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疑問の黒枠(第五回)

 第十三章 追跡

 犯罪方程式!
 それは先週の土曜日、肥後君が、はじめて小窪教授から聞いた、いはゞ教授の犯罪哲学を簡単に示した結晶であつた。
 その犯罪方程式が、今、押毛の所持して居る雑誌の一頁に書かれてあるといふことは、そもゝゝ(※1)何を意味するであらうか。
 押毛は小窪教授を知つて居るのだ!
 小窪教授は押毛を知つて居るのだ!
 犯罪方程式を見た瞬間、肥後君の頭の中にひらめいたこの考が、肥後君に思はずも驚きの大声を発せしめたのは当然のことであつた。
 それと同時に肥後君の頭には、百千の考(かんがへ)が颶風のやうに渦を巻いて発生した。
 押毛が教授を知つて居るとすれば、ことによると、教授は、村井氏の今回の不思議な計画を知つて居るかも知れない。若し教授が知つて居るとすれば、果してどの程度に知つて居るであらうか。
『世間を騒がす悪戯といふものは、必ず悲劇に終るものだよ。』と、あの日、死亡広告事件を批評した教授の言葉は今になつて見れば、概念的に言つたものではなくて、当然起きるべきことを物語つたものと考へれば考へられぬことはない。して見れば、小窪教授は村井氏の死を予期して居たのであらうか。なほ一歩進めて言ふならば、小窪教授は村井氏の死に関係があるのだらうか。
 と、考へて、ぎくりとした時、傍(そば)に立つて居た鹿島刑事は、
『どうしたのです。何をびつくりしたのです。それは何です。』と、肥後君の顔をのぞき込むやうにしてたづねた。
 肥後君は刑事のこの言葉にはじめて、平静な心を取り戻した。が、次の瞬間鹿島刑事に説明してよいか悪いかに迷つた。
 肥後君の躊躇して居るのを見て、刑事は追ひかけてたづねた。
『何ですか、それは。何か珍らしいことなのですか。』
 たとひ教授が村井氏の死に関係があるとしても、まさか教授が手を下して村井氏を殺す筈はないだらうと考へた肥後君は、包まず刑事に説明しようと決心した。
『これは犯罪方程式といつて、いはゞ小窪先生が発明されたものです。それを押毛がこゝに書いて居るのは、押毛が小窪先生を知つて居ることになります。』
『えゝツ。』と、刑事もさすがに驚きの色を見せた。が、何か言はうとする前に肥後君は続けた。
『僕は先週の土曜日にはじめて、先生から、この方程式を教はつたのです。だから、押毛も最近先生からきいたのにちがひありません。若しさうだとすると、先生は、村井氏の今回の計画をとくに知つて居られるかも知れません。』
『ふーむ。』と刑事は大きく唸つて腕を拱(こまね)いた。さうして眼をつぶつて暫く考へて居たが、やがて平静な顔になつてたづねた。
『その犯罪方程式といふのは、小窪先生が学生たちにも講義されるのではありませんか。』
『そりや、無論講義されるだらうと思ひます。』
『あなたは先週の土曜日にはじめてきいたと仰しやるけれども、先生はもう何年も前から学生に講義して居られるのではないでせうか。』
『そりや、どうだか存じません。僕は先月からこちらの法医学教室に御厄介になつたばかりですから。然し、このあひだの先生の口振りでは、この犯罪方程式は、最近に御考へになつた様子でした。』
『ふむ。』と刑事は再び考へた後(のち)言つた。『ですけれど、小窪先生が数年前(ぜん)からそれを講義なさつたとすると都合がいゝやうに思はれます。といふのは、若しさうとすれば、自然殿山医師も学生時代にそれをきいたでせうし、さうして、押毛は殿山医師から伝へ聞いたのだらうと考へられますから。』
 これを聞いて肥後君はなるほどと思つた。けれども、押毛と小窪教授とが知己の仲であるといふ推定をそれによつて完全に打消すことが出来なかつた。
『すると、あなたは押毛と殿山医師とが共謀して、村井氏を殺したとお考へになりますか。』と、肥後君は、煮え切らぬやうな口調でたづねた。
『さあ、そこまで私はまだ考へて居りませんよ。小窪先生が押毛と知己の仲だと考へることは、あまりにも突飛ですからなあ。たゞ考へ易い方のことを申したのに過ぎません。』
 かういつてから刑事はポケツトに手を入れて、中澤保に宛てられた例の無名の脅迫状を取り出し、その筆蹟と、押毛の文字とを比較した。が、二つの筆蹟は少しも似て居なかつた。
『偽筆とすれば無論ちがふやうに書けますれど(※2)、どうも、この二つの筆蹟はまつたく別人が書いたやうに思はれますなあ。何はともあれ、これから、殿山医院の様子をさぐつて来ようではありませんか。』
 肥後君は押毛と小窪教授とを結びつける有力な手がかりを発見したつもりで、しきりに、先日来の教授の言動を回想したが、鹿島刑事は、それほどの興味を持たず、その心は、ひたすらに、殿山医院の方にいそいで居るらしかつた。
 で、肥後君は手にして居た雑誌を本箱にをさめ、刑事に従つて、押毛の居間を出た。
 階下(した)に来るなり鹿島刑事は、聞天館の主人に頼んで電話室を借りた。さうして、数分の後、電話室から出て来た刑事の顔には心配さうな色が浮んで来た。
『今、村井さんの御宅へ電話をかけてきゝましたが、中沢さんは相変らず帰つて来ないさうです。ところが夫人の容態がどうもだんゞゝよくない様ですから殿山さんへ電話をかけたけれども通ぜず、親戚の人が心配して先刻大学病院の内科の先生に来てもらつたところ、急性肺炎だから決して油断がならぬといふことだつたさうです。さうして夫人はしきりに、富子さんと中沢さんに逢ひたがつて居られるさうです。』
