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疑問の黒枠(第三回)

第七章 死因の説明

 肥後君の狼狽に反して、教授は村井氏の死体紛失ときいても、前日肥後君から村井氏の突然の死をきいた程には驚かなかつた。それのみならず教授は、恰もそれが、必然起るべき事変であると思つて居たかのやうな態度をもつて、女囚の死体に必要な処置を施しつゝあつた手を静かに休めて、肥後君の顔を、一種の軽い笑ひをさへ浮べてながめるのであつた。
『まあ君、そんなに興奮したまふな。』と言つたまゝ、教授は急にその場を離れようともしなかつた。
 然し、肥後君にして見れば、どうして、これが興奮しないで置かれよう。鑑定死体が紛失するといふことは、肥後君の見聞(けんもん)の範囲では、まさしく、前代未聞のことであつた。解剖を終つてからの紛失ならばまだしも、解剖前(ぜん)の死体が紛失したとあつては、法医学教室の名誉を毀損するばかりでなく、刑事上の責任問題も生ずる訳である。況んや村井氏の死に纏はる一切の疑問が、その解決の鍵を失はねばならぬかと思へば、事は甚だ重大である。
『君、他(ほか)の室(へや)を捜して見たか?』
 教授のこの言葉に肥後君の熱した頭は、さツと冷たくなつた。さうして、自分が解剖室から、驀地(まつしぐら)に教授のところへ駆けて来たことを恥ぢざるを得なかつた。が、肥後君の理性は直ちにその一時的興奮を抑制した。
『然し、先生、僕は毎朝一度必ず、教授室以外の各室を見まはりますから、若し教授室に死体がありませんでしたら、紛失したと見ねばなりません。』
『僕の室(へや)にも無論ないよ。兎に角、解剖室へ行かう。』
 二人は連立つて解剖室へ来た。中央の解剖台上には、昨日あつた村井氏の死体が掻き消したごとくなくなつて居た。たゞ死体の上に掛けてあつた白布(はくふ)が、皺くちやにされて、ぞろりと横(よこた)はつて居るだけだつた。室(へや)の隅の小台(こだい)の上に、村井氏の纏つて来た衣服が置かれてあつたが、それはその儘になつて居た。
 教授は入口の扉(ドア)に近いところに立つて、手を組んだまゝ、暫らくの間、じつと考へて居た。
『どうしませうか?』と、肥後君は、教授を促がすやうにたづねた。
『どうするつて君、死体がなくては解剖は出来ぬよ。』と一種の皮肉な調子をまじへて教授は答へた。
 肥後君は、かやうな重大な場合に、皮肉な心持ちになり得る教授の理性を心にくゝ思つた。さうして、教授が、ことによつたら、死体の行方を知つて居るのではあるまいかと疑つても見た。
『死体は果して盗まれたのでせうか。』と、肥後君は、さぐるやうな眼をもつて、教授の顔を見つめながらたづねた。
『無論、盗まれたのだらう。』と、教授はやはり腕組をしたまゝ答へた。
『すると、村井さんを殺した犯人が盗んだのでせうか。』
『いや、そんなに性急に判断してはなるまい。』かういつて、はじめて、教授は組んだ腕をはなした。『死体が失へた以上、死体を見つけ出さねばならない。これから僕は、検事局や警察の人たちに事情を話して、一旦引きあげて貰ふから、君は僕の室(へや)で待つて居てくれたまへ。』
 肥後君は、立合人たちへの死体紛失の報告を自分に命令されはしないかと、内心びくゝゝ(※1)して居たところであつたから、教授のこの言葉をきくなり、ほつとして、逃げるやうに歩いて、教授室にはいつた。
 窓を除く四壁(へき)の悉くが、本棚になつて、大小の洋書がぎつしり詰つて居た。肥後君は毎度のことながら、珍らしさうに近よつて、書物の背革に刻されてある金文字を多大の興味を持つて読んだ。専門の書籍はいふ迄もなく、文学美術に関するものも可なりに沢山あつた。英、仏、独は勿論、ロシア語、ギリシヤ語の書籍もまじつて居た。
