、よく理屈で説明出来ぬとしても、又平の一心の程が窺ひ知らる。又吉備真備が、野馬台の詩を読まされたとき、金色(こんじき)の蜘蛛が来て教へて呉れたと伝へられて居るのも恐らく吉備大臣の一心を象徴したものであらう。朱子は『精神一到何事かならざらむ』と言つたが、心が集中されるとき、恐るべき力を生ずるもので、いざ火事といふ際、平素ならばとても持ち上げることさへ出来ぬものを、易々として運ぶことが出来るのは誰しもよく耳にする話である。昔から『気合』といふ言葉が使用されて居るが、『気合』とは精神の集中した形と言ふことが出来やう。

◇精神作用が身体に及ぼす影響

 かくの如く、危急存亡の場合とか一心をこめたときに、人が普通の力以上の力を出す事を、心理学者のジヱームスは余力説を建てて之を説明せんとした。その説によると、人間は平素自分の気づかぬ余力を持つて居て、これがいざといふ場合に発現するのであるといふのであるが(、)(※9)これでは少しも科学的の説明になつて居らぬ。一たい、かやうな現象を所謂科学的に説明するといふことは極めて困難であつて、最近では精神作用と内分泌との関係を以て説明せんとする傾向があるが、これとても決して満足な説明ではないのである。今、その大要を左に述べて見よう。
 精神作用が身体に及ぼす影響のうち、精神の状態が、身体のある部分に特種の形状となりてあらはるゝことは周知の事実で、所謂喜怒哀楽の諸情緒が、単に顔面のみからでも推知し得ることは今更言ふ迄もなく、またかくの如き表情運動は顔面ばかりに限らず、身体の各所に発現するもので、恐怖のとき身体が顫へ、喜悦のとき屡舞踏が始まることも、大抵の人はこれを経験して居るに違ひない。また物が食べたいと思ふときは、忽ち唾液の分泌が始まるのみならず、自分で感ずることこそ出来ぬが胃液の分泌も起るものである。之に反して大なる悲哀に逢つたり、不快なる出来事に逢ふと、美味を見ても唾液は少しも分泌しない。又不快な念に逢ふとき腸胃(※10)の運動が抑圧されることも実験された。その他、精神作用が呼吸運動や燐の化合物の新陳代謝などに影響することも実験された。が、精神作用によつて最も著しい影響を受けるものは循環系即ち心臓と血管とである。羞恥や憤怒の際顔が紅くなり、恐怖の際顔が蒼白くなることは何人もよく知つて居る。又、驚いたときには心悸が亢進する。そこで色々の学者の研究を総括して見ると快感のときは脳と四肢の血管が拡張して、腹腔臓器の血管が収縮し、不快感のときは丁度その反対であり、又恐怖や驚駭の際、或は色々精神を働かすときは、脳と腹腔臓器の血管は拡張するが、四肢の血管は収縮するのである。
 さてかくの如く身体諸部の血管を収縮又は拡張せしむるのは交感神経と之に拮抗する副交感神経の作用であるが、このうち交感神経は副腎の分泌物たるアドレナリンの作用によつて容易に興奮せしめらるゝものである。ところでキヤンノン氏が精神感動の際には副腎からアドレナリンの分泌さるゝ量が平時よりも遙かに多いといふことを見つけたので、さては精神感動の際に起る血管系乃至身体の多種多様なる変化は、アドレナリンの現はす作用であると結論さるゝに至つた。
 アドレナリンの作用のうち最も著しいものは、交感神経に対する作用によりて、肝臓に貯へられて居る糖原質なるものを、葡萄糖に変じて血中に遊離せしむることである。然るにこの葡萄糖は筋肉の活動の根源となるものであるから、精神感動の際にアドレナリンが多量に分泌されるといふことは筋肉の活動を容易ならしむるためであると説明せられて居る。かうして、現今では前に言つたいざといふ場合の不思議な筋力の発現も、熱誠即ち一心といふ精神作用によるアドレナリンの分泌増加で説明しやうとするのである。

