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探偵小説劇 龍門党異聞 全三幕七場

小酒井不木

時===幕末
所===江戸
登場人物===
 一、講釈師南龍(四十四五歳)
 一、女房お玉(三十前後)
 一、弟子東狸(二十八九歳)
 一、家老水野兵庫(五十前後)
 一、乳母お浅(五十七八歳)
 一、娘雪枝(十七八歳)
 外に独楽を廻す男、歯を抜く香具師、蟇の油を売る男、易者、龍門党員三人、侍(大勢)(、)(※1)茶屋の女(二十一、二)(、)(※2)町人風の隠居(二人)(、)(※3)中間、供、講釈を聞く男女大勢

序幕第一場 浅草観音境内

中央上手寄りに銀杏の太い立木。下手に辻講釈の席、満開の桜の枝たれかゝる、上手に茶店、その奥座敷、正面に床台あり、その奥の方に桜の樹など。花ちらゝゝ(※4)散る。花見時の八ツ頃。
町人風の隠居甲、乙、床台に腰をかけて物語る中央に煙草盆置かれてある。
茶店の女奥で茶を仕立てゝゐる。

隠居甲、
「だいぶ花も咲き揃つたやうでございます。」
同乙、
「左様でございます、咲いたかと思ふと早やあの通り散りかゝります。まことに花時はあわたゞしいことで御座います。」
同甲、
「今年はどちらかへ花見にお出掛けになりましたか」
同乙、
「イヤもうとんと(※5)出不精になりまして、十年ばかりは一度も花見に出掛けたことがありません。」
同甲、
「私も御同様でございます、どうも花などと云ふものは、皆んなで一緒に見るものではないと思ひます。」
同乙、
「仰せの通りです。それが然し若い時はみんなと騒ぎたくなるものでございましてナ。かう歳を喰ひますと、さういふ根気がなくなるので、まアゝゝ(※6)私達は講釈でも聞いて楽しむ位のことでございます。別して、この講釈はいつも大へん面白いので、かうして毎日やつてまゐります。」
同甲、
「さうでございますよ、私もその面白さに、引つ張られてやつて来るので御座います。とりわけ、昨今やかましく評判されて居る龍門党の活躍する有様をきくと、全く心が若返るやうで御座います。」
同乙、
「左様で御座います、こゝの講釈師は龍門党の話になると実に手に入つたもので御座います。……時に大きな声では申せませぬが、近頃はまつたく物騒な世の中になつたでは御座いま(※7)せんか。」
同甲、
「左様ですな(トあたりを見まはし)それにしてもお大名の横着をこらす龍門党。全く小気味のよい徒党です。龍門党は龍(たつ)の門と書きますから、いづれは勤王のともがらで御座いませうな?」
同乙、
「大方さうで御座いませう。京の御公卿様(おくげさま)の姫君をだまして連れて来て、人質としたり無理に婚姻を迫つたりする御大名のやり口にはまつたく感心出来ません。何かまつりごとの上に、ある魂胆があつてのことか知れませぬが、実によくないことがはやりかけたもので御座います。」
同甲、
「ですから、世間の者は皆んな龍門党のやり口に、かげでヤンヤと味方をして居ります。何しろ神出鬼没とは龍門党のことで、どこにかくれて何をしてゐる連中なのか、ちつとも分らないのに、突然御大名衆の屋敷に現はれて、まんまと公卿の姫君を取りかへして行く有様は、人間業とは思へません。細川様、本多様、松平様を始め、今までおよそ二十数回、厳重に番のされてゐる御屋敷の中へ、自由自在に這入りこんだ手際には、感心の他ありません。」
同乙、
「それに龍門党は物を盗まず人を殺さぬといふのが嬉(よろこば)しい事ではございませぬか。よく義賊等と申して、御大名衆の金を奪(と)つて、貧しいものに施してやるものがありますけれど、いくら慈善をするといつても、物を奪るのはよくない事だと思ひます、賊はやつぱり賊で、義賊といふ名をつけるのは間違つて居るではありますまいか。それと違つて龍門党は正しいものに味方して、よこしまなものを懲らさうとするのですから、世間の人がヤンヤと云ふのも無理はございません。御公儀に於かせられても、大名の仕打をあんまり快よく思はれないのか、さして厳しい詮議もないやうでございます。」

此時、茶店の女、盆に茶碗を二ツ載せて運んで来て、二人の前へさし出す。

同乙、
「姐さん、もうかれこれ講釈のはじまる時分ではないかえ?」
茶店の女、
「はい、いつも八ツ時にはじまりますから、もうぢき南龍さんは見えることで御座いませう。」
隠居甲、
(下手の方を見て)「おゝ、おゝ、あそこへ来たのが師匠です。」

この時下手から、講釈師南龍、草稿らしいものをふところ(※8)の中に入れ、扇を持つて出て来る。隠居二人に軽く挨拶して席の中へ這入つて、見台の前へ立ち扇をポンとその上に置いて煙草を喫ひはじめる。隠居二人立ち上つて、その方へ行く。見る間に群衆、どこからともなく集つて来る、群衆の中に二三人女も混じる。これ等各々(めいめい)話合ふ仕草よろしく。
この時、乳母お浅、上手から中間を連れて登場。茶店の床台に腰をかける。

隠居甲、
「師匠、けふもまた是非共龍門党の講釈が願ひたいもので。

群衆も、口々に望む。

南龍、
「また、龍門党の話でございますか、仏の顔も三度と云つて、同じことをやりましては、そろゝゝ(※9)お厭きではございませぬか。」
隠居乙、
「厭きませんよ決して。面白い話は何度聞いても面白い。歳を喰ふと子供と一ツことでしてなア。」
南龍、
「それではお好みによつて一席弁じませうか、(と湯呑みに水をさし、講釈師のする仕草あつて)、おさしさはりがありますから、毎度申し上げます通り、昔の事に直して弁じまする。(以下、講釈師の口調になる)、それ国乱れて忠臣現はれ、家貧しくして孝子出づとかや。こゝに本朝人皇のはじめ、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の御宇(おんとき)にあたつて、武臣相模守平高時(たひらのたかとき)といふものあり。この時、上(かみ)、君徳にそむき、下(しも)臣の礼を失ふ、これより四海大いに乱れて一日も未だ安からず、狼煙(ろうえん)天をかすめ鯨波地を動かす、今に至るまで四十余年、一人として春秋にとめることを得ず、万民手足を措くところなし、つらつらその濫觴をたづぬれば……」

突然二ツ半鐘(はん)鳴る。
聴衆あわてゝ口々に、『火事だゝゝゝ(※10)』と云ひ乍ら奥の方、又は下手の方へ走つて行く、隠居の甲、乙二人とも歳に似合はず、いち早く駆け出す。
茶店の床台に腰をかけてゐた中間、乳母お浅に何やら告げて同じく火事を見に駆け出す。乳母お浅、依然として腰をかけ、席の方へ目をやつて何やら思案する態。

南龍、
「ハハ……皆んな駆けて行つてしまつた。イヤどうも江戸の人は気が早い。ヂヤンと来るともう龍門党も何もあつたものぢやない、あツハハ……」

半鐘頻りに鳴る。
茶店の女やはり火事を見に駆け出して行く。

南龍、
花時(はなみ)(※11)の昼火事は珍らしいものではないけれど、風がこんなに吹いてゐては火足はキツと早いだらう、あんまりタント拡がらないやうにしたいものだ。」

ト、言ひ乍ら、講釈師の道具をふところに入れ、扇を持つて席の中から出て来る。上手の方に向つて進み、乳母お浅の前を通り過ぎる。
このあたりより半鐘だんゞゝ(※12)鳴り止む。

お浅、
「あゝ、もし。」
南龍、
「へツ、何ぞ御用でござりまするか。」

お浅、腰をかけるやうにすゝめる。南龍無雑作に床台に腰をおろす。

お浅、
「只今龍門党の講釈をお始めになりましたが、今世間で噂してゐる龍門党といふのは、ほんたうにあるので御座いませうか。」
南龍、
(乳母の顔をヂツと眺めながら)、「ありませうとも(。)(※13)現に度々御公卿様の姫君を大名の屋敷から連れ戻して行つたではございませぬか。」
お浅、
(暫く考へる)、「もしや師匠は龍門党がどこに居るのか御承知ではありませぬか。」
南龍、
「えゝ、(思ひ入れ)、それは一向存じませぬが、何か龍門党に御用があるのでございますか。」
お浅、
「はい、あの――何んとかして私はその龍門党の人に逢ひたいものでございます。」
南龍、
(熱心な口調になり、からだを近づける)、「それは又どういふ訳でございますか、御見受け申せば、あなたは此の頃中、度々観音様へ御参詣になるやうでございますが、何かお願ひの筋でもございますか。」
お浅、
「はい、何を隠しませう、私は京の四条の呉服店、若松屋に乳母奉公を致して居ります浅と申す者でございます、先達(せんだつて)お店では故あつてお嬢様を、黒門町の井上壱岐守様の御邸(おやしき)へ見習奉公に御出しになりまして、私がお供を致してあがりましたが、殊の外お気に入りまして、お嬢様を側室になさらうと致されました。」
南龍、
「えゝツ、井上様が?」
お浅、
「はい、ところがお嬢様はどうしてもそれがお厭なので御座いまして、殿様の御意にお従ひにならぬので御座います。そこで殿様は私に勧めてくれと仰せになりますけれど、こればかりはどうすることも出来ないので、遂に殿様はお嬢様を一室にとぢこめになりまして、毎日々々御せめになり、それがためお嬢様は自害をなさりかねないやうな有様となりました。私も見るに見兼ねて御暇(おいとま)を下さいますやうに御願ひ致しましたけれど、どうしても殿様は御聞きになりません。御国元へも話しましたが、長いものにはまかれよの道理で力及ばず、旦那様はじめ皆様は愁嘆に暮れてゐられます。ところが世間の噂では近頃龍門党といふ徒党があつて、お大名の邸(やしき)とりこ(※14)になつて苦しみを受ける公卿の御ひい様を取り返して行くといふことを聞きました。公卿の御姫様ですら助けてくれる龍門党の事でございますから、ましてあはれな町家の娘の難儀ならば助けてくれるにちがひないと思ひまして、何とかしてその龍門党の耳に入つてくれるやうにと、観音様へ御願(おぐわん)をかけにまゐるのでございます。」
南龍、
「それはゝゝゝ(※15)、まことにお気の毒様でございます。井上様の御屋敷と云へば御家老の水野兵庫様には私も二三度お目に掛つたことがございます。」
お浅、
「あゝ、あの水野様、顔は人間でも心が鬼とはあの人のこと。近頃は水野様までが、お嬢様に恋慕して……」
南龍、
「えゝ?」
お浅、
「重ね々ゝ(※16)、御嬢様は御不幸(おふしあはせ)でございます。」
南龍、
「聞けば聞く程お可哀さうなお話、何んとかして龍門党の耳に早く入れてやりたいものでございます。」
お浅、
「と申してもまるで雲を掴むやうなこと。どこに龍門党が居りますやら、いつ又その耳に入ることやら分りませず、その間にお嬢様は殿様と水野様とに迫られて……あゝ、私はそれを思ふとどうしてよいか」(と泣く)、
南龍、
(ホロリとする)、「いやなに、きつと観音様の御引合せがございませう。」(と立上つてあたりを見廻し、誰もゐないのを見て、決心したやうに乳母に近より何やら耳に囁く)