 ふと頭をあげると書棚の一つに、キヤビネ型の写真が額に入れて、書籍の前に立てかけられてあつた。それは小窪教授と今一人の青年との七分身像であつて、何でも教授が先年世界各国を視察されたとき、アメリカで懇意になり、彼(かの)地で色々世話になられた日本人だといふことであつた。肥後君はその写真を常になく興味をもつてながめ、頭髪も髭も今とちがつて黒かつた教授の、今よりも一層皮肉に見える顔を見て、教授がアメリカでどんな生活をしたのか知りたく思つた。教授と一しよに写つて居る青年も一種の皮肉を帯んだ顔付をして居て、髭のない上唇を軽くねぢらせて居た。
 肥後君がいつの間にか教室の事変を忘れ、写真を前にして、とりとめのない想像に耽つて居ると、やがて廊下に跫音と話し声が聞えて教授がはいつて来た。見ると教授は、一人の肥(ふと)つた背広服の男を伴つて居た。それは肥後君もよく知つて居る門前署の鹿島刑事であつた。
『どうです、肥後さん。大へんなことが起つたではありませんか。』と、鹿島刑事は、その実、大へんなことが起つたとも思つて居ないやうな、例のごとき、にこゝゝ(※2)顔をして言つた。
 が、この言葉は肥後君の今迄の空想を微塵に砕いて、現実の怖ろしい事変の記憶を甦らせた。
『まつたくです。どうしたらよいでせう。』
『さあ、それはやはり、小窪先生の御指図を願はねばなりませんなあ。』
『いやゝゝ(※3)、死体の行方を捜すのは鹿島君の役目だ。』と、教授は意地悪さうな顔をして刑事を見つめた。
『どう致しまして、こんなに色々なものがなくなつては、とても私一人の手におへませんよ。』と刑事は禿げかゝつた頭を右手で撫でて答へた。『この事件は実に奇妙な事件ですなあ。先づ丸薬のケースがなくなる。令嬢がなくなる。次に肝腎の押毛といふ人物がなくなる。それから最後に村井さんの死体がなくなるといふ次第です。いや、うつかりして居ると、こんどは、私のこの大きな身体までがなくなるかも知れません。はゝゝゝゝ。』かういつてから急に真面目顔になって続けた。『それにしても、死体がなくなつては死因がわからず、死因がわからなくては、この事件にどこから手をつけてよいかさつぱり見当がつきませんなあ。』
『死因はわかつて居るよ。』と、教授はきつぱり言ひ放つた。
『え? わかつて居ますか、ではもう解剖をなさつたのですか。』と、刑事は熱心にたづねた。
『まあ、其処へ腰かけたまへ。』と教授は二人に椅子を与へ、自分も机の前の廻転椅子に腰を下して言葉を続けた。『死因は死体を一目見てわかつたよ。肥後君はまだ経験が浅いからわからなかつたらしいが、あれは、立派な青酸中毒だよ。』
『え、青酸中毒ですつて、でも……』と、肥後君が言ひかけると教授は遮つた。
『前後の事情が青酸中毒らしくないと言ふのだらう。さうよ。青酸中毒なら、青酸を服(の)んだ瞬間に死ぬからねえ。然るに村井氏は棺(くわん)の中へはいつて後も生きて居たばかりでなく、棺(くわん)の中ではもとより、何物も服(の)みはしなかつたのだ。といふと、鹿島君には或は不思議に思はれるかも知れぬが、肥後君ならば、青酸がこの場合如何なる形で与へられたか、すぐ推定が出来るだらう?』
『出来ます。』と肥後君は言下に答へた。『消化に一定時間を要する物質で青酸を包んで服(の)めば、服(の)んでから一定の時間を経なければ死にません。』
『その通りだよ。』と、教授は両眼(りやうがん)を輝かして言つた。『恐らく村井さんの場合にも、同じやうな事が行はれたにちがひない。青酸をさやうな物質で包むといふことは通常不可能だから、恐らく青酸加里(カリ)か、或は青酸加里(カリ)と酒石酸ぐらゐが別々に包まれて居たのだらう。まつたく、青酸中毒以外には、衆人環視の場で、誰人(だれ)にも気づかれずに、生から死へ移ることはあり得ない。』
『そのやうに毒薬をある物質でつゝむといふのは、一たいどんな風にするのですか。』と鹿島刑事がたづねた。
『あ、さうだ、君にはわからぬのも無理はない。つまり、青酸加里(カリ)を中心に入れて、普通の丸薬を作ればよいのだ。』
『それでは、通夜の場でなくなつたケースに、毒の丸薬がはいつて居たのでせうかな?』と、刑事は聊か興奮の色を見せて訊ねた。
『それはまだ何ともいへないだらう。』
『さういふ丸薬は素人でも手に入れることが出来ますか。』と、刑事は熱心にたづねた。
