近頃珍本稀書の復写翻刻が諸方で企てられて居ることは、書籍を愛好するものにとつて頗る喜ばしいことである。いふまでもなく、学術史上有名な書物を、著者の稿本なり、或は同時代の写本なり、又は初版本によつて見るといふことは、それを活字にした書物を見るよりも遙かに強い感興と好学の心とを惹き起すものである。外国に留学した時、私は、出来得る限り多く、医学上の「エポック・メーキング」な著述の初版本を見たいものだと心懸けて居たが、パリー(※1)で重病にかゝつて、イタリー(※2)やドイツ(※3)へ行くことが出来なかつたゝめ、私の希望は残念ながら、実現されないで済んだ。英国に居るとき、かの血液循環の理を発見し公にしたウィリアム・ハーヴエー(※4)の著書の初版本を見たいと思つたが、それさへ都合が悪くて見ることが出来ず、たゞハーヴエー(※5)が大学で講義に用ひた自筆の稿本を大英博物館で見たゞけであつた。もとより原本はいくらお金を出しても手に入るものではなく私はたゞ、翻刻本を十シルリングで買つて満足するより外はなかつた。
然し、アメリカ(※6)では、たつた一冊ではあるが、有名なボーモン(※7)の「胃液に関する実験と観察及び消化の生理」と題する著書の初版本を二十五弗で手に入れて、非常に満足した。いふまでもなくアメリカ(※8)医学は、その歴史が極めて新らしく、従つて医学上劃期的といはれるほどの名著は至つて少ないのであつて、ボーモン(※9)のこの書ぐらゐが第一番に数へらるべきものであるから、出版は今から百年足らず前の一八三三年であるが、書物そのものは至つて尊いものだと私は思ふのである。
爾来日本人はアメリカ(※10)医学を馬鹿にしやうとする傾向がある。実際、現今アメリカ(※11)で発表せられる研究報告の大部分は甚だ杜撰なものである。然し杜撰なことにかけては、日本人の業績もさほどひけを取らない方であるから、あながちアメリカ(※12)医学を馬鹿にする必要もないであらうが、兎に角、日本の医学者たちは過去数十年来欧洲の医学ことにドイツ(※13)の医学に心酔して、たゞさへ医学の歴史に興味を持つものは少ないのであるから、ましてアメリカ(※14)の医学史などを顧る人は極めて稀である。従つて、ボーモン(※15)の名を知つて居る人も沢山はなからうと思ふ。
学生であつた頃、私たちは講義の中で、度々、発見者や研究者の名前を教へられたが、さて、それ等の人々が一たい何処の生れであるかを知らぬことが少くなかつた。大ていの名前をドイツ(※16)読みにして教へられるので、みんな独逸人であらうと思ふことが屡々あつた。これは日本の学生に限られたことではなく、嘗て私が、ニューヨーク(※17)に在るコー子ル(※18)大学医学部に研究をして居た時分、学生の一人が、志賀菌のことを話して居たので、試みに「シガ(※19)といふのは何処の人だか知つて居ますか」とたづねると、その学生は頗る当惑した様子だつたが暫らく考へた結果
「スペイン(※20)人ですかな」。
と答へた。志賀博士もスペイン(※21)人だと思はれては迷惑であらう。
かういふ有様であるから、消化生理の講義の時にはボーモン(※22)の名は必ず出て来る筈であつても、ボーモン(※23)がアメリカ(※24)人だといふことを知つて居る学生は極めて少なく、のみならず、講義をする教授その人の中にもフランス(※25)人ぐらゐだと思つて居る人は少くないであらうと思ふ。尤もボーモン(※26)がアメリカ(※27)人であらうが、フランス(※28)であらうが、或はまた朝鮮人であらうが、消化生理には、さしたる影響もない筈だといへば言ひ得るかも知れぬけれど、シガ(※29)はスペイン(※30)人だといはれて、私自身なさけない気がしたと同じやうに、折角学問をするならば、発見者や貢献者の国籍ぐらゐは知つて居てやりたいと思ふのである。