乳母『エツ』と驚く。それから嬉しい思ひ入れ。やがて南龍ふところから、紙包を出して乳母の手に持たせる。乳母しつかりふところへ蔵(しま)ふ。南龍尚も何やら囁く。乳母頻りにうなづく。
ト、此の時、上手から水野兵庫、供をつれて出て来る。
南龍と乳母の語るところを眺めて立ち止まる、南龍早くも見つけ、立上つて水野の方へ行く。お浅も立上つて控へる。

南龍、
「これはゝゝゝ(※17)水野様。」
水野、
「おゝ南龍か。」
南龍、
「久し振りにお目にかゝります、いつも弟子の東狸(とうり)がお邪魔して何かと御厄介になる様子一度お礼に上らうと思つてゐましたが、ついゝゝ(※18)(せわ)しいため、御無沙汰致して居りました。」
水野、
「忙しいのは結構、近頃景気はよいか。」
南龍、
「お蔭様で大した不景気もなく暮して居りまする。」
水野、
「それは何よりだ。」
南龍、
「けふは観音様へでも御参詣で?」
水野、
「いやナニ、(と乳母の方を指さし)、これなる人に、少し用事があつて参つたのだよ、もう講釈は済んだのかえ。」
南龍、
「はい、突然火事がございましたので、聞き手が皆んな駆け出して行つてしまひました。では私はこれで失礼致します、」(と水野に挨拶し、乳母の方を向いて意味ありげに挨拶して下手に去る)
水野、
(乳母に向ひ)、「お浅どの、中間はいかゞ致しましたか。」
お浅、
「近所に火事がございましたので、それを見に参ると云つて走つて行きましたが、もうおつつけ帰る頃でございませう。」
水野、
「若いものとて仕方のない奴ですなア。」

此の時、茶店の女帰つて来る。

茶店女、
(水野の方に向つて)、「どうぞお休み下さいませ」(とお辞儀をする)
水野、
(立つたまゝ供を顧み)、「これから少しお浅殿に話がある、おぬし(※19)は暫らくその辺りをぶらついて半時も過ぎたら戻るがよい。」
供の者、
「畏まりました。」

ト、下手へ去る。

水野、
「姐さん、座敷はあいてゐるか。」
茶店女、
「はい、どうぞお通り下さいませ。」
水野、
(浅に目くばせして先に立つて座敷に通る、水野上手に坐つて、お浅と向合ふ、茶店の女、煙草盆を運ぶ、水野女に向つて)「用があつたら呼ぶからなア」
茶店女、
「どうぞごゆつくり遊ばしませ。」

女、さがる。

水野、
「時にお浅どの、先日のこと雪枝どのにお話し下さつたか。」
お浅、
「はい、あの……」
水野、
「雪枝どのは何んと申されました。」
お浅、
「たゞもう悲しんでおいでになるばかりで(と顔を上げて水野を眺め)、けれども水野様、もし御嬢様が御殿様の仰せに背いて、水野様の御心に従ひ遊ばされたら、それこそ短気な殿様の御立腹により、もしやあなた様の御身に御災難が……」
水野、
「その事ならば大丈夫です、実は近頃世間で騒ぐ龍門党……」
お浅、
「えゝツ、」(と驚く)
水野、
「あの龍門党が雪枝どのを盗み出したやうに見せかけ、御屋敷からひそ(※20)かに連れ出して、然るべきところへかくまひ申さうと思ひます。」
お浅、
「それではその龍門党とやらの仕業に見せかけ、(とふところに手をやつて思ひ入れ、さうして決心したかの様に急に様子をあらため)、……でもそんな事が出来ませうか。」
水野、
「それは訳のない事です。」
お浅、
「それではどんな風にして……?」
水野、
「屋敷の中の事はわしの一存でどうにでもなります(。)(※21)そんな事は一切心配下さるな。」
お浅、
「左様でございますか、それで私し(※22)も安心しました。お嬢様も貴方様の御親切をお聞きなすつたら、どんなにお喜びなさる事でせう。」
水野、
「ナニ、すりや雪枝どのは殿様の御立腹を恐れて、今までわしの意には……」
お浅、
「いえナニ、……まあゝゝ(※23)委細はこの浅に任せて置いて下さいませ。」
水野、
「では、そなたから雪枝どのによしなにお話し下さるか。」
お浅、
「はい。」 水野、
「雪枝どのさへ承知ならば、あすにも直ぐに……」
お浅、
「まあゝゝ(※24)、そんなに気短かに仰有つてはいけません、あれでなかゝゝ(※25)頑固な御嬢様、どうぞ茲二三日お待ちなされて下さいませ、その間には必ず色よい御返事を、」(と、意味ありげに水野を見る)
水野、
「あゝ、それですつかり安心致した。万事よろしく頼みます。」
お浅、
「それはもうきつとうれしいお便りを今にお聞かせ申します。」

ト、云ひ乍ら、傍(わき)を向いて心配さうな、顔つきをする。

水野、
(嬉しさうに)、「やれゝゝ(※26)、何んだか心が明るくなりました。」
お浅、
「あらまあ、水野様としたことが、若い衆のやうに顔を赤くして……」
水野、
「へへへ……」

ト、笑ひ乍ら、手拭を取りあげて首筋を拭く。乳母、よろしき思ひ入れあつて。

――幕――

序幕第二場 稲荷町南龍宅

余り豊かならぬ生活(くらし)の、入口に格子戸を持つた三間ほどの家。座敷には長火鉢、古びたる箪笥など、講釈師の住ひらしく、稲荷など祭つてある。大道芸人四人、程よき処に居る。すべてこれは龍門党士の変装したるものにして、独楽を廻す男、歯を抜く香具師、易者、蟇の油を売る男、それゞゝ(※27)その風体らしく、易者と独楽を廻す男の二人は寝ころんで居る。七ツ頃。

歯を抜く香具師、
「近頃よく独楽は廻るかい。」
独楽を廻す男、
「ようく廻るよ、そのかはり首は廻らないがね、さういふお手前は歯がよく抜けるか。」
香具師、
「抜けるとも、あんまり他人の歯ばかり抜いた故(せい)か、近頃は前歯の抜けた夢をよく見る。」
独楽廻し、
「よくないぜ、さう云ふ夢は、気をつけないといかん、なア八卦見の兄貴、さうぢやないか。」
易者、
「ウン、前歯の抜けた夢を見ると、女房をなくするよ。」
香具師、
「ハハヽヽヽヽ女房はあいにく持ち合せてゐないからいゝや。」
易者、
「それぢや首がなくなる。」
香具師、
「そいつはいけない、あんまり恰好のよい首ではないが、もう少しの間くツ付けておきたいからなア、もしも首が落ちかけたら、蟇の油でクツ付けて貰ふかな、なあ蟇さん、その時はよろしく頼むぜ。」
蟇の油を売る男、
「よし来た。……だがおい、こんなにぼんやりしてゐたつて仕様がないぢやないか、何か退屈しのぎにはじめやうか。」
独楽廻し、
「何をやるつたつて、碌な事ア出来やアしない(。)(※28)いつそこれから皆んなして八笑人の真似をして花見にでも出掛けようか。」
易者、
「もう遅いよ、花見なんかに出掛けるよりも、こゝで一杯やつて花を見たつもりにならうぢやないか。」
香具師、
「なるほどそれもいゝ。ぢやお上さんを呼んで一本つけて貰はうか、(奥に向つて)、おかみさん、おーい、おかみさん。」
お玉、
「あいよ、」(と奥から返事をしながら出て来て、長火鉢の前に坐る、同時に寝ころんで居た男たち起きなほる)
お玉、
(皆んなを眄目(ながしめ)に見て)、「まあ、呑気な人達ばかりだね。」
油売り、
「おかみさん、一本つけてくれませんか。」
お玉、
「又呑むの、仕様がないね(。)(※29)大道芸人のくせに、こんないゝお天気に稼ぎもしないで、ごろゝゝ(※30)して酒を飲むなんてあきれ返つてものが言へない。」
独楽廻し、
「まアおかみさん、そんなにむき(※31)になつて怒らなくたつていゝですよ。けふあたりお江戸のやつらは花見に出てしまつて、日中は大道芸もまことに暇なものですよ。」
お玉、
「冗談ぢやない、花見に人が出掛けるなら、そつちへ行つて商売すりやアいゝものを。」
香具師、
「だがおかみさん、たまには骨休めといふことをしなくちやね。」
お玉、
「毎日骨休めをしてゐるやつがあるものか。」

ト、云ひながら徳利を出して燗をつける。

易者、
「だが、おかみさん、お上さんが矢場にゐた時分は商売を休んで遊びに行くと、大へん喜んで呉れたぢやありませんか。」
お玉、
「そりアあの時分はこツちも商売だつたもの」(と言ひながら皿に然るべきものを盛つて箸と共に出す)
易者、
「だが考えて見りや、月日のたつのは早いものですね、おかみさんが師匠と夫婦になつてから四月もたちましたね。」
お玉、
「さうだね、(としんみりとする)」
独楽廻し、
「お上さんはいつ見ても、みづゝゝ(※32)してゐるが師匠は美しい女房を持つて苦労する故(せい)か、近頃急にふけ(※33)ましたぜ。」
お玉、
「ナニ、あれはお酒のせゐだよ。ほんたうに内(うち)の人ツたら呑んだくれになつてしまつた。一緒になる迄はあんなしまりのない人とは思はなかつたのに。」
香具師、
「何んのかんのと言つても、やつぱり師匠がいゝでせう、口では呑んだくれとかしまりがないとか言つても、心の中(うち)では惚れ抜いてゐるのだからな。」
お玉、
「よしておくれよ、だがね、夜になると時々家をあけて、たまには二日も帰らない事があるよ、何をするのかちつとも言はないけれど、私しや何んだか気味が悪い。」
香具師、
「そりやアお上さん、やきもちと云ふものですぜ」
お玉、
「やきもちぢやないわ、私しやいつも自分の事は自分のこと、他人の事は他人のことにして、内(うち)の人の事だつて一度も深入りして訊ねた事はないけれど、もう少しあの人がハツキリしてゐて呉れるといゝがね、何んだかちつとも掴みどころのない人間だよ。」
油売り、
「その掴みどころのないところへおかみさんは打込んだのぢやアありませんか。」
お玉、
「さうさね、だが今になつて見ると、あの時分の私の心が分らない。」
油売り、
「今だつてどこかに引きつけられて居ればこそ、かうして一緒に居るのでせう。」
お玉、
「さうかも知れないね。」(とやさしく言ふ)
油売り、
「おや御馳走さま、さア燗がついたやうだから一杯頂だいしませうか。」

皆んなお玉の酌で呑む。(間)