『そりや君、素人だつて手に入れることが出来なくはないよ。そら、君も知つて居るだらう。昨日の朝、千種刑務所で死刑に処せられた雲井龍子(りうこ)を。彼女の死体を教室へ貰い受けて今別室にあるのだが、彼女が毒殺に用ひた毒薬は、やはり、青酸加里(カリ)と酒石酸の丸薬だつたよ。』
『あの雲井龍子がこの教室へ来ましたか。』と、刑事はいよゝゝ(※4)熱心な口調になつた。『彼女の使用した毒薬は、世間の者が真似をするといけないといふ理由で、わざと発表されませんでしたが、さうですか、さういふ丸薬を使つたのですか。何しろ彼女は何の動機もなくて、数人の男を殺したのですから、警察でも久しくわからなかつたといふことですな。たしか彼女には兄が一人あつて、これも彼女に劣らぬ悪人だといふことですが、何処へ行つたか行方不明になつて居るさうです。』
 教授は何思つたか、極めて厳肅(まじめ)な顔をして言つた。『悪人、悪人といふけれども、人間には本来、善悪の区別はないよ。同じ行為でも、時代とその周囲の状態如何によつて、善とも判断され、又悪とも判断されるのだ。だから、善悪に対する考(かんがへ)は昔の人と今の人とで、明かにちがつて居るばかりでなく、同じ時代でも、各人が場合によつてその解釈を異(こと)にして居る。早い話が、個人を殺すことを極悪と考へながら、戦争で沢山の人を殺すことは、それほどに思はない。雲井龍子もローマ時代に西洋に生れたならば、かの、ロークスタのやうに国家にとつて至勲の女となつたかも知れない。怖ろしいものは殺人行為ではなくて、各人の持つて居る殺人意志だ。見たまへ、刃物を持ち得ないものは、舌や筆をもつて人を殺さうと計画するではないか。だからこの世に悪人はめつたにないよ。つまりみんなが悪人なのだから。』
 肥後君は、鑑定死体を盗まれながら、少しも心を惑乱せしめないで、このやうな冷静な議論をなし得る教授の態度に、驚異の念を起さゞるを得なかつた。鹿島刑事はと見ると、教授の言葉に耳を傾けて居るやうでもあり、又何か頻りに考へて居るやうでもあった。実際家たる鹿島刑事は、恐らく、教授の理論をきくよりも、如何にしてこの事件の解決に着手すべきかを考へて居るのであらう。すると、果して鹿島刑事は、ポケツトから手帳を取り出しにかゝつた。
 然し、教授は依然として話を続けた。『ね、肥後君、君は探偵小説が好きだが、君に限らず一般の人が探偵小説を好む理由は、つまり、各人に具はつて居る殺人意志を和らげる為だよ。旧式な言葉で言ふならば、探偵小説によつて殺人慾を満足させようとするのだ。だから探偵小説の中でも、殺人を取扱つたものが最も多く読まれるのだ。従つて探偵小説の愛好者は実際の所謂悪事を行はない。換言すれば所謂善人なのだ。ね、鹿島君、さうぢやないか。』
 刑事は呼びかけられて、はツと我にかへつたらしかつた。『さうでせうなあ。探偵小説愛好者は恐らく皆善人でせう。その証拠に、探偵小説を愛読する人が実際の探偵に従事すると、多くは見当はづれのことをしますし、又、反対に、犯罪を計画しても、手ぬかりばかりするやうです。犯罪映画を見て犯罪を行ふ少年などは皆ヘマばかりして居りますよ。少年に限らず大人でもさうだらうと思ひますが。』
『どうだ肥後君、随分手きびしい言葉ぢやないか。』かういつて教授は肥後君の方を向き、肥後君が返事をしない前に更に鹿島刑事の方を向いて言つた。『実は鹿島君、肥後君が今度の事件の捜索を手伝はせて貰ひたいと言つて居るのだ。差支(さしつかへ)のない限り、面倒を見てやつて下さらぬか。』
 刑事は頭を掻いて笑ひながら言つた。『いや、さうと知ればあんなことを言ふのではなかつた。肥後さん、今の言葉は取消しますよ。差支(さしつかへ)などちつともありません。喜んで御手伝ひを願ひます。中澤保さんも富子さんの行方を捜したいとの事でしたから、その方面で御手伝ひを願ふことにしました。中澤さんといへば、もう彼此(かれこれ)こちらへ来ることになつて居ります。お互によく相談して事件の真相をさぐることにしませうか。』
 肥後君は軽く腰をかゞめて、鹿島刑事の好意を目謝した。
