渡る世間に鬼はなしといふ諺のあるかと思へば、人を見ば盗賊と思へといふ諺のありて、世間見ずの輩は、そのいづれを真とすべきかに迷ふべけれど、株式責任買、誰にでも出来る一万円貯金法、下りてはクロス・ワード懸賞募集、写字生募集、いづれもこれ、一つ幹から咲き出でたる詐欺の花と思へば、この花曼陀羅華よりも気味の悪く、まさに渡る世間は鬼だらけ、況んやその鬼が新聞といふ尊き飛行機に運ばれて毎朝戸毎に舞ひ込むに於てをや。
ニユーヨークの郊外に広大なる土地あり、今は荒廃の地なれど、数年ならずして摩天楼の櫛比せんこと火を見るよりも明かなれば、今これを廉価にて求め置けば旬年の後には数倍、数十倍の高価にて売るを得べく、これほど有利なる投資は三千大千世界にまたとあるまじく、この機を逸して千歳の恨を残したまふことなかれ、いざ出したまへ、やれ御猶予無用と、地図までつけての勧誘なれば地理に精通したまふ智識階級とやらの御歴々は、さもありなんさもさうず我若しこの投資によつて巨万の富を獲得しなば、一期の思ひ出に世界一週(※1)を企て、大恩あるニユーヨークの郊外の土地を踏みて以て敬意を表しなん、など夢想したまひて、年来苦労して貯蓄せし金を、惜気もなく、会社に依託したまふ殊勝さは今から思へばげに哀れといふも愚かなる次第けり(。)(※2)
つらゝゝ(※3)惟ん見るに、利を見ることジヤツプよりも数倍機敏なるヤンキーが、何すれぞそれ、かゝることに気附かぬ事やある。ジヤツプに買はれて袖手傍観する柄と思ひたまふか、洋服にては袖手すること能はざるを知りたまはざるや。地理に精通して人情に精通したまはざりしは返すゞゝ(※4)も大きなる手ぬかりにして、遂に投資せし金は鐚一文もかへらず、正にこれ、如夢幻泡影、如露亦如電、今更狼狽して金剛般若経を誦したまふとも、八千哩彼方に埋められし金の亡魂は成仏すべくもあらざるべし。
月収百五十円の内職、女子どもにも出来るとは何たる有難き聖代ぞや。良人は朝まだきより工場に通ひて、夜遅く綿の如く疲れて帰りながら月収は百円。しかるを自宅にてたけなが(※5)を貼りて月収百五十円とは棚から牡丹餅の福音、この有難き福音を伝ふるにしては、あまりにも小さき広告なれど、かゝる福音を万人にわかつも惜しく、他人には眼につき難くあれかしと思ふには、誂へ向きの大さなれば、眼につきし自分は、前世よりの果報者ぞと、喜び勇んで先方へ紹介すれば、折返しての通信に、先づ材料しかゞゝ(※6)を送る故、代金を送れとの事。早速郵便局へ走りて手続きをすまし、送られし材料を見れば、さても世の中には高き材料もあるもの哉、これ等の品、附近の店にて買へば半金にて調ふべし。この点、不審なきにあらねど、月収百五十円を思へば、胸の内からりと晴れて、春風駘蕩。さて、数日の後、示されたる法式に従ひて拵らへあげたるたけなが(※7)を先方に送れば、こはそもいかに、「御作り下され候たけなが(※8)、不出来のためたゞ二本を除くの外は御引受け致す能はず、よつて二本の代金と共に、他のたけなが返送仕るべく候」との通知。さては一杯喰はされしかと、臍を噬むとも及ばず、泣寝入りの夢に五十銭銀貨三百個入りの箱を見るなど、悲しさの極みなりかし。
