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I君の殺人

 自分の親しく交際して居たものが人殺しをやつたといふ経験は、誰にもそんなに度々あることではなからうと思ふ。ところが私の友人I君は人殺しをやつた。それも内地でやつたのではなく、アメリカでやつたのである。
 I君は当時N医科大学の教授で、その昔「雄島濱太郎」といふ雅号で小説を書いた人であるから、読者諸君の中にも御承知のかた(※1)は少くなからうと思ふ。私は同君とは少し時代がちがふので、大正六年までは一面識もなかつたが、その年の暮にI君とI君の同窓でC大学の教授をして居るM君と私とが同時に留学を命ぜられ、而も偶然同じ汽船に乗り込んで、同じくボルチモアさして行くところだつたから、私たち三人は自然親しくなつて、むかうへ着いてからも同じ下宿に住ふことになつたのである。
 I君とM君とは精神病学の専攻、私は衛生学の専攻であつたから、学ぶ場所はちがつて居たが、約三ヶ月間といふものは、毎朝、毎晩、顔をあはせぬ日とて殆んど無かつた。I君はかねてボルチモア郊外タウソンの精神病院長B氏と文通して居たので、その病院へ通つて居たが、私がニユーヨークへ転学してから程なく、I君はその精神病院内へ寝とまりして、勉強することになつた。
 I君は日本に居る時分から、ヂツケンズが好きで、英語は極めて達者であつた。ボルチモアへ到着して間もない頃、同地の新聞にのせるのだといつて英語の詩を作つて私に見せてくれた。そして何をいふかと思ふと、下宿のおかみ(※2)にこの詩を見せるならびつくりして気絶するかもしれないよと、頗る真面目な顔をして言つた。
 その詩はたしか新聞に載らなかつたと思ふが、I君は専門の精神病学についても、同様に自信があつたと見えて、「アメリカへ学びに来たのではない教へに来たのだ」と時々私に言つた。ある日、何処であつたか忘れたが、あるアメリカ人が、「妻子を国に残して来てホームシツクにかゝりはしないか」とたづねたら、「いや、自分はホームシツクをなほすためにアメリカへ来たのだ」と答へて先方を煙にまいた。
 アメリカへ来てから半年ばかり過ぎた夏の頃、I君は私をたづねて、ニユーヨークへ遊びに来た。先日シカゴで開かれたアメリカ精神病学会総会に出席したところ、満場一致で名誉会員に推薦されたといつて、さもうれしさうに私に語つた。私は「トーキヨー」といふアメリカ人経営のレストーランへ行つて祝盃を挙げたが、ボルチモアやボストンの友達に寄せ書を書かうと相談がきまつて、私がヱハガキに筆を執りにかゝると、I君は、「アメリカ精神病学会名誉会員と食を共にして大に愉快だと書け」と頻りに言ふので、私はその通り六七枚書いた。
 十一月頃、I君から絵ハガキが届いて、「どうも同じ病院に居る医員が僕を妬んで排斥しようゝゝゝ(※3)として居るから、近いうちに、南部へ旅行するつもりだ」と書かれてあつた。あとで聞くと、アメリカに居る友人といふ友人へ同じことを書いて出したらしい。
 クリスマスが過ぎて間もないある朝、私の下宿のアメリカ人が、「ボルチモアで日本人が人殺しをしましたねえ」といつて、ニユーヨーク・タイムスを持つて来て雑報欄を見せてくれた。読んで見ると、I君が同じ精神病院のWといふ医員をピストルで殺したと書かれてあつた。私はびつくりして、早速院長のB氏に問合せると、残念ながら本当だといふ返事が来、同時にM君始めその他のボルチモア在留の日本人から通知があつた。
 私はすぐにも飛んで行かねばならぬと思ひ乍ら、どうしても気が進まぬので、やめてしまひ、翌年の三月裁判のときに、始めて証人としてタウソンの裁判所へ出席した。
 検事の陳述によると、被害者のWとI君とはいつも医局の同じ机に相向きあつて医務を執つて居たが、兇行の一両日前、市中でピストルを買つて、当日の朝院内で、Wの後から物をもいはず一発打ち放し、Wがたふれてからなほ二発打つたのださうである。Wは肺をうち貫かれて即死した。
 殺害の動機ははつきりわからなかつた。看護婦がどうとかかうとかいふ話もあつたが、要するにI君は発狂したのである。で、日本人連中は(、)(※4)I君の平素の並はづれた言行を説明して精神異常を認めて貰はうと努めたが、鑑定を命ぜられた医師たちは精神健全と診断し、結局I君は第一等殺人罪に問はれ、終身懲役に処せられたのである。
 裁判の傍聴には黒人が沢山来て居た。法廷では厳粛な気持ちが起るべきであるのに、私は何となう滑稽を感じた。「遣唐使吹き出しさうな勅を受け」といふ川柳があるが、実をいふと、私も書記が誓詞を読む間、右手を挙げながら、吹き出しさうになつた。
 検事は日本とちがつて、弁護士同様、裁判官を見上げる位置に居るのだが、この時の検事は、毒々しい言葉づかひをするでつぷり太つた男で、論告中も、かみ煙草をしきりにもがつかせて、時々茶色の唾をピツピツと痰壺へ吐いた。その態度が如何にもキザだつたから、何かグツと言ひこめてやる方法はないかと思つても、何分英語では埒が明かなかつた。ところがたうとう彼を憤慨させ苦笑させることが起つたのである。
 M君は英語があまり達者でなかつたので日本人で彼地の大学に居るK君が通訳することになつた。検事が質問するとK君はその意味をM君につたへ、M君はK君に説明し、K君が英語で答へるといふ手順であつた。何でも検事がI君の素行についてたづねて居たときである。ある質問に対して、「イエス」か「ノー」かどちらかを言へばよいのをM君はその質問を翻訳してもらふと、約三分間ばか(※5)ばかりくどくどとK君に説明した。で、結局それは検事の質問を肯定することになるので、K君は、
  Yes, Sir !
と答へた。
 さあ、検事が承知しない。いかに日本語でも「イエス・サー」といふ言葉が三分もかかる筈はなからう、何故通訳は今証人の言つた言葉をその儘翻訳して伝へないかと彼はきめつけた。するとK君は一層声を張り上げて、
  Yes, Sir !
と叫んだ。
「日本語は汝の干渉すべきところにあらず」といふ意味にでも取つたのであらう。彼はそのまゝ苦笑して、茶色の唾をピツと吐いた。
 私は裁判のすまぬうちに、用事が出来てニユーヨークに帰つたが、二日過ぎにM君から
 MURDER FIRST DEGREE LIFE IMPRISONMENT
といふ電報が来た。ニユーヨークならばI君は電気椅子にかゝらねばならぬかと思つて(、)(※6)私はぞつとした。それと同時にいかにアメリカでもかういふ文句の電報はめつたに取扱ふまいと思つて、苦笑せざるを得なかつた。(完)

(※1)(※2)原文圏点。
(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)原文句読点なし。
(※5)原文ママ。
(※6)原文句読点なし。

底本:『文芸春秋』大正14年6月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1925(大正14)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(リニューアル公開:2017年10月6日 最終更新:2017年10月6日)