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白い蘭

(独)パウル・ロオゼンハイン作 鳥井零水訳

 ベルリン発ハムブルグ行列車は、今しも北ドイツの低地を驀地(まつしぐら)に走つた。彼処此処(あちこち)に散在する森の緑は、漸次その色を増し、国境の砂地はいつしかメクレ・ブルと地方の豊穣な土地に移つて、鬱蒼たる山毛欅(ぶな)や樫の大森(たいしん)が、列をなして目の前を走り過ぎた。
 それは丁度正午頃であつた。多くの乗客がどやゝゝ(※1)と食堂車へ押しかけて来たので、総ての食卓は見る間に塞がつて、小さい盆を携へたボーイは忙がしさうにスープの皿を並べ、やがて食器の音と共に旅客の歓談が始まつた。
 ボーイがスープの皿を集めて第二のコースに入つた頃には、たゞ一二の客が窓を通して、花盛りの野の面(も)に眼を注ぐだけであつた。
 大きなうねりを画(えが)いて横(よこた)はつて居た国道は今や、ずつと、鉄道と並行して走り、真昼の太陽に照されてキラゝゝ(※2)輝いた。
 食事は今や酣(たけなは)となつた。酒盃は各自の健康を祝して盛んに傾けられ、中には酔眼朦朧として、媚びるやうな視線を、婦人に送るものさへあつた。
 突然、列車の何処かから銃声が二回聞へて来た。と思ふと次の瞬間、恐ろしい振動が伝はり、食器は音を立てゝ床の上で割れ、窓止めが外れて窓が落ちた。車輪は不規則に回転して、列車は恰も千鳥足で歩くやうな工合に前進した。
 男女の乗客は一斉に立ち上つた。その顔は何(いづ)れも蒼ざめ、その全身は顫へて居た。あまり高くない叫び声が口々から発せられたが、轟々たる車輪の音に遮られてしまつた。やがて、三四回強い振動が起つて、列車は遂に静止した。
 方々の扉(と)や窓があいた。車掌が走つて来た。
『どうしたんだ?』と人々は口々に車掌に訊ねた。
『存じません。』と車掌は肩を聳かして言つた。『誰かが警報機を引いたんです。』
 人々は流れをなして、踏台から地面(ぢべた)に降りた。二三の人は線路の土手に敷かれてあつた石炭殻の上を走つて、車輪を検査して居た機関士の方に近づいた。
 丁度そのとき国道の上に一台の自動車が立ち停り、その運転手は何事が起つたのかと、好奇の眼を見はつて居た。
 突然、二三の人々は前方を指(ゆびさ)し乍ら言つた。『あれだ! あれだ!』
 見ると、一等車の窓から一人の男がヒラリ飛び出し、踏板を経て地面(ぢべた)に下り、線路の土手を横ぎつて狂気の如く駆けた。彼は喘ぎ乍ら自動車の方に手を伸して二三度打振り、一とびに矢来を越え、自動車めがけて駆け寄つたので、自動車の運転手は驚いて男の様子を見守つた。男は何か言ひたさうであつたが、息切れがしたと見えて、頭を掉(ふ)り乍ら、暫く両手を胸に当てた。
 列車の車掌は忽ちその男の傍に駆け寄り、なほ二三の従業員も従(つ)いて行つた。そして胸に手を当てた儘無言で居た男を取り囲んだ。
『警報機を引いたのは、あなたですか?』と機関士が訊ねた。
 男は点頭(うなづ)いた。
『ピストルを二発撃つたのもあなたですネ?』
『えゝ』と苦しさうに男は答へた。
『どういふ理由で?』
 男は徐々(おもむろ)に振り向いた。そのとき疲れた頬の上にかすかに赤みが浮んだ。彼は自動車の中に黙つて腰掛けて居た紳士をチラと見て苦笑しつゝ言つた。
『誰も殺しはしないから決して御心配なく。』
『だつて二発も撃つたのではありませんか?』
『たゞ空中に向つて発射しただけです。』
 人々は、顔を見あつて頭を掉(ふ)つた。
『何の目的で発射されたのですか?』と機関士が訊ねた。
 男は再び苦笑し乍ら、いよゝゝ(※3)声を顫はせて言つた。『実はこの自動車に居らるゝ方に報せて、停まつて貰はうと思つたのです。』
『では何故(なにゆえ)警報機を引かれたですか?』
『どうしてもこの方に逢はねばならぬので、汽車を停めたかつたのです。』
 機関士はむつとして眼を剥いた。『そりや大変なことだ。』と叱るやうに言つてから、自動車の主に向つて訊ねた。
『あなたはこの方を御承知ですか?』
 自動車の紳士は、この不可思議な旅客の様子をさぐるやうな眼付でぢつと眺めてから、徐ろに口を開いて、一語々々考へるやうに答へた。
『いや、存じません。けれど、それは不思議なことではありません。』
『と仰しやると?』と機関士は驚いて訊ねた。
『僕が知らなくつても、僕を知つてる人は沢山ありますから。』
 相手の驚いた顔を流し目に見て紳士は言葉を続けた。
『僕の名はジヨー・ゼンキンスです。』
 機関士は一歩後退りして、人々を代るゞゝ(※4)眺めた。
『ジヨー・ゼンキンスさんですか?』と彼は鸚鵡返しに言つた。『成程お名前は私も存じて居ます。』
 かういつて彼は例の男に向ひ、多少顔色を和げながら言葉を続けた。『どうやら事情がわかつたやうな気がします。で、あなたはジヨー・ゼンキンスさんに、至急御話しになりたいことがあるのですネ?』
 男は点頭(うなづ)いた。
『然し、たとひさうとしても…………』
 言葉の終らぬうちに、相手は言つた。『いやわかつて居ます。罰金は必ず払ひます。これが僕の名刺です。』
 機関士は少しく笑つた。『つまらぬ散財をしなすつたですネ?』
『いや、どうしてもかうしなければならなかつたのです。この汽車に乗つたのは、ゼンキンスさんがハムブルグにおいでになると思つたからです。ところが最前、自動車でベルリンの方に駆けて居られるところを見たものですから、とりあへずああいふ手段をとつたのです。』
