探偵小説がいつの間にか大衆文芸の仲間入りをしたので、探偵小説家は大衆文芸家と見做されるに至つたが、私は大衆文芸全体の将来に関しては、まだよく考へたことがないから、主として探偵小説家の立場と、探偵小説の将来とについて述べようと思ふ。
純文壇の大家と称せられて居るやうな人々は、よく、日本の創作探偵小説が、非常に芸術味に乏しく、英米の探偵小説から一歩も出ないで、甚だつまらぬといふやうな批評をする。私は、私自身の探偵小説について、どんな酷評を下されようが又は笑殺されようが、少しも気にならないけれども、日本の創作探偵小説界全体についてさういふ物の言ひ方をする人に対しては、頗る残念な思ひをするのである。といふのは、それ等の人は、たゞ探偵小説を軽蔑するばかりで、ちつとも探偵小説のため(※1)を思つてくれて居ないからである。探偵小説家は多くは従順な人たちであるから、純文壇の大家が、手本を示して、かういふ風に書けと指導してくれるならば、喜んでそれを学ぶにちがひない。それだのに、それ等の人々の言ひ分をよく味つて見ると、ろくに英米の探偵小説を読まずに、只ぼんやりと、日本の創作探偵小説が詰らぬといふやうに言つて居るのであつて、実に情ないことであると思ふ。英米の作品から一歩も出ないのは、果して探偵小説ばかりであらうか。純文壇の大家の作品は、英米に比類を見ないほどそれほど優れたものであらうか。探偵小説を熱愛する私どもから言ふと、純文壇で評判となつた小説も、いつもそれほど深い感興を与へられると限つて居らぬ。これは結局その個人々々の趣味の問題であつて、たとひ創作探偵小説が純文芸家に気に入らなくても、外に気に入つて読んでくれる人は沢山ある筈である。大衆を向上させなければ本当の大衆文芸とは言へぬといふ理論は、誰だつて否まないが、探偵小説を読むものが果して探偵小説から生活を向上させる様なものを得ようと望んで居るであらうか。生活を向上させる文学の外に、人々の探偵趣味だけを満足させる文学が存在しても差支ないではあるまいか。勿論探偵趣味を満足させて而も生活を向上させるといふ様な文学があれば結構であるが、それはたゞ理想であつて、そのやうな作品は純文壇の大家にだつてさう易々とは書かれ得ないであらう。よくドストイエフスキイの「罪と罰」が探偵的興味に富んで居るといつて、かやうな場合に引用され易いが、あの偉大な作品でも、本格探偵小説の立場から見ては必しも最高の作品とはいはれぬであらう。尤もド氏は探偵小説を書くつもりであつたのでないから、かういふことは言ふだけ野暮であるし、又ド氏のことであるから、探偵小説を書かうと思つたらやはり一流のものが書けたかも知れぬが、兎に角現今の創作探偵小説に芸術味が乏しいといつて、一も二もなくけなしつける態度には服し難いのである。
全く日本の創作探偵小説はいはゞ搖籃時代である。だから純文壇の大家の言葉が、探偵小説をうまく発育させようといふ親切から起つたものならば、忝く頂戴して置くが、一二篇読んで面白くなかつたといつて、すぐ英米云々を持ち出し、その実英米の探偵小説の現状がどんなものかを知らないで、悪口だけを放つてもらつては、探偵小説家は笑つても、探偵小説は泣くであらう。
日本の探偵小説が将来どの様に進んで行くかは今の所推測を許さない。かうしたがよい、あゝしたがよいと口では言つて見るものの、さて、いざ書いて見ると思ふ通りの作品は出来上らない。そんなことは探偵小説に限つたことでないといふ人があるかも知れぬが、探偵小説家が如何に特種の構想上の苦心をしなければならぬかは一度探偵小説の連作をやつて見るとよい。実際いつも考へることだが、構想上の苦心の上に芸術上の苦心をしなければならぬ様なことなら恐らく探偵小説家は身体を壊して了ふであらう。だから私は世の識者に(も)(※2)つと探偵小説に対する同情を深めて貰ひたいと思ふのである。
探偵小説は決して俗悪低級なものではない。嘗て俗悪低級の謗を受けたことがあるのは、作者の罪であつて、決して探偵小説そのものの罪ではない。今後の探偵小説家は、探偵小説の持つ特種の味を極めて上品にあらはすことに努力すべきであらうと思ふ。さうして私は純文壇の人々に、徒らに探偵小説を軽蔑することをやめて、その才筆を揮つて、本格探偵小説を書かれむことを切望するのである。
(※1)原文圏点。
(※2)原文一文字空白。
底本:『不同調』昭和2年7月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1927(昭和2)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(リニューアル公開:2017年3月24日 最終更新:2017年3月24日)