独楽廻し、
「おかみさん、私しや女に惚れられたことはないが、女は一体男のどういふところに惚れるものですね。」
お玉、
「むつかしいことをお聞きだね、どういふところツて、一寸口で云ふことは出来ないよ。」
独楽廻し、
「けれどね、おかみさん、たとへばだね、亭主は亭主として置いて、他になつかしいと思ふ人はないものですかね。」
お玉、
「そりやアあるね、」(と事もなげに言ふ)
香具師、
「おや危ないゝゝゝ(※34)。」
お玉、
「心配はおしでないよ、私には今のところそんな人は一人もないから……」
易者、
「それぢや昔はあつたと言ふのですか。」
お玉、
「昔は尚更ありやしない。けれども今でもそんなやうな人があると言へばあるし、無いと言へばないと云ふやうなものさ。」
易者、
「おや、をかしな事を言ひますね、それは一体どういふことですか。」
お玉、
「何もそんなに不審がらなくてもいゝよ、たとへばだね、噂に聞く龍門党の頭、あゝ云ふ人となら一寸話しをしてみたい気もするね。」
易者、
「亭主を捨てゝその方へ行くといふのですか。」
お玉、
「いゝえ、亭主は亭主さ、操はどこまでも立て通すのさ、唯なんと云ふかね、かう心の中(うち)へ祭つておくんだよ。」
独楽廻し、
「心の中(うち)へ祭つたらやつぱり操を売ることになるぢやありませんか。」
お玉、
「そこがね、さうぢやないのだよ、(と考へて)、何と云ふか、えゝ、もうぢれツたいね、どうも……」
独楽廻し、
「龍門党の頭が聞いたらさぞ喜ぶことでせう。(」)(※35)

意味ありげに皆んなと顔を見合せる。(※36)

お玉、
「くだらない話になつちまつたね、まあ、そんな話はよさう、(と酒を強ひる)、だが今言つたこと、内(うち)の人には内証だよ。」
独楽廻し、
「益々いけないね、師匠が帰つたら早速云ひつけてやりませう。」

この時、南龍格子戸をあけて這入る、お玉立ち上つて迎へに行く。

香具師、
「噂をすれば影が射す、師匠御無礼して居りますぜ。」
南龍、
「やあ、お揃ひだなア、」(と火鉢の前へ坐る)

お玉、よろしき所に坐る。

独楽廻し、
「今ね師匠。」

お玉手を持つて制する。

南龍、
「何んだえ。」
独楽廻し、
「おかみさんが龍門党のかしらのやうな人となら、一苦労してみたいと言つてゐましたぜ。」
南龍、
「ハハヽヽヽヽたまには浮気もするがいゝさ、酒ばつかり呑んでゐる亭主には、もう、厭いたことだらうからな。」
お玉、
「仕様がないね、この人達は。お前さん、今、冗談を云つただけよ。」
南龍、
「冗談にしても龍門党のかしらに惚れてくれるのは有難い。俺は近頃龍門党の講釈で食つて行くんだからなア。」
香具師、
「おやゝゝ(※37)いゝ亭主を持つたもんだ。他の男に惚れたのを、亭主にほめられるなんてえことは、三千世界を探したつて、滅多にあることぢやない。おかみさん、みつちり浮気をするがいゝですぜ。」
お玉、
「おふざけでないよ、」(とテレ乍ら何か取りに奥へ這入つて行く)
南龍、
(奥を覗き乍ら、皆んなに目くばせする、皆んな額を集める)、「待乳山(まつちやま)、九ツ。皆んなにさう云つて呉れ、たゞ弟子の東狸にや言つてくれるな。九ツ、待乳山、いゝか。」

皆んな、うなづく、その時お玉は取りに行つたものを持つて出て来る。一寸思ひ入れあり。

お玉、
(やゝ皮肉に、)「おや、お前さん達又悪い相談でもしてゐたんぢやないかえ。」
独楽廻し、
「今夜これからね、皆んなで吉原(なか)へ繰り込まうと言ふ相談だが、おかみさん師匠を借りて行つちやいけませんか。」
お玉、
「いけないよ、」(ツンとした声でキツパリ言ふ)
独楽廻し、
「妬かないとか、何んとか云つてもイザとなると目の色が変るね。」
お玉、
「おふざけでないよ、お前達のお蔭で、内の人はすつかりだらしがなくなつてしまつた、いゝ加減にして呉れないと、これから一切出入りはやめて貰ふよ」
香具師、
「大へんなけんまく(※38)だな、いや嘘ですよ、これから皆んな稼ぎに出るのですよ、おいゝゝ(※39)そろゝゝ(※40)出掛けると仕様か。」

皆んな口々に『御馳走さま』と挨拶をして去る。

お玉、
「お前さん、けふは大へん早かつたのねえ。」
南龍、
「ウン、恰度八ツの講釈をはじめると、ヂヤンゝゝゝ(※41)と来て、みんなが駆け出して行つてしまつたんだ。(暫らく考へ)それにもう俺はこの講釈師といふ商売が少々嫌になつて来た。」
お玉、
「おや、けふに限つて変なことをお言ひだね、お前どこかにいゝ女でも出来たのではないかえ。」
南龍、
(お玉の顔をぢろゝゝ(※42)眺めながら)、「おぬしこそ変なことを云ふぢやないか。」
お玉、
「だつて男の気の変るのは大てい、いゝ女の出来た時だからね。」
南龍、
「おや、えらい事を知つてゐるなア、もう此の歳になつて、色の恋のとさわげるものか。」
お玉、
「どうだかね、何しろお前は時々、夜分に家をあけるんだからね、いゝ女もたまには出来るだらうぢやないか。」
南龍、
「おいゝゝ(※43)、俺が夜家をあけるこたア、詮索しない約束ぢやあなかつたか。」
お玉、
「だつて私しや、妬くのぢやないがお前のからだが案じられるからさ。」
南龍、
「そんなに俺のからだを心配して呉れるか(と考へ)そのからだで思ひ出したが、おぬし、俺が遠いところへでも行くと言つたら、このからだについて来て呉れるか……」
お玉、
「そりやアついて行くわ。」
南龍、
「こんな呑んだくれでも、面倒見てくれる気があるか。」
お玉、
「夫婦ぢやないかね、(と覗き込むやうにして)、何んだかけふはいつものお前さんぢやないね。」
南龍、
「実はなア、俺アしばらく上方へ行つて来たいと思ふんだが、住み馴れた江戸を離れて迄、おぬしや俺について来る気か。」
お玉、
「さうだね、」(と考へる)
南龍、
(目をかゞやかす)、「やつぱり江戸が恋しいか。」
お玉、
「さう言ふ訳ぢやないけれど、」(とうつむく)
南龍、
「龍門党の頭となら、どこまでもついて行く気か。」
お玉、
「あらお前さん、龍門党なんて生きてる人かも知れないが、私しややつぱり太閤さんを慕ふ気持ちと、おんなじなんだよ。」
南龍、
「だがなア、仮りに龍門党の頭だつたらどこまでも一緒について行くだらう。」
お玉、
「まアそんな雲を掴むやうな話はやめにしようぢやないかね。」
南龍、
「だつて俺が上方へ行くのは間違ひないぜ。」
お玉、
(真面目顔になる)、「お前さんそれではほんたうに江戸を発(た)つ気かえ。」
南龍、
「ほんたうさ。」
お玉、
「いつもお前さんの言ふことア、どこまで本当で、どこまで嘘だか分らぬことがよくあるからねえ。」
南龍、
「たまには俺だつて本当の話もするんだよ。」
お玉、
「さうさね、(と考へ)、どうせ親兄弟はなし、住めば都といふから、ついて行つてもいゝと思ふが……」
南龍、
「ついて行つてもいゝとは心細いなア、おぬしにして見りや、知らない土地へ行くのは随分困るだらうけれど、上方へ行きツ切りにすると云ふ訳ではなし(、)(※44)それに俺アいつ迄もおぬしと離れて居たくないのだ……」
お玉、
(軽く驚く)、「たしかに、お前さんけふはどうかしてゐるよ、一ツ気晴らしに……」
南龍、
「一ぱいついで呉れるか、」(と盃をとりあげて差出す)
お玉、
「あい、」(と注(つ)ぐ)
南龍、
「おぬしもやらぬか。」
お玉、
(だまつて盃を差出す、南龍つぐ)
南龍、
「久し振りに夫婦さし向ひだ。」

ト、しばらく献盃。

お玉、
「いつの間にやら暗くなつたねえ。」

ト、立ち上り、行燈(あんどう)を持つて来て灯を入れる。
(――間――)
外で新内の流し、かすかに聞ゆ。

あツ、すつかりいゝ気持ちになつた、おやもう流しの来る時分か、何んだか行きたくないけれど、やつぱり夜の席へ出掛けて来ようか。」
お玉、
「今夜はお前さん、よしたらどう……?」
南龍、
「イヤ、それにまた一寸した用事もあるから。」
お玉、
「アマまたお前さん、今夜も家(うち)をあけるの、」(と、少し不満の顔)
南龍、
「さうぢやないよ。」
お玉、
「折角久し振りに、いゝ気もちになつたのに……」
南龍、
「まあ我慢して呉れ、」(と立ち上る)
お玉、
「仕様がないね、早く帰つておくれよ、」(送り出す)

南龍出て行く。
お玉、もとの座へ坐つて酒を呑みかける。
南龍出掛ける時分、弟子の東狸(とうり)格子戸をあけて顔を出し、様子をうかゞつて、再び引き込む。南龍が出て行つてから、暫らくの後に格子戸をあける(。)(※45)

東狸、
「お上さん、今晩は。」
お玉、
「だアれ。」
東狸、
「おかみさん私です。」
お玉、
「東狸かえ、お上りよ、」(東狸上る)

お玉、頻りに酒を呑む、東狸、お玉の前へ長火鉢を挟んで坐る。

東狸、
「おやおかみさん上機嫌ですね、一ツお酌をしませうか。」

お玉だまつて盃を出す。

東狸、
(お玉の顔を見て)、「どうかしましたか、何かお気にさはつたことでもありましたか。」
お玉、
「何だか先刻(さつき)からクシヤヽヽヽ(※46)してならないのだよ。」
東狸、
「なにがそんなにくしやゝゝゝ(※47)するんです、師匠の夜遊びにでも気がもめるのですか。」
お玉、
「さうぢやない、一寸考へてゐたことがあるんだよ。」
東狸、
「淋しい時は誰でも考へます。」
お玉、
「えゝ?」(と不審顔する)
東狸、
「私(わた)しも今夜は淋しくなつてまゐりました。」(と意味ありげにお玉を眺める)
お玉、
「変なことをお言ひだね。」
東狸、
「おかみさんにや、私の心持ちが分らないか知らん」
お玉、
「心持ちつて何のことだえ。」
東狸、
「さう白(し)らツばくれちや困りますよ、この頃中あれだけ言つてゐるのが分りませんか。」
お玉、
「私はね、察しの悪い女だから、真直ぐに言つてくれなきや分らないよ。」
東狸、
「お上さんは冗談だと思つてゐるかも知れないが、私はこれでも真剣なんですよ、」(真面目顔になる)
お玉、
「ホホ……何を云つてゐるのさ、まさか五ツや六ツの子供ぢやあるまいし、お前そんなことを言つて恥かしくないのかえ。」
東狸、
「恥も外聞もいとはねばこそ、嫌はれ乍らもかうして師匠の留守を見込んで来るのです。」
お玉、
(だんゝゝ(※48)酔ひが廻つて来る)「お前それぢや女一人だと思つて、つけ込んで来るのかえ、古い言ひ草だが、私(わた)しにやアれつき(※49)とした亭主があるのだよ、矢場の女はしてゐたけれど、はゞかり乍ら女の道は一通り心得てゐるつもりさ。」
東狸、
「でもおかみさんは、この頃師匠に、いや気がさして居るでせう。」
お玉、
「いらぬお世話だよ。いや気がささうが、さすまいが、お前の知つたことぢやない。」
東狸、
「今夜はお酒の故(せゐ)か、いつものおかみさんぢやないなア、」(と嘆息する)
お玉、
「何を。(と東狸をヂツと見る)そんなに今迄私を甘く見てゐたのか。」
東狸、
「でもおかみさんは、かねゞゝ(※50)龍門党のかしらを慕つてゐるぢやアありませんか。」
お玉、
(しばらく東狸の顔を見て、幾分かやさしくなる)「龍門党なんてお前逢つたことも見たこともないぢやないか。」
東狸、
「たとひ見たことがないと云つても恋しい心はあるでせう。」
お玉、
「…………」
東狸、
「さうれ御覧なさい、さうすりやアおかみさんには恋する男の心が分る筈です、ねえおかみさん、この私の心はお内儀(かみ)さんにはようく分つてゐるでせう。」
お玉、
「分つたと言へばどうしようと言ふの。」

