インデックスに戻る

肺結核を如何にして治癒せしか(三)

医学博士 小酒井不木

五 安静の意義

 従来のどの結核療養書を見ましても、一にも安静、二にも安静、三にも四にも五にも安静と書かれてあります。それほど、これまで「安静」といふものが重要視せられて来たのでありまして、現に多くの患者は安静を金科玉条として養生しつゝあります。
 ところが今回私が「闘病術」を発表して安静も畢竟第二義的のものである、一定度まで安静を続けても相変らず軽熱のひいて行かない人は、闘病の心を定めて、安静を破つた方が却つて病の治癒のために良好な影響を与へるものだと述べましたところ、安静を唯一無二の療法と信じて人に教へて居る人々は、私の説を怖るべき暴論であると見做し、「闘病術」のごとき書が世に流布するといふことはゆゝしい事だとまで歎いて居るといふことであります。私が「闘病術」を著はしたのは、決して世の肺病患者に害を与へようと思つた訳ではなく、一人でも多く救ひたいといふ願望をもつて書いたのでありますから、この際「安静」について、私の考へ主張するところを述べて、「安静を破れ」といふ意味が誤解されないやうにして置きたいと思ふのであります(。)(※1)
 安静を唯一無二の療法と心得て居る人から見れば、「安静を破れ」といふ私の主張は暴論であるに違ひありませんが、反対に「闘病術」から見れば、「一にも安静、二にも安静」といふ主張で暴論でなければ愚説であります。私といへども、安静が療病の際に必要なことはよく存じて居ります。四十度近くの高熱を発して居る患者に、「起き上つて仕事をなさい」といふやうなことは決して申しません。又、過度の心身の衰弱から肺結核を起したと思はれる人には安静の必要を諭します。けれども安静を始めてから半年も一年も過ぎたのに拘はらず、三十七度二三分の熱がどうしても去らないといふやうな人には、安静を破る必要がありませぬかと思ふのであります。「安静を破れ」といつたとて、昨日まで床の上に居て、両便まで取つて貰つて居た人に、今日からは鉄砲をかついで野山を走りまはれといふやうな乱暴なことをすゝめるのでは決してありません。安静を破るに先つて、闘病の心を定め生きようとする意志を樹立してから、徐々に身体を活動状態に入らしめるのであります。従つて闘病心が定まらなくて、安静を破れば、害のみあつて益はありません。私の説を非難する人は「安静を破れ」といふ私の言葉のみを楯にとつて(※2)闘病術の真意に触れないために私の説が暴論に見えるのであります。若し患者が私の主張する闘病の真意をよく理解してくれたならば、その患者は安静を破らずには居られないだらうと思ふのであります。実際闘病術に於ては、安静を破るとか破らぬとかは瑣末の問題でありまして、闘病の精神が定まりさへすれば、安静を破る破らぬはどうでもよい問題となるのであります。ですから「安静を破れ」といふ言葉だけを目して闘病術そのものを暴論だと結論するのは笑止の至りであると謂はねばなりません。
 安静を金科玉条とする反対論者は言ひます(。)(※3)一年も二年も安静を続けた患者は、たゞさへ安静に厭(あ)いて、安静を破りたがつて居るのであるから、其処へさして「安静を破れ」と告げたら、渡りに船と喜んで安静を破り、ために疲労に陥つて病を悪化してしまふ。安静を破つた当座は一時的に自覚症状はなくなるかも知れぬが、時を経ると疲労が一時にあらはれる。だからはじめから安静に精進するに如(し)くはないと言ふのであります。
 これは誠に尤もなことであります。闘病心も何もない患者が一年も二年も続けた安静から、俄かに飛び起きて、したい放題のことをしたならば、疲労するのは当然のことであります。それくらゐのことは私だつて心得て居ります。従つて闘病心の定まらぬ人に、安静を唯一無二の療法であると勧めるくらゐの融通はきくつもりです。
