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(牛涎漫語)知つた振り

医学博士 小酒井不木

 泣きもせで泣く振りするを見て泣いて
   泣かぬ振りする芝居見る人
といふ歌がある。これは芝居見る人の心理を巧みに言ひあらはしたものであるが、人間といふものは、芝居を見るときに限らず、悲しいときに悲しくない振りをしたり、嬉しくないときに嬉しい振りをしたり、知りもせぬことを知つたやうな振りをして、所謂心にもないことをしたがるものである。むかしの聖人は喜怒哀楽の情を色にあらはさぬこと(※1)換言すれば心にもないことをするのをえらい(※2)人間であるやうに教へたものであつて、いかにも、喜怒哀楽を色にあらはさぬ人は、ちよつとえらい(※3)やうに見えるものである。『伽羅(めいぼく)先代萩』で、千松が政岡に向つて、『お腹が空いてもひもじうは無い、何ともない』と言ひ放つと、見物は皆涙を流して感心する。極端な場合には、『武士は食ねど高楊子』などといつて、何も楊子をつかつてまで食つた風をする必要もないのに、昔の武士はかうした人を食つた欺瞞を敢てしたものらしい。昔から英雄豪傑などと言はれた人は、悲しい報知に接しても、怖ろしい目に逢つても、平気の平左衛門で、人はこれを『勇気』と称(とな)へて、誉めたゝへたものであるが、若しそれ等の英雄たちが、平気の平左衛門を装つたゞけだとしたら、『勇気』といふものは可なり変梃なものといつてよい。
 何事によらず心にもないことを敢てする人は厭なものである。平素犬猿も啻(たゞ)ならざる間柄であり乍ら、姑(しうと)が死ぬと嫁は泣く。しかも心では少しも悲しくないのに泣くものがある。たしか源氏物語だつたと思ふが、姑(しうと)の死に逢つた嫁が、体裁を繕らふために、茶碗に水を汲んで来て置いて、ひそかにその水で眼を濡らしては泣いて居たので、これを見て居た人が、こつそりその茶碗の中へ墨汁(すみしる)をまぜて置くと、さりとは知らぬ嫁は、熊のやうな顔をして人々をたまげさせたといふ話がある。何もそれ程にまでして悲しさを装はなくてもよささうであるのに、無理に心にもないことをしやうとするから、かうした滑稽を演じてしまふのである。尤も中には比較的垢抜けのした嫁もある。やはり姑(しうと)の死んだ時の話であるが、その姑(しうと)は生前、それはゝゝゝ(※4)意地が悪くて、嫁は、はたの見る目も可哀さうな程いぢられて居たが、その嫁が姑(しうと)の死に接して、ことさらに大声をあげて泣きわめいた。その姿が、如何にも真実に迫つて居て、決してつくり泣きでないから、人々は非常に感心したが、ある人がその嫁に向つて、
『お前さん、姑(しうと)に死なれたので悲しいのか。』ときくと、
『どう致しまして、このまゝ燃してしまふことになれば、それ程うれしいことはないですが、若しうつかり生きかへられた日には、どうなることかと、その時が思ひやられて、死骸のある内は、悲しくてならないので御座います。』と答へたので、質問した人も少々面喰つた。
 支那の葬式、いや日本でも伊豆の大島あたりの葬式では『泣き女』といふものがあつて、悲しさうに泣いて景気(?)をつける習慣があるが、心を静めて考へて見ると、聊か滑稽の感がないでもない。落語に『胡椒のくやみ』といふのがあつて、作り泣きをするために胡椒を頬張つて涙を出さうとすると、思ひも寄らず『くしやみ』が出てしまふ話があるが、とにかく作りごとゝいふものは、『笑ひ』に終り易い。

 だが、世の中には所謂『虚礼』なるものがあつて、感心せぬことでも感心したやうに見せかけ、をかしくないことでも笑はねばならぬやうな場合が少くない。ことに人に使はれて居る人はさうした作りごとをせぬと、自分の首があぶなくなる。だから上長の人の御機嫌を取るために、御世辞の競争が始まつたりする。単に雇主(やとひぬし)と雇人(やとひにん)との間ばかりでなく、人は到るところで、心にもないことをするやうに強ひられる。結婚式の披露に招かれた人は、さほどでもない新郎新婦を、秀才とか才媛とかと激賞しなければならない。二十五年勤続祝賀会などのときには、沈香もたかず屁も放(ひら)なかつた人を、さもゝゝ(※5)功労があつたやうに囃し立てねばならない。いやどうも苦しい世の中である。だがかうしたことは今の世の中に盛んに行はれつゝあるのであつて、従つて時には賞め過ぎたり祝ひ過ぎたりして反つて滑稽なことをしてしまふ。
 むかし、人並はづれて物祝ひする侍があつた。あるとき梟が家の中へ飛び込んで来た夢を見て、不吉に思つて気を腐らせて居ると、下役の某はそれをきいて、
『それは御目出度いことです、鬼は外ふくろ(※6)は内といふではありませんか』と言つたので、その侍は大(おほい)に喜んで、小袖を一重ね与へ遣した。すると、これを見た同じく下役の一人は自分も小袖がほしかつたので、元来智慧が足らなかつたけれど、こんど主人が不吉な夢の話をしたら、大(おほい)に祝つてやらうと待ちかまへて居ると、ある日主人は、
『ゆうべは厭な夢を見た。俺の頭が落ちる夢だつた』と不快さうに語つた。その男はこゝぞとばかり、
『それはお目出度いことです。それこそ正夢正夢』と言ひ放つた。
 かうした物忌みや物祝ひに関する笑話は昔から随分沢山あつて、落語の『七福神』などその代表的のものであるが、言葉のつかひ方一つで吉となり不吉ともなることであり乍ら、先方から、心にもない御上手を云はれて喜ぶのが人情の常であるかと思ふと、人間といふものはよほど御目出度く出来て居ると言つてよい。