東狸、お玉の手を取らうとする。

お玉、
(振りのけ乍ら)、「えゝ、くどい、かりそめにも師匠の女房に向つて、よくもそんな大それた真似が出来たもんだ、だまつて居ればキリ(※51)がない、今度こそは師匠に言ひつけてやるから、さう思ふがいゝ。」
東狸、
「何を云つてゐるんだ、師匠々々と云ふけれど、師匠はお内儀(かみ)さんなんぞに関(かま)つちやゐないんですよ。」
お玉、
「何んだつて……」
東狸、
「おかみさん、お前さん、師匠が毎晩家(うち)を外にして出歩く訳を知つてゐなさるか。」
お玉、
「……(やゝ真面目になる)」
東狸、
「お内儀(かみ)さんは知るまいが、師匠はね……(と思入れ)止しませう。」
お玉、
(いよゝゝ(※52)熱心になる)、「それぢや東狸、やつぱり師匠に好い女でも出来たと云ふのかい。」
東狸、
「まアそんな事アどうでもいゝです。」
お玉、
「よくはないよ、さあお云ひ、云はないんだね……」

(思はず傍へ寄る)

東狸、
「私が云はなくつたつて、お内儀(かみ)さんも生娘ぢやあるまいし、師匠の此の頃のそぶり(※53)で大抵は判つてゐさうなものぢやありませんか。」
お玉、
「エツ、師匠のそぶり(※54)で……」
東狸、
「さうですよ。師匠の仕打ちや言葉のはしに、何か思ひ当る様なことはありませんかね。」
お玉、
「思ひ当る事が……?(ヂツと考へる)さう云やア……」
東狸、
「何かありましたかね。」
お玉、
「さつきの話しでは……今夜九ツ……」
東狸、
「エツ、」(と驚く)

東狸思はずお玉の手を握る。お玉、フト(※55)握られた手に心づき、ハツとはなれる。さうしてヂツと考へ込む。

――幕――

序幕第三場 待乳山龍門党会合

深夜。
前面ほどよき処に立木数本ありそのうしろに小高い樹木の鬱蒼たる山、中央にのぼる階段あり。
幕あくと、上手より按摩の笛聞(きこ)え、按摩(前の場には独楽廻しに扮装せし男)笛吹きながら出て来る、下手から南龍、いつもの儘の姿で出て来る、按摩突然笛をやめ、杖をかついで歩きながら南龍につき当る。
時(九ツの)鐘が鳴る。

南龍、
「おいゝゝ(※56)、気をつけてお歩き。」
按摩、
「へゝ、これはどうも失礼致しました。」
南龍、
「按摩のくせに杖をかつぐ奴があるものか。」
按摩、
(眼をあき、声をかへて)、「へえ、かしら今晩は。」
南龍、
「誰だ、何だお前か、今夜はそんな風をして来るにや及ばなかつた。」
按摩、
「つい、いつもの洒落気が出ましてね。」
南龍、
「おい皆んな、」(と闇(くら)がりに向つて云ふ)

立木のかげに隠れてゐた男六人、その中には前の場で歯を抜く香具師、蟇の油売り、易者に扮した男が混つてゐる、多くは手拭で顔をかくして、誰が誰だかよく分らない。
南龍中央の階段に腰を掛ける。
党員その前へ車座になつてしやがむ。

けふ図らずも京の四条で名代の若松やの娘が、黒門町の井上壱岐守の屋敷に側室にならぬからといつて奥の一間に虜にされてゐることを、その乳母から聞いたのだ、俺は今まで公卿(くげ)の姫君ばかりを取りかへして居たが考へて見りや町家の娘がさうした難に遭つてゐるのはなほ更らに可哀想だ、だから俺あ公卿の姫君と同様にその娘をとりかへし京へ送りかへしてやらうと思ふのだ。そこであすの晩九ツの鐘を合図に井上の屋敷へ忍びこむことにしたが、幸ひ乳母はよくものゝ分る女で、おそらく間違ひなく、こつちの言つたことを守つて呉れるだらう。」
党員一、
「かしら、それではあすどの手を用ひになりますか。」
南龍、
「例の南蛮伝来の眠り薬を渡して置いた。」
党員二、
「あの二日二タ晩全く死んだ様になる薬ですか。」
南龍、
「さうだよ、あれをあすの晩九ツにお嬢さんがのむ筈だから、その頃屋敷へ忍び込まう。幸ひけふ井上の家老、水野兵庫に逢つてよくその顔を見覚えて置いたから、あすは水野に扮装して、不浄門から棺桶を持つて這入つて行くつもりだ。それからお嬢さんを仲働きの死骸だといつはり、乳母をその母親にでも仕立てゝ連れ出して来よう。」
党員三、
「井上壱岐と云へば、東狸がよく出入する屋敷ではありませぬか。」
南龍、
「さうよ、だから俺は今日乳母から奥山の講釈場で聞いて少し妙に思つたのだよ、東狸の奴その位の事は聞き出して来てもよいからなア、あいつ何か井上の屋敷に義理立てをする訳でもあるか知れない。だから今夜のこの会合には東狸の奴を呼ばなかつた。」
党員四、
「かしらの前ですが、あいつどうも近頃様子がかはりました、あいつはお内儀(かみ)さんに変な色目を使つてゐますよ。」
南龍、
「それは俺も感づいてゐる。然しなア、俺の女房は決して浮気をする女ぢやない。」
党員五、
「その腹癒せに捨鉢になつて、仲間を売(うる)やうなことをしでかすかも知れません。」
南龍、
「だからなア、ヤツに裏切られない先に俺達は一旦京へ帰へらうと思ふ。そのお嬢さんを取りかへしたら、あいつに置いてけぼりを喰はしてやらう、それから又あらためて出直して来ようぢやないか、そこであすの晩には、船を佃の沖へ廻してくれよ、東狸に知られてはまづいから、今まで一度も行かなかつた、佃の沖から船を出すことにしよう。」
党員六、
「もし仲間を売(うる)やうなことがあれば叩き殺して仲間への見せしめにするのが当り前ではありませぬか。」
南龍、
「いゝや龍門党はどんな場合にも決して人を殺さない。裏切りものは、裏切りものとして、自然にその報いを受けるだらうよ、もともと俺達は諸大名の横着と御公卿様の悲しみを見るに見兼ねて義憤を感じたと云ふものゝ、一つには大名をからかふのが面白さに、危(あぶな)い瀬戸際をくゞつて仕事をやつて来た。だから何もさう血なまぐさい事をやるには及ばないよ。」
按摩、
「けれどもかしら、龍門党の仕事は強(あなが)ち遊び半分ではありますまい。」
南龍、
「だがなア人間の事は、よく考へて見ると皆んな遊び半分だよ、御大名が御公卿様の姫君を奪(と)つて行くのも、見ようによつちや一つのいたづらかも知れない。けれ共盗られた方では、いたづらだと笑つてすますことア出来ないので、それで俺達は真面目になつてとり返へしたんだ。けれども一度だつて暴力は用ひなかつた。俺は刀を使ふことが大きらひだ、刀はもう時代遅れだよ。今に見るがいゝ、刀を廃する時節が来るから、俺はどこ迄も知慧で行きたいのだ、うまく機会(をり)を掴んで、すべての難儀を切り抜けたいのだ。大名は暴力で姫君を盗む、俺達は知慧でそれを取りかへす、いはゞ知慧と暴力との戦ひだが、やつぱり御覧、知慧はいつでも暴力に勝つたぢやないか。」
按摩、
「然しかしら、いくら知慧を働かしても、裏切られちやア、何んにもならぬぢやありませんか。」
南龍、
「さうだよ、裏切るといふことは、情の問題だからなア、情といふ奴はある場合智慧に勝つ。」
党員六、
「でも東狸の奴に裏切られちやア龍門党の名折れです。」
南龍、
「まあゝゝ(※57)さう云ふな。どんなたつしやなからだにも病気は降つて湧いて来る。東狸の奴は龍門党のからだに出来た腫物(できもの)だと思へばいゝ。」
党員五、
「腫物ならば切つて捨てたがいゝぢやありませんか。」
南龍、
「切るには及ばない、大きい腫物ならともかくだが小さな腫物なら捨てゝ置けばいゝよ、何にしてもあすの晩までは東狸の奴に感附かれないやうにしてくれ。いゝか。」(皆々承知するこなし)
南龍、
「それぢやあすは九ツに井上の屋敷に忍び込む事にしようぜ。勢揃いはいつもの処でいゝ(と俯向いて)おやひやゝゝ(※58)するのは雨かな、花時はすぐにこれだ、あすは大雨にならぬやうにしたいものだ。」
党員四、
「シテかしら、お内儀(かみ)さんはどうなさいます?」
南龍、
「お玉か、お玉は一緒につれて帰へるつもりだ。」
党員三、
「お内儀さんは龍門党のかしらを内証で慕つて居り乍ら、到頭けふまで気附きませんでしたね。」
南龍、
「あの女は女に似合はぬ疑(うたがひ)の浅いタチだよ、いよいよ京へ帰へるとなりや、訳を話さにやなるまいが(、)(※59)話したらさぞガツカリするだらうよ、来て見れば左程にもなし富士の山、人間といふものは、評判だけを聞いて、逢はない方がよつぽど得だよ。」
党員二、
「でもお内儀さんは、訳を聞いたらほんたうに喜ぶでせう。」
南龍、
「どうだかなア、女といふものは、いつまで交際(つきあ)つても曲者だ、だがあいつ、あれでなかゝゝ(※60)シツカリしたところがあるよ。」
党員二、
「龍門党のかしらの女房にや、まことにふさはしいですよ。」
南龍、
「だからいつ迄もあいつを離したくはない、俺が江戸での掘り出しものは、笑ふか知らぬがお玉一人だ。お前たちもいゝ女があつたら、あすの晩は遠慮なく連れて来るがいゝぜ、(空を見る)何んだい雨が降つたかと思へばもう星が出てゐるよ、今夜で江戸の見納めだ。これからゆつくり遊んで来いよ。」

皆んな立ち上る。よろしき思ひ入れあり、按摩笛を吹きにかゝつて、

按摩、
「それぢや頭、御無礼します。」
党員一同、
「御免なすつて御くんなさい。」
南龍、
(うなづく)