 それのみならず、安静を唯一無二の療法であると主張すれば、最も安全無事であることぐらゐ、私だつてよく心得て居ります。「安静にしなさい。」といふ忠告を与へるぐらゐ誠に雑作のないことであります。安静にして居てなほらねば、患者は運命とあきらめるからであります。だが、それでは肺結核患者が気の毒ではありませんか。いつまで安静にして居たら治るといふ宛もなく、たゞ「安静にせよ」といふ現代医術の命ずるところに従つて漫然治癒の日を待つて居るといふことは、何といふ情ないことでせう。安静を半年も一年もつゞけてなほ且つ熱も去らず症状も消退して行かぬとき、「まだ安静が足らぬのです。もつと辛抱を続けなさい。」といふことは、心を鬼にしなければ言ひ得ないだらうと思ひます。本当に肺病患者を愛するものの言ふべき言葉ではないと思ひます。
 初期の患者が安静によつて治る例は沢山あります。だから、二期三期の人にも安静(※4)唯一無二の療法であるかのやうに言はれて居りま(※5)。然し残念ながら二期三期の人は安静ばかりではなほつて行かぬやうであります。若し安静で治るものとすれば、年々十万人に近い死亡者はない筈であります。末期の患者は安静にせよと言はなくても苦しさのために自然に安静にして居りますが、それでも病は治りません。かういふと、安静論者は初期に安静にしなかつたからだと言ふにちがひません。だが然し、二期三期の患者は、「あなたは初期に安静にしなかつたから、もう安静にしたとて治るか治らないかわかりませぬよ。(」)(※6)と言はれてそれで満足するでせうか。満足どころか悲しむでせう。悲しむどころか恨むでせう。
 実際、二期三期の患者は、「安静」も畢竟病を治(ぢ)するに足らぬといふことを追々自覚しつゝあるのであります。かくの如き患者に向つても、安静論者は、尚ほ且つ安静を勧めるつもりでせうか。否、安静をすゝめてそれで患者が満足すると思ふでせうか。二期三期の患者が何とか良い方法はないものかとたづねて来たとき、安静論者は、「一にも安静、二にも安静」といふやうな返事を与へて、患者を絶望せしめて居るやうなことはないでせうか。
 自分が結核の初期を安静で治したからといつて、二期三期の人にまで「安静」を唯一無二の療法としてすゝめるといふことは少し僭越ではないかと思ひます。現に私自身、大正四年に発病したときは安静を主とすることによつて恢復したのであります。ところが大正九年に再発してから、いか(※7)安静にしても病はぐんゝゝ(※8)進んで行くばかりでありました。だから、私は安静ばかりでは、決して病は治らぬものと覚つたのであります。うつかりすると自分はこのまゝ床(とこ)の上で一生を終ることになるかも知れない。それでは折角人間と生れて来た甲斐がない。苦しいのは覚悟の前で起き上つて見よう。と考へて徐々に活動的養生に移つたのであります。真に人間らしく生きようとして迎苦の心を起したならば、誰でも床(とこ)の上にじつと横(よこた)はつて居ることが出来ぬだらうと思ひます。かういふと、「あなたはそれで人間らしい生き方をしておいでになるのですか。」とたづねる人があるかも知れません(。)(※9)さうたづねられてはたゞたゞ恥ぢ入るより外ありませんが、何とかして人間らしい生き方をしたいものだと努力して居ることは事実であります。
 二期三期になると、身体の安静は出来ても心の安静は容易に出来るものでありません。ことに安静そのものに疑惑を抱くと、患者は少なからぬ焦躁を感ずるのであります。かゝる患者に向つて尚ほ且つ「一にも安静、二にも安静」とすゝめることは、むしろ残酷であると思ひます。若しそれで満足する患者があつたら、それはよほどお目出度い人であると思ひます。さもなくばよほどの大豪傑であると思ひます。
 かういふと、識者は、「君は闘病術に於て、迎苦といふことを説いて居るが、苦しい安静を無理に忍んで実行することもやはり迎苦ではないか。」と反問する人があるかも知れません。一応尤もな反問であります。然し、安静を無理に実行したあげく、その患者はどうなるかといふに、筋肉は消耗して再び起き上ることが出来ぬ不具者となつてしまひます。これではたとひ生命があつても、人としての生甲斐が更にありません。床についたまゝでも生命さへあればそれでよいといふ人には何も言ふべき言葉がありませんが、他人の世話にならず、自由に動くことの出来る身体になり度いといふ人には苦しさを忍んで安静を続けようとはいへないのであります。同じく苦しむのなら、安静を破つた時の苦しみを迎へるやうにした方が得策であると思ふのであります。私が安静を破れと主張するのは、要するに、以上のやうな不具者を作りたくないからであります。