『そこで、』と刑事は続けた。『いよゝゝ(※5)村井さんの死が青酸の中毒ときまれば、過失によつて丸薬をのんだか、或は、自殺のつもりで故意にのんだか、或は他人にのまされたか、三つの事情のうちのどれか一つでありますから、村井さんの死の前後の事情を明かにして、このうちのどれであるかをきめねばなりませんな。模擬葬式の当夜取調べたところによると、どうも自殺とは考へられませぬから、過失か他殺でなくてはなりますまい。』
『丸薬のケースの紛失といひ、死体の紛失といひ、当然他殺と考へて然るべきではありませんか。』と、肥後君は言つた。
『なるほど、あなたもさう御考へになるのですな? 毒を村井氏の常用丸薬の中へ投じた犯人が、発覚をふせぐために、ケースと死体をかくして死因を不明ならしめたといふことは、まことに、あり得べきことです。然し、村井氏の死因が小窪先生によつて、このやうに容易に鑑別されたのですから、若しケースを果して犯人がかくしたものと仮定し、又、死体も同一犯人が盗んだものとすれば、この犯人は随分無駄なことをしたものと謂ふべきですな。』
『ケースと死体を同日に談ずるのは少し大胆過ぎる。』と、小窪教授は、皮肉な笑(わらひ)を浮べて言つた。『ケースはポケツトの中へはいるけれど、死体は稍(や)や嵩(かさ)が大きいからね。』
『まつたくです。死体は袂の中へははいりません。』と、刑事も笑つて言つた。『ですけれど、死体は宝石などとちがつて、大金を出して買ふ人もめつたにありますまいから、よほどの重大な理由がなくては盗まないと思ひますよ。単なる悪戯や冗談にしては、少し大胆過ぎて居ると思ひますが。』
『然し、こんどの事件は、悪戯や冗談が重なつて居るではありませんか。』と、肥後君は口を出した。『死亡広告といひ模擬葬式といひ、奇術師の出現といひ……』
『けれど、村井氏の死なれたことだけは冗談ではないやうですよ。』と、刑事は肥後君の言葉を遮つたが、俄かに頓狂な声を出した。『それとも村井氏は冗談に死んで、今頃は生きかへつて、どこかに隠れて居られるのかな。』
 この言葉に教授も肥後君も笑つた。と、その時、小使がはいつて来て、
『中澤保といふ人が鹿島さんに逢ひたいといつて、只今来られました。』といつた。
『かまはぬから、此処(こちら)へ来て頂け。』と、教授は小使に命じた。

第八章 脅迫状

 小使に案内されてはいつて来た中澤保は、何となく落つかぬ様子をして居た。彼は一昨夜来の心労のために、十分な睡眠をとらなかつたと見えて、上眼瞼が心臓患者のそれのやうに軽く腫れて、幾分か頬がこけて見えた。
 三人に目礼するなり、彼はいきなり鹿島刑事に話しかけようとしたので、刑事は、立ち上つて教授と肥後君を紹介し、二人の前では、どんなことを話してもよいことゝ、肥後君が探偵に従事されることになつたから何事もお互に相談して行動したいといふことを話し、最後に、村井氏は青酸中毒の為に死なれたことはわかつたけれど、村井氏の死体が、解剖されぬ前に、昨晩中にどこかへ紛失したことを告げた。
『えゝつ、社長の死体が盗まれたのですか。いよゝゝ(※6)彼奴(あいつ)の仕業だな。』と、顔色を変へて吐き出すやうに保は言つた。
 その声といひ、態度といひ、常軌を逸した興奮の模様が見えたので、小窪教授は眼をまるくして保の顔を見つめた。
『中澤さんは、会社員の押毛治六といふ人を、昨日(さくじつ)も御話しましたとほり、今度の事件の中心人物とみとめて居るのですよ。』と、刑事は教授に説明するやうに言つて保の方を向いた。『然し、何事も性急に判断するのは当を得て居らぬと思ひますなあ。押毛が果してさうであるとしても、その証拠をつきとめる迄は先入見を持つてはなりませんよ。』
『証拠はこゝにあります。』
 中澤は声を顫はせながら、ポケツトから、一枚の葉書を取り出した。
『これを御覧下さい。この葉書は今朝こちらへ出がけに受取りました。その文句を読んで下さい。』
 かういつて保が葉書を差出すと、鹿島刑事は手早く取り上げて、先づ表面の消印をながめ、次に裏面の文句を読み上げた。