『それぢや、いづれ役所から呼出しがありませう。』かう言つて機関士は振向いた。『さあ、諸君早速出かけよう。』人々は列をなして線路の土手の石炭殻を踏み乍ら、列車へ急いだ。数秒の後、汽車は再び徐ろに動き始めた。
 探偵ゼンキンスは黙つて、汽車を見送つた。汽車が段々小さくなつて、遂に彼方の森蔭に姿をかくすなり、相手の紳士の方に振向いた。紳士は帽子を脱ぎ、手巾(ハンカチーフ)を取り出してしきりに顔を拭つて居た。
『気を附けつ!』と探偵は軽く笑ひ乍ら言つた。『といひたいですナ。あなたが僕に逢ふために、如何なる費用をも惜まれないことゝ、そして……』かういつて彼が再び振向くと、彼方の森の上に、走り行く汽車の煙が見られた。『高い罰金を払ひ乍ら、列車の窓から飛び降りて、駆けつけて来られた所を見ると、尋常一様な用事ではないやうですナ?』
 男は苛々しながら手巾(ハンカチーフ)をポケツトに突き込み、帽子を被つて、深く呼吸(いき)した。
『どうもゼンキンスさん』と彼は、アメリカ人の顔を怖々(おづおづ)見乍ら言つた。『いくらあなたでもこの事件だけは……』
『いやいやそれは後の話です。』と探偵は遮つた。『事件はたゞあなたが経験なすつたゞけで、僕ぢやありません。』かういつて彼は自動車に眼をやつた。『あなたはハムブルグへ御行きになるのでせう?』
『いや、たゞあなたに御目にかゝりたいためにハムブルグさして出かけたのです。あなたがあの地で某銀行の事件を解決されたことを新聞で読み、まだアトランチツク・ホテルに御滞在中だと思ひました。』
『今朝まで』と探偵は笑つた。『仰せの通り、アトランチツク・ホテルに居ましたが、急に用が出来て、ベルリンへ戻らねばならぬことになつたのです。』
 相手は点頭(うなづ)いた。
『それでハムブルグに他の用はないですネ?』
『ありません。』
『御住居(すまひ)はどちらです』
『ベルリンです。』
『それでは僕の自動車で御伴しませうか?』
 相手は深く呼吸した。『それならば大へん結構です。』
『道々御話しを伺ひませう。さあ御上りなさい。オイ、ヂム! 出かけるよ。』
 運転手が命ぜられた儘にブレーキを外すと、車は振動して、東北へ向け走り出した。
 探偵は半ば眼を閉ぢて、無限に続く白い国道をボンヤリ見つめた。そして時折、傍に腰掛けて居る客に眼をやると、客は両手に顔を支へながら、ぢつと自動車の床をながめて居た。
 ある曲り角へ来て、自動車が急に強く振動したので、客は夢から覚めたやうに顔を上げ、探偵の方を向いて、突然曇つた声で語り始めた。
『昨晩(ゆうべ)家内が姿をかくしたのです。』
 探偵は顔をピリヽともさせなかつた。
『災難にでもあはれたのですか?』と彼は訊ね返した。
『いゝえ家出したのです。』
『その証拠がありますか?』
『あります。』
『では、何か容易ならぬ理由があつて逃げ出されたのですネ。』
 客は深く呼吸した。
『いえ、この家出の裏面には、解釈の出来ぬ事情が潜んで居るらしいです。一口に言へば多分ある犯罪に関係…………』
『どうしてわかりましたか?』
『家出する前に起つた事情から判断したのです。』
 探偵がこの時、自分の傍に坐つて居る男をチラと見ると、その手も腕も、加之(しかも)全身も少なからず顫へて居たので、しつかりとその肩に手を置いて言つた。
『よく心を落つけて、その家出前の事情といふのを逐一御話し下さい。一たいどんなことがありましたか?』
 男は少しく腰を上げて、カラを直した。彼の顔には漸次沈着(おちつき)の色が現はれた。
『それでは、抑もの始めから御話し致しませう。僕はエレメンス・ダールベルグと申しましてダールベルグ機械販売商会の持主です。三年前結婚しまして、幸福な生活を送りました。家内はヘレーネと申しまして、僕の口から言ふのも可笑しいですが、顔も美(うる)はしく心もしつかりした女で、僕は心から愛して居ります。』
『奥さんの方では?』
『やはり同じやうに僕を愛してくれて居ると思ひます。ことに子が出来ましてからは二人は一層以前よりも親密になりました。』
『お子さんを連れて行かれましたか?』
『いゝえ、それが最も不思議な点です。あれ位子煩悩な女が、子を残して行つたことは実に不可解です。』
『それからどうしました?』
『誰でもヘレーネを一目見たらば屹度心を動かされる位ですが、然し彼女には威厳が具はつて居るので、容易に近寄ることは出来ません。彼女の朋友は何れもしつかりした婦人ばかりで、ヘレーネは男子よりも婦人に、より多く尊敬されて居る位ですから、僕は一度も嫉妬を感じたことはありません。ところが凡そ二週間ばかり前のある朝、家内のところへ紅い薔薇の花束が届いたのです。』
『誰が送つたのですか?』
『家内の小間使ひが持つて来まして、花売りの子供が、誰からとは言はずに置いて行つたと申しました。』
『あなたは意外に思はれたでせう?』
『いゝえ、さうでもありませんでした。美しい婦人に贈り物をするのは何も不思議なことではなく、前にも申しました理由で少しも嫉妬を感じなかつたのです。』
『すると無名の贈り主から来た訳ですネ?』
『さうです。』
『それからどうしました?』
『その次の朝も丁度同じ時間、さうです。九時頃にまた紅い薔薇の花を贈つて来ました。』
『ほう!』
『すると三日目にも、また四日目にも、同じ時間に紅い薔薇の花束が来ました。』
『中々熱心ですネ。それでもあなたは何とも思ひませんでしたか?』
『さうです。たゞ笑つて居ました。家内もその贈り物に対して極めて平気でありました。』