◇精神作用と血管作用との関係

 言ふ迄もなく、吾等の身体には、医学の未だ明かにし得ない色々の巧妙な作用が行はれて居ることを想像するに難くないから、熱誠の際に起る異常の現象をアドレナリンのみを以て説明することは出来難い。然し乍ら精神作用の血管系との関係は極めて密接であつて、かの非常な苦悶の際に血汗又は血涙を生ずるが如きは、苦悶といふ精神感動のために血管拡張神経の興奮するためであつて、基督が磔刑(はりつけ)に処せられたとき、フローレンスの一青年が法王シキスツス五世の命によりて死刑に処せられたとき、仏蘭西(フランス)王シヤール九世が大なる煩悶を得たとき、何れも血汗又は血涙を出したことが記録されて居る。又『ヴンドマーレー』と称して、熱心な基督教信者で、丁度十字架上に於ける基督の傷と同じ箇所即ち手足(しゆそく)や、前額等に、突然一の創傷が生じ、其処から出血する現象も、精神感動による所謂神経性の出血であり、日本でむかしから『糸引の名号』といつて、一心に阿弥陀如来を礼拝するとき、その指頭又は掌(たなごころ)に糸のやうもの(※11)が生ずるといはれたのも、神経性の出血と同じく、血漿の凝固したものであらうと田中氏は説明して居る。『ヴンドマーレー』や『糸引の名号』は勿論、神経質の人に多く見らるゝのであるが、熱心に信仰した結果、かやうなことになるのであるから、熱誠の一種の表情運動と見られぬこともなからうと思ふ。
 精神の作用が如何に著しく肉体に影響するかは、日本で往事行はれた『探湯(くがたち)』を以てもわかる。探湯(くがたち)とは、熱湯の中に手を入れしめて犯罪者であるかないかを判断する方法で、嫌疑者の手を熱湯の中に入れしめて、若し火傷するときは有罪であり、火傷しなければ無罪であると裁判したのである。このことは現今行はれて居ないから、かやうなことが行ひ得るかどうかを知るに由ないが、これは、罪を犯した覚さへなくば、決して火傷しないと思ひ込むために、その精神的影響によつて火傷しないので、所謂自己暗示の結果として説明し得らるゝのである。かの見性宗般禅師が、麻酔剤によらずして、坐禅して大手術を受け、泰然自若として居た如きは、自己暗示(精神統一)による痛覚の消失であつて、かの催眠術によりて、他人から暗示されても、同様な現象は生じ得るものである。

◇潜在意識の活動

 催眠状態に於て、潜在意識の活動することは普く知られて居る所であるが精神一到の際には、この潜在意識が活動するために、通常の場合になし得ざることをも為し得ると説明し得らるゝ場合がある。かの夢遊病に於ては患者は少しも意識せずして、覚醒時には迚も為得ざるやうな冒険的な複雑な、且巧妙な動作を行ふのであるが、これは潜在意識の活動と見るべきであつて、潜在意識の行動は邪念を混へぬ行動であるから、巧妙な複雑な行動が行ひ得るとも言ふべきであらう。よく数学の問題などを一生懸命に考へて眠ると、夢でその問題を解き得ることがある。チユークの記載に依ると、ある学童が幾何の問題を解き得ずして眠つたところ、夜半、彼は寝床より起き上り、膝まづき乍ら、恰も黒板に向つて、説明して居るやうな挙動をして居るので、傍のものが、彼の名を呼んでも少しも知らず、その儘再び眠つたが、翌日教師が、問題は解けたかと訊くと、彼は昨夜夢の中で解いたと答へたさうである。かやうなことは、誰にもある現象とは限らぬが、精神一到のよき例証であらう。昔から三昧といふ言葉があるが三昧とは所謂無我の境地で、無我とは即ち自己催眠の状態と見るべきである。又かの芸術家の所謂インスピレーシヨンといふことも精神統一の結果の得られる心境であらう。

