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率先者ノ苦心(ジエームス、シムプソンノ事)

 Sent a chill to my heart when I saw him come in at the door,
 Fresh from the surgery schools of France, and of other lands;
 Harsh red hair, big voice, big chest, big merciless hands.

 これは英国の大詩人テニソン(※1)が詩の一齣である。
 もじやゝゝゝ(※2)した紅い髪の毛、がつしりした胸廓、太い声、大きな手。――敏感な詩人の胸に、「ヒヤリ」とした感じの起つたもの(※3)あながち無理ではなかつたのであらう。
「むかふ通るは外科医(サーゼオン)ぢやないか、顔がよく似た、凄い顔が」。
 詩人ならずとも、その頃の人々の眼に、外科医は、たゞの一瞥によつて、たちどころに識別された程、その風(※4)はいづれもすさまじいものであつた。――時は第十九世紀の始め、所は大英国と御承知ありたい。
 「同じく病むにしても、腫物は拵えたくはない、腫物が出来ても、外科医の手にはかゝりたくない」。といふのがその頃の人々の、人知れず神に祈る所であつた。不幸にして手術を受けねばならなくなつた患者が、手術の近づくを憂ふる様は、実に何に譬へやうもなき、憐れにもまた遣瀬ないものであつた。屠所の羊とは正にそのこと、かの罪を犯して刑場の露と消ぬべき死刑囚が、所刑の日を迎ふる心と何の選ぶ所がなかつたのである。先づ患者はその手術の日を日毎に指折り数へて見る。愈よ当日になると、手術の時間を時間毎に指折り数へて見る。愈その時間が来ると、外科医の馬車が門前に着くのに耳を傾ける。次には彼が「ベル」を鳴らすのを聞く、次で階段を昇る音、病室に入る音‥‥‥‥
 麻酔法の発見せられなかつた時代に、手術を受けねばならぬ患者が、かうした心痛を味はつたのはいかにも当然であつて、実際、その時分の外科手術室は屠獣所と異なる所なく、患者は膂力逞ましい数人の荒くれ男に鷲抓みに支へられ、外科医は患者の苦痛など少しも顧ることなく、泣かうが唸らうが、落つき払つて荒療治を行ふを常とした。幸にパレー(※5)以後切られた血管に白熱した鉄棒を当てることだけは止められて、一般に血管結紮法が行はれたけれども、尚ほ且迸る鮮血は滝つ瀬の如く、これを鋸屑に吸ひ取らせる有様は転た悽惨なるものがあつた。
 この物すごい光景を見て、始めて手術室に集つた学生たちの中、思はず気絶するものが甚だ多かつた。さればわが敏感なジェームス・シムプソン(※6)が、学生時代にリストン(※7) Liston の手術を始めて見たとき、折角思い立つた医学を中止して、法律を修めやうかと思つたのも、実に無理はなかつたのであるが、長い間の煩悶の後、彼は飽くまで初志を貫徹することに決し、それと同時に、何か患者のこの苦痛を救ふ方法は無いであらうかと、ひそかに思考をめぐらすに至つたのである。
 シムプソン(※8) Sir James Young Simpson は一八一一年に生れ、一八七〇年に死んだ生粋のスコットランド(※9)人である。バスゲート(※10)といふ村の麺麭焼の第八子であつた彼の巨大な頭は小さい時分から逢ふ人の誰にも注目されずに居なかつた程で、早くも郷土に伝はる口碑や迷信に異常なる「アフィニテート」を示し(後年彼は考古学に関する多数の立派な論文を公にした)、またその天稟の詩才は、絵の如き自然の美観に、心ゆくばかりに育み培はれたのであつた。両親は彼の幼い時分に死んだがため、一人の姉と長兄とは彼をわが子の如くに愛して、彼がエヂンバー(※10)大学を終ふる迄、彼に少しも学資の苦労をさせず、思ふ存分に勉学の機会を与へたのであつた。かうして人々の厚い情の中に育つた彼が、その頃の残酷な外科手術を呪ひ嫌つたのは無理もないことで、あのやさしい、いつも微笑を湛へた輪廓の大い顔を見たならば、どうしてそれが、時として恐ろしい手術刀(メス)を握る産科医であると思はれやう。果して彼は後年「クロロフオルム」麻酔法を発見して、その顔にふさはしき人類の恩人となつたのである。