『あなたは贈り主を検べて見ようとはしなかつたですか?』
『一時さうしても見ようかと思つたことがありましたが、家内の如何にも無邪気な顔を見ては、そんな卑しいことはすまいと思ひなほしたのです。』
『それからどうなりました?』
『更にその次の日も紅い薔薇の花束が贈られ、毎日々々同じことが繰返されました。遂には僕も妙な気持になりました。といつて決して家内を疑つた訳ではありません。寧ろ家内が気の毒になつて来たので、ある朝、子供の来るのを待つて居て、贈り主が誰だかを訊ねました。すると子供は、私も知らない。いつも男の人が街へ出て来て、一マルクづつくれるのだと申しました。』
『その翌日もやはり子供が来ましたか?』
『いゝえ、たゞベルを鳴らしたゞけです。小間使が扉(と)をあけると、花束が閾の上に置いてありました。』
『やはり紅い薔薇でしたか?』
『さうです。そこで僕は何だか妙な気持になつたのです。家内の美を慕つて、こんなに毎日花を贈るなどとは、余程変つた男、いや、随分馬鹿な男だと考へたのです。少くとも昨日まではさう考へて居たのです。ところが、昨日の朝、食後家内と珈琲を飲んで居ますと、小間使が笑ひ乍ら入つて来て、「奥さん、今日は変つて居ます、紅いのでなく白い花が来ました。」といつて、食卓の上に白い蘭の花を置きました。
「閾のそばにあつたのかい?」と僕がきゝますと、
「いえ、子供がぢかに渡してくれました」と小間使は答へました。
「何だつて? やはり……」といひかけましたが、ふと家内を見ますと、死人のやうに蒼ざめて、大きく開いた眼で、一生懸命に白い蘭を見つめて居ました。
「どうしたんだ。」と僕は心配して訊ねながら、家内の手を握りました。するとその手は氷のやうに冷えて、指がぶるゝゝ(※5)顫へて居ました。「ヘレーネ! お前病気ぢやないか」といつて彼女を見ますと、彼女は僕の視線を避けるやうにしました。「たしかに病気だ。すぐ床に入るがよい。ケルネル博士に電話をかけよう。」
 彼女は物うげに点頭(うなづ)き、顫へる声で申しました。「電話はかけなくていゝわ。自身で行つて来ますから。朝の空気を吸へば少しは気分がよくなるかもしれません。」
「お前のいゝやうにするがよい」と少しく不満足ながら僕は言ひました。「それではソフイーと一しよに行きなさい。」
「いえ、いえ。」と少しく力を籠めて言ひましたので、僕は可笑しくなりました。「私一人で行きますわ。」
 その時、時計を見ますと、丁度九時半で、いつも事務所へ出かける時間でした。事務所は毎日沢山の手紙が来ますので、それを整理するため、どうしてもその時間迄に出かけなければなりません。
「僕はこれから出かけねばならぬから、診察が済んだらすぐ電話で模様を知らせてくれ」と申しました。
 ヘレーネは点頭(うなづ)きました。「決して心配しないで頂戴」といつて立ち上りました。頬は蒼ざめて落ちくぼみ、よろゝゝ(※6)として歩いて行く姿は、憐れに思はれました。すると家内は扉(と)の傍へ行つてから急に振向いて、二三歩後戻りし、いきなり僕の頸にまき附きました。今迄彼女は決してこんな露骨な挙動(ふるまひ)をしたことがなかつたので、僕が呆気にとられて居ますと、そのうちに彼女は室(へや)を出て行つてしまひました。』
 かういつて、客は話し疲れたため、クツシヨンに身を凭せて空を仰いだ。空は名残なく晴れて、一点の雲もなかつた。
 探偵は黙つて彼を観察した。男は眼を塞いでは居たが、薄い瞼の下をあちこち動く眸の様子から、内心に少なからざる不安を持つて居ることを知つた。
『それから奥さんに逢ひませんでしたか?』と探偵は男の腕を軽く握つて小声で訊ねた。
 男ははつとして眼を開いたが、その眼は全くうるんで居た。彼は探偵の問(とひ)を了解しないらしかつた。
『それから、』と探偵はも一度訊ねた。『奥さんは姿をかくされたのですネ?』
 相手は深く呼吸して、頭を下げ、殆んど聞きとれぬ位の声で言つた。『さうです。それから帰つて来ません。』
 探偵は点頭(うなづ)いた。『すると、お二人は同時に家を出られた訳ですネ? あなたは事務所へ、奥さんは医者へ。その後、奥さんからは何の話もなかつたですか?』
 客は徐ろに顔を挙げて探偵を見つめた。
『ところが、家内から電話がかゝつて来たのです。』と彼は小声で言つた。『家を出てから一時間半位過ぎてからです。「ケルネル先生に今見て頂いたわ」と申しました。
「どうだつた?」と心配して僕はたづねました。
「やはりあなたの仰しやつた通り、少しいけないんださうです。心臓が悪いから、出来るだけ早く、海へ行くがよいと仰しやつたわ。」
「今は気分はどうだい?」と訊ねますと、
「少しはいゝですの」と答へましたが、いかにも物憂さうで、電話で話すのが苦しいらしく見えました。
「ではこれからすぐ帰らう」
「いえ、いえ」といつた彼女の声は明かに顫へて居ました。「帰らなくつてもいゝわ。少し休みたいですからこれから、すぐ床に入ります。」
 僕は受話器をかけました。机の上には、まだ読まなければならぬ手紙が山のやうに積まれ、扉(ドア)は間断なく開いて、後から後から書面が手渡され、それをまた一々整理せねばならず、自宅(うち)では家内が重病で床に就いて居る……これではとても遣切れぬと思ひました。ことに、医師は患者に直接病状を残らず告げるものではないから、どれ程重いかもしれない……それ故、何はともあれ、ケルネル博士に直接、家内の容体をきいて見ようと思ひました。
 幸(さいはひ)にも博士は在宅でした。