『さうですか、急性肺炎ですか。』と、肥後君も顔を曇らせた。『それぢや、誰か医者がついてなくてはいけないでせう。僕は臨床家ではありませぬけれど、素人よりは幾分ましだと思ひますから、いつそ、これから村井さんの御宅へ伺つて居りませうか。それに、中沢さんの御話から察すると、夫人は今回の事件に関して何だか、もつと深いことを知つておいでのやうにも思はれますから、万一の場合に、僕等のうち誰かゞそばに居た方がよいと思ひます。尤も夫人が僕の行くのをお好みにならなければ致し方がありませんけれど、あなたの捜索の結果を承つたり、又は村井家の事情を通知するためにもその方が好都合だと思ひます。』
『さうして下さるか。』と、鹿島刑事はあかるい表情をとり戻して言つた。『実は、いま、わたしもそれをあなたに御願ひしようかと思つたところです。殿山医師の動静はわたしと部下のものとでさぐりますから、どうか村井さんの方をよろしく願ひます。あなたが行つて下さるなら、夫人もきつと喜ばれるでせう。』
 二人はやがて聞天館を出た。鉄橋の下から公園の方を見ると、十六夜の月に照された樹木の影は海底のやうに淀んで、時時走り出して来る自動車が、巨大な水棲爬虫類のやうに思はれた。
『お腹がすきはしませんか。一しよに御飯を食べる約束でしたが。』と、鹿島刑事は言つた。
『さうですねえ。』と肥後君は考へた。『僕はこれから一寸教室へ立寄つて、それから村井さんの御宅に行かうと思ひます。食事は教室でゝも済ますことにしませう。』
 肥後君と別れた鹿島刑事は、食事するひまももどかしく思つたので、そのまゝタクシーを雇つて小林町の殿山医院に向けて走らせた。殿山医院は電車通りを東へ半丁程はいつたところにあつたから刑事は人通りの多い電車通りで降りて、それから用心深く横町へまがつた。横町は水を打つたやうに森閑として居て、軒燈の光がぽつりゝゝゝとならんで居た。
 刑事は街の右側をそつと歩いて行つたが、やがて殿山医院の前へ来たので、立ちどまつて様子を伺つた。殿山医院は街の左側にあつて、さほど大きくない南向きの洋式二階建で、往来から四五間はいつたところに入口があつた。玄関に通ずる石畳の左右と、建物の両側とは植込になつて居た。見ると、入口の軒燈はかすかについて居たけれど、家の中には人気がないらしく、どこからも、光線がもれて来なかつた。たゞ正面にある二階の硝子窓の一つに、まんまるい月がさびしく映つて、蒼白い光を刑事の顔に反射した。
 突然、誰かゞ背後に近づいたので、鹿島刑事はくるりと振向いた。それは夕方張番を命じた部下の一人であつた。
『どうだつた?』と、鹿島刑事は低声でたづねた。
『あれからずつと見張つて居りますが、誰も出入り致しません。尤も、一度、署へ帰つた間に誰か出入りしたかも知れませんけれど、こつちへ来てから二三度ベルを鳴らして見ましたが、やはり返答はありませんでした。』
『殿山医院には看護婦や女中は居ないのかい?』
『女中はこの頃まで一人居たさうですが、近頃は書生と二人きりださうです。近所の人にはあんまり評判がよくありません。』
 部下の話をきゝながら、医院の方をながめて居た鹿島刑事は、何を見たのか、
『や』と軽く叫んだ。
 見ると、階下の向つて右の窓の奥から、微かな光線が上下に動いて映つた。それは誰かゞ懐中電燈をもつて、何か捜して居るかと思はれるやうな様子であつた。鹿島刑事は思はずも、光線のもれて来た窓の前方に走り寄つたが、その時、もはや、件の光線は消えてしまつて、窓の奥は石炭のやうに真黒であつた。
 けれども、これによつて、殿山医院の中には、たしかに人の居ることがわかつた。
『ベルを押して見ませうか。』と、鹿島刑事の後について来た部下は囁いた。
『いけないゝゝゝゝ。』と、刑事は頭を横にふつた。
『むかうから見られるとまづいから、あそこの家の蔭から様子をうかゞふことにしよう。』
 鹿島刑事は先に立つて、恰度都合よく二三歩先にあつた細い路地にはいつた。さうして二人は、息をとゞめて殿山医院の方をながめた。
 二三分、医院の中には何の変化も起らなかつた。まだ宵の口であるのに、運よく誰も通らなかつたので、二人は怪しまれずに見張りを続けることが出来た。
 と、その時、殿山医院の入口の扉が徐々にあいて、中から帽子をかぶつた一人の女が首だけを出してそーつとのぞいた。それは恐らく、表の様子をうかゞつたのであらう。さうして誰も居ないと見届けるなり、ひらりと扉を開いて、ぽんと閉め、急ぎ足で街の方へ歩んで来た。
 はじめ、女が首を出したときはそれが誰であるかを見わけることが出来なかつたが、その洋装を見、軽い歩調をながめた時、鹿島刑事は思はずも、
『あツ。』と叫んだ。
『どうしたのです。誰です。』と部下はたづねた。
『奇術師の松華だよ。』と刑事は声を顫はせた。
『あ、さうです、ゝゝゝゝ。』と部下も興奮して言つた。
『かうしては居られない。わしはこれから松華の跡をつけるから、お前はこゝに番をして居て、若し又、誰か出て来たら、そのあとをつけてくれ。』
 言ひ置いて刑事は小走りに松華の跡を追つた。その時松華はすでに電車通りへ出て、むかう側に渡らうとして居た。刑事は、彼女を見失ふまいと、大急ぎでついて行つたが、やがて彼女は北を向いてどしゞゝ歩いたかと思ふと、後ろから走つて来た電車に近づいて、ひよいと飛乗りをした。
 刑事ははツと思つた。いくら走つても自分の身体ではとても電車に追付くことは出来ない。電車はどんゞゝと走つて行く。見るゝゝ自分と松華との距離は遠ざかつて行く。刑事はその時、はげしい焦燥を感じたが、ちやうど運よく後ろから一台の空のタクシーが走つて来たので、それを呼びとめるなり運転手に事情を話して飛乗つた。距離はだんゞゝせばめられた。自動車の中から前方をすかして見ると、松華が車掌台に立つて居る姿さへ見え出して来た。彼女はどうやらつけられて居るといふことを知らないらしかつた。