尤も、現今、医学史を教へる大学は日本に限らず外国でも沢山はなく、医学史など知つて居たとて診察料が余計取れる訳ではないといふのか、兎に角、医学史に力を入れて居る人は少ないから、さういふことを望むのは無理であるかも知れない。外国の医学史ばかりでなく、日本の医学史さへ知つて居るものは少なく、私自身も日本の医学史を知らぬ一人であるが、多くの医者は、医学史など、てんで読んで見やうとする気さへ起きぬらしい。専門の医書さへ碌に読む暇がないのであるから、一応尤もであるけれども、あまりに今の医育が功利的であるために、どしゞゝ(※31)作られる医学博士は世間の物笑ひの種となつて居るやうである。
いや、話が思はずも傍道にそれたが、前記ボーモン(※32)の著書の初版本は菊版約三百頁ほどの「ボール」紙表紙の青色の布の背をもつた質素な装幀で、背の上に「ボーモン(※33)の実験」と書いた小さな紙片が貼られてある。ニューヨーク(※34)州の「プラッツバーグ」で出版されたもので、その内容は、人間の胃液の分泌の生理を明かにしたもので、「いやしくも消化剤を処方する医者と、その処方を受ける患者は、ボーモン(※35)の名を記憶しなければならぬ」と、その道の人から言はれて居るほどの劃期的な研究である。この著述が公にされる以前までは、胃が、どんな状態に分泌を営むかといふことは誰にもはつきりわかつて居なかつた。フランス(※36)の大生理学者マジヤンディー(※37)が胃液は胃によつて間断なく分泌されるものだと言つて以来、その説は動かぬものとせられて居たが、その説も、ボーモン(※38)の実験によつて、みごとに覆へされたのである。即ちボーモン(※39)によつて、胃液なるものは、食物が胃に存在するときにのみ分泌さるゝことが発見されたのである。後にロシア(※40)の現存の大生理学者パウロフ(※41)によつて、食物を見たばかりでも胃液の分泌は始まることが明かにされたけれども、ボーモン(※42)の実験は極めて広汎に亘つて居て、各種の食物の消化の模様や時間などが精細に研究され、なほ胃液の中には、塩酸以外に、特種の消化力を有する物質(後に「ペプシン」と命名されたもの」(※43)が含まれて居ることが明かにされたものである。
ボーモン(※44)が、かやうな劃期的な研究を始めたのは、まつたく、偶然の機会であつた。彼は一七八五年に生れ一八五三年に死んだ陸軍々医であつたか(※45)、一八二二年即ち彼の十七歳の時、ミシガン(※46)州の基地に駐剳中、たまゝゝ(※47)マーチン(※48)といふ十八歳になる「カナダ(※49)」の青年が、アメリカ(※50)毛皮会社に雇はれて附近の山中で狩猟中、六月六日、鉄砲が偶然発射して胃部を打貫き、爾来、胃が腹壁と癒着して、胃と外部と交通する孔、即ち胃瘻が出来たゝめ、その男を研究材料として、所謂人間実験を行つたのである。
鉄砲はその男から三尺ほど離れたところで発射したので、左の第五、第六肋骨が打ち砕かれ、それから左の肺の下部と胃とが破壊されたのであるが、災難が起つた三十分後にボーモン(※51)の手当を受けたゝめ、幸ひに一命を保つことが出来たのである。尤も、その当時は外科学も極めて幼稚であつたので、創傷が化膿して、患者は随分長い間、発熱して苦しんだが、元来壮健な体質であつたがため、よくそれに堪へて、約十ヶ月間病床に呻吟し、漸く翌年四月になつて、歩行の出来る程度に恢復したのであるが、胃の孔即ち胃瘻は依然として口を塞がなかつたのである。いふ迄もなく、物を食べれば食物の一部分はその胃瘻から腹の上へ出るといふ有様であるから、容易に口を塞ぐことが出来なかつたのである。