「家内の容体は一たいどんなですか?」と僕は訊ねました。
「何? 奥さんの容体?」と博士は驚かれた様子でした。「奥さんがどうかされたんですか?」
「先刻(さつき)あなたに診察を受けましたら心臓病といふことでしたが、どこの海水浴へやつたら宜しう御座いませうか?」
 暫らくの沈黙の後、博士から返事がありました。
「何かのお間違ひでせう。奥さんは今日も昨日も茲へは見えません。いやもう三月も御目にはかゝりません。」
 その瞬間、僕の頭はじーんとして、聾(つんぼ)になつたやうな気がしました。まるで夢の中で博士の声を聞いて居るやうでした。
「いや、どうも失礼しました」と言つて受話器をかけました。
 取りあへず支配人を呼んで、一切の事務の代理を命じました。
 こりや捨てゝは置けぬ。どうしても家内に逢つて様子を聞かねばならぬ。と思ひました。
 十分の後、自動車を呼んで、グルーネワルドの自宅(うち)へ走らせました。
「家内はどうしたい?」
 小間使は驚いて僕を見あげました。「御話がなかつたのですか?」
「病気だといふことは聞いたよ」
「いえ、いえ、」と彼女は明かに当惑して申しました。「三十分程前に…………(」)(※7)
「何?」
「旅行にお出かけになりました。」
「旅行? 家内が? 何処へ?」
「存じません。手紙を残して置くと仰しやつて、御机の抽斗に御座います」と小間使が申しました。』
『その手紙を今御持ちですか。』と探偵が口を入れた。
『これです。』
 探偵は「イソラ・ベラ」(香水の名)の薫(かをり)高い、淡青色(うすあをいろ)の紙を開いて、大急ぎで書かれたらしい次の文句を読んだ。
  どうしてもすぐ出かけなければなりません。
  両親の許へ参ります。所は御承知のシヤルビエンです。ゆつくり海気(かいき)に浴して来ます。そのうちに帰りますから、心配しないで下さい。 ヘレーネより
  なつかしきクレメンスへ。
 なほ紙の端のところに次の追伸が書かれてあつた。
  後から来ないやうにして下さい。少し静養したいから、手紙も書かないで下さい。

 探偵は手紙をダールベルグに返した。
『それであなたは、ぢつとして居られなくなつたのですネ?』
『さうです。医師の話もさること乍ら、又他に別の理由があつたのです。といふのはこの手紙の中に書いてあることですが、ヘレーネの両親が生きて居るといふ事は今迄少しも知らなかつたのです。以前に度々その話をしかけましたが、いつも家内は話をわきにそらしてしまふのでした。しまひにはヘレーネが両親に就て何か恥ぢる所でもあるのではないかと思ふやうなこともありました。恐らく、よほどの老人だから、恥かしいのだらうとも思ひました。兎に角、近頃は決して両親の話をしかけぬやうにしました。ところが、今回突然両親のあることを告げたばかりか、両親の所へ避難しようとさへして居ます。避難? 一たい誰を避けるのだらう。たゞ単なる病気の避難所であらうか。いやゝゝ(※8)決してさうではあるまい。がこの突然の旅行はどういふ意味であらうか? やはり誰かを避ける為にちがひなからう。するとその主は誰であらうか? かう考へたとき、僕は突然、あの花束を思ひ出したのです。珍らしい贈り方、毎日々々紅い花を送つて、最後に突然白い花! 而もその白い花は、家内の顔色をサツト変へたではないか。…………
 ふと、僕にある考(かんがへ)が閃きました。さうだ、この花は何かの合図だつたんだ。そして白い蘭は、何か事情が変化したことを意味するのだ。それがため家内は逃げ出したのだと考へました。…………
 僕は直ちに家内の居間に入りました。其処には衣服(きもの)や、紙片(かみきれ)や旅行用の道具が、ごちやゝゝゝ(※9)に散らかつて居りました。いつもきちんとすることの好きな女が、このやうにして行くとは、余程先を急いだに違ひないと思ひました。其のとき始めて家内の苦しみと、驚きと、顫への意味がわかりました。決して病気ではなかつたのだ。言ふに言へぬ恐ろしい心配があつたのだ。その心配は然し、僕の知らぬ心配なんだ…………』
 探偵はこの時、あたりの景色に眼を放つた。遙か後方には、天をつくばかりの、細長い高塔が、二三本見えて居た。それはナウエンの無線電信塔であつた。
『其処でどうしました?』と彼は訊ねた。
『始めは、これからすぐシヤルビエンへ行かうと思ひましたが、今出かけては、先方へ真夜中に着くから、明日まで待たねば事情をたづねることが出来ない。どうしようかと思ひましたとき、ふといゝ考(かんがへ)が浮びました。家内の実家の姓はセフェリーと申しますから、シヤルビエンの役場に電話をかけ、村長に、今でもセフェリーといふ家(うち)があるかと訊ねたのです。』
『村長の返事は?』
『セフェリーという家(うち)は五年前までシヤルビエンにあつたが、それから何処かへ引越してしまつたといふ答でした。』
 ジヨー・ゼンキンスは点頭(うなづ)いた。『するとやはり奥さんの御話はうそでしたネ。かうと、セフェリー――セフェリー』と彼は繰返して言つた。『それで、あなたはセフェリーを捜しましたか?』
『人名簿にはセフェリーという名がありませんでした。』
『人名簿は駄目です。兎に角それでは、セフェリー家をすぐ捜さなくてはなりませんが、今迄の御話から察すると、恐らく捜しても無駄でせう。それであなたは、その場からすぐ僕に相談しようと思つて出かけられたのですネ?』