一同去る。
南龍ヂツと見送る。

南龍、
「皆は江戸の町に名残りをおしみに行つた様だが、俺は別に何処へ行く先もない、早く帰つてお玉に安心させてやらうか。」

ト、下手へ行きかける。
行く手からお玉いそいで出て来る。

お玉、
「おゝ、お前さん。」
南龍、
「ヤ、お主はお玉ぢやないか。」
お玉、
「アヽ苦しかつた。」
南龍、
「苦しい……一体何うしたんだ今頃。」
お玉、
「何うしたも無いもんだ、私しや今夜こそ現場を押へてやらうと思つて一生懸命に駆けて来たんだ、(四回(あたり)を見廻して)だがこんな処にゐようとは思はなかつた、方々探したもんだからたうとうおくれてしまつたんだね、あゝ口惜(くや)しい。」
南龍、
「おくれてしまつたつて……何が。」
お玉、
「お前さん、今夜九ツを合図にこの待乳山で会ふ約束をしてゐたぢやないか。」
南龍、
「エツ、手前、それを何うして……」
お玉、
「知らなくつてさ、私しやお前さんの先刻(さつき)の話しを聞いたんだ。」
南龍、
「俺達の話しを聞いた、」(キツとなる)
お玉、
「お前さんが私しにかくれて浮気をしてゐる事位は私しやちやんと知つてゐるんだよ。」
南龍、
「何、浮気……(ホツとして)何だ、さうか、ハヽヽヽヽヽ」
お玉、
「オヤ、お前さん笑つたね。」
南龍、
「笑つたよ、可笑しいから笑つたよ。」
お玉、
「そりや可笑しいだらう、亭主が浮気してゐるのを知らないで心中立(しんちうだて)をしてゐる女房の顔を見りや可笑しいだらう、お笑ひ、うんとお笑ひ。」
南龍、
「さうか、お前にもそんな心があつたのか、お前もやつぱり女だなあ。」
お玉、
「エツ。」
南龍、
「今の俺にや色恋よりももつと大きい仕事があるのだ。」
お玉、
「何をお前さん」(と寄る)
南龍、
(軽くおさへて)「今に……今に判るよ。」

ト、双方思入れ。

――幕――

第二幕第一場 井上壱岐守邸宅奥座敷

上手に座敷、下手に庭。座敷には文机、鉄瓶をかけた火鉢、その他然るべき道具配置よろしく。夜のこしらへ。
雪枝中央に泣いてゐる。
水野うしろから出る。

水野、
「雪枝どの、あなたは今、殿の御意に従ふと云はれたさうだが、本当に殿の思召(おぼしめし)に従ひなされるか。」
雪枝、
「…………」
水野、
「それは本当の心ですか。」
雪枝、
(うなづく)
水野、
「もし、それでは、」(と云つて雪枝の手を取らうとする)
雪枝、
「えゝまあ、」(とふり払つて向方(むかう)をむく)

この時乳母お浅障子をあけて這入つて来る。
水野おどろいて飛のく。

お浅、
「まあ、水野様としたことが、お気の早い。」
水野、
(恥かしさうな顔)「お浅どの、昨日の一件よろしく頼みましたよ、」(意味あり気に目くばせして去る)

お浅、万事を心得ましたと云ふやうな風をしてうなづく。

お浅、
「お嬢様……」

云はれて雪枝向き直りそれから用心するやうにして、あたりを見廻しキツパリした声で云ふ。

雪枝、
「乳母(ばあ)や。」
お浅、
「はい。」
雪枝、
「わたしは到頭龍門党の言葉を信じて(と乳母の方へ顔を近づけ)殿様の御意に従ふと云ひ切つてしまつたよ。」
お浅、
「まあ、よくもそれまでに御決心なされました、」(と嬉しがる心地)
雪枝、
「殿様の短慮を思ひ、あまりに憎くい水野兵庫へのつら当てに、つい口をすべらして心にもない事を云ひました、もしや今宵龍門党が助けに来てくれなかつたら、乳母や、わたしのからだは、どうなるだらう、」(心配さうな顔をする)
お浅、
「何(なん)の、何んの、お嬢様、龍門党は決して約束の言葉を反故には致しません、それに観音様の御引合せ、どうぞ御安心なすつて下さいませ。」

雪枝、
「長い間の乳母やの心尽し、いよゝゝ(※61)これからは籠を出た鳥、乳母や、ようこそこれまで私を親切にしてくれたねえ。」
お浅、
「何を仰有います、お嬢様こそ私を親切にして下さいました、(と急に真面目になる)でも、考へて見れば悲しいことばかり、何んの罪もないお嬢様がかうした、御苦労をなさいますのは、どうした前世の因果かと思ひましたが、これもやつぱり時世(ときよ)が悪いのでございます、それでも到頭時節が来て龍門党のお蔭で、いよゝゝ(※62)京へ帰へれることになりました、さぞまあ京の旦那様がお喜びなされるでございませう。」
雪枝、
「帰つたならばお父様にさう云つて乳母やに沢山お褒美を貰つてあげるよ。」
お浅、
「何の、お嬢様、お嬢様のうれしいお顔を見さへすれば御褒美などはいりません。」
雪枝、
「小さい時にお母様に死に別れたわたし、わたしは乳母やをお母様だと思つてゐるよ。」
お浅、
「まあ勿体ない、(と涙ぐむ)何の御苦労もなくお育ちになつたおからだで、このやうな荒い浮世の風にお当りになることは、どうしても私、時世(ときよ)がうらめしくてなりません。」

二人ともしんみりと泣く。
間――

雪枝、
「ねえ、乳母や。」
お浅、
「はい。」
雪枝、
「あの眠り薬を呑んだら、もしやそのまゝ死んでしまうやうな事はあるまいか。」
お浅、
「そんな事がありますものか、龍門党が眠り薬を用ひたのは、お嬢様だけでありますまい、どうぞ安心してお呑みになつて下さいませ。」
雪枝、
「けれど、一旦のんだら私は二日二タ晩死んだも同じこと、その間乳母やはきつと私の傍に居ておくれよ。」
お浅、
「居りますとも、居りますとも、どうしてお傍を離れられませう。たとへどんな事があつても、私はお嬢様を守つて居ります。」
雪枝、
「どうせこの儘このお屋敷にゐるならば死なねば成らぬこのからだ、私もう喜んで薬をのむわ。」

九ツの鐘鳴る。

雪枝、
「おゝ、あれは九ツの鐘、龍門党の約束の刻限よ、さあ乳母や、きのふの薬を出しておくれよ。」
お浅、
「(立ち上つて火鉢にかけてあつた鉄瓶の湯を湯呑についで盃(さかづき)を載せ雪枝の前へ持つて来る。さうしてふところから紙に包んだ薬を出す)あゝ、(と小声で嘆息する)」
雪枝、
「乳母や、わたしがこの薬で眠つたら眼が覚める迄はきつとね。」
お浅、
「きつとおそばについて居ります。」
雪枝、
「眼が覚めた時、乳母やの顔が一ばん先に見えるやうにねえ。」
お浅、
「はい、」(と涙をふく)

雪枝薬を取り上げる。

お浅、
「お嬢様しばらく、」(と、とめる振する)
雪枝、
「えゝツ、」(と躊躇する)
お浅、
(悲しさうに泣き出してしまふ)
雪枝、
(涙ぐむ)「乳母や、お前がそんなに悲しむと、なんだかわたしはこの儘死んでしまひさうな気がします、どうぞもう泣いてくれるな。」
お浅、
「あゝ、お嬢様、(と涙を払つて決心し)わたしが悪うございました、さあ、お呑み下さいませ、龍門党の来るまで私はお嬢様を抱いて居りませう。」
雪枝、
「それでは乳母や、しばらくの……」(とにぢり寄る)
お浅、
「お嬢様……」

雪枝決心して薬を呑む、乳母抱く、雪枝漸々(だんゝゝ)に眠りに落ちる。
此時分南龍水野の風を装ひ党員二三、いづれも仲間(ちうげん)風を装つて下手木かげに出づ。
乳母不安になつて来る、雪枝がツくりする。乳母はもしや雪枝が死にでもしまいかと今更らながら驚き、

お浅、
「お嬢様、お嬢様、しつかりして下さい。」

ト、呼ぶ、南龍すゝみ出で、お浅の肩に静かに手をかける。

南龍、
(心配するなといふ科(しぐさ)
お浅、
(見て驚く)「アツ、水野様……(ヂツとすかし見る)オヽ、貴方は……」(と嬉しがる)
南龍、
(制して、党員に指図する)
党員、
(下手に向つて人を呼ぶこなし)

(暗転(だんまり)

