近頃の私は全く変である。「変」といふ言葉も変であるが、又「ヘン」といふ字に変の字をあてはめることが果して正当であるかどうかは知らないけれども、兎に角、私はヘンである。といつたゞけでは、読者は定めしヘンに思はれるであらうけれども、どうもいゝ言葉が見つからないから致し方がない、これも私の頭がヘンになつて居るからかも知れない。
私が変であるといふことは、健康が変であるといふことではなく、何だかかう、本当の自分らしくない生活をして居るやうな気がするので、それで変であるといふのである。嘗て病気をしてづつと床に就いて居たときは、可なりに読書の時間が豊富で、何とかして、西洋のクラシツクの著名なものは生きて居るうちに一通り読んで置きたいといふ希望を抱いたものである。さうして、病気がなほつたならば、一層よくその希望に副ふことが出来るであらうと考へて居た。
ところが、健康を恢復した近頃は、却つて読書する暇が非常に減少してしまつた。読書力がにぶつた訳ではなく、書きたい希望のために、読書の時間が少なくなつたのである。書くためには読まねばならぬけれど、それが読めなくなつたのであるから、私は今たしかに「書魔」に魅入られて居るのかも知れない。だから私は変な気持がするのである。
もう、かうした変な生活は、何とかして改めなければならない。といふ考が、殆んど毎日と、いふくらゐ頭の中を往来する。にも拘はらず、今の生活からどうにも足を抜くことが出来ないのは、俗な言葉でいふならば、まことに因果な破目になつたと謂はねばならない。いづれにしても、昨今の私は変である。
去年あたりまでは、依頼された原稿は、殆んど断ることなしに書くことが出来たけれども、昨今は半分は断つて居る。若し、みんな書いた日には、毎日少くとも一篇は書かねばならぬからである。雑文ならば兎に角、その中には、小説が半分を占めて居るのであるから、迚も手におへないのである。又実際、たとひくだらない小説だといつても、構想には相当の時日を要するのであるから、どんな器用な人でも、そんなに早く書けるものではない。
小説の構想をしながら、色々の空想の中につかつて居るといふことは、たしかに愉快であるけれども、いざ、それを原稿紙に書きあらはす段になると、可なりに苦痛なものである。尤も書き上げたときの気持が、何ともいへぬうれしいものであるから、それに曳かれて書くものゝ、時々は小説書きが厭になることがある。
五十や六十小説を書いたぐらゐで厭になるなどといつては全く相済まぬ気もする。先日も「明治小説戯曲大観」を見ると、江見水蔭氏は明治時代だけに六百篇余の小説を書いて居られる。かういふ人には、その量だけでも敬意を表する必要があると思ひ、私も大に刺戟されたのであるけれども、やつぱり、どうもそんなに沢山は書けさうにない。去年の春、始めて探偵小説に筆を染めたときは、死ぬまでに少くとも一千篇ぐらゐ書いて見よう、さうしたら、多少技倆が上達するかも知れぬと妻などに語つたことだが、百篇書かぬうちに、厭気がさすやうでは、甚だもつてけしからぬ。
先日本山荻舟氏と逢つたとき、氏の話に、書いたものはその人が死んだ後まで残るといふけれど、自分の初期に書いたものは何処を捜しても手に入らぬ、やつぱりその人の方がその書いたものよりも後まで残るものだといふのであつた。まつたくさうである。して見れば、せめて一生涯に千篇ぐらゐ書かねば、死んだ後まで残らぬかもしれない。で大に自らを鞭つて盛んに書きなぐらうかとも思ふのであるが、よく考へて見ると、書いたものが死んだ後に残つたとて一たい何の為になるのか。なまじ名前などを残すがために、後の史家などに迷惑をかけることにもなる。
何だか妙な議論になつてしまつた。いや、たしかに近ごろ私は変である。
底本:『中央文学』 昭和2年1月5日発行
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1927(昭和2)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2024年10月8日 最終更新:2024年10月8日)