『いえさうではありません。例の花の一件を考へて見ました所、若し花が単に家内を尊敬するために贈られたものならば、家内の家出とは関係がないから、明日の朝もやはり贈つて来るに違ひない。之と反対に、もし花が何かの合図であつたならば、家内の家出と関係があるから明日は贈つて来ない訳である。それ故、花が来るか来ないかを一つ見届けようと考へたのです。』
『花は来ましたか?』と探偵が訊ねた。
『いえ、その朝始めて花は来ませんでした。そこで愈よ、花は何か特別な意義を持つて居たといふことがわかりましたから、半時間の後、ハムブルグ行列車に乗つた訳です。』
 自動車はそのときスパンダウの凸凹の街道を軋り走つた。ジヨー・ゼンキンスは深い考(かんがへ)に沈みながら、手套(てぶくろ)をかたくしめて、ボタンをパチンとはめた。そして恰かも、手套の光沢ある革に興味を感じたかのやうな様子をして、徐ろに語り始めた。
『何か奥さんに、此頃中――毎日花が贈られて来た時分に――変つた所はありませんでしたか? 何かあなたの耳や目を鋭敏にするやうなことはありませんでしたか?』
 ダールベルグは頭を手に支へ乍ら、小声で言つた。『僕もこの事件が出来てから、色々先日来のことを考へて見ましたところ、やはり心当りがないではありません。それはホンの些細な…………』
『何事も決して些細ではありません』と探偵が口を挟んだ。
『一昨日の午後のことです。午食(ひるめし)をすまして間もなく、僕は、扉(と)を叩かないで家内の居間に入つて行きました。その時家内は電話をかけて居ましたが、家内が「リストリ」といつた言葉が耳に入りました。家内は僕の姿を見て、少なからず驚いた様子で、直様(すぐさま)受話器をかけてしまひました。「お話なさいよ」と僕が笑ひ乍ら言ひますと、家内も笑ひ乍ら頭を掉(ふ)つて「もうすんだのよ」と申しました。そのときは別に何とも思ひませず、また、この事件に関係があるやうにも思はれませぬが、昨夜(ゆうべ)ふと、電話のことを思ひ出して考へて見ました所、「リストリ」といふ人は僕も知らぬし、家内とても知らぬ筈だと思つて人名簿を繰つて見ましたところ、随分長くかゝつた末、ベルリンの北区の、殆んど町はづれといつてよい所に、「リストリ」といふカフエーがあるのを見つけました。然しそのカフエーは僕も知りませんし、家内も勿論(むろん)(※10)知らない筈です。』
『リストリですつて?』
『リストリです。』
『その外に同じ名はありませんでしたか?』
『人名簿にも電話帳にもありませんでした。』
『奥さんはリストリといふ名を聞いて驚いて居られた様子はなかつたですか?』
『そんな風にも見えました(※11)
『そのカフエーは北区にあると仰しやいましたネ?』
『さうです。ブルノ街にあります。』
『その外に何か心当りのことはありませんでしたか?』
 ダールベルグは暫らく考へてから頭を掉(ふ)つて言つた。『何もありません。』
『それでは、このたつた一つの手がかりから仕事を始めるより外致し方がありま(※12)。』
 遠方で一疋の犬が吠えた。と、第二の犬が之に応じて吠え、更に第三の犬が頻りに吠え出した。自動車が曲り角を軋ると彼方に広くユングフエルンの牧場が、夕陽に輝いて鋼(あかがね)色を呈して居た。蒼然たる暮色は、漸次彼方から迫つて来て、電柱の列は恰も長い塀を築いたかのやうに見えた。そして遙か後方には、薄闇(うすぐら)い空を脅かすやうに、ベルリンの家並が聳えて見えた。

     ×     ×     ×     ×     ×

 小さいカフエー・リストリは賎民達の集合地点であつた。彼処に退職官吏が晩酌の一盃に陶然として居るかと思ふと、此処には移住民の一家族が一杯宛(づつ)の珈琲を控へて、携へて来たサンドウイツチを貪り食べて居た、又彼処此処に、一団の労働者達が或は骨牌(カルタ)に、或は骰子(さい)に終日の労苦を慰めて居た。
『思つたよりひどい所ですネ。』とゼンキンスが笑ひ乍ら言ふと、ダールベルグも点頭(うなづ)いて言つた。『まるで盗賊の巣窟へでも入つたやうです。』
 二人は先刻(さき)から、カフエーの内部を一目で見ることの出来る小さい円卓子(まるテーブル)に対座した。ダールベル(※13)は、今一度ずつと眺め廻してから、欠伸を噛み殺して言つた。
『此処へ来たことはあまりに上出来でもありませんでしたネ。』
 探偵は手で遮つて言つた。『一日で解決を望むのは無理ですよ。』
 やがて二人は勘定して立ち上つた。
 ダールベルグは、暖炉の傍の外套室に外套を取りに行き、後、二人は上機嫌を装つて、徐(ゆる)やかにカフエーを出た。
『何事も辛抱が肝要です。』と、ブルノー街を歩き乍らジヨー・ゼンキンスは相手を慰めるやうに言つた。『解決は決して天から降つては来ませんから。然し、たつた一度、リオ・デ・ジヤネイロのデユヂヤルダン事件には……』
『しまつた。』とダールベルグが突然叫んだ。『僕は外套を取り違へて来ました。』かういつて彼は腹立たしさうに外套を裏返へして、脂で光つて居る裏地を示した。『外側は一寸似て居ますがこれは僕のではありません。失礼ですが、一寸御待ち下さい。すぐ帰つて来ますから』かう言つて彼はカフエーの方へ走つて行つた。
 二三分の後彼は引返して来たが、頭を掉(ふ)つて居たので、ゼンキンスは『駄目だつたナ。』と思つた。
『僕の外套はありませんでした』と、ダールベルグは、困惑の表情をして言つた。
『誰が取替へて行つた(※14)わかりませんか?』
『毎日来る老人ださうです。ボーイは、老人が明日にでも来次第、話しておくと申しました。』
『名はわかつて居ませんか?』
『名も住所も知らぬと申しました。』
