「大抵の殺人事件は情況証拠によつて裁判されるものですよ。何となれば、他人を連れて来て、目撃させながら殺人を行ふ者は滅多にありませんから。」
これは英国のパーシー夫人事件に於て、被告パーシー夫人に死刑の宣告を与へた判事デンナムが、被告の弁護人から、純然たる情況証拠のみで判断するのは頗る危険ではありませんかと突きこまれた時、傲然として答へた有名な言葉である。
今から四十年近くも前の話ではあるが、直接証拠の非常に重んぜられる現今でも、厳密にいへば、多くの殺人事件は、犯人の自白しない限り、やはり情況証拠によつて判断されるのであつて、人間が裁判する以上、永久にやむを得ないことであるかも知れない。
英京ロンドンに留学中、私はレジエント公園から程遠からぬハミルトン・テレースと称する閑静なところに半年ほど下宿して居たことがある。このハミルトン・テレースこそは、前記パーシー夫人事件と頗る関係が深く、即ちパーシー夫人が、自分の殺した死体を運んだ乳母車を捨てたところであつて、私はよく、散歩の時などに、「この辺に捨てゝあつたのかな。」などゝ考へて立ちどまつたものである。
本誌十月号に、何か犯罪事件について書かぬかといはれたとき、私は是非このパーシー事件を紹介して見ようと思つたのである。といふのは、この事件は一八九〇年十月即ち私の生年月に起つたものであつて、かさねゞゝゝ(※1)私には因縁があり、而も一八九〇年は寅年であるが、その寅年の十月に起つたことを同じく寅年の十月号に発表するのも何かの因縁であるかも知れぬと思つたからである。
かやうな因縁よばはりは兎に角として、この事件は嫉妬を動機とする殺人の最も著しい例であつてその殺人の前後の事情が女性犯罪の特徴をよく示して居るから、犯罪学上にも頗る興味が多いのである。
英国の女は、今でもさうであるが、正式に結婚したことがなくても、よく、「ミセス何々」といふ名前を用ひて居る。而も本名にミセスをつけるのではなく、自分の知人とか親戚の名を借りて、「何々夫人」といつて居るのである。どういふ訳でさういふことをするのか、彼地に滞在中も、別に深いせんさく(※2)をして見なかつたからわからないが、このパーシー夫人もその例で、本名はメリー・エリーナー・ホイーラーと呼び、当時二十四歳であつたのである。
一八九〇年十月二十四日(金曜日)の午後七時頃、一人の青年がハムステツドのクロツスフイールド駅をとほりかゝると、一人の女が地上に横はつて居た。青年は多分、その女が酔ひつぶれて寝てゐるのだらうと思ひ、そのまま行き過ぎたが、五六歩進んだとき、若しや急病にでも罹つたのではないかと考へ、再び戻つて、闇の中を身をかがめてよく見ると女の頭は毛織の衣服につゝまれて居たが、明かに死んで居たので、びつくりしてたゞちに附近の警察に訴へ出ると、とりあへず一人の警官がその場に駆けつけたが、他殺死体とわかつたので呼子笛をならして附近に居る警官に応援を求めた。程なく医師がかけつけて検べて見ると、女の頭は胴から断たれて僅かに背部の皮膚でつながつて居るばかりであつた。相当な服装をして居たけれども、それが何人であるかはわからなかつた。
探偵たちは直ちに活動を始めた。頸が殆んど胴から断ち切られて居るにも拘はらず、地上には少しの血しかこぼれて居なかつたので、死体は他の場所から其処へ運ばれたことがわかつたけれども、何処で殺されたかは推定することが出来なかつた。すると、その同じ晩、ハミルトン・テレース(即ち、私の下宿して居た街)に一台の乳母車が発見され、その中には、べつとりと血がついて居たので多分、それは、その死体を運んだものであらうと推定され、犯人は、途中で死体を捨てゝから更にその乳母車を遠くに運び、そのまゝ置き捨てにしたものであらうと推定されたのである。