創傷を受けてから満一ヶ年を経た一八二三年の六月六日には、胃瘻を除く他の部分はすつかり治癒したが、患者は相変らず治療を受けて居ると、その冬になつて、胃壁から一枚の膜が新生して来て、胃瘻を蔽ふやうになつた。然し、その膜はいはゞ一枚の幕であつて、決して胃瘻を塞ぎはしなかつた。爾来彼の胃は、その幕を隔てて外界と交通して居たのである。さうして患者は一八二四年の春にすつかり、病前の健康状態に復し、一八二五年五月、ボーモン(※52)は、患者の承諾を得て、その胃瘻を利用して、胃の消化の実験を始めたのである。それから、三ヶ月間、彼はボーモン(※53)の転勤先へ伴はれて、実験されて居たが、そのうちに厭になつたと見え、ボーモン(※54)に黙つて郷里のカナダ(※55)に帰つてしまつた。
それから四ヶ年の後、患者は消息を絶つて居たが、その間に彼は結婚して二児を挙げ、同じく毛皮会社に雇はれて居ることがわかつたので、ボーモン(※56)は会社に交渉して彼を借り受けることゝし、一八二九年八月、約二千「マイル」隔つたフオート・クローフォード(※57)へ、彼の家族もろ共よび寄せて研究を続けた。二年の後、患者は事情が出来て一旦郷里に帰り、一八三二年十一月再び実験を受けに来たので、更にボーモン(※58)は翌年の三月迄、観察を続け、さうして従来の実験の結果と合せて公にしたのが、即ち、この尊い書物に外ならぬのである。
ボーモン(※59)の実験の結果の精細については、あまりに長くなるから、こゝには記述しないが、実験は実に用意周到に且つ綿密に行はれて、一日も早く業績を作りあげやうとあせる現今の医学者は、まさに慚死すべきであらうと思ふ。
グラスゴー(※60)のフィンレーソン(※61)は、「医学図書館は、教授及び学生の研究を行ふべき実験室である」と叫び、医学は動物実験をするのみが能ではないといつて、医学史を講義し、而も初版本を集めて、一々学生に示し、大に学生を啓発したい(※62)といはれて居るが、医学に関する初版本はたしかに医学の進歩を促がすと思ふから、わが国の医学者たちも、ちと、この方面に注意を向けてほしいと思つて、この一文を草したのである。(完)
(※1)(※2)(※3)原文二重傍線。
(※4)(※5)原文傍線。
(※6)原文二重傍線。
(※7)原文傍線。
(※8)原文二重傍線。
(※9)原文傍線。
(※10)(※11)(※12)(※13)(※14)原文二重傍線。
(※15)原文傍線。
(※16)(※17)原文二重傍線。
(※18)(※19)原文傍線。
(※20)(※21)原文二重傍線。
(※22)(※23)原文傍線。
(※24)原文二重傍線。
(※25)(※26)原文傍線。
(※27)(※28)原文二重傍線。
(※29)原文傍線。
(※30)原文二重傍線。
(※31)原文の踊り字は「ぐ」。
(※32)(※33)原文傍線。
(※34)原文二重傍線。
(※35)原文傍線。
(※36)原文二重傍線。
(※37)(※38)(※39)原文傍線。
(※40)原文二重傍線。
(※41)(※42)原文傍線。
(※43)閉じ括弧原文ママ。
(※44)原文傍線。
(※45)原文ママ。
(※46)原文二重傍線。
(※47)原文の踊り字は「く」。
(※48)原文傍線。
(※49)(※50)原文二重傍線。
(※51)(※52)(※53)(※54)原文傍線。
(※55)原文二重傍線。
(※56)原文傍線。
(※57)原文二重傍線。
(※58)(※59)原文傍線。
(※60)原文二重傍線。
(※61)原文傍線。
(※62)原文ママ。
底本:『医文学』大正15年6月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2017年6月16日 最終更新:2017年6月16日)