『多分外套のポケツトに何か入つて居て、それが手がかりになるかもしれぬから、見ようぢやありませんか?(』)(※15)
 ダールベルグは外側のポケツトに手を入れて言つた。『茲に古い手套(てぶくろ)が一対あります。』
『手套(てぶくろ)ぢや駄目です。』とゼンキンスは笑つた。『上のポケツトを検べて御覧なさい。』
 ダールベ(※16)グは其処から、皺くちやになつた、汚ない小紙幣を取り出した。
『こゝが膨らんでるぢやありませんか?』と探偵が指(ゆびさ)した。
 ダールベルグは内側のポケツトに手を入れて、新聞紙を引き出した。その新聞紙の中には四角なものが包まれてあるらしかつた。やつとかゝつてダールベルグが包を解くと、中からキヤビネ形の写真が一枚現はれた。彼はそこから、薄紙(はくし)の袋を取り去つて、その写真に眼を注いだ…………
 次の瞬間彼はよろゝゝ(※17)とよろけ乍ら、力なく腕を垂れたので、写真は地面(ぢべた)にパタリ落ちた。
 ジヨー・ゼンキンスは直ちに写真を取り上げて、黙つて見つめた。それは若い美しい婦人の写真であつた。
『誰ですか?』と探偵は相手の顔をさぐるやうに眺めて言つた。ダールベルグは如何にも重さうに頭を上げたが、その顔は著しく蒼ざめて居た。やがて彼は顫へる小声で言つた。
『僕の家内です。』
 暫らくの間二人は黙つてその写真を見つめた。
 遂にゼンキンスは小声で言つた。『とうゝゝ(※18)、手がかりを得た訳ですネ。写真には写真師の名が刻まれてあります。明日早朝このガラテヤ写真館を訪ねませう。』
 再び探偵は写真を取り上げて長い間見つめた後言つた。『この写真はたしかに奥さんに相違ないですネ?』
 ダールベルグは街(※19)の光で今一度よく写真を眺めて、怖々(おづおづ)し乍ら言つた。『さう御訊ね下さると、正直な所、家内だと断言は出来ません。顔はそつくりで、その他の点もよく符合して居ますが、何だか家内でないやうな気もします。』
『この写真から僕の気附いた点を申しませう。』と探偵は言つた。『この写真には色々疑はしい点があるのです。例へばこの髪の結ひ方ですネ。奥さんはかういふ風な結ひ方をなすつたことがありますか?』
『ありますとも。現在その通りです。』
『然しこの服装ですが、これは決して近頃の流行(はやり)ぢやありません。』
 ダールベルグは肩を聳(そばだた)せた。『家内は随分色々の衣服(きもの)を持つて居まして、僕は一々存じません。』
『ではこの衣服(きもの)は御承知ないですネ?』
『知りません。』と彼は躊躇して答へた。
 ダールベルグはそれから、探偵の(かお)(※20)をのぞき込んで言つた。『どうしてあなたは、疑はしく思ひになるのですか。今迄一度も家内を御覧になつたこともなく、服装や髪の結ひ方も御承知ない…………』
『尤もです。』とゼンキンスは笑ひ乍ら遮つた。『何事も存じませんが、僕が疑はしく思ふのは写真の拵らへ方ですよ。僕もたしかなことはいへないが、察するところ、この写真の撮(うつ)し方は、余程以前に流行つたものです。』

     ×     ×     ×     ×     ×

 ガラテヤ写真館主は、その写真を長い間見てから言つた。
『たしかに、当館で出来たものですけれど、もう五十年も開業して居ますから、はつきりしたことは申し上げられません。』
『いつ頃出来たものかわかりませんか?』
『さうですネ、この撮(うつ)し方は一八八〇年から一八九〇年頃迄に流行つたものです。』
『するとこの写真は撮(うつ)してから何年位経つて居ますか。』
『先づ三十年ですネ――――』
 二人が街へ出てからゼンキンスが言つた。『これでこの写真の主が奥さんでないことはわかりました。然し奥さんの親戚の方、いや、奥さんの母上かもしれません。そしてこの写真を持つて居た男は、この婦人をよく知つて居るに違ひありません。だから、今一度例のカフエーへ行つて、観察しようではありませんか?』
 ボーイは二人を入口に出迎へた。
『あそこに来て居られますよ。』と彼はダールベルグに言つた。
『今日はいゝお天気ですネ。』といひ乍ら探偵が老人の傍に近寄ると、老人は驚いて頭をあげた。『外套を御返しに来ましたよ』といつて、探偵はそのとき外套を腕にかけて居たダールベルグを指(ゆびさ)した。
 老人はうれしさうな顔をした。
『それは有難う。』と、物を貰ふ小児(こども)のやうな声で答へた。『あなたのは此処にあります。』といつて老人は渡された外套を手にするなり、すぐに内側のポケツトをさぐつた。
『何もかもその儘にしてあります。』と探偵は笑つて言つた。『写真を捜すのでせう?』
 老人はうれしさうに笑つた。
『美しい若い方ですネ? 御嬢さんですか?』と探偵が訊ねた。
『なに』と老人は誇らしげな色を顔に浮べて言つた。『家内ですよ。』
『これは失礼』と探偵は笑つた。『そんな若い方が?』
『どうして』と老人も笑つた、『家内は今六十二ですよ。』
『けれどその写真は……』とゼンキンスは驚いたやうに頭を掉(ふ)つた。『その写真で見ると……』
 老人の顔は笑ひのため著しく紅みを帯んで来た。『そりや若いときの……若いときの……』
 老人の手は突然この時、さぐるやうにして食卓の縁を掴んだ。と見る間に老人の全身は非常に顫へ、次で痙攣のため、つと立ち上るなり再び椅子の上にたふれた。
 人々は駆け寄つた。ボーイは一杯の水を持つて走つて来た。
『又始まつたんですよ。』と彼は頭を掉(ふ)ゝゝ(※21)言つた。『興奮しちやいけないことはわかつてる癖に、どうも仕方のないものだ。昨日もこの通りの発作がありましたよ。』