 やがて電車が栄町の角でとまると、松華は笹島行の電車に乗換へるために、日本銀行支店前の安全地帯へ行つた。鹿島刑事は、自動車をとゞめさせて、彼女の乗るのを待つて居ると、程なく電車が来たので、再び追跡が始まつた。自動車は殆んど電車とすれゞゝに走つた。その時分運転手は、もはや誰をつけるべきかを知つて居たので、刑事ははじめて、クツシヨンに身を埋めながら、思考の余裕を得た。
 松華が殿山医院から出て来たことは、一たい何を意味するであらうか。彼女もまた村井氏の死に多少の関係を持つて居るのであらうか。小窪教授の説によると、毒の丸薬は、村井氏が棺桶の中にはいる少し前に与へられたといふのであるから、彼女が与へたといふ可能性は十分にある。然し、若しさうであるとしても、彼女に村井氏を殺す動機はありさうにないから、押毛か又は殿山医師の手先となつたと考へなければならない。ところが今、彼女は殿山医院から出て来たのであるから、彼女は殿山医師の手先となつたのかも知れない。
 然し、と、刑事は考へ続けた。先刻彼女は懐中電燈をもつて、たしかに医院の中を捜して居た様子である。若し、その想像が当つて居るとすれば、殿山医師に頼まれて何かを取りに来たか、或は誰か他の人に頼まれて殿山医院の様子をさぐりに来たと考へなければならない。彼女は身軽な女であるから留守の家へしのび込むことは比較的容易な筈である。して見ると彼女は今、捜索の結果をその人に報告しに行くのであるかも知れない。いづれにしても、松華の行先をつきとめることは、今回の事件に一段の光明を添へるであらう。
 かう考へると、刑事の胸は躍つた。が、その時自動車がとまつたので、何処であるかと見ると、それは名古屋停車場前であつた。気がつくと松華は、電車を降りるなり、停車場へは行かないで左に折れて、すたゝゝと明治橋の方へ歩いて行つた。で、刑事も急いで自動車を降り、賃銀を払つて彼女のあとをつけた。
 彼女は明治橋を上つて西の方へずんゞゝ進んだ。
『はてな、中村遊廓へでも行くのかな、何しに行くのだらう。』
 かう思つて刑事がついて行くと、先方に一台のタクシーが道ばたに止まつて居たが、やがて彼女はつかゝゝとそれに近づいたかと思ふと、あツといふ間に飛乗つて、自動車は走り出した。そのあたりにはもう他にタクシーがなかつたので、刑事は思はず走り出したが、中村行電車の起始点まで走つたとき、自動車は群衆の中へ没してしまつた。その時電車がむかうからやつて来たので、それが引き返すのに乗つて、兎に角、自動車の跡をつけて見ようと決心したものゝ、もはや絶望だと思つた。
 殘念なことをした。あの時、そのまゝ自動車に乗つて彼女の跡をつければよかつたのにと、今さら後悔しても及ばなかつた。それにしても彼女は何のために遊廓の方へ行くのであらう。彼女の宿はこの辺ではないから、たしかに用事をもつてこちらへ来たのにちがひない。
 然らば誰がこの辺に居るのであらうか。かう思つて立つて居ると、電車がついて、沢山の人が降りた。刑事は見るともなく、一人々々を見まもつて居たが、やがて、誰か知つた人を見つけたと見え、つかゝゝとその傍へよつた。
『おい下出君。』と、鹿島刑事は肩をたゝいて言つた。
 それは押毛の捜索に当つて居る下出刑事であつた。
『おや、どうしてこちらへ来られたのですか。然し恰度いゝところでした。これから署に帰つてお目にかゝらうと思つたのです。』
『押毛の居どころはわかつたかね?』と、鹿島刑事は人通りの少ないところへ下出刑事を引張つて来てたづねた。
『押毛は中村遊廓にかくれて居るらしいのです。』と、下出刑事は言つた。
『えツ。』と鹿島刑事は驚いた。『実は今。わしは奇術師の松華のあとをつけてこゝまで来たのだが、松華が自動車に乗つたので、はぐれてしまつたよ。して見ると、松華は押毛の手先をつとめて居るのかも知れん。で、どうして、それがわかつたかね。』
『実は一昨晩おそく、遊廓のそばの床屋で、濃い八の字髭を剃り落した男があるといふことを聞き出して来たものがあつたのです。そこで夕方御借りした写真をもつて、いまその理髪師をたづねたところ、たしかに写真の男に間違ひないといふのです。ですから、押毛はことによると遊廓のどこかにかくれて居るかもしれんと思つて、みんなに告げて捜させて居ります。』
『それはいゝことがわかつた。一昨晩停車場前の自働電話から、押毛が下宿へ電話をかけたといふのだから、それから、中村遊廓へ行つたと考へるのは無理のない推定だ。』
『やつぱり富子さんも一しよに居るのでせうか。』
『さあ、そこだよ。なるほど、女を隠す場所としては遊廓は屈竟のところだ。先刻、押毛の家宅捜索をしたら、押毛は大の探偵小説好きだとわかつたので、それくらゐの智慧は出さうに思ふ。』
『だが、遊廓へ富子さんをかくしたとなると、無理に連れて行つたのではなささうですねえ。それとも、富子さんを遊廓へ売り飛ばしたのでせうか。』
『まさかそんなことはあるまい。どうもわしには押毛が悪人だと思はれなくなつた。若し富子さんを遊廓へかくしたのだとするならば、それはやつぱり、富子さんを保護するためにちがひない。』
『で、今お話の松華は、押毛をたづねて来たのでせうか。』
『さあ、それはまだたしかなことはわからぬよ。さうだ。松華が遊廓へ入りこめば、すぐに知れるだらう。これから二人で遊廓へ行つて松華の行先をつきとめようぢやないか。』
 鹿島、下出両刑事は間もなく遊廓行きの電車に乗込んだ。