 尤も、安静論者と雖も、熱が引いた後まで安静を続けようといふのでないことは私もよく知つて居ります。「安静を続ければ熱が下る、熱が(※10)つたら徐々に運動を始める。」これが普通の肺病療養法なのであります。又、至つて危な気のない方法であります。けれど残念ながら、出来得る限り安静にしても、ちつとも熱の下らぬ患者があります。さういふ患者に向つて、私は、いつまでも安静を続けるよりも、闘病心を樹立して安静を破り、徐々に積極的、活動的の療病生活に入ることを勧めるのであります。六ヶ月以上安静にして、尚ほ且つ軽微な熱が去らぬ場合、活動養生によつて、身心の革命を企て病気を征服すべきであらうと思ひます。
 私の説を難する人は活動養生がよいと主張するなら、何故病の当初から活動養生をさせぬかと言ふでありませう。無論、闘病心さへ定まつたならば、始めから活動養生するのは、極めてよいことであります。然し、闘病心なるものは、発病の当初には中々起りにくいものであります。二期三期を進んで、安静も、医薬も、その他如何なる方法も無効であると痛感されたとき、はじめて自分の心以外に便るべきものはないとわかり、闘病心が確定されるのであります。だから私は二期三期の人がある場合には(、)(※11)却つて初期の人よりも病は征服し易いと思ふのであります。
 然し、私の説はもとより絶対に正しいものだとは言ひ得ません。ですから私は私の説をそのまゝ人に強ふるものでは決してありません。私に反対する人々の中には、如何にも私が私の説を強ふるやうに思つて居る人があるやうですけれどそれは誤りであります。「闘病術」の中に書いて聞き(※12)ましたとほり、他人の言説は、たとひそれが体験によつて得られた考へであつても、それを実行する前に、一応自分の理性をもつてよく検討し、然る後よいと思つたことを実行すべきでありまして、他人の体験が如何に尊いものでも、それをそのまゝ鵜呑みにしないで、一応冷静に考へてから実行するといふのが闘病術の眼目の一つなのであります。「安静を破れと書いてあつたから、二十日ばかり動いて見たが、一向熱も去らぬばかりか、朝夕(てうせき)の痰が殖えた、闘病術も一かう頼みにならぬ。」などゝ判断されては頗る心外であります。
 従来、「安静」が唯一の肺結核療法とされて来た関係上、私の著書なり、この一文なりを読んだ方の中には、定めし迷はれる人もあることゝ思ひます。かやうな人は、先づ安静療法を励行して若しそれで病が治つて行かなかつた場合に、私の説を考へて下さつて、少しも遅くないと思ひます。
 一たい安静が何故(なにゆゑ)に肺結核治療に必要かと申しますと、これにはやはり学理的の根拠があると見做されて居ります。例へばかの膝(しつ)関節の結核の如きものは、石膏繃帯をかけて安静にして置きますと、よく治癒するのであります。さういふところから肺結核も、肺を安静にして置けば治るだらうと考へられたのでありまして、かの人工気胸療法の如きは即ち肺を動かさぬやうにする目的で行はれて居るのであります。
 ところが肺臓なるものは四六時中、一分の休みもなく動いて居ります。肺を絶対に動かさないうやうにするには、死ぬより外に方法がありません。従つて人工気胸法も効を奏しないのでありますが、膝関節結核などから類推して、兎に角、肺を出来るだけ安静にした方がよいだらうといふことになり、従つて身体をも安静にすべきであるといふのが、今の医術の説くところであります。
 けれども、身体の安静も残念ながら肺結核を治療することが出来ません。然らば私たちは一たい何によつて肺結核を治すべでさ(※13)ありませうか。それに対して私は言下に答へます。「肺結核を治すには、各自に具はつて居る自然治癒力を思ふ存分に活動せしむればよい。」と。こゝで私は勢ひ、自然治癒力について述べなければならなくなりました。