走り書き、謡の本は近衛流、と「名残の橋づくし」にあれど、流派は問ふところにあらず、たゞ美しく間違ひなきやう、この手本通り写したまふべし、筆写料一枚金拾銭なり、と聞き伝へたるさる奥様、鵞堂流にては我も人も許せし腕自慢、一日弐拾枚の筆写は容易なれば、一ヶ月六拾円の収入。胸算用にほくそ笑みつゝ先方の家を訪ひたまへば、眼鋭く、色黒き男出で来りて、莞爾と笑ひ、さてはよき思召なり、先づ目出度きより始め下されたしと、高砂の謡本取り出し、さて筆写用の紙にはこれを用ひ下されたし、わが検印を捺しあれば一枚金弐銭也、なに五十枚御求め下さるとや、然らば金壱円也頂戴致したし、他に入会金として金壱円也、これも規則に候へばやむを得がたし、出来次第持参相成らば、一枚につき金拾銭を支払ひ申すべしとのことに、家に帰りし奥様、早速筆とりて、「この浦船に帆を上げ」たまへば、順風吹き来りてすらゝゝ(※9)と筆運び、二日間に四十枚予定の如く書き終りて、さて先方を訪ひたまふに先日の莞爾に引きかへて、男の何がな空恐ろしき態度に先づ肝を冷し、さて顫へる手先にて、見ごとなる筆蹟を示したまへば、男眉をひそめて、この行頗る美しからず、この紙、字づもりに不足あり、この処文字死したるやうにてうれしからず、この紙の端いさゝか汚れたり。云々。この意外に峻烈なる批評に、奥様気の遠くなる心地してきけば、四十枚のうち一枚も及第するものなし。這々の体にて帰りたまひ、さて心静まりて後胸に手を置きて考へたまふに、大正の聖代、活版あり石版ありて、何を苦しんでか、写字本を作るの用やある。われ過てりゝゝ(※10)。たゞし、金弐円にて鬼の存在を知る。浮世哲学への入門料としては、廉いものなりとあきらめ給ひしとなん。
伊勢の浜荻難波の芦、ところによりて品かはる例なれど、げに変らざるものは詐欺の方法なりけり。倫敦のさる街に、スミスとなん言ける、いと慾ふかき猶太人ありて、さゝやかなる料理店(レストラン)を営みけり。ある冬の夕べ、細雨霏々として、陰鬱の気あたりにたゞよひ渡り、何となく物悲しさをそゝる折柄、店の前に立ちどまりて、ヴアイオリンを奏づる者あり。常日ごろ金勘定にのみ齷齪たりしスミスも、その夜は客も少なかりければ、帳場に腰うちかけて、ふとヴアイオリンの音に耳傾けぬ。さらでだに胸に泌み入るが如き哀調の、霧雨に響き渡りて、喞々、切切思はず恍惚として塵外に遊ぶ心地せり。
やがて奏曲やみてスミスは我に帰り、ふと店の入口に眼をやれば、いと古びたる外套を身に纏ひて、づぶ濡れになりたる男、手にヴアイオリンを提げたるまゝ、憐みを乞ふが如く叮嚀に御辞儀したりけるに、さては物貰ひの類ひにありしかと、見る見るうちに怒気顔面に漲りて、「おのれ出てうせろ」と大声に叱しぬ。男這々の体にて逃げ去るかと思ひの外、かへりて帳場のほとりに近づき、「一食恵まれたし」と哀願しければ、スミス今は怺へかねて帳場より駆け下り、矢庭に男の肩をつかみて戸外に追ひ出さんずる勢ひなり。男かさねて言へりしは、われ三日の間物食はず、せめて残りのパンの一片なりとも恵まれたし、このヴアイオリン、わが命なれど、これを質物としてつかはし申すべければ、それにて一食を恵みたまはれかしといふ。スミスにはかに手をゆるめ、見ればこのヴアイオリン、いかに廉く叩き売るとも一食の代にはまさるべしと利にさとき猶太人、たちまち頬にかすかなる笑みをさへたゝへて、ボーイに命じ、一個のパンと一皿の肉とを与へぬ。男、飢えたる狼の如く、むさぼり食ふ有様、哀れにもまた可笑しさの極みなりし。漸く人心つきしと見え、男、徐ろに語るらく、われ故ありてかくは零落しけるが、今二週過ぐれば金の入る見込あり。願くば二週間このヴアイオリンを預かり賜はれかし、必ず夕食の代をもちて受出しにまゐり申さん、若し約束の日に参り申さゞれば売り払ひたまふも苦しからずとて、今ははや足どりもたしかに闇の中に歩き去りぬ。