『医者を呼んだら。』とダールベルグは気の毒さうに老人を眺めて言つた。
『医者ですつて?』とボーイは掛時計を見上げて言つた。『それには及びません。もう今におかみさんが来る頃です。おかみさんはよく介抱を心得てるんですから、医者よりもたしかです。』
 探偵とダールベルグとは顔を見合つた。
『この人の奥さんがこゝへ来るのかネ?』と探偵が訊き返した。
『そら、今来られましたよ。』
 探偵はダールベルグに目くばせして、這入つて来た女をよく観察するため、脇へ寄つた。
 老婦人は心配さうに良人(をつと)を見つめながら傍へ近寄つた。その姿はどことなう美(うるは)しく、くつきりとした丸顔をして居たが、髪は全く白くなつて、少しく前屈みた所が、老年であることを思はせた。
 人々は丁嚀に道を譲つた。老婦人は良人(をつと)の額に右手(めて)をあて、左手(ゆんで)で老人の手を握り乍ら小声で名を呼んだ。
 老人の痙攣はこのとき明かに弱くなつて居た。胸は規則正しく波をうち始め、二三分して眼を開いた。
『この婦人を御存知ですか?』とジヨー・ゼンキンスは、老夫婦をぢつと見つめて居たダールベルグに向つて訊ねた。
 ダールベルグは、つと身を正した。
『いえ、始めてです。』と小声で答へた。『けれどたしかに家内の母に相違ありません。』
 老婦人がボーイに何かを命ずると、ボーイは外へ走り出した。
 暫くの後ボーイが帰つて来て言つた。『賃貸馬車(ドロシユケ)が来ましたよ。』
 病人は徐々に意識を恢復し、細君の腕によりかゝり乍ら、苦しさうにカフエーを出た。ボーイは老人を賃貸馬車(ドロシユケ)の上に扶けのせた。
『ワリゼル街八十一番地。』と婦人は御者に告げた。そして大切に老人を支へ乍ら腰を下すと、馬車は彼方に軋り去つた。

 ワリゼル街八十一番地の家の前を、今しも二人の紳士が、あちらこちら歩いた。一人は、もどかしさうに時計を出して見て頭を掉(ふ)り、他の一人は笑つた。『ダールベルグさん、そんなに気を揉んではいけません。落つかねば事を仕損じます。もう一時間待ちませう。それからならば帰つて下さつてもよろしい。』
 照りつける真昼の日影を厭ひてか、誰一人街を通るものはなかつた。二人は黙つて、行きつ戻りつした。
『いつそ僕は……』とダールベルグが言ひかけたとき、突然探偵が彼の腕をつかんだ。そして否応なしに彼をある家の玄関に引張り込んだ。
 八十一番地の家から、ヘレーネの母親が出て来た。彼女は二人の居る方と反対の方へ歩いて行つて、薬屋へ入つた。
『行きませう。』と探偵は相手の腕をつかんで、急ぎ足で、こちらへ歩いて来る婦人に近寄つた。
『失礼ですが。』といつて二人は婦人の前に立止つて帽子を脱(と)つた。
 婦人は二人の姿を見ると、明かに驚いたらしく、心配さうな顔付をして後退りした。
『失礼ですが。』と探偵は腰を屈めて言つた。『あなたはセフェリーの奥さんではありませんか?』
 婦人は点頭(うなづ)いた。
『あなたの御嬢さんはたしか、ダールベルグといふ方のところへ御嫁(おかた)づきでせう(』)(※22)
『えゝ。』と老婦人は小声で言つた。
『これがそのダールベルグさんです。』
 セフェリー夫人は、ダールベルグを怖々(おづおづ)見たきり、黙つて居た。
 ダールベルグは夫人の腕に手を置いて、力をこめて言つた(。)(※23)
『ヘレーネは何処に居ます?』
 老婦人は一歩後退つた。その顔には半ば怖れるやうな半ば憎むやうな表情があらはれた。そして彼女は小声で言つた。
『存じませんよ。私の知る筈がありません。』
『あなたはヘレーネの母でせう?』
『娘が結婚してからは一度も逢ひません。』
『ヘレーネは家出して、あなたの所に居ると言つて来ました。』
 老婦人は肩を聳かした。『存じませんネ。来て居ませんよ。』
『小児(こども)が病気になつて、母親をしきりに慕つて居るのです。』
『御気の毒ですネ、けれど存じませんよ。』
 かういつて彼女は(※24)躾に振り向き乍ら、重さうな足どりで家の中に入つた。彼女はその儘二人に挨拶もしなかつた。
 午前三時にジヨー・ゼンキンスの所へ電話がかゝつた。それはダールベルグからであつた。
『ゼンキンスさん。』といつた声は興奮して幾分か心配な様子であつた。『今しがた妙なことがありましたよ。』
『今しがたですつて? この夜分に?』
『さうです。あなたは僕の家の様子を御存知でせう?』
『知つて居ます。』
『御承知の通り僕は書斎の隣りに寝ますが、小児(こども)の室は二階にあつて、その隣りに子守(もり)が寝ます。丁度今から三十分程前に階段に、ミシゝゝ(※25)といふ音が聞えました。
 然し、かういふ音は、夜分時折致しますから始めはあまり気にもかけませんでしたが、突然、扉(ドア)を鍵であける音がして、誰かゞ出て行つた様子ですから、僕は忽ちはね起きて窓をあけました。けれど最早人影は見えませんでした。僕は燈(あかり)をつけて、娘のローゼマリーの室(へや)へ行きました。小児(こども)の室(へや)をあけるなりプンと「イソラ・ベラ」(香水の名)の香(にほひ)がしました。
 娘は寝台(ベツド)の上に起き上つて居て、僕が入つて行くと嬉しさうな顔をしました。「どうしたの?」と心配して訊きますと、「かあちやんが来た。」と笑つて申しました。僕は近寄つて手を額に当てゝ見ましたが、額は熱くはなく、脈も普通でした。