六 自然治癒力

 人間に自然療能の具はつて居ることは誰でも知つて居ることであります。卑近な例を申しますならば、手に傷をしても、それを捨てゝ置けば自然に治つて行きます。腫物(できもの)が出来ても、多くの場合捨てゝ置けば、自然に膿が出てなほつてしまひます。私は前回に、肺結核は捨てゝ置いても治るものであることを述べましたが、捨てゝ置いても治るのは、この自然治癒力の然らしめるところであります。換言すれば、自然治癒力のあるために、肺結核は捨てゝ置いても治るのであります。
 医術なるものは一口に言ふと、この自然治癒力を補佐するに過ぎません。外科医が手術によつて膿を出すのは、自然に膿の出るのを待つて居て治癒を長びかす代りに、一定時間治癒を早めるのに過ぎません。薬剤なるものの多くは、病気の際の色々の有害なる症状を除いて、自然治癒力の活動に便(べん)ならしめるのに過ぎません。だから、いつまでも治つて行かない病気に、薬剤を用ひて居るといふことは薬剤そのものから来る害によつて、却つて自然治癒力の活動が阻止される憂(うれひ)があります(。)(※14)だから私は、慢性病の患者は、出来得る限り薬剤を用ひぬやうにすべきであると思ふのであります。
 この自然治癒力なるものは一たい何によつて支配されて居るかと言ひますに、残念ながら現今の医学ではまだはつきりしたことがわかつて居ないやうであります。ところが、自然治癒力が、暗示使用によつて、その活動の促がされるところを見ると、かの所謂「潜在意識」なるものと関係が深いやうに思はれます。実際自然治癒力は潜在意識の支配を受けて居るのだと主張する学者も少なくありません。私もこの説に左袒するものであります。闘病術によつて病を治すことが出来るといふことを、潜在意識と暗示作用との関係で説明したいと思ふのでありますが、私はまだ潜在意識についてはそれほど深い研究をしたことがありませんし、又、強ひて説明するにも及びませんから、具体的な説明は避けて居る訳であります。
 潜在意識なるものは暗示作用によつて自由に活動するものであります。これは皆さんの既に御承知のとほり、他から与へられる暗示(例へば催眠術の如きもの)によつても又は自己暗示によつても活動するものであります。従つて催眠術によつて多くの病気が治るといふことは、自然治癒力が潜在意識の支配を受けて居る証拠となります。若し催眠術によつて病が治るものであるならば、自己暗示によつても治らねばならぬものでありまして、「肺病は必ず治る、治さずには置かぬ。」といふ心を確立したならばそれが自己暗示となることは言ふ迄もありません。だから、私が闘病術に於て「治さうと覚悟する」ことを主張するのは、学理的に言へば一種の自己暗示だと言へば言へないこともないのであります。
 他人に効かぬ薬が、ある特種の人に奇効を奏するのは、その人がその薬によつて必ず治ると信じ自己暗示を行ふからであります。むかし人参が霊薬と見做されて居たのは、この暗示作用による治癒を齎(もたら)したゝめだと解釈すべきであらうと思ひます。ツベルクリンが発見された当初、よく結核に効いたのは、その発見者たるコツホの名に人々が催眠術をかけられたからであります。この意味に於て、私は諸種の民間薬が重宝がられるのも無理はないと思ひますが、残念ながら、現今の結核患者は懐疑的でありますから、民間薬の暗示作用は、至つて薄いのであります。
 私は「闘病術」の中に、結核恐怖心が結核の治癒を阻止するの如何に甚だしいものであるかを述べましたが、結核恐怖心なるものは、要するに、この自然治癒力に対して、悪い暗示作用を与へるからであります。例へば熱を恐怖するあまり、偶ま熱が高くなつた時は、「ああ、病が進んだ!」と考へて、がつかりして気落するからであります。即ちそれによつて病が悪化したといふ暗示を与へるために、自然治癒力は活動しなくなるのであります。又、例へば性慾を満足せしめたとき、「あゝ悪かつた!」と後悔するために、性慾を満足せしむることそのことは少しも害かこ(※15)いに拘はらず、その後悔が自然治癒力に悪い暗示を与へて害を及ぼすのであります。
 だから安静を破るにあたつても、「安静を破つてはよくないかも知れぬ。」といふ恐怖心を具へて居たなら(※16)、害を与へることは言ふ迄もありません。闘病心を樹立して後でなくては安静を破つてはならぬと私が特に主張するのはこの故であります。恐るゝゝ(※17)安静を破つては病を悪化するに役立つのみであります。ところがこの恐怖心なるものは容易に去りません。だから、徐々に恐怖心を除く工夫をして、然る後安静を破るのが順序であると思ひます。
 肺結核患者はよく規則的生活をしなければならぬといつて、厳密な規則を作つて生活して居るやうですが、私はかゝることには反対するものであります。規則を作つた場合、たまゝゝ(※18)それを破ると心配を起し、その心配が自己暗示的に働いて悪影響を生ずるのであります。又、滋養分を食べねばいけないといはれたとき、金がなくてその実行が出来ぬと煩悶しますが、その煩悶それ自身の分が、滋養分の不足よりも却つて害を及ぼすものであります。闘病術に於ては、空気も、滋養分も(、)(※19)安静も、日光も、すべて第二義的のものでありますから、それ等が思ふやうに得られなくても、少しも恐怖し煩悶するには及びません(。)(※20)たゞ生きんとする意志を樹立し、「治さう」といふ暗示を与へたならば、その瞬間から治癒は始まるのであります。
 まだ書き度いことが沢山ありますけれど、私の説かうとする要点だけは、略ぼこれで書きましたし、予定の頁を塞ぎ終りましたから、これで一先づ擱筆しようと思ひます。要するに肺病は心の持ち方一つで極めて治り易い病気なのであります。が、何にしても病と闘ふものは自分自身でありますから、患者たるものはよく自己を見つめて、自分の適当だと思ふ療法を各自に工夫してほしいと思ふのであります。

(※1)原文句読点なし。
(※2)句読点原文ママ。
(※3)原文句読点なし。
(※4)(※5)原文ママ。
(※6)原文閉じ括弧なし。
(※7)原文ママ。
(※8)原文の踊り字は「く」。
(※9)原文句読点なし。
(※10)原文ママ。
(※11)原文句読点なし。
(※12)(※13)原文ママ。
(※14)原文句読点なし。
(※15)(※16)原文ママ。
(※17)(※18)原文の踊り字は「く」。
(※19)(※20)原文句読点なし。

底本:『婦人世界』大正15年12月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2017年9月29日 最終更新:2017年9月29日)