スミス、ヴアイオリンを手にとりて見るに、古色蒼然として、素人目にも相当の時代を経たるが如く見え、しかも先刻の音色を思ひ浮ぶるに、或は逸品の一つかとも察せられしが、そのまゝ帳場の棚に上げ置きぬ。かくて、その日ゝゝゝ(※11)の忙がしさに取り紛れ、いつの間にかヴアイオリンのことも忘れんとしたりけるなり。
時しもあれ、今日にて約束の二週間も尽きんとする日となりぬ。昼飯に来りける風采卑しからざる老紳士、鷹揚にしたゝめ終りて、勘定なさんと帳場に近づきけるが、ふと棚の上なるヴアイオリンを見つけ、こは珍らしき器なるかな、おん身の所有したもふものにやとたづねぬ。スミスそは他人よりの預りものといへば、拝見は叶はずやといふ。スミス、棚より下して渡せば紳士恭しく手にしたりけるが、見るゝゝ(※12)うちにその眼大きく見張られ、驚嘆の色蔽ふべくもあらず。やがて紳士、願はくば売りたまへと声顫はするに、スミス扨はと思ひ、人のものなれば売る能はずといふ。さらば持主に話して是非に譲り受けたき旨申し伝へ下さる間敷やといふ、スミス心を踊らし、この品さほど珍らしきものなりやときけば、紳士にはかに小声になり、何をかくさん、まがひもなきガルネリウスの作、百ポンドは最低の時価なり、われはY町十番地に骨董商を営むBなるものなり、このヴアイオリン持ち来られたらば、即座に百ポンドを渡し申さんとて、大形の名刺を取り出し、勘定を支払ひて悠々立ち去りけり。
スミス心に思ふやう、若しかのみすぼらしき男、今日の晩までに罷り出でざりせば、百ポンドまる儲けなるべしと、ひそかに男の来らざるを冀ひしに、紳士の去りて三十分もたゝぬと思ふ頃、威勢よく店に入り来たる男あり。服装正しけれど、よく見れば先日の男なり。男、莞爾として、先日の恩儀を謝し、予想の如く万事都合よく運びしことを物語り、食代を支払はんとしてければスミス慌てゝ押しとゞめ、このヴアイオリン譲りたまはずやといふ。男頓に真面目顔になり、こは家重代の宝なれば手放し難しと答ふるに、他の器と買ひかへ給ふも苦しからざらん、是非に売りたまへと勧むれば、男思案顔なるに、なほも言葉を尽して口説き立つれば、男、然らば如何ほどに買ひたまふやといふ。十ポンドは如何に、男首を横に掉りて、われこの器の誰の作なるか知らねど、家宝を十ポンドにて手放すことは諾ひ難しといふ。かくて押問答の末、四十ポンドにて折合つき、男はなほも渋々ながら立ち去りぬ。
スミス大に喜びて今は一刻も猶予なりがたく、ヴアイオリンをたづさへて名刺に記されたるY町十番地に来りけるに、たゞ見る大きなる製鉄工場のあるのみにて、そのあたりに骨董商らしき店一軒もなし、こはそもいかにと驚きつゝ工場を訪ねてBなる人をたづねけれども、もとより知れる人なし。スミス全身に冷汗をながし、かねて懇意なる骨董商に駆けこみて、件のヴアイオリンを見せければ、ガルネリウスは愚か、十シルリングの価もなき器と言ひきかされ、悔恨の涙ユーダチ(※13)の如しとは洒落にもならぬ破目なりけり。
ロンドンはボンド街といへば、宝石を商ふ家櫛比したりけるが、中にもストリーターといへる人の店常に繁昌して、天竺の金剛石、緬甸の青玉、邏羅の紅玉など、珍らしき宝石のいと多ければ、各国の富豪出入して、賤民の羨むことたゞならず。ある日この店に一人の男来りしが、店主に向ひて声をひそめて言へるやう、それがしロシアの某公爵の代理なるが、この度、公爵は恋仲なる某夫人にダイヤを遣はされ度く思召され、それがしに石を選びくるやう申し附けられたりとの事に、ストリーターは金庫より目もさむるばかりの数々のダイアを取り出して示しければ、男、そのうちの一つを手に取りて幾何ぞと問ふ。