◇精神一到の境地

 さて熱誠又は精神一到の境地は、色々の精神的刺戟によつて促進又は発生せしめ得らるゝものであるが、其うち最も普通なものは音楽である。戦争のとき軍楽が士気を鼓舞することの大なることは、リンネウイツチ将軍が、露西亜(ロシア)軍に軍楽の欠くべからざることを説いた際、『軍楽は神授のダイナマイトである』と言つて居るのでもわかる。又ベーコンやミルトンやウオアバートンなどは、いつも述作に先(さきだ)ちて音楽を聞きインスピレーシヨンを得たと言はれて居る。古今著聞集に、篳篥師用光(もちみつ)が、南海道に下つたとき海賊に逢つて殺されむとし、『この世の名残に一曲吹かせてくれ』と頼んで篳篥を吹いたところ、海賊どもは感涙を流して、用光を許したのみか、鳴戸まで送り届けたことが書かれてあるが、たゞさへ音楽は人を感動せしむるに、熱誠をこめての一曲であつたから、海賊の心を動かしたのも無理はない。総じて人は死ぬとき程真面目なものはなく、『人の将に死せんとするやその言ふこと善し』と言はれてあるが、一命を屠して取りかゝる状態こそ、至誠の極であらう。

◇争闘、恋愛、嫉妬

 次に熱誠の情を起さしむるものは、争闘、恋愛、嫉妬等である。就中、恋愛程人間の力を増すものは少なく俗に言ふ『千里が一里』とは、恋愛の際に発現する力の偉大なることを物語つて居る。『剣太刀もろ刃の利きに足ふみて、死にも死になむ君によりては』といひ、『天の原ふみとゞろかし鳴る神も、おもふ中をばさくるものかは』といふ。いやもうかゝることは書き連ねるさへ野暮であつて、孔子の如きは『色を好む位、道を好むものに出逢つたことがない』と嘆息した如く、性慾は実に『曲者』である。従つて嫉妬のときにも、人はまた、怖るべき力をあらはし、かの憎む女を呪ひ殺さんとして、『丑の時参り』をする女が屡々あつたことは読者の知つて居らるゝ所であつて、嫉妬の時にこそ成し得られるが、かゝる努力は到底平時になし得ざる所であらう。
 最後に人の熱誠を醸すものは信仰である。前に述べた日蓮、親鸞の威力も畢竟信仰の然らしめた所であつて、観音経には『念彼観音力、刀刃段々壊』なる文句がある通り、信仰は実に刀をも折り砕かうとする。新門辰五郎は水火の中に身を投じて少しも(ひる)(※12)まず、『俺の一生は観音さまに任せてあるのだ』と言つて自若として居た(。)(※13)古来宗教家が迫害に逢つて、平然として居る例は夥しいが、彼等は『一心』のために肉体の苦痛をも感じなかつたのである。信仰の偉力に就ては今茲に論ずる範囲ではないが、現代は兎角科学万能であつて、宗教の力を動もすると軽んじやうとする傾向がある。これは誠に歎かはしいことで、なる程科学の力も偉大であるが、宗教の力もある場合には、より以上に偉大であることを知らねばならぬ。精神作用の肉体に及ぼす影響の如き、まだ科学的に説明し得ざる点が甚だ多いが、科学的に説明し得ないとて、精神の力を軽んずるのは、早計と言はねばなるまい。

(※1)(※2)(※3)原文句読点なし。
(※4)(※5)原文圏点。
(※6)原文ママ。
(※7)原文の踊り字は「く」。
(※8)原文圏点。
(※9)原文句読点なし。
(※10)(※11)原文ママ。
(※12)原文一文字不明瞭。「恠」(原文ママ)か。
(※13)原文句読点なし。

底本:『実業之日本』大正12年4月1日号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1923(大正12)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2018年2月23日 最終更新:2018年2月23日)