 心にもないことを装ふうちでも、殊更いやなものは『知つた振り』である。とかく人間は『知つた振り』をしたがるものであるといふことを古の聖賢も見抜いて居たと見えて、『知らざるを知らずとす、これ知れるなり』といふ格言さへ出来て居る。この格言が若し何人(なにびと)にも実行されて居たならば世の中はよほど暮しよくなるであらうとさへ思はれる。『きいて当座の恥、きかで末代の恥』といふ諺のあるのも『知つた振り』のしたい人間の心を誡めたものと言ふことが出来やう。子供の時代には知らぬことばかりだから盛んに質問するが、年を取るに従つて、知らぬことをも知つて居るやうな振りをしたがる。ことに多少の地位を得た人は、自分より下なものに向つて知らないことを知つたやうに装ふものが少くない。
 ある出家が武士の風をして馬に乗つて遊行したところ、道に、赤漆で塗つたやうなものが落ちて居たので小姓に拾はせたところ、小姓はそれを渡し乍ら、
『これは伊勢海老で御座います。』といつた。
 すると出家は、
『なに、伊勢海老だといふことは自分もよく知つて居たが、この朱のさしやうが一寸珍らしいと思つたから、拾つて貰つたのぢや。』と言つた。
 伊勢海老ではまたこんな話もある。伊勢の国へ一度も行つたことがなくて、何度も参宮をしたやうに言ふものがあつたので(、)(※7)ある人が、
『そんなに度々伊勢へ行かれたのなら、定めし伊勢海老を沢山見られたでせう?』ときくと、
『見ましたとも、宮川で沢山見ましたよ。色が赤いから実に見事でした。』
『そりやをかしい。海老は海のもので、実際は青黒いものです。煮ると初めて赤うなりますが、それにしても宮川は河だのに、河で赤い海老を見たとはどうも嘘らしいですが。』
『いや、あなたは随分世間が狭いですな。物好きな男がありましてね、海老を川へ放したんですよ。それがいつのことだか御存じありますまいがな。』
 何でも知つて居るやうな男は、たゞ生かぢりであるといふだけで、その実何も知らない。然し、人間といふものは、その生かぢりを頻りにやりたがる。先年アインスタインが来朝して、『相対性原理』といふ言葉が流行したとき、平素物理学の『ぶ』の字も顧みなかつた人たちが争つて相対性原理に関する書物を買ひ求め、わかりもしないのに、わかつた振りをするものが少くなかつた。するとアインスタインは、『物理学にさのみ興味を持たないで、相対性原理にだけ興味を持つとは不思議ですなあ。』と、賞めたのやら嘲つたのやらわからぬやうな皮肉な言葉を残して去つた。世界で十何人しかわからぬといはれて居る原理が、日本の有象無象にわからう筈はない。その当時、相対性原理を、男女相対の原理と解釈して、ひそかに買つて見てびつくりした女学生もあつたといふことであるが、かうした人の方が、相対性原理を生かぢりして居る人よりも罪がなくてよい。