 第十四章 二通の手紙


 さて読者諸君、こゝで筆者は、鹿島、下出両刑事の捜索の結果を記す前に、この事件捜索を分担した中沢保のその後の動静を記さねばならない。といふのは、恐らく諸君はそれを希望して居られると思ふからである。諸君はもはや、中沢がある苦境に陥つて居るにちがひないと想像して居られるだらうが、事実はそのとほりであつて、鹿島、下出両刑事が遊廓行きの電車に乗り込んだ時刻には、彼は、何処ともわからぬ一室に、監禁されて居るのであつた。
 で、筆者は、彼がどうしてかやうな運命に陥つたかを順序正しく記載しようと思ふ。
 村井家の玄関で彼が鹿島刑事に脅迫状の注意されたのは午後一時少し過ぎであつた。彼は刑事を送り出してから、彼が刑事に宣言したやうに、どんな敵があらはれようとも、堂々と戦はうと決心した。然し、彼はその敵が誰であるかを正しく知ることが出来なかつた。といふのは、彼は、自分の敵は押毛より外にないと思つて居たからである。
 二時に殿山医師が村井夫人の診察に来たとき、保は医師に向つて事件探索の経過や、村井氏の死体紛失のことなどを語つた。さうして、診察がすんで、医師から、一しよに薬を取りに来てくれませぬかといはれたとき、彼は喜んで同意しながら自動車に乗りこんだ。道々彼は村井夫人の病気が重いといふことを聞かされたので、その心は沈み勝ちであつたが、数時間の後に受けるべき怖ろしい自己の運命については、その予感だも持ち得なかつたのである。
 殿山医院に着くなり、中沢は二十五六の書生らしい男に奥の一室へ案内された。そこは診察室でもなければ又応接室の体裁も具へて居らなかつた。むしろ洋式の食堂とでも言ふのが至当であらう、中央に粗末な食卓らしいものが置かれ、そのそばに二三脚の古びた椅子がならべられてあつた。
 保はその椅子に腰かけて殿山医師の来るのを待つて居た。しかし医師はなかゝゝ姿をあらはさなかつた。多分薬剤の調合に暇を取るのであらうと思つたが、内心は、早く薬剤をこしらへてもらつて村井家へ届け、鹿島刑事とともに押毛の家宅捜索に行きたいものだといらゝゝした。
 凡そ三十分ほど過ぎてから、
『御待たせしました。』といつて殿山医師がはいつて来た。保は医師が薬瓶か又は散薬の紙包を持つて来ただらうと思つたのに、意外にも、その手には何にも持つて居なかつた。
『御薬は出来ましたでせうか。』と、保は不審さうにたづねた。
『出来て居ます。然し、一寸その前に、あなたに御たづねしたいことがあります。』と、医師は極めて真面目な顔をして言つた。
『何ですか。』
 殿山医師は保のまんむかへに、テーブルをはさんで腰かけた。
『あなたは村井さんの死をどう考へておいでになりますか。』
 突然、あらたまつた口調で質問されたので、保は聊か面喰つた。
『どう考へるつて、村井社長は誰かに殺されなさつたと思ひます。』
『誰に殺されたのでせうか。』
『それはもとより存じませぬが、丸薬のケースを盗み、死体を盗んだものが犯人だらうと思ひます。』
『ふむ。』と殿山医師は、ちらとその金の下歯を見せて言つた。『それは一たい誰でせうか。』
『僕は知りません。』
『けれども、推定はして居られるでせう?』
『して居ます。』
『誰ですか。』
『押毛だと思ひます。』
『あなたは模擬葬式の晩にもさう言つて居られたやうですが、そりや少し推定がちがひはしませんか。』
『何故です?』
『何故といつて、それは私よりも、あなたの方がよく知つて居られる筈です。』
 保は、医師の、意味ありげなこの言葉に一種の威圧を感じた。
『どういふことですか。あなたの仰しやることはよくわかりません。』と、保は医師の顔をじつと眺めて言つた。
 医師は皮肉な微笑をもらした。
『それぢや、おたづねしますが、富子さんは今何処に居りますか。』
『僕は知りませんよ。知らなければこそ、鹿島刑事に頼んで、富子さんの捜索を手伝はせてもらふことにしたのです。』
『あなたはそれを本気で言つて居るのですか。』と、医師は少しく険悪な表情になつて言つた。
『をかしいことを言ひますねえ。僕は富子さんをどうしても捜し出さねばならぬ身体です。本気も狂気もないぢやありませぬか。』と、保は幾分か興奮した口調になつて言つた。
『ふん。』と医師はせゝら笑つた。左の頬にある黒子が医師のその笑ひ顔を一層にくらしげにした。『盗人たけゞゝしいとはよく言つたものだ!』
『えゝ?』と、保はいきまいた。『もう一ぺん言つて御覧なさい。失礼な!』
『何度でも言ふとも。盗人たけゞゝしいとは君のことだよ。』
『なに?』
『君は、今朝受取つた脅迫状を誰が出したかまだ知らぬのか。』
『え?』と、さすがに保はびつくりした。
『よく、そんなにづうゝゝしくして居れたものだ。早く富子さんを出したまへ。』
『ぢや、ぢや、あの脅迫状は……』
『あたりまへよ。僕が出したんだ。』
 今が今まで、あの脅迫状は押毛の細工とばかり思つて居たのであるから、殿山医師のこの言葉は、保にとつて全く寝耳に水であつた。彼は極度に驚くと同時にはげしく医師の態度に憤慨した。
『だつて、知らなきあ、知らぬぢやないか。』と、保は声を顫はせて言つた。
『君は中々頑固だねえ。』と、医師は少しく言葉を和らげて言つた。『君が何と言はうが、こつちには立派な証拠があるから駄目だよ。』
『どんな証拠だ?』と、保はせきこんで言つた。
『見たければ見せてやらう。』
 かう言つて殿山医師は、ポケツトに手をやつたかと思ふと、一本の封書を取り出して、中沢の前にポンと投げ出した。
 見るとそれは富子が常に用ひて居る桃色の西洋封筒であつたから、中沢は、はツと思つて、顫へる手先で取り上げた。
 封筒の表にはペンで『母上様御許に』と書かれ、裏には『富子』と書かれてあつた。間違ひもなくそれは富子自身の筆蹟であつた。
『読んで見たまへ。』と、医師は命ずるやうに言つた。
 中沢は手早く内容を取り出して、同じく桃色のレターペーパーを開いた。其処にはペンで、次の文句が走り書きされてあつた。


 母上様! 事情あつて私は当分姿をかくします。けれど、私は中沢さんと一しよに居るのですから、決してゝゝゝ心配しないで下さい。どうか、お父さまにも、よろしく伝へておいて下さい。急ぎますからこれで……
   十月二十日午後六時半  富子