翌日の新聞には、殺された女の服装が委しく記載され、黒いジヤケツトに黒の帽子と着物、下着にはP・Hなる頭文字がついて居ることなどが書かれてあつた。兎角新聞記事は宛にならぬものだといはれて居るが、身許不明の死体をアイデンチフアイするには屡ば役に立つものであつて、この場合にも、この新聞記事を見た被害者の家族によつて、直ちにそれが、プリンス・オヴ・ウエールス路に住むフランク・ホツグなる人の細君フエーブ・ホツグであるとわかつたのである。
フエーブは昨日の午後三時頃、二つになる女の児を乳母車にのせて出かけたまゝ、夜になつても帰らなかつた。彼女の良人フランクは、多分彼女が病父の見舞に行つたのであらうと思つて、翌朝早々たづねて行くと、昨日は来なかつたとの事に、びつくりして家に帰ると、妹のクララが彼に新聞記事を見せて、どうもこれは義姉(ねえ)さんらしいではありませんかといふと、彼は暫らく考へて居たが、やがて妹に向つて、
「パーシー夫人のところへ行つてたづねて来てくれ。」と言つた。
このパーシー夫人といふのはフランクの情婦であつた。彼とパーシー夫人とは、彼が数年前フエーブと結婚する以前から関係があつて、結婚後も依然としてその関係が続けられて居たのである。フエーブは其時三十を過ぎて居たが、長い顔をした美人であつた。パーシー夫人は、顔はフエーブよりも幾分か劣つて居たけれど、年が若くて体格がよかつた。之に反してフエーブは身体が弱く時々病気をし、その年の二月にも、フエーブは流産をして長い間床について居たが、その時パーシー夫人は介抱に来て、自分の金をつかつてまで色々なものを買つて病人に与へ、親切を尽してやつた。だからこの三角関係はいはゞ平和のうちに続けられて居たのである。
パーシー夫人はプライオリー街の二番地の一階に住んで居たが、問題の金曜日の夜、フランクは夫人をだ(※3)づねたところ、留守であつたので、「十時二十分まで待つたけれど、もう帰る。」といふ文句を書き残して帰つて来た。いつも彼は、裏口から彼女の寝室へはひることになつて居て、若し寝室に灯がついて居なければ、帰りが遅くなるといふ合図になつて居たので、彼は別に気にもとめずに帰つたのである。ところが、翌朝になつて、フエーブが帰らず、而もどうやら誰かに殺されたらしいことを知るなり、彼はゆうべパーシー夫人の留守であつたことを思ひ合はせて、妹にむかつて、パーシー夫人のところへ行つてくれと頼んだのである。
妹のクララは、兄が自分でたづねて来ればよいのと思つたけれど、パーシー夫人とは仲がよかつたので、何気なく出かけて行つた。先方へ着くなり、「昨日義姉さんがたづねたでせう。と」(※4)きくと、夫人は一度は「いゝえ」と言つたが、更に念を押すと、「実はねえ、言ふまいと思つたけれど、フエーブさんは五時頃に来て、一寸子供の世話をしてくれといつたのよ。私がいやだといふと、それではお金を少し取り替へてほしいといつたが、一シルリングあまりしかなかつたから、それでもよければといつたのよ。誰にも言つてくれるなといつたから、かくして居たの。」と答へたのである。
クララは、義姉が決して他人から金を借りるやうな女ではないと知つて居たので、この言葉をきいて変に思つたが、すぐ様話をかへて、「新聞で見ると、どうやら義姉さんは殺されたらしいから、これから二人で、死体仮置場へ行つて来ませう。」と誘つた。夫人は非常に当惑するかと思ひの外、平気で一しよに警察へ行き、それから一人の警官に案内されて死体仮置場にはひつた。
問題の死体の顔は血に染まつて、さつぱりわからなかつたが、着物はフエーブのものに違ひなかつたので、クララが一目見て、「義姉さんだ」といふと、パーシー夫人は可なりに狼狽して、「違ふ、違ふ、さあ行きませう。」とクララの手をぐいゞゝ(※5)引張つた。然しクララはなほも死体へ近づいて衣服をよくあらためた。そのうちに医師が来て、顔の血を洗ひ落すと、間違ひもなくそれがフエーブなので、クララがそのことを警官に語ると、夫人はクララを引張つて、出ようゝゝゝ(※6)とあせつた。この姿を見た警官は夫人の挙動を怪しんで、二人を車にのせて警察署へ連れて行き、其処にあつた例の乳母車を見せると、クララは直ちにそれを義姉のものと認めた。