 一八四〇年エヂンバー(※11)大学の産科学の教授に任ぜられてからも、彼は学生時代に考へた「苦痛を除く方法」に就てたえず腐心したのである。が、この「苦痛を除く方法」に就て考へたのは彼一人ではなく、一八四四年麻酔法の嚆矢は実にアメリカ(※12)ホレース・ウエルス(※13)によつて放たれたのである。歯科医のウエルス(※14)は「笑気」を用ひて無痛的に歯を抜くに成功したが、弟子モートン(※15)と共に公に「デモンストレーション」を行つた際、不幸にしてその成績悪しく、ために世に認められずして悶死したが、モートン(※16)はその志を継ぎ、笑気の代りに「エーテル」を使用して遂に世に認められ、次で暫くの間に本国は勿論欧洲にもこの「エーテル」麻酔法は伝へ拡められたのである。
 一八四六年の「クリスマス」休日のある日、シムプソン(※17)ロンドン(※18)に来て、「エーテル」麻酔法を最初に行つたリストン(※19)に逢つて同法に就て論じ、翌年正月彼は直ちに之を産科に応用したが、彼は間もなく「エーテル」に慊らぬ感を抱き、何とかして之に代つて、之よりも遙かに有効な物質が発見したいものと考へ、或は単独に或は助手のケース(※20)及びダンカン(※21)と共に、ある時は自宅に於て、ある時は病院に於て、片つ端から色々の薬剤を自ら吸入し、いつも深更に至るまで、その苦しい実験を行ふのであつた。かうして夏も過ぎ、秋も過ぎて一八四七年の暮に至り、遂に「クロロフォルム」を探し当てたのである。
 十一月の四日の晩のことである。一日の劇しい仕事に疲れ乍らも、彼は二人の助手と共にその夜遅く我が家に帰り、食堂に於て例の実験に取りかゝつた。最初数種の薬剤を吸入して見たが思はしい効果がなかつたので、彼はふと、いつか、「がらくたもの」を入れる机の中に入れて置いた小さい薬壜のことを思ひ出し、それを試みて見やうと、やつとかゝつてそれを捜し出し、三人は取りあへず、その中の薬品「クロロフォルム」を吸入したのである。―するとどうであらう。彼等の前にはいまだ嘗て経験せざる世界が現出し、彼等の会話はいつしかしどろもどろとなり、やがて何とも訳のわからぬ大声を発して、次の瞬間墓場の如き静粛に返り、更にどさり(※22)といふ音がした。
 ふとシムプソン(※23)が我に返ると、最初彼の頭には「こりや「エーテル」よりも遙かに強い。」といふ観念が閃めき、次で自分が体の上に転げ横はつて居るのに気附いた。その時物音が耳に入つたので、あたりを見廻すと、ダンカン(※24)は椅子の下になつて、顎を落し、眼をみはり、前後不覚に大鼾をかいて居た。ケース(※25)はと見ると、無意識にその両脚をじたばたさせて、食卓を蹴たほさんずる有様である。――暫くの後、漸次意識を恢復した彼等は、互にこの薬剤の偉力を讃嘆し、その夜なほも数回実験を繰返して、壜の中の「クロロフォルム」は最後の一滴まで使用し尽されたのである。
 かうして「クロロフォルム」麻酔法は発見せられたのである。そうして一八四七年十一月四日は人類が永遠に記念すべき日となつたのである。――この方法が一般に承認せらるゝ迄の経過は実に波瀾重畳ともいふべきであるが、それは今こゝで記すべき範囲ではない。たゞこれによつて科学的率先者の苦心の一斑を読者に知つて貰へばよいのである。
 シムプソン(※26)のこの発見が、人類を愛する心から出発したものであることは読者の既に了解せられた所であらう。科学者は真理を愛する心を以て活動すべきであると同時に、人類を愛する心を失つてはならない。現代の医学者が動もすると陥り易い弊害は、この人類愛の欠如にその原因を求むべきではあるまいか。理屈は兎に角、我等は安心して手術の受けられるやうになつた現代に棲息することを喜ぶと同時に、麻酔法の発見者に対して満腔の謝意を捧げなければならない。

(※1)原文傍線。
(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文ママ。
(※4)原文の漢字は三本線に縦棒。
(※5)(※6)(※7)(※8)原文傍線。
(※9)(※10)(※11)(※12)原文二重傍線。
(※13)(※14)(※15)(※16)(※17)原文傍線。
(※18)原文二重傍線。
(※19)(※20)(※21)原文傍線。
(※22)原文圏点。
(※23)(※24)(※25)原文傍線。

底本:『西洋医談』(克誠堂書店・大正12年6月15日発行)

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1922(大正11)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2017年12月1日 最終更新:2019年8月17日)