第二幕第二場 井上壱岐守邸宅の一室

中間部屋。夜のこしらへ。
お玉身体に縄をかけられて、柱に縛りつけられて居る。
東狸その前に立つてお玉を責めて居る。

東狸、
「おい、お内儀(かみ)さん、お玉さん。」
お玉、
「えゝ、くやしい、」(身もだへする)
東狸、
「たんと苦しむがいゝ、美しい女が苦しむと、ますます美しく見えるものだ。」
お玉、
「畜生!」
東狸、
「何んとでもお言ひ、かうなつたらもうこつちの自由自在だ。」
お玉、
「フン、何が自由自在になるものか。」
東狸、
「いくらお前が強情でも、時と場合を考へるものだよ、いゝ加減に往生するものだ。」
お玉、
「何をこしやくな……」
東狸、
「俺のいふことを聞きさへすりや、痛い目をせずに済むのだ、あんまり往生ぎはが悪いから、可哀さうだと思ひ乍らも、やむを得ず縛つたのさ、苦しいと思つたらいさぎよく俺の心に従ふさ。」
お玉、
「たとへ死んだつて、お前の心に従ふものか。」
東狸、
「そりや誰でも言ふことだ。だが……(と考へ)うちの亭主はのんだくれだとか何んだとか言ひ乍ら、やつぱり亭主が可愛いさに井上様のお屋敷で師匠が今難儀に逢つてゐるとだましたら、夜(よる)夜中にも係らず一生懸命に駆け出して来たのだからなア、俺りやアますゝゝ(※63)やけ(※64)てならない。」
お玉、
「いらぬお世話だよ、いくらのんだくれの亭主でもわたしにとつちや、この世に二人とない大事の人だよ。」
東狸、
「その大事な亭主にお前はもう今日から添ふことはならぬのだぜ。」
お玉、
(無念の表情をする)
東狸、
「くやしいだらう、だが俺の心も察してお呉れ。」
お玉、
(うつむいてゐる)
東狸、
「これ程までに云つても、まんだお前は折れないのか、それ程亭主に未練があるなら、言つちやまづいが、教へてやらうか。」
お玉、
(顔をあげる)「何を。」
東狸、
(躊躇する思ひ入れ)「えゝ、(と決心して)どうせ言はなきやならないことだ。おいこれ、お前の亭主はなア、音に聞えた龍門党の首領(かしら)だ。」
お玉、
「えゝ、(とびつくりするが、すぐに)ほ、ほ、ほ、何を馬鹿な。」
東狸、
「とても本当にならぬと云ふのか。さうだらう、あのとぼけたやうな講釈師が龍門党のかしらだなどとは、本当にならぬも無理はない、だがお前、亭主が度々内をあけるのを、女のことゝばかり思つて居たのか。」
お玉、
「えゝ?」(と真面目顔になる)
東狸、
「お前のところに立寄る大道芸人、あれは皆んな龍門党の一味のものさ。」
お玉、
「それぢや、お前も……」
東狸、
「その仲間さ。」
お玉、
「あゝ、すまなかつた、かんにんしておくれ。」
東狸、
「何を?」
お玉、
「お前のことぢやないよ、かりにもわたしが敬つてゐた人を、のんだくれだと云つたのは……あゝどうしたらいゝだらう。」
東狸、
「まゝお聞きよ、その龍門党が昨夜(ゆうべ)このお屋敷へ忍び入り京の若松屋の娘を盗み出して行つたのだ、今度に限つて俺はその相談に入らなかつたが、御家老の水野様はそのやり口を見て、てつきり龍門党の所業(しわざ)だと思つて、だんゝゝ(※65)考へて見たところ師匠が昨日奥山で娘の乳母(ばあ)やと何やらコソゝゝ(※66)相談してゐたのを思ひ出し、さては龍門党は師匠に違ひないと見込みをつけ、殿様が是非娘を取りかへせと云はれたので、俺の処へ使(つかひ)をよこして折入つてのたのみだつた。俺は水野様に義理があるからお嬢さんを取りかへしてあげようと、かうしてお前を擒(とりこ)にしたのさ。」
お玉、
「ナニ? それぢや、お前は仲間をうる気か。」
東狸、
「さうよ、どうせ師匠の女房に恋をする俺だ、いつまでも一緒にや居られない。」
お玉、
「えゝ、恥知らず。」
東狸、
「何んと云はれたつて仕様がない、俺はもうお前のためにスツカリ眼がくらんだのだ、お嬢さんの行方を俺は知らぬから、水野様と相談して、お前をこつちへ連れて来たんだ、こつちへ擒にして置いたら、お前にぞつこん惚れてゐるかしら(※67)、きつとこの屋敷へ来るに違ひない。来たらその時、ひつくゝつて、お嬢さんのありかを吐かせ、それから殿様の御成敗にまかせるつもりさ。」
お玉、
「まあ何んといふ恐ろしい……あゝぢれつたい、どうぞ、お稲荷様、うちの人が来ぬやうに。」
東狸、
「来ぬことがあるものか、実は朝から今に来るか、今に来るかと水野様はじめ、みんなが手ぐすね引いて待つてゐるのさ。」
お玉、
「あゝ、どうしよう。」
東狸、
「だからものは相談だが、師匠が助けたいと思つたら、俺の女房になつておくれよ。」
お玉、
「…………」
東狸、
「お前がうんといゝさへすりや、師匠の生命(いのち)は助けて貰つてやる(。)(※68)さあ、どうだ、これでもお前はまんだがん張るのか。」
お玉、
「さあ。」
東狸、
「それとも師匠を見殺しにする気か。」
お玉、
「あゝ、」(と苦しむ)

この時障子があいて、南龍全身に縄をかけられ、水野に縄尻をとられて這入つて来る。

お玉、
(南龍の姿を見て、思はずも)「まあ、お前さん、」(と苦悶の態)
水野、
(東狸に向ひ)「やつぱりその方が云つた通り、飛んで火に入る夏の虫、難なく捕まへたよ。」

南龍、東狸の顔をぎろりと眺める。にらまれて東狸ちゞみ上る、そろゝゝ(※69)気味悪がつて逃げ出さうとする。南龍にらみつゞける、東狸遂に水野に耳打ちして、匍ふやうに出て行く。

水野、
(二人に向ひ)「もうかうなつたら貴様達は、袋の鼠も同然だ、さあ南龍、お嬢さんをどこへかくしたか、偽らずに申上げよ。」
南龍、
「せつかく連れ出したお嬢様、さう易々と、かくし場所は申上げられませぬ。」
水野、
「言はなきや二人を拷問する。」
南龍、
「何んなりとおやりなさいませ。拷問にかゝつて白状するやうな龍門党ぢやありません。」
水野、
(考へる)「貴様、女房が可愛くないか。」
南龍、
「可愛いけりやこそ連れに来ました。」
水野、
「その女房が苦しい目にあつても、お嬢さんのありかは言へぬといふのか。」
南龍、
(意味あり気に)「場合によつては云ひますよ。」
水野、
「どういふ場合だ。」
南龍、
「無事に女房と私をかへしてくださいますならば(、)(※70)取り戻したお嬢さまをそつくりそのまゝお返へししませう。」
お玉、
「もしお前さん、それは本気かえ、私しや死んでもかまぬから、どうぞ男を立てゝおくれ。」
水野、
「やかましい、だまつて居ろ、(とお玉を叱る)然し貴様の女房は、今では東狸の預りもの、東狸に相談して見なくちやア、貴様に渡すことはならん。」
南龍、
「それなら、やつぱり致方ありません、けれ共水野様、たとひ二人を返してでもあなたはお嬢様を取り返へさねばなりますまい。」
水野、
「ナニ?」
南龍、
「お浅どのから、委細を聞いて知つて居ります。」
水野、
「えゝ、」(と少してれる)
南龍、
「ですから、こゝは私の言ふことをお用ひなさつていかゞです、女房はもとゝゝ(※71)私のもの、それに私が戴いて行つたとて、あなたには痛くもかゆくもない筈です、どうぞいさぎよくウンと云つて下さいませ。」
お玉、
(南龍に向ひ)「もし。」
南龍、
「えーい、おぬしは口を出すな。」
水野、
(考へる)「だが貴様、一たいお嬢さんをどうして御座敷から連れ出した。」
南龍、
「それはもう御承知のことゝ思ひます、お浅どのに渡した眠り薬をお嬢様に呑んでいたゞき、失礼乍ら私は水野様に扮装して、不浄門の門番をあざむき、棺(くわん)の中へ入れて持ち出しました、あの薬は二日二タ晩死んだやうになりますので、今もお嬢様は棺の中に入つたまゝ、固く蓋をして隠し場所にお出になります。あの薬をのんでからは、風に当るとよくありません、もし、二人をお返へし下さいますなら、これから隠し場所へ御案内して棺のまんまお渡しすることに致します。」
水野、
「でも貴様は、さう云ふ口実を作つて、こつちを出しぬくつもりだらう。」
南龍、
「いつはりは申しませぬよ、もしお疑ひになるならば、私達を縛つたまんま案内させなすつたらよいでせう。受取る人数はいくたりなりともお連れなされて下さいませ。」
水野、
「でも、貴様の仲間が、手向ひでもした日には……」
南龍、
「龍門党は決して人をそこなひませぬよ、決心がお付になつたら一刻もお早く、お嬢様をお受取りになつてお屋敷へなりと、どこへなりと、」(と意味あり気に云ふ)
水野、
(その最後の言葉を打ち消すやうに)「それぢやさう云ふことにしてもよい。」
南龍、
「では御承知下さいましたか。」
水野、
(うなづく)
お玉、
「お前さんそれは正気かへ、私しや死んでも構はぬから、取りかへしたお嬢様は国元へ届けて上げて下さいよ。」
南龍、
「お主の知つたことぢやない。」
お玉、
「いえゝゝ(※72)、どうしてもわたしやお嬢様を返へすことはいやだよ。」
南龍、
(水野に向ひ)「これ、この通り、お玉がなかゝゝ(※73)言ふことを聞きません。これから篤(とく)とさとして聞かせますから、一寸暫らく二人だけに願ひたう厶(ござ)います。」
水野、
「そんな事を云つて逃げるつもりではないか。」
南龍、
「それぢや、どこかへ縛りつけて下さいませ、さうして、その間に受取りに来ていたゞくお侍さん達を仕立てゝ置いて下さいませ。」

 水野、南龍を柱に縛りつける。何んとなく警戒しつゝ去る。

水野、
「ぢや人数を仕立てゝ来る、早く相談するがよい。」
お玉、
(待つてゐたと云はぬばかりに、しみゞゝ(※74)した調子で)「お前さん、かんにんしてお呉れよ。」
南龍、
「何を?」
お玉、
「龍門党のかしらと知らず……」
南龍、
「よしてくれ、女房の口から龍門党などと呼ばれたくない。」
お玉、
「それに私故(わたしゆゑ)にこんなに苦労をかけて。」
南龍、
「おぬしのためなら、どんな苦労でもいとはぬよ。」
お玉、
「それにしても憎いのは東狸のやつ、お前さんがこの屋敷で、難儀をしてゐると、夜夜中(よるよなか)つげに来たので、取るものも取りあへず、走つて来たら、それはみんなあいつのたくみ、本当にわたし噛みついてやりたい位だ、あいつをお前さん一体どうする気なの。」
南龍、
「別にどうする気もないよ。」
お玉、
「いつそ殺してしまふがいゝ。」
南龍、
「いや、龍門党は決して人を殺さない。」
お玉、
「でも裏切りものなら殺したつて……」
南龍、
「いゝや、裏切りものと云はれて生きてゐるのは死ぬよりもつらい事だ。」
お玉、
「でも性根のくさつたあいつのこと恥を恥とも思ふまい。」
南龍、
「だがなあお玉、東狸のやつは、お前が言ふこときかぬ意趣返へしに仲間をうつただけなんだよ。俺はその心持ちを察してやる、かうして俺がお屋敷へ来てしばられたのも、やつぱりお前が恋しいからだ。」
お玉、
「それぢや、あの憎い東狸をゆるして置くのかえ。」
南龍、
「さうよ、生命(いのち)は助けてやるつもりさ、だが、あいつもそれ相当の成敗は受けにやなるまいよ。」
お玉、
「あいつが先刻(さつき)云ふのには、お前さんを擒にしたらお嬢様の在りかを吐かせ、それからお前さんを殿様の成敗にまかせるけれど、私があいつの女房になるなら、御家老に頼んで、お前さんを助けてやると云つてゐたよ。」
南龍、
「は、は、は、あいつには、あいつの魂胆、御家老には御家老の魂胆。御家老はお嬢様さへ取りかへしたら、あいつのことなど、どうでもいゝんだ。」
お玉、
「それでお前さんは本当にお嬢様と、私達二人をかへ事にするの。」
南龍、
「さうよ。」
お玉、
「それでは龍門党の名折れぢやないかね。」
南龍、
「お主の身体にやかへられぬ。」
お玉、
「まあ、私を可愛がつてくれることは有難いが、龍門党は龍門党らしくしてほしいねえ、私は人知れず龍門党の首領(かしら)を慕つて居つたが、恋故に党の名を汚す人とは思はない、お前さんが本当に龍門党のかしらなら、お嬢様を京へ送つて党の名を立て通しておくれ。」
南龍、
「けれ共、かうして二人とも縛られてゐちやア、どうにも仕様がないぢやないか、俺を一緒に死なせてもお主は構はないといふのか。」
お玉、
「さあ、そこを何んとか切り抜けるのが龍門党ぢやないの。」
南龍、
「うむ、けれどなあ、俺はお前が恋しいのだよ。」
お玉、
「まあ、お前さんはそんな弱い人だつたかえ、そんな弱い人が龍門党のかしらだとは思へなくなつた。」
南龍、
「なに、人間は誰だつて弱いものだよ、強い人間なんて、みんなカラ威張りだ、こゝはやつぱり俺の言ふ通りになつてくれ。」
お玉、
「お前さん、せつかく取りかへしたお嬢様を、みすみす返へして、それが残念でないのかえ。」
南龍、
「今になつては、もう、どうにも仕様がない。」
お玉、
「あゝあ、もう、何んだかお前さんに愛想がつきかけて来た、そんな意気地のない人なら、今日からもう赤の他人だよ。わたしはやつぱり、私の思つてゐる龍門党の党首(かしら)を心に祭つて、一生涯を暮したい。」
南龍、
「困つたもんだなア、女はやつぱり恋を恋するのか、ぢやお玉、おぬしに一寸訊ねるが、おぬしは龍門党をそれ程に慕つて居り乍ら、龍門党のやり口を、ちつとも知らないのか。」
お玉、
「えゝ?」
南龍、
「龍門党はこれまで、どんな難儀をも切り抜けて、一旦思ひたつたことは一度も失敗しやしないよ。今のおぬしの言葉では、龍門党を恋しても、龍門党をちつとも信じてゐないやうだ。俺は今お主に恋は名よりも重いといふことを云つただけだよ、俺は女房にさへ、今迄俺の正体をあらはさなかつたぢやないか、東狸の口から聞かなかつたら、お主はやつぱりおれの正体を知らずに居ただらう。俺がこの屋敷へみすゝゝ(※75)縛られに来たのも、(とあたりを見廻して警戒する)深い魂胆があつてのことだ。」
お玉、
「えゝツ?」
南龍、
「俺は御大名をからかつてやりたいのだ、世の中の人をあつと云はせてやりたいのだ。」
お玉、
「それでも、お前さんは私達二人とお嬢様を替へ事にするつもりだらう。」
南龍、
「さうよ。」
お玉、
「それが私には……」
南龍、
「おいお玉、」(と意味ありげに目くばせする)