丁度その時警察にはフエーブの良人フランクも来て居た。警官はこの三人が死者に深い関係のあることを知るなり、フランクの身体検査を行ふと、パーシー夫人の家の鍵をもつて居たので(、)(※7)二人の警官は夫人だけを連れ立つて、夫人の家を捜索することになつたのである。
警官が台所に入るなり、あまりにおそろしい光景に、暫らくはそこに呆然とたゝずんだ位であつた。四方の壁をはじめ、天井に至るまで血の飛沫に蔽はれ、火かき棒には血の他に髪の毛までがこびりついて居た。料理台の抽斗の中にあつた大包丁にも、傍にかけてあつたエプロンにも血がにじんで居た。その他カーテンにも浴槽の下の敷物にも血痕が認められ、二枚の板ガラスが割れて、やはり血がついて居た。
警官が捜索をして居る間、パーシー夫人は客間の椅子に腰かけて、はじめ口笛を吹いて居たが、程なくピアノを弾じにかゝつた。やがて警官たちが彼女のそばへ来て、どうしてあんなに血がついたのだと聞くと、
「鼠を殺したんですよ。鼠を殺したんですよ。」と答へるだけであつた。
警官はそれから同じ建物に住ふ他家の人々を訊問した。さうして前日、乳母車をもつて夫人をたづねた女のあることを知つたので、夫人をフエーブ・ホツグ及びその児殺害の容疑者として逮捕し、警察へ護送したのである。警察で身体検査の行はれた結果、彼女の衣服にも血痕が発見され、又、彼女に手袋を脱がしめると、その手に引つ掻き傷のあることがわかつた。然し、彼女は「決して殺した覚えはない。」と言ひ張つた。
翌日即ち日曜日の朝、フインチレー路の空地をとほつた一人の物売りが、女の児の死体を発見して届け出たので、警察がフランクを呼んで見せると、わが子にちがひないと言つた。医師が検査すると、別に暴力の加へられた痕はなかつたが、窒息か又は寒気のために死んだものと推定されたのである。
取調べが進むに従つてパーシー夫人に対する疑ひは益々深められて行つた。問題の日の前日即ち木曜日の朝、彼女はフエーブのところへ、「今日の午後是非嬢ちやんを連れて来て下さい。」といふ書附を送つた。然しフエーブは用事があつて行くことが出来なかつた。すると金曜日になつて夫人は更に近所の子供を頼んでフエーブのところへ手紙を持たせてやつたのである。
するとフエーブはその日の午後女の児を乳母車に乗せて彼女の家をたづねたのであるが、それから以後どんなことが起つたかは誰も知る人はない。夫人の隣りに住んで居るPといふ夫人の証言によると、金曜日の午後、パーシー夫人の家で、ガラスの割れる音と子供の泣く音が聞えたので、何事か起きたのかと耳をすますと、それつきり静まつたので、別に気にも留めなかつたといふのであつた。
その外の隣人たちも、同じ時刻にパーシー夫人の家で異様な物音のするのを聞いた。ある者は裏口へかけ出して見たが、パーシー夫人の家には、時時男がたづねて来るので、邪魔をするのもよくないと思つて、そのまゝにして置くと、夜になつて、床を洗つたり、歩きまはつたりする人々の足音がしきりに聞えたといふのであつた。
それから彼女の家から程遠からぬところに住むEといふ女は、金曜日の晩(、)(※8)彼女が乳母車に重いものを載せて押して行くところを見た。なほ又プリンス・オヴ・ウエールス路に住むGといふ女も、彼女が乳母車を押して行く姿を認めた。その他にもまだ彼女の同様な姿を見たものがあつたのである。
以上の事情からして、彼女はその日フエーブの後ろから火かき棒で頭をなぐつて気絶せしめ、後、庖丁で頸を切り、死体を乳母車に載せて途中で捨て、更に幼児を(その時果して生きて居たか死んで居たかわからぬが)別のところに捨て、なほ乳母車だけを運んで捨て、さうして家に帰つたものであらうと推定されたのである。