 随分あわてゝ書いたものらしかつたが、それは疑ひもなく富子の筆蹟であつた。
 然し、手紙の内容は、保にとつて全く意外なことであつた。十月二十日午後六時半といへば、村井氏の模擬葬式の始まるまさに三十分前である。模擬葬式の後に行はれる結婚披露を富子は非常にたのしみにして居たのであるから、富子が姿をかくす決心をしたのは、全く突然の事情によらねばならない。それは果してどんな事情であつたであらうか。
 それにしても富子が母親にこれだけの手紙を書いて置きながら、自分宛に手紙を書かなかつたのはどういふ訳であらうか。この手紙によると、富子は自分と一しよに姿をかくすつもりであつたらしいのに、自分に一言の通知をもしなかつたのはどうしたことか。又、この手紙があるにも拘はらず、村井夫人が、富子の安否を気づかつたのはどういふ訳であらうか。さうしてこの手紙のことを自分に告げなかつたのは何故だつたか。
『どうだ君?』
 促がすやうに言ひ放つた医師の言葉に、保ははツと我に返つた。
『君はこの手紙を夫人が見られない先に横取りしたな?』と、保は思はずきゝ返した。
『そんなことはどうでもいゝよ。』と、医師は嘲笑つた。『君はこれでもまだ強情を張らうとするのか。』
 富子が自発的に姿をかくしたといふことは、今迄の保の想像を根柢から覆したのであるから、保は医師の言葉に答へるひまもなく、なほも考へに耽らうとした。
『言ひ訳が立たないだらう。さあ、どこに富子さんが居るのか言ひたまへ。』
『知らないよ。何と言はれたつて知らない。』
『どうしても君は言はないのか。』
『だつて、知らぬことは言へない。』
 殿山医師の眼は、獲物を見つけた肉食獣のそれのやうに輝いた。
『君はそんなに僕を甘く見て居るのか。』と、医師は半身を前へ差出して保の顔をじつとにらめた。
 保はかツとした。
『君こそ人を馬鹿にして居るぢやないか。たとひ僕が富子さんの行方を知つて居たとしてところが、君は何の権利があつてそれをきかうとするのだ。』
『何を? きくべき権利があればこそきくのだ。』
『君にどういふ権利があらうとも、こつちに話すべき義務はないよ。富子さんは僕と結婚すべき人だ。』
『おいゝゝ。』と、医師は保を遮るやうに言つた。『さういふ出鱈目はこゝでは通用しないよ。』
『何が出鱈目だ? 富子さんと僕とが結婚することは、今日発見された村井社長の遺言状にもちやんと書かれてあるよ。』
 医師は憎悪にみちた眼をして、保の顔を穴のあく程ながめた。
『仕方がない。』と、医師は吐き出すやうに言つた。『どこまでも、富子さんのありかを言はなければこちらにも考があるよ。が、その前に君に見せて置くべきものがある。』かう言つて、医師は上衣の内ポケツトから、一本の書状を取り出した。『さあこの手紙を読むがいゝ。これを見たら、あんまり大きな顔はして居られまい。』
 保は自分の前に投げられた書状をながめた。それは日本封筒であつて、毛筆で書かれた文字は、たしかに村井社長の筆蹟であつた。取りあげて見ると、村井氏より殿山医師に宛られた親展の郵便物であつた。
 保は何が書かれてあるのかと、憤怒の為に熱した頭の中に、多少の好奇心をわかして、封筒の中から巻紙を取り出した。それには次の文句が書かれてあつた。


 拝啓、時下秋冷の候、貴下益々御健勝賀し奉り候。陳者、かねて貴下と富子との御結婚は来る十一月二十日小生誕生日に行はるべき様御約束申し上げ候が、今回、突然、何者の悪戯とも知れず、小生の死亡広告を新聞に掲載致し候に就ては、広告の文言にあるごとく、来る十月二十日午後七時、模擬葬式を行ひ、次で還暦祝を執行致すも面白き趣向と存じ候につき、貴下と富子との結婚も同夜相行ひ度く候へば、此儀御承諾相成度く願上候
 かねゞゝ申上候通り、結婚式の儀は全然貴下と小生との秘密に致し度く、何人にも通知致さずして突然披露に及び、親戚を始め世間一般をあツと言はせ度く存じ候へば、これ又左様御承知置き願上候。
 当夜は色々珍らしき趣向をこらして、来会の人々を喜ばせ度く存じ候。このことは家内にも富子にも、その間際まで告げざる計画に候へば、くれゞゝも御注意願ひ上げ候。従つて服装の如きは通常服に願ひたく候へども、礼服を御着用相成り候ても苦しからず、この儀一寸申添候。
 委細は万々拝眉の上に譲り度く、右取り急ぎ貴意を得度草々敬具
   十月十七日                              村 井 喜 七 郎
  殿 山 六 造殿


 読み終つた保は、あまりの意外な村井氏の手紙に暫らくの間呆然とした。彼ははじめ、偽造の手紙ではないかと思つて見たが、筆蹟といひ文章といひ、村井氏の特徴がはつきりあらはれて居た。
 殿山医師と富子との結婚!
 保は思つただけでも不快の念がこみ上げて来るのであつた。それにしても社長は果してこれを本気で書いたのであらうか。富子はこれ迄殿山医師の名をさへめつたに口にしたことがなかつたから、殿山医師との結婚は、富子の全然知らぬことであるにちがひない。然し、村井氏の持ち前の冗談としては少し深入りし過ぎた手紙である。村井氏がこの手紙を書いたについては、それだけの理由がなくてはならない。その理由は一たい何であるか。
 而も村井氏は、模擬葬式の当夜、自分と富子との結婚披露を行ふのだと富子に告げたのではないか。
 保は何が何だかわからなくなつてしまつた。暫らくの間、手紙を開いたまゝ眼を俯せて考に耽つた。
『おい君!』と医師の意地悪さうな声が走つた。『これでも君は、僕が富子さんの在所をきく権利がないといふのか。』
『だつて……』
『だつてぢやないよ。君は自分では富子さんと結婚するつもりだつたかも知れぬが、村井さんから直接結婚の許可を得た覚えがあるか。』
 言はれて保ははツとした。今迄一度も村井氏から直接富子との結婚について話をされたことはなかつたからである。模擬葬式の当夜自分たちの結婚披露が行はれるといふことも、たゞ富子の口を通じて聞いたのに過ぎなかつた。
『それ見たまへ、返答が出来ないぢやないか。僕と富子さんとの結婚は、よほど前から契約されて居たことだ。君は富子さんを籠絡して、富子さんと親密にして居たかも知れぬが、村井氏が君との結婚を許す訳は全然ないよ。』
『だつて村井社長の遺言状の中に僕と富子さんと結婚すべきことが立派に書かれてある。』
『遺言状? ふん。』と、殿山医師は鼻で笑つた。『たとひ君が見た遺言状に何と書かれてあらうが、この手紙は立派な証拠ぢやないか。富子さんは僕のものだよ。だから正直に、どこへかくしたか言ひたまへ。』
『誰が言ふものか。かうなつたらたとひ知つて居たとて言はないよ。』と、保も声を強めて言つた。
『はゝは。』と医師は笑つた。『言はなきや、言はせるやうな方法を取るよ。それにしても君は往生際の悪い男だなあ。大ていの悪党といふものは、いゝ加減のところであきらめて降参するものだよ。』
『何が悪党だ?』と保は真蒼な顔をして言つた。
『悪党ぢやないか。君は自分と富子さんとの結婚が到底許されないことを知つて、村井氏を毒殺し、富子さんを隠したぢやないか。知らぬと思つて居ちや駄目だよ。君はお通夜の場で、僕が死体から取り出した丸薬のケースを盗んだのだらう。毒殺した証拠がわかるといけないと思つて、いつの間にかかくしたのだらう。さうして、押毛といふ男が居なくなつたのを幸ひに、富子さんを押毛が誘拐したやうに言ひふらし、その上、刑事に願つて富子さんの捜索を申し出でるなど、そのやり方は如何にも巧妙だけれど、遺憾ながらこつちには君の浅墓な計画が見え透いて居るよ。君が村井氏を毒殺したことに就ては僕は兎や角いはない。それは警察の手に委ぬべきことだ。僕はたゞ富子さんを返してもらへばよいのだ。さあ、正直に言ひたまへ。』
 保は突然立ち上つた。彼は殿山医師のあまりにも的をはづれた暴言に、舌の根がこはばつてしまふ位憤慨したのである。さうして彼は、も早相手になる要なしと認めて身を翻して歩き出さうとした。
 と、その時、彼は、後ろから忍び寄つた書生のために、甘いやうな香のするハンカチーフを強く口にあてがはれた。
 彼はびつくりしてもがいた。然し、書生の力は彼の力にまさつた。それから彼の力はだんゞゝ弱つて行つて、幾分かの後彼は麻酔薬のために、ぐつたりと其の場にうづくまつてしまつた。