 お玉はじめて安心の色。この時水野兵庫あわたゞしく這入つて来る。

水野、
(南龍に向ひ)「貴様、東狸を連れ出したな、(※76)(と息づかひはげしく迫る)
南龍、
「冗談仰有つてはいけません、私はかうして縛られて居ります。」
水野、
「何んでも今しがた、美しい娘が東狸を呼び出しに来て、東狸が御門の外へ出たら物かげに隠れてゐた五六人の男が、ウムを云はさず、東狸をかついで行つたといふことだが、きつとそれは龍門党の奴等だらう。」
南龍、
「大方さうでございませう。」
水野、
「どこへ東狸をつれ出した。」
南龍、
「それは一向存じませぬ、女に甘い東狸のこと、美しい娘と聞いて門外へ出たのが、ヤツの落度でございます。」
水野、
「いよゝゝ(※77)につくい……」
南龍、
「まあゝゝ(※78)水野様(、)(※79)東狸の詮索よりあなたにとつてはお嬢様のせんさくが御大切ではありませんか、唯今お玉に話しましたところ、やつと納得致しました、この上は御家来の皆様をお嬢様の隠し場所まで御案内致すでござりませう……」
水野、
「それぢや二人とも、縛つたまんま連れて行くぞ。」
南龍、
「えゝ、よろしうございますとも。(とお玉の方をかへりみ)ぢや、お玉これから一緒に出掛けるんだぜ。」
お玉、
「あい、行くわ。」

――幕――

大詰第一場 佃沖

夜。
中央から上手にかけて大船(たいせん)の船体大部分見える。
風可なりに吹くけれども、波比較的穏かである。
帆柱その他色々の道具がある。大船の船ばたは舞台前端によほど近く、船上の芝居がよく見える範囲に於て、なるべく高くつくる。
船ばたに近く龍門党員二人、前方の海上をながめて話してゐる(この党員は序幕第三場に出たうちの人誰でも可なり。)

党員一、
(※80)おい、(と前方を指し)(※81)あそこへ来たのが、あれが頭首(かしら)の船ではないか。」
党員二、
「どうやらさうらしい、彼此十五六人ものつて居るやうだ。」
党員一、
「うまく行けばよいがなあ。」
党員二、
「こつちの用意は出来たし、それに頭首(かしら)のことだ、万々一にもやり損ひはあるまいて。」

この時下手から伝馬船徐々に出て来る。
水野舳先に立ち、続いて南龍、お玉、しばられたまゝ侍に縄尻とられて立つて居る。
その他侍数人見える、やがて伝馬船は大船の横腹に少しの角度をなしてつく。
伝馬船のともの方はかくれて見えない。

水野、
「まさかこんなところにお嬢さんがかくしてあるとは思はなかつた、久し振りに船にのつて、何だか気持が変になつた。」
南龍、
「どうも遠いところを御苦労様でございました、さあ、一先づ船へあがつて頂きませう、(と大船の方を見上げ)おいゝゝ(※82)梯子を渡してくれ。」

党員梯子をかついで来て、大船と伝馬船との間にわたし懸ける(。)(※83)

南龍、
「さあ、水野さまお上り下さいませ。」

水野躊躇する。

南龍、
「それでは私が御無礼致します。お玉、おれについて来い。」

南龍船へ上る。縄持つ侍続く、お玉上る。縄持つ侍続く。
水野刀に手をかけて上る。
侍二三人上る。いづれも刀に手をかけて居る。

水野、
(侍に向つて)「おいゝゝ(※84)念のため二人をその帆柱へしばりつけてくれ、どんなことをされるやらわからならぬ(※85)からなあ。」

南龍、お玉、しばりつけられる。

南龍、
(しばりつけられたまゝ)「おい、みんな。」

党員数人出て来るつもり、但し見物に見えなくてもよい。

南龍、
「残念ながらお嬢様を御渡ししなければならない。」
党員一、
「えゝツ、(と驚く)それでは……」
南龍、
「東狸の裏切りで折角の計画がめちやゝゝゝ(※86)になつた。」
党員一、
「でも、それは。」
南龍、
「仕方がない、棺(くわん)のまんま、こゝへ御連れ申してくれ。」

党員渋々ながら下へ降りて行く。やがて白い寝棺をつゝて出て来る。
乳母お浅ついて出て来るが、水野の後姿(うしろすがた)をすかし見て、ぎよつとして、後ろの方に差し控へ、不安気に立ちながら、不吉な予感に、はらゝゝ(※87)して居る。

南龍、
(水野に向ひ)「この中にお嬢様が眠つておいでになります、かねて申し上げましたとほり、お嬢様のおのみになりました眠り薬は、二日二晩死んだやうになりますからちやうど明晩目を御あきになると思ひます、その間なるべく風にあてゝはなりま(※88)から(、)(※89)この通り蓋が釘づけに致してありますが、出来るだけ早く御検分下さいませ。(党員に向ひ)おいゝゝ(※90)がん灯をもつて来て、蓋をあけてお嬢様をお目にかけてくれ。」

党員釘抜をもつて棺(くわん)の蓋をあける。やがて蓋を取る。
党員、手をかけ、雪枝の上体をだき起して水野に見せる。水野がん灯で雪枝の顔を照らして、肌に手をふれて見る。

水野、
「いかにもお嬢様にちがひない、ほとぼりのあるところを見ると、その方のいふとほり、寒い風に当つては悪い、早く蓋をしてくれ。」

党員蓋をして釘を打ちこむ。

南龍、
(党員に向ひ)「ついでにその釘抜を御渡してくれ(。)(※91)(水野に向ひ)若し棺(くわん)の中でうなり声が致しましたら、それは御目のさめたときですから、すぐ蓋を取つて風にあてゝ下さいませ。」

この時乳母お浅遂にたへかねて駆け出す。

お浅、
(水野にむかひ)「もし、お嬢様をどうなさるつもりで御座りますか。」
水野、
「おゝ、そなたはにつくい乳母、そなた故に、御屋敷に騒動が持ち上り、とんだ苦労をさせられた。けれどこのとほりお嬢様をつれて帰るのだから、まだしもの腹癒せだ。」
お浅、
「えゝツ、それではやつぱり、(と驚き南龍に向ひ)あなた、これは本当のことで御座いますか。」
南龍、
「乳母(ばあ)やさん、党員の中に内通するものがあつて、この通り夫婦がしばり上げられ、たうとうお嬢様を返さにやならぬことになりました、悲しいけれど、あきらめて下さい。」
お浅、
「それでは私、お嬢様について行きます。」
水野、
「いけない、」(ときつぱり云ふ)
お浅、
「いゝえ、どこゝゝ(※92)までもついて行きます。」
水野、
「いけないといへば、(と叱り、侍に向ひ)おいゝゝ(※93)面倒だ、早く棺(くわん)をあちらへ移せ。」

侍たち棺に手をかけようとする。乳母かけ寄つて棺にしがみつく。

お浅、
「お願ひです、水野さま、どうぞわたくしもつれて行つて下さいませ。ゆうべ、お薬を召し上つたとき(、)(※94)眼があいたら、一ばん先に乳母(ばあ)やの顔が見えるやうにと仰しやつたそのお顔が、今も目の前にちらつきます。どうしてゝゝゝゝ(※95)お嬢様ひとりを、知らぬ他人にまかせて置けませう、わたくしはどんな苦労を致しても厭ひませんから、どうぞお嬢様のおそばにおいて下さいませ。もし、御願ひで御座います。」
水野、
(冷酷に)「おいゝゝ(※96)うるさいから、序にそつちへしばりつけてしまへ。」

侍、乳母を無理に引き起して縄をかけ、柱にしばりつける。
乳母声をあげ、身もだへして泣く。

お玉、
(最前から、貰ひ泣きして居たが、南龍に向ひ)「お前さん、こんな悲しい目にあふのもみんなお前さんゆゑよ、乳母(ばあ)やさんも一緒について行けるやうに水野様にお頼みなさい。」
南龍、
「水野様、どうぞ乳母(ばあ)やさんの願ひをきいてあげて下さいませ。」
水野、
(傲然として)「断じてならぬ、さあ、愚図々々してると時が経つ、おい、早くそつちの船へ移せ。」

侍二人棺をあげやうとする。なかゝゝ(※97)重くてあがらない。

侍二人、
(口を揃へて)「こりや重い。」
南龍、
(党員に向ひ)「おい、お前達、お手伝ひせよ。」

党員二人加勢し、四人で棺を支へ梯子を伝つて降りやうとする。そのうち党員の一人が足をすべらし、途端に、棺桶、皆々の手をすべつて、どぶんと音をたてゝ水中に落ちる。皆々『あツ』と叫ぶ。
水野思はず、船ばたへ駆け寄つて、

水野、
「や、や、沈んでしまつた、早く、早く。」

侍たち誰も水中に飛びこまうとしない。

南龍、
(党員に向ひ)「おいゝゝ(※98)、お前たち、早く飛び込んで、上げて来い。」

党員二人いさぎよく衣服をぬぎ、おのゝゝ(※99)肌着一つになつて海の中へとびこむ。

南龍、
「水野さま、棺(くわん)は釘づけにしてありますから、一滴も水ははいりません、いまに首尾よく上げてまゐりませう。」
水野、
(船ばたからのぞいて)「おゝ上つた、上つた、」(とうれしさうに喜び乍ら梯子をつたつて伝馬船へ降りる)