 人に物をきかれて知らぬと答へるのは可なりつらいことであるが、知らぬことを知つて居るやうに答へたときよりも、あとではるかに気持のよいものである。若しこちらの知らぬことが先方にわかつたならば、こんど、知つて居ることをきかれて答へても、先方はもはや信用してくれない。反対に、こちらが人に物をきいたとき、知つて居ることは知つて居る、知らぬことは知らぬとはつきり答へてくれると、少くともその人の知つて居ることに就ては信用が出来ると同時に、知らぬと答へられても、その人を尊敬する気にこそなれ、軽蔑する念は少しも起らぬものである。
 知らぬことを知つて居るやうに誤魔化して居る人は、先から先へ人を欺いて行かねばならぬために、その方にエネルギーが注がれて真の知識を得るひまがなくなるといふ恐ろしい破目に陥り易い。実際『知らぬ』と答へるには可成り勇気が要る。然し一旦その習慣をつけさへすれば訳もなく実行の出来ることである。
 人間の頭脳には限りがある。どんな賢い人でも、自分の専門以外のことにはうとく(※8)なるのがあたり前である。だから知らぬのは当然のことである。若し何でも知つて居る人があればその人の知識は間違ひだらけの浅いもので真の知識とはいひ難い。
 むかし、人の物語をよく聞いて覚え、洛中洛外知らぬ所はないと吹聴する男があつた。ある人が、
『あなたは嵯峨法輪寺を見ましたか』ときくと、
『見ましたとも、いかい大ひげでしたよ』とその男は答へた。
 又、同じく京都辺のことならば何一つ知らぬことはない、世の中の物知りは、白河を夜舟に乗つたといふ類ひだ。自分ほどよく知つて居るものは外にあるまい。と自慢をする男があつた。ある人が、
『さても羨しいことです。ではおたづねしますが、祇園と清水との間はどれ程の遠さでせうか?』ときくと、その男は扇に書いた絵をひろい、
『さうですね、一寸ほどです。』と答へた。
 地図を見ただけで世界を知つて居るやうに見せたり、解剖の図を見て、人体の内部を見たやうな振りをする人も、この扇に書いた絵で京見物をした男と同じ類ひである。有名な天文学者ガリレオは書物ばかり読んで物事を知つた振りをする男を『紙上哲学者(ペーパー・フイロソフアー)』といつて嘲けつたが、かうした紙上哲学者(しじやうてつがくしや)は、世間一般ばかりでなく、学界にも可なりに沢山あるやうである。私たちは須らく生きた学問をして、知つたことが益々少なくなるやうに工夫しなければならない。即ち知らぬことが多くなればなる程研究心が盛んになつて(、)(※9)知識らしい知識が得られるからである。

 知つた振りは厭なものだが、知らぬ振りはある場合には奥床しい。『能ある鷹は爪をかくす』といふ、『大賢は愚なるが如し』といふ言葉はこの辺の消息を伝へたものであらう。貝原益軒が乗合船の中で知らぬ振りをして居たことは美談として今に伝へられて居る。フランスの大数学者ラグランジユは、人と話をするとき、いつも Je ne sais pas(ジユ・ヌ・セ・パ)(僕は何も知らぬが)といふ前置きをするのが常であつた。ゲーテの書いたフアウスト博士は、自分の知らぬことを人に教へねばならぬ苦痛を指摘して居るが、若し何人(なんびと)でも、自分が知つたつもりで居る事柄を、果して知つて居るかどうかと考へて見たならば、実は、何も知つて居ないのに驚くであらう。だから賢い人は、強ち知らぬ振りをするのではなくて、平素よく反省をして、自分が何も知らぬことを自覚するために、あぶない気がして口へ出さぬのだと解釈する方が適当であるかもしれない。知つた振りをするものは、自分の知識に就て考へて見たことがないから、所謂盲目(めくら)蛇に怖ぢずの類(るゐ)で、人前憚らず自慢するのであらう。だから賢者の知らぬ振りは、本当の知らぬ振りではないかもしれない。
 本当の意味の知らぬ振り、即ち知つて居らねばならぬのに知らぬ振りをするのは、知つた振りと同じく、いやなものである。さういふ人間にあふと気味が悪くなる。犯罪探偵の際などは、知つて居りながら知らぬ振りをされるために、探偵たちがどれ程苦心するか知れない。尤も知つて居ることを知つて居ると正直に言つてしまへば、時には自分の生命(せいめい)がなくなるから、知らぬ存ぜぬを強情に繰り返すのである。そして知らぬ振りをするものに知つて居ると言はせるためには、古来、拷問などといふ恐ろしい方法さへ案出され応用されたのである。かうなると知らぬ振りといふことも中々の大問題である。
 いづれにしても知らぬことを知らぬ、知つて居ることを知つて居ると言つて世渡りをして行くほど気持のよいことはない。安分以養(ぶんにやすんじてもつてふくをやしなひ)、緩胃以養(ゐをゆるうしてもつてきをやしなひ)、省費以養(つひえをはぶいてもつてざいをやしなふ)、とは東坡の三養の教へであつて、『分に安んず』とは即ち、あるべき様に振舞ふことを意味するのである。とかく分に過ぎたことをしやうとすると恥が多い。実に、知つた振りをしなければならぬ人ほど、不幸な人は世の中にあるまいと思ふ。(完)

(※1)句読点原文ママ。
(※2)(※3)原文圏点。
(※4)(※5)原文の踊り字は「く」。
(※6)原文圏点。
(※7)原文句読点なし。
(※8)原文圏点。
(※9)原文句読点なし。

底本:『現代』大正14年4月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1925(大正14)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2017年6月16日 最終更新:2017年6月16日)