 第十五章 意外な発見


 夢の中で夢を見るやうな、四方八方から姦しい美人に話しかけられて居るやうな気持がしたかと思ふと、中沢保の意識は、ちやうど蓮の葉の上から雨蛙が飛んだときのやうに、ひよいと現実の閾にはねかへつた。彼はこめかみのあたりに鈍刀で皮膚をかきわけられるやうな痛みを覚えたが、暫らくの間は、両眼をつぶつたまゝで徐々に全身を動かさうとした。
 が、上股も下股も彼の意志に従はなかつた。はツと気がついて眼をあくと、彼は古びた部屋の畳の上に横はり彼の全身は麻縄によつてぐるゞゝ巻きに締られて、口には猿轡がはめられてあつた。薄暗い電燈の光によつて、彼は、ところゝゝゝ破れ孔のあいて居る襖に面して居ることに気附いたのである。
 だんゞゝ意識が明瞭になるにつれて、彼の記憶も恢復した。さうして彼は殿山医師とその相棒のために、麻酔薬を嗅がされて、何処とも知らぬ一間に監禁されて居ることを知つたのである。
 凡そ何時間意識を失つて居たのか、もとより判断がつかなかつた。電燈がついて居るところを見ると多分それは夜であらうと思つた。彼は耳をすましてあたりの物音に注意したが、別に何も聞えて来なかつた。
 彼は襖に面して横になつたまゝ考へに耽つた。可なりにはげしい渇を感じたけれども、彼の頭の中に、油然として湧き起つた今回の事件の記憶は、いつの間にかその渇を忘れさせてしまつた。それどころか、彼は自分の身がこれからどんな運命に遭遇するかも知れぬといふ危惧の念さへ浮べて居るひまがなかつた。
 彼は殿山医師から見せられた二通の手紙によつて、自分が今回の事件に対し、根本的の誤解に陥つて居たことを知つた。富子は誰に誘拐されたのでもなくまつたく自発的に姿をかくしたのであつた。又、富子を奪はうとするのは、押毛ではなくて殿山医師であつた。
 それにしても村井氏が殿山医師に富子を与へると約束して置きながら、富子にそれを言はないばかりか、富子に向つて自分との結婚を許可したのは、どういふつもりであつただらうか。而も、遺言状には、明かに自分と富子との結婚を記入して居るではないか。
 然し、富子が自発的に姿をかくしたものとすれば、何故に彼女は父の不慮の死に際しても姿をあらはさなかつたか。母への手紙の中に、お父さまによろしくと書かれてあつたのは、父が死なうなどとは夢にも思つて居なかつた証拠であつて、人一倍父を思ふ彼女が姿を見せぬのは、どうしても誰かに無理に引きとめられて居るものと考へなければならない。
 然らば、彼女を引きとめて居るのは誰であらうか。殿山医師でないことはわかつて居るから、どうしても押毛より外の者を考へることが出来ない。押毛が富子と殆んど同時に姿をかくしたのはその推定の有力な根據である。けれども押毛はどうして富子の行先を知つたであらうか。富子は自分にさへ行先を告げなかつたのであるから、押毛に告げる筈は決してない。して見ると押毛と富子とはそれゞゝ別の理由で姿をかくして居るのかも知れない。
 わからない、わからない、彼は思はず口の中でつぶやいた。否、猿轡のために呟かうとしても呟き得なかつた。と、その時はじめて下になつて居る腕が猛烈に痛んで居ることに気づいた。
 そこで、彼は徐々に身体を動かしはじめた。腕の痛みを除くためには上体を起すのが一ばん得策である。で、彼は上体を起さうと試みたが、途中まで起き上ると、中心を失つて再びごろりとたふれた。けれども彼は屈しなかつた。さうして、数回の失敗の後、遂に起き上ることに成功したのである。
 起き上つた彼は、当然襖に面したが、その部屋がどれ程の大さであるかを知らうと思つて、臀部を軸として一回転すると、意外にもその部屋に居るのは、自分一人でないことがわかつた。
 彼の方を枕として、一人の老人が白い布に包まれて戸板の上に眠つて居た。
 次の瞬間彼は飛び上らんばかりにぎよつとした。
 それは生きた人の眠つた姿ではなく、まさしく死んだ人であつたからである。而も、顔が倒まになつて居るから、直ちに断定は出来ぬが、その頭の恰好や髪の生え工合が、たしかに村井社長のやうであつたからである。
 彼は思はず立ち上らうとしたが、それは不可能であつた。で、少しづつゐざつて、死人の顔を正視し得るところへ来た。見ると疑ひもなく、それは村井社長の死体であつた。
 その刹那に彼は今回の事件の謎が解決されたやうに思つた。法医学教室から死体を盗み出したのは殿山医師である。従つて村井社長を殺したのも殿山医師でなくてはならない。殿山医師は先刻、自分が社長を殺したであらうといふ暴言を吐いたが、それは、そつくりそのまゝ殿山医師に当てはまるではないか。即ち彼は自分が殺したといふ証拠をなくするために通夜の場で丸薬のケースを奪ひ、次で死体を奪ふの危険をさへ冒したのである。
 然らば何のために殿山医師は村井社長を殺したか、それは恐らく、富子と自分との結婚に起因して居るであらう。殿山は多分村井氏が殿山と富子との結婚を承諾しながら、富子を自分と結婚させる意志のある事を知つて、憤慨のあまり毒殺したのであらう。殿山にとつて毒薬を投ずることは極めて容易なことではないか。
 さうだ。殿山は村井氏を毒殺して富子を奪はうとしたのだ。現に村井夫人は、村井氏が、度々、夫人に向つて、『自分はことによると殺されるかも知れない、若し自分が死なゝければ富子は他人に誘拐はれるかも知れない。』といつたことを告げたではないか。村井氏は殿山医師を指して居たのだ。さうして、たうとう彼のために殺されたのだ。
 保は今更ながら、深い同情の心をもつて村井氏の死顔をながめた。六畳ほどの部屋には二人の外何も置かれてはなかつたので、保は全身に一種のさむ気を感じた。弱い電燈の光に照された顔には、死体らしい蒼白はなくて、まるで生きて眠つて居るかのやうに見えた。
 細く開かれた眼球さへ、死体に特有な白濁は認められなかつた。
 保は両眼の熱くなることを禁じ得なかつた。遺言状のことを思ふにつけても、何だか村井氏が自分のために殺されたのであるやうに思はれてならなかつた。自分といふものがなくて、富子が殿山と結婚して居たならば、恐らくかうした悲運に際会しなくても済んだであらう。と、思ふと保の眼はますゝゝ湿つて遂にはポタリと一滴膝の上に落ちた。
 それにしても殿山医師は何のために自分を村井氏の死体の置かれてある部屋に連れて来たのであらうか。敢てわが罪跡を他人に見せようとするのはどういふ魂胆であらうか。富子の行方を自分に白状させるための一種の威嚇手段であらうか。それとも他に深い理由があるであらうか。