そこで次に起る問題は、彼女が如何なる動機で、かくの如き怖ろしい犯罪を行つたかといふことである。彼女は最後まで白状しなかつたからわからぬけれども、やはりフエーブに対する嫉妬とより他に考へ様がないのである、(※9)只、数年間も、三角関係が続けられて、而も別にフランクの心が変つたのでもなければ、又最近に彼女がフエーブをうらむべき事情もなかつたに拘はらず、全く突然、かやうな残忍な行為に出るといふことは、一寸、考へ得ざる処である。
けれども、よく考へて見れば、さういふところに、女性犯罪の特徴があるやうに思はれるのである。即ち彼女の犯罪は、一見、突発性のやうに見えるけれども、その実、よほど前からフエーブを亡きものにしようとする心はあつたのであつて、フエーブの病気の際看護したことも、実は犯罪を行ふ一過程に他ならぬといつて差支ない。かの女性毒殺者が、良人に毒を与へて置きながら、良人の苦しむのに同情して、親切に介抱するといふやうな矛盾した現象と同じものである。かういふ点から見ると、女性の犯罪はいはゞ嵐にたとふべきであつて、嵐の前に気味の悪い静けさのあると同じやうに、女性の犯罪の前にも気味の悪い沈黙と親切とが認められるのである。
さうして一たび嵐が起れば、それは徹頭徹尾破壊的である。後始末も何も考へない「やりつ放し」である。極度の残忍性が発揮され、極度の自暴自棄的態度が発揮される。街の上に死体を捨てるといふことなどは、常識で考へても行はれさうにないのであつて、少しでも犯罪の発覚を怖れるものであるならば、そんな無鉄砲なことはしない筈である。もとより、彼女といへども、色々計画をしたのにちがひない。さうして彼女としては、罪の発覚をのがれるべき最上の努力をしたのにちがひない。それにも拘はらず彼女は、甚だまづいやり方をしてしまつた。これが又女性犯罪の一つの特徴ともいふべきであつて、即ち、女性の犯罪は一見深く計画されたやうでも、その実破綻だらけなのである。たゞこの事件に於て、多少の不審を抱かしめるところは、彼女の筋力の問題である。女子は通常筋力に不足があるために、殺人の方法として毒殺を選ぶのであるが、この場合にも彼女が果して、あの怖ろしい惨劇を行ふだけの力をもつて居たかどうかといふ疑問が起る。だから、当時の人々も、金曜日の午後、パーシー夫人の家で幾人かの足音を聞いたといふ既記の隣人の証言から、共犯者があつたのではないかと想像されたが、然し、共犯者なるものは遂に発見されなかつたのである。尤も、前にも書いたごとく、彼女は体格がよく、フエーブは虚弱な身体をして居たから、彼女一人の仕事としても説明のつかぬことはないのである。
然し彼女がそれ程の怖ろしい犯罪を行ふものであるとは、フランクをはじめ、彼女を知つて居るすべての人々の意外とするところであつて(、)(※10)それ程彼女は平素温順に見えたのである。で、彼女の弁護人は此点を挙げて、頻りに弁護したけれども、彼女は遂に死刑を宣告されたのである。さうして、愈よ絞首台に上るとき、彼女は教誨師に向つて、
「宣告は正しいですが、証拠はちがつて居ます。」
といふ謎の言葉を残して死んだのである。
いづれにしてもこの事件は、恋の三角関係が極端なる悲劇的終末を来した著しい例であると同時に、女性の犯罪心理の一斑を知るに頗る適当な例である。
(※1)原文の踊り字は「ぐ」。
(※2)原文圏点。
(※3)原文ママ。
(※4)閉じ括弧位置原文ママ。
(※5)原文の踊り字は「ぐ」。
(※6)原文の踊り字は「く」。
(※7)(※8)原文句読点なし。
(※9)句読点原文ママ。
(※10)原文句読点なし。
底本:『文芸春秋』大正15年10月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2018年2月9日 最終更新:2018年2月9日)