四千ポンドなり、そはなほざりの価ならねどこの石見どころあり、一度公爵に見せたき故、しばし貸したまへといふ。もとよりストリーター、即答をためらひければ、男手をうちて、こはそれがしの不注意なり、実は、こゝに紹介状をこそ持ちたれとて、取り出すを見れば、かねてストリーターと懇意なる某百万長者の手跡なり。ストリーター安心してダイヤを持ち帰らしめしに、一時間の後、男来りて、この石殊の外公爵に気に入り、若しこの寸分たがはぬ同じ石あらば、一対にて八千ポンド支払ふ故、是非に調へ(※14)くれとの頼みなりと告げければ、ストリーター大に喜び、さはれ、同じ石を求むること頗る困難なり、一対にて一万二千ポンドを賜はらば同業者をあさりて調へ(※15)申さんといふに、然らばよろしく頼み参らすべし、たゞしわれ等所用ありて明後日は出立せざるべからず、四十八時間内に調へ(※16)たまへ、一対出来れば一万二千、出来ずんば四千ポンド、しかと約束申すぞと、ダイヤを持つて帰り行きにけり。
四十八時間はあまりに短かしと思ひけれど、巨額の利益を眼前に見て、ストリーターは肉踊り、時を移さずロンドン中の宝石商及び質商に向ひて、これゝゝ(※17)の条件を具へたる石持ちたまはらば六千ポンド支払ひ申さんと書き送りぬ。
あくる日、この手紙を受け取りしストランド街の某質店の主人、ダイヤの条件を読みて、ふと、昨日質草に取りしダイヤを取り出して検したるに、それこそ、ストリーターの望むものなりければ、預け主罷り出でなば、何とかして買ひ入れんものをと待ち居たるところに、預け主来りければ、売りたまはずやといふ。男頭を横にふりて肯んぜざりしが、再三の懇望に、然らば幾何出したまふといふ、四千ポンドは、否、五千ポンドは、否六千ポンド以下には譲りがたしといふ。談判の末、五千五百ポンドにて折合つき、男は現金を受取りて急ぎ足にて去りぬ。申すまでもなく、この男、昨日ストリーターの店にダイヤを買ひに来し同じ男なり。
男は直ちにストリーターを問ひ、対の石を捜し求め下さるやう御頼みせしが、公爵急に所用出来し、大陸に出発さるゝことになりたれば昨日の石の代四千ポンド支払ひ申すなり、あしからず思召されたしと、受取証を取りて風の如くに消え去りぬ。
三十分の後ストランド街の質店の主人、あはたゞしくストリーターをたづね、御求めの石見つけ申したり、六千ポンド頂かんといふに、見れば、まがひもなく昨日店より売り出したる同じ石なり。さては凡てが巧妙なる詐欺なりしかと、今更気づくとも追ひつかず、男は差引千五百ポンドを懐ろにして、ロンドンの何処かに舌出し居るかと、思へば呪はしき人と石なりけり。後に知れたることなれど、はじめ男の示せし紹介状も巧妙なる贋物に過ぎざりしとの事、げに油断のならぬ世の中なるかな。
((※18)をはり)
(※1)原文ママ。
(※2)原文句読点なし。
(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)原文の踊り字は「ぐ」。
(※5)原文圏点。
(※6)原文の踊り字は「ぐ」。
(※7)(※8)原文圏点。
(※9)(※10)(※11)(※12)原文の踊り字は「く」。
(※13)原文圏点。
(※14)(※15)(※16)原文ママ。
(※17)原文の踊り字は「く」。
(※18)原文括弧なし。
底本:『中央公論』大正15年3月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2017年5月26日 最終更新:2017年5月26日)