 いつもなら僕も夢にしてしまひますが、たしかに足音がしたし、家内のつかふ香水の匂がしましたし、小児(こども)はあゝいひますし、やはり家内がやつて来たのではないかと思ふのです。』
『子守(もり)は何も知りませんか?』
『知りません。僕がその室(へや)を見たときはぐつすり寝入つて居ました。』
『若い女の子はよく寝ますから。』とゼンキンスは笑つた。
『どうしたらいゝでせうか。』
『今の所どうしようもありません。』
『若し明日の晩も来ましたらどうしませうか?』
『僕が御宅に泊めて頂きませう。時に明日の午前はずいと事務所に御いでですか?』
『一日中居ります。』
『では電話をかけますから待つて居て下さい。』
『さよなら。』――――
 次の日の午後四時頃、ダールベルグは電報を受取つた。
『ワリゼル街八十一番地へすぐ来て下さい。ゼンキンス。』
 十五分の後ダールベルグが、示された場所に来ると、探偵は家の入口に出迎へた(。)(※26)
『どうしたのですか?』とダールベルグは驚いて訊ねた。『こゝに何の用がありますか?』
『まあよくお聞きなさい。あなたの……御岳父(おしうと)のセフェリーさんが昨晩(ゆうべ)亡くなつたのです。』
『僕は岳父(しうと)を存じませんから、別に悲しく思ひません。』
『然し順序としてセフェリーさんの身の上を御話せねばなりません。さうすれば、あなたがなぜ御岳父(おしうと)さんに逢はれなかつたかゞわかります。単刀直入に言へば、御岳父(おしうと)さんは、つい先頃まで監獄に居られたのです。』
『え?』『保険金ほしさに、自宅(うち)に火をつけられたんださうです。』
『なる程それで家内が、僕にかくして居たんですネ。』
『御岳父(おしうと)さんのたゞさへ弱い身体が、監獄に行かれてから、めりゝゝ(※27)と悪くなり、おまけに最近は精神に異状を来されたさうです。そして頻りに家内に逢ひたいゝゝゝゝ(※28)と言つて、たけり狂はれるので、とうゝゝ(※29)監獄医の情(なさけ)で、先頃出獄が叶つたんださうです。けれど悲しいことに、病気を軽くすることの出来ぬ事情がありました。といふのは、老人の奥さんは、とうに死んで了(しま)はれましたから。』
『え? 死んだのですつて? けれど僕等は現に見たではありませんか?』
『まあ御聞きなさい。そこで医師は已むを得ぬから、老人の娘即ちあなたの奥さんに事情を告げることにし、老人の容体を述べて、若し、老人が自分の細君を見ることが出来ねば、恢復は絶望だと話したのです。親孝行な奥さんは自分が母上に似て居られる所から母上の身替りにならうと思ひ立たれ、髪結ひの力をかりてうまく扮装し、母上の代理をつとめられた訳なのです。幸にも老人は真実の自分の細君と思ひ、幾分か精神が落ついて来たのださうです。若しあなたの奥さんが、いつ何時老人が死ぬかもしれぬ程の容体だといふことを予め知つて居られたのならば…………』
『けれど』とダールベルグは遮つた。『あの花は何の事です? 紅い薔薇と白い蘭は一たい何の事です?』
『それはたゞ医師からの使ひだつたのです。手紙を書いたり、電話をかけるといふことは目立つから、しめし合せて、あゝした手段を取つたのです。紅い花を送る間は老人の身に危険はないといふ意味だつたのです。――多分老人には、細君が旅行して居るとでも告げてあつたのでせう。ところが白い花は「危篤、すぐ来い」といふ意味だつたのです。だから奥さんは白い蘭を見て、顔色をかへられたのです。それからあゝした色々の作り事をせられました。さあこちらへいらつしやい!』
 二人は階段を上つた。ゼンキンスは二階の小さい住居(すまひ)の扉(ドア)を静かに開いた。
 強い花の香がプンとした。と、向ふの扉(ドア)が開いた。次の瞬間ダールベルグは叫んだ。
『ヘレーネ!』 彼の前には豊かな金髪の若い婦人が喪服を着て立つて居た。
 彼女は扉(ドア)を押し開けた。見ると彼方の棺台の上に、老人は静かに(※30)(めいもく)して居た。
 ダールベルグはヘレーネの方に両手を差出した。彼女は一歩彼の方に近より、ぢつと彼の眼を眺めて、咽び泣き乍ら彼の腕に凭れかゝつた。扉(ドア)を閉ぢる音がした。ダールベルグが振向くと、ゼンキンスが室(へや)を出た所であつた。

(※1)(※2)(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)原文の踊り字は「ぐ」。
(※5)(※6)原文の踊り字は「く」。
(※7)原文閉じ括弧なし。
(※8)(※9)原文の踊り字は「く」。
(※10)(※11)(※12)(※13)(※14)原文ママ。
(※15)原文閉じ括弧なし。
(※16)原文ママ。
(※17)(※18)原文の踊り字は「く」。
(※19)(※20)原文ママ。
(※21)原文の踊り字は「く」。
(※22)原文閉じ括弧なし。
(※23)原文句読点なし。
(※24)原文ママ。
(※25)原文の踊り字は「く」。
(※26)原文句読点なし。
(※27)(※28)(※29)原文の踊り字は「く」。
(※30)原文ママ。

底本:『新青年』大正13年1月増刊号 ※一部不明瞭箇所があったため、『世界短篇小説大系14 探偵家庭小説篇』(近代社・大正15年3月28日発行)を参照して補いました。

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細:翻訳編(大正13年)」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(公開:2006年12月3日 最終更新:2006年12月3日)