 彼は首をあげて部屋を見まはした。天井の板は煤け、壁は所々剥げて一口にいへばよほど汚ない部屋である。洋式造りの殿山医院にこのやうな室のある訳はないから、たしかに別のところであるにちがひない。名古屋市中であらうか、それとも名古屋を離れたところであらうか。
 彼はこの時はじめて自分の身の安危について考へをめぐらせた、このまゝこゝに居たら自分はどうなるであらうか。若し自分が富子の行方を告げなかつたら、殿山はどうするつもりであらうか。彼は脅迫状の中に生かしては、『置かぬと』書いたが、果してそれは彼の真意であらうか。村井氏の死体を盗み出すくらゐのデスペレートな行為をする彼のことであるから、どんな恐ろしいことをも為かねないかも知れない。
 かう思ふと保はじつとして居られないやうな気がした。彼は何とかして立ち上ろうとつとめたけれども、胴体をしばつた麻縄は脚の方までまきつけられてあつたゝめに、全然不可能なことであつた。そこで彼は少しづつゐざつて襖の方に近より、襖を足の先であけて見ようとした。が、それは出来さうなことで出来なかつた。さうして徒らに物音をたてるばかりであつた。
 その物音をきゝつけたのか、或は偶然の一致であつたか、誰かゞ廊下らしいところをこちらへ歩いて来るやうな音がした。果してそれは人の足音で、足音は襖のむかうでぴたりととまり、ついで襖があけられた。
 はいつて来たのは殿山医師であつた。彼は保の姿を見るなり、例の金歯を見せて、物凄い笑をもらしたが、その顔は酒気を帯んで居た。
『逃げようとしたつて駄目だよ。どうだ、思ひ知つたか。』と、殿山医師は吐き出すやうに言つた。
 保はたゞうつむいて居るだけであつた。
『はつは。猿轡をかまされて居ては物が言へぬ訳だな。よし、お情けではづしてやらう。』
 かういつて医師は保の後ろにまはり手拭の猿轡を解いた。保はほツとした。
『かういふ手痛い目にあつても、君はまだ富子さんの在所を白状せぬか。』
 保は然し答へなかつた。
『えゝ、おい、どうだ?』と、医師は保の肩に手をかけて強くゆすつた。
『き、君は、社長の死体を法医学教室から盗み出したな?』
『さうよ。大学なんて野天も同じだ。医者の姿をして行きや何でも盗み出せるよ。』
『村井社長を殺したのは君だな?』と保は眼に殺気を帯ばせてたづねた。
『なに? 殺したのは君ぢやないか。かうして証拠を盗んで貰つたんだから有難く思ふがいゝよ。』
『馬鹿な。』
『何が馬鹿なだ。ちつとは感謝してもいゝぢやないか。さあ、早く御言ひ!』
『知らぬよ。』
『こんなにされてもまだ言へないのか。』
『言はなきやどうしようといふのだ。』
『言はなきや言ふまでしばつて置くだけだ。』
 保は最早物を言ふ勇気がなくなつた。空腹と全身の苦痛のために眼がくらむやうな感じがして、嘔気に似たものを催ほしたので、静かに眼をつぶつて観念した。
『君は、自分が殺した死体を見ても、ちつとも怖ろしくはないのか。』と医師は幾分物やはらかな調子になつて言つた。
『君は脅迫状の文句を忘れたのか?』保は眼をひらいた。が、答へなかつた。
『富子さんを出さなきや、あの文句どほりに君を生かしては置かぬよ。』
『それ程富子さんの在所が知りたければ、自分で捜したらいゝぢやないか。』と、保は無理に声を搾つて言つた。
『本当にどこまでも反抗する気か?』と、医師は血相を変へて言つた。
『知らないものは言へない。』と、保は平然として言つた。
『おいゝゝ。』と医師は声をあらためた。さうして右手でポケツトをたゝいた。『こゝには注射器と毒薬とがはいつて居るのだぞ。これを注射すれば君の生命は二分ともたぬよ。』
 保はその時殿山の眼を見て何となく怖ろしい気がした。といふのは、酒気のために充血した眼の中に、たしかに殺意がひらめいて居たからである。
『よくきいて置くがよい。』と医師は続けた。『こゝは誰にも知れぬところだよ。君を殺してこゝに捨てゝ置けば、永久に発見されはしないよ。死にたくなかつたら、早く白状するがよい。』
 保は決心した。恐らく殿山はたとひ富子の在所を告げたとて、自分を生かしては置くまい。かうなつた上は潔く運命の神の命ずるまゝに従はう。と、思ふと、今まではげしかつた心臓の鼓動が幾分か静まつて来た。
『たとひ白状したつて、僕を生かして置く気はないだらう?』と、保は自分ながら驚くほど沈着な態度で言つた。
『どうせ、君は村井社長を殺したのだから、死なねばならぬ身体だ。絞首台で死ぬよりも毒薬を注射してもらつて死んだ方がいゝだらう。』
『ふん。』と保は笑つた。『自分で殺して置いて、よくもそんなづうゞゝしいことが言へたものだ。君は富子さんの、恋敵として僕を殺したいのだらう。』
 この言葉は医師に向つて意外に強い刺戟を与へたらしかつた。彼は物をいはずに、いきなり、保を村井氏の死体の前へ引き摺つて行つた。さうして、村井氏の死体の上におほひかぶせてあつた白い布をさつとめくつて、その胸部をさらけ出した。
 保は医師のこの狂気じみた行為を見て、何をするのかと呆気にとられた。
『これから、君を殺す毒が如何に強い作用を持つものであるか、又、毒はどうやつて注射するものだかといふことを、この死体で実験するのだよ。この世の思ひ出に、ようく見て置くがよい。』
 かう言つて医師はポケツトから注射器のはいつたニツケル製のケースと、小さな薬瓶とを取り出した。
 殿山医師は保がどんな顔をするかとちらと保の方へ眼をやつた。ところが、意外にも保は村井氏の死体の胸部を見たり、又顔を見たりして、遂には、自分の顔を死体の顔に近づけ恰も人形製作者が作りかけの人形の顔を検査する様な挙動を行つて居た。
 これには殿山も聊か面喰はざるを得なかつた。
 やがて保は、さもさもびつくりしたといふ顔付をして殿山医師の方を振りかへつた。医師は怪訝さうな顔をして、保が何を見つけたかを知らうとした。
 保は少なからぬ興奮を覚えたと見え、声を顫はせて叫んだ。
『こりや、村井社長の死体ぢやない。』
 思ひも寄らぬ言葉に殿山医師は手にして居た注射器のケースを、ぱたりと畳の上に落した。
『何?』と医師は思はず叫んだ。
『村井さんは右の胸に、乳の下のところに一錢銅貨ほどの黒い痣があつた。この死体にはそれがない。それによく見ると、顔付にもどこか少しちがつたところがある。』と、保は声をからして言つた。
 医師は立ち上つて、更に死体の頭部にひざまづいた。さうして、両手をもつて、死体の頭を持ちあげたが、それと同時に『やツ、こりや、絞殺された死体だツ。』と、恐怖に充ちた大声で叫んだ。(つゞく)