侍たちも続いて降りる、さうして棺をつり上げて伝馬船の中へ移す、水にとびこんだ党員伝馬船へ上り、それから梯子をつたつて大船の上に行く(。)(※100)

水野、
「あゝ碌なことはありやしない、しかしまあお嬢さんが無事でよかつた。こんなところに長居は無用だ、おいゝゝ(※101)(と、とも(※102)の方に向つて云ふ)早く船をもどしてくれ。」

船徐々に下手に戻る。水野得意気に、大船の方をふりかへる。やがて伝馬船姿を消す。
大船の上では乳母お浅しきりに悲しむ。お玉も共に泣いて居る。

お浅、
(泣きながら)(※103)あゝ、どうしませう、死ぬよりつらいとはこのこと、わたしはもう、生きて居る気がありません。(※104)
お玉、
(すゝり泣きながら)「ほんに御察し申します。」
南龍、
(ジツと考へて居たが、党員に向ひ)「おい、こゝへ来て三人の縄を切つてくれ。」

党員そばへ寄り南龍(、)(※105)お玉、乳母の順で縄を切る。
突然、乳母船ばたへかけよつて身投げしようとする。

南龍、
(駆けよつて)「あぶない!」(と乳母を抱きとめる)
お浅、
「どうぞ離して下さいませ、私はもう生きては居られません。」(となほも飛びこまうとする。)
南龍、
(党員を顧み)「お前たち、乳母(ばあ)やさんをしつかりと抱きとめてくれ。」

党員二人南龍に代つて乳母をだきとめる。
南龍腕を組んで思案する。

お浅、
(身もだへしながら)「離して下さい、どうぞ私を死なせて下さい。」
お玉、
(南龍の肩にすがり)「今更帰らぬことだけれど、この乳母(ばあ)やさんの悲しみを、どうしてお前さんは慰めるつもりなの。」
南龍、
(苦悶の色を見せる、さうして静かに後ろへ手をまはして帯を解く(。)(※106)
お玉、
「二人があの時死んで置けばこんなことはなかつたのに、さあ、お前さん、どうしてお嬢様に申訳をしようとするの。」
南龍、
(決心して)「その申しわけはかうしてするのだ。」

着物を脱いだかと思ふと、飛鳥(ひてう)のやうに身を躍らせて海にとびこむ。

お玉、
「あれツ!!」

お玉、驚いて船ばたにかけつける。
別の党員お玉の万一のことを思つてお玉を引きとめる。
つかまえられて居る乳母も共に驚いて、

――幕――

附記

幕が下りた時、その幕は次のやうな文句を書いた字幕でありたし。

字幕の文句
龍門党のかしら(※107)は果して、申しわけのために身を投げたのでせうか、皆さまはさうでないと思ひになりませう、然らば何のために海の中へとびこんだのでせうか、どうぞ次の幕をようごらんになつて、龍門党のやり口を喝采して下さいませ。
(この字幕は染めてもよし、又は、幻灯で幕の上に映写してもよし)

大詰第二場 海岸

夜。前幕のすぐあと。
正面に佃沖を望む、前幕の伝馬船上手より海岸に向つて徐々に進む。
水野を始め侍たち乗つて居る。
やがて船海岸につく。

水野、
「あゝ寒かつた、春とは云へ、海の夜風は氷のやうに冷たい、龍門党の奴め、酷い目に逢はしやがつた。」
侍一、
(沖の方をながめて)「いよゝゝ(※108)龍門党は帆をあげて出かけたやうで御座います。」

皆々海上を振り向く。

水野、
「いゝ気味だ、折角のあいつ等の計画もまんまと裏をかゝれたのだからなア、今頃あいつ等は、しほゝゝ(※109)として帰るだらう、とりわけ乳母のお浅は雪枝どのをとられて、悲しさに、身投げでもして居るか知れん、さあいよゝゝ(※110)船がついたから邪魔のはいらぬそのうちに、早く雪枝どのを運んでくれ、行先はかねて話した通りだ、わかつてゐるな。」

侍たちうなづく、濡れた棺を岸の上におろす。この時、棺の中でうなり(※111)声がする。

侍二、
「ハテ、たゞ今棺(くわん)の中から唸り声が聞えたやうで御座います。」
水野、
「なに、」(と云つて、うつむいて、首を傾け、耳を澄ます)

侍たちも同様の挙動をする。再び棺の中から唸り声が聞える(。)(※112)

水野、
「おゝ、いかにもこりや唸り声だ、龍門党の言つた通り、唸り声のする時は眼が覚めかけた時だから、早速風に当てなきやならぬ、したが、二日二晩眠る筈のが、今夜目が覚めるとは、どうも少しをかしいなア。」

段々うなり声がはげしくなる。

水野、
「ハテ、奇妙な唸り声だ、雪枝どのに似合はぬ太い声だ、おいおい、兎も角先刻(さつき)の釘抜きで、早く蓋を取つてくれ。」

侍たち、釘を抜きにかゝり、やがて蓋を取る。

侍たち、
(一斉に)「やツ。」

水野駆け寄つて中をのぞく。

水野、
「やツ、やツ、こりやどうだ、こりやこりや、こりや、南龍の弟子の東狸ぢやないか。」

この辺にて風の音頻りに鳴りつのる。皆々あまりの意外な出来事のため、物をも言はずつつ立つてゐる。棺の中の男、(東狸)だんゝゝ(※113)息を吹き返す。侍達上体を起してやる。
東狸、猿轡をかまされ、全身を縄でしばられ髪乱れてゐる。
東狸怪訝さうにあたりを見廻す。

水野、
「き貴様はどうしてこゝへ?」
東狸、
(徐々に声する方へ仰向いて)「あツ、あなたは水野様、さては、さては。」
水野、
「早く申せ、こりや一たいどうしたと云ふのだ、さつきあちらで検(しら)べた時には、たしかに雪枝どのだつたのに。」
東狸、
(漸く事情を知つた思ひ入れ)「水野様、残念ながら龍門党にはから(※114)れました、私は今夜、お屋敷から元の仲間にだまされて誘ひ出され否応なしに船に連れ行かれ、かうした縄目を受けました、なんでも仲間の云ふのには、あなた様がお嬢様をつれに来るから、その時はお嬢様の代りとして私を差出すのだと言つて居りました、(※115)様の棺(くわん)と同じ大きさの棺(くわん)に私を入れて、海の中へ沈めて置き、それからお嬢様の棺(くわん)を船へ移す拍子に、わざと水の中へ落し、水の中ですりかへて、私の棺桶をあなたにつかませるのだと云つて居りました。私はさつきひどく撲(な)ぐられて気を失ひましたがその時私を棺(くわん)に入れて海へ沈めたものと見えます、さうして、あなたは龍門党に一杯計られなさいましたね。」

言ひ終つて苦しさうな息づかいをする。

水野、
「さては、(と地団駄踏む)それぢやおれ等の出かけた時、雪枝どのの棺桶はまだ海の中に沈んで居たのか、あゝ、さうとは知らなかつた、今頃は南龍の奴め、自分で海へでも飛び込んで、雪枝どのをたすけ出し、嘸々おれのことをあざ笑つて居るだらう、ええ残念なツ。」

恨めしさうに水野、海上遙かを見る。侍たち、海の方を眺めて、同じく残念さうな振りをする。

水野、
(東狸を見下し)「えーい、かうした手違ひになつたのも、貴様が南龍の女房に惚れて、龍門党を売つたからだ。この畜生め!」

水野、東狸に鉄拳を喰はす。東狸再び失神して、棺の中に仰向きに仆れる。

――幕――

作者附記
 この脚本は、河合武雄氏の依嘱によつて書きおろしたものであります。さきに私は同氏のために「紅蜘蛛奇譚」二幕四場を書いて名古屋、浜松、静岡、神戸で上演されましたが、大阪では、これを上演したくても許可されないであらうといふ予想のもとに、この脚本を書いたものであります。さうして愈よ稽古に取りかゝつた日に、「紅蜘蛛奇譚」上演の許可を受けましたので、二月十九日から大阪浪花座でこれを上演することに決し、この脚本の上演は次の機会に譲ることになりました。

(※1)(※2)(※3)原文句読点なし。
(※4)原文の踊り字は「く」。
(※5)原文圏点。
(※6)原文の踊り字は「く」。 (※7)原文ママ。
(※8)原文圏点。
(※9)(※10)原文の踊り字は「く」。
(※11)原文ママ。
(※12)原文の踊り字は「く」。
(※13)原文句読点なし。
(※14)原文圏点。
(※15)(※16)(※17)(※18)原文の踊り字は「く」。
(※19)(※20)原文圏点。
(※21)原文句読点なし。
(※22)原文ママ。
(※23)原文句読点なし。
(※24)(※25)(※26)原文の踊り字は「く」。
(※27)原文の踊り字は「ぐ」。
(※28)原文句読点なし。
(※29)原文句読点なし。空欄。
(※30)原文の踊り字は「く」。
(※31)原文圏点。
(※32)原文の踊り字は「く」。
(※33)原文圏点。
(※34)原文の踊り字は「く」。
(※35)原文閉じ括弧なし。
(※36)原文ママ。
(※37)原文の踊り字は「く」。
(※38)原文圏点。
(※39)(※40)(※41)(※42)(※43)原文の踊り字は「く」。
(※44)(※45)原文句読点なし。
(※46)(※47)(※48)原文の踊り字は「く」。
(※49)原文圏点。
(※50)原文の踊り字は「ぐ」。
(※51)原文圏点。
(※52)原文の踊り字は「く」。
(※53)(※54)(※55)原文圏点。
(※56)(※57)(※58)原文の踊り字は「く」。
(※59)原文句読点なし。
(※60)(※61)(※62)(※63)原文の踊り字は「く」。
(※64)原文圏点。
(※65)(※66)原文の踊り字は「く」。
(※67)原文圏点。
(※68)原文句読点なし。
(※69)原文の踊り字は「く」。
(※70)原文句読点なし。
(※71)(※72)(※73)原文の踊り字は「く」。
(※74)原文の踊り字は「ぐ」。
(※75)原文の踊り字は「く」。
(※76)原文閉じ括弧なし。
(※77)(※78)原文の踊り字は「く」。
(※79)原文句読点なし。
(※80)原文括弧なし。
(※81)括弧位置、原文ママ。
(※82)原文の踊り字は「く」。
(※83)原文句読点なし。
(※84)原文の踊り字は「く」。
(※85)原文ママ。
(※86)(※87)原文の踊り字は「く」。
(※88)原文ママ。
(※89)原文句読点なし。
(※90)原文の踊り字は「く」。
(※91)原文句読点なし。
(※92)(※93)原文の踊り字は「く」。
(※94)原文句読点なし。
(※95)(※96)(※97)(※98)(※99)原文の踊り字は「く」。
(※100)原文句読点なし。
(※101)原文の踊り字は「く」。
(※102)原文圏点。
(※103)(※104)原文括弧なし。
(※105)(※106)原文句読点なし。
(※107)原文圏点。
(※108)(※109)(※110)原文の踊り字は「く」。
(※111)原文圏点。
(※112)原文句読点なし。
(※113)原文の踊り字は「く」。
(※114)原文圏点。
(※115)原文ママ。

底本:『大衆文芸』昭和2年4月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1927(昭和2)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(公開:2017年3月11日 最終更新:2017年3月11日)