大 懸 賞 誌 上 探 偵

W h o k i l l e d K . M u r a i ?

誰 が 村 井 喜 七 郎 を 殺 し た か

『疑問の黒枠』は愈興味の最高潮に達した。最早世界の如何なる探偵小説にも遜色なきまでに、事件はもつれ、秘密は濃厚となり、読者をして三嘆せしめてゐる。
 一体この事件の犯人は誰なのであらうか。今左に重なる人物とその立場を列挙してみる。
 押毛治六、この男は何んと言つても疑惑の色の最も濃厚なる人物である。どうしてあんなに村井喜七郎の信用を博してゐたのか、そして何故に姿を隠さなければならなくなつたのか、それを知る時こそ事件の総てが明かになる時であらう。
 殿山医師、本号に這入つて、殿山医師は突然奇怪なる行動を見せ初めた。考へてみると彼は医者で、毒薬を投ずるに最も好都合な立場にあり、しかも村井喜七郎を殺害する動機を誰人よりも多分に持つてゐさうである。犯人はこの男か。
 旭日斎松華、本号に於て突然その姿をみせた旭日斎松華、彼女は一体此の事件と、どんな関係を持つてゐるのであらう。思へば村井喜七郎が殺された時、一番身近かにゐたのは彼女である。何か隠れた事情が彼女と被害の間に伏在してゐるのではないか。
 村井夫人、良人が殺されて以来彼女は病気と称して引籠りがちである。しかも彼女は、良人の死を以前から予想してゐたらしい口吻がみえる。表面貞淑さうにみえるが、良人との間に、何のわだかまりもなかつたであらうか。
 令嬢富子、彼女には一点疑ふべき余地がないであらうか。彼女こそ一体何のために姿を晦したのか、訳が分らない。中沢保と結婚が出来ない為に、デスパレートになつた彼女を想像する事は出来ないか。
 中沢保、この男は一番晴天白日らしくみえる。しかし諸君よ、探偵小説に於ては一番疑はれざる者こそ一番怪しいのだ。富子と同じ理由、動機を持つて、彼も亦疑はれていゝ立場にありはしないか。
 小窪博士、思ひがけなく、小窪博士が事件の渦中に這入つて来たやうである。博士が発明した方程式が、押毛の書物の中に書かれてゐたのは、何を暗示するものであらう。博士と押毛、その間に何かの連絡があるのではなからうか。
 その他東円寺の住職、謎の死亡広告を出された他の二人、小窪博士の解剖台上に横はつてゐた女死刑囚、彼等はこの事件にどんな関係を持つて来るだらうか。
 然し諸君よ、かういふ事も考へなければならない、村井喜七郎は果して死んでゐるのであらうか。


詳細なる梗概並びに規定は次号に於て発表する。


 

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底本:『新青年』昭和2年5月号
「大懸賞 誌上探偵」予告文については実際のレイアウトに基づく文章の体裁をそのまま表示することが出来ない為、便宜的に文章の体裁を制作者が変更した。実際には「Who killed K.Murai?」「誰が村井喜七郎を殺したか」の二文章は、上下に横書きで、予告文を囲むように配置されている。以上御了承頂きたい。
ゞゝ(※1)

(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文ママ。

底本:『新青年』昭和2年5月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1927(昭和2)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2021年 月 日 最終更新:2021年 月 日)