『中澤君。君はなかゝゝ(※7)芝居が上手だね。富子さんをかくして置きながら、よくも巧みに知らぬ振りが出来たものだ。この葉書がついてから五時間以内に富子さんを家に帰らせたまへ。さもないと君を生かしては置かぬよ。』
『ふむ、』と刑事は言ひ乍ら、もう一度表面を見た。『名古屋中央郵便局の消印ですなあ、昨晩出したものだ。』
『どうです。このやうな脅迫状を僕に寄越すものは押毛より他にないと思ひます。自分が富子さんを誘拐して置きながら、僕が富子さんを隠したやうに書いて、あべこべに僕を脅迫するといふのは、実にづうゝゝ(※8)しいと思ひます。然しこの葉書によつて、押毛が名古屋市内に富子さんを監禁して居ることは明かです。』
 刑事はじつと文句を見つめながら考へて居たが、
『それでは、これは押毛の筆蹟ですか。』とたづねた。
『無論、さうだとは断言出来ません。自分で書くにしても、わざと手をかへませうし、又、他人に書かせたのかもわかりません。』
『けれども、若し、押毛が富子さんを誘拐してこの脅迫状を書いたとすれば、五時間以内に富子さんを家に帰らせたまへ、さもないと君を生かして置かぬといふやうな文句は書くまいと思ひますが。』と、刑事は反対した。
『そこが、押毛の狡猾なところです。即ち、かういふおどし文句を書いて、僕が富子さんを捜索するのを止めさせようとするのです。』と、中澤はあくまでも押毛に対する疑惑を捨てようとしなかつた。
『けれども、富子さんの捜索はあなた一人がやるのではありませんから、単にあなたに手をひかせるために、このやうな文句を書いたものとは思はれませんなあ。これは一応、考(かんがへ)を翻して、あなたが富子さんをかくしたものと信じて居る人間の発した脅迫状と見てはどうでせうかな。先生、先生はどう御考へになりますか?』
『さうだねえ。』と、小窪教授は眉を寄せて考へながら言つた。『押毛に疑ひをかける前に、もつとよく押毛の人物を研究する必要があると思ふねえ。』
『実は、』と中澤は、先刻(せんこく)肥後君が与へた椅子にはじめて腰を下して言つた。『昨日の夕方、御見舞のために僕は村井家へ行つて、夫人(おくさん)に御目(おんめ)にかゝつたのですが、その時の夫人(おくさん)の御話によつて、ますゝゝ(※9)押毛を怪しいと思つたのです。』
『それはどんな話でしたか。』と、刑事は熱心にたづねた。
『一昨日(をとつひ)の晩からのことを一応順序正しく申し上げませう。』と、中澤は語り始めた。『模擬葬式が終つて、社長が変死されたとわかつた時、それまで何も知らぬ振りをして居た押毛は、お医者さんの来て居ることをちやんと知つて居て、奇術師に命じて離座敷(はなれ)へ呼びにやりました。それから医師が来て、愈よ変死がたしかめられると、押毛は僕が富子さんと婚約中であることを大勢の前で語つて、僕に向つて夫人(おくさん)へ知らせて来いと命じました。僕は面喰(めんくら)つてその場をのがれ、離座敷(はなれざしき)へ行きますと、夫人(おくさん)は早くも僕が社長の死を告げに来たと察して、良人(たく)はたしかに殺されたのですと言はれました。それから僕が富子さんの居ないことを告げると夫人はますゝゝ(※10)驚いて、若し何処(どこ)を捜しても居なければ、富子は誰かに誘拐(さら)はれたのですと言はれました。僕は驚いて、すぐさま富子さんの室(しつ)へ行つて、置手紙でもしてありはしないかと思つて捜しましたが、何も見つかりませぬでした。その時女中が通りあはせて、晩方富子さんが裏庭で泣いて居たと申しましたから、早速裏庭へ出て見ましたが、もとより富子さんは居りませんでした。で、失望して帰つて来ると、ちやうど、玄関であなたに御目にかゝりました。』
 かう言つて保が鹿島刑事の方を向くと、刑事は軽くうなづいた。教授と肥後君とは、熱心に保の話に耳を傾けた。
 保は更に語り続けた。『それから鹿島さんの取調べが始まつて、先づ第一に丸薬のケースのなくなつたことがわかりました。模擬葬式からお通夜に移るときに、多分ごてゝゝ(※11)したでせうから、その時、紛失したのだらうと思ひますが、その混雑の際無論押毛もその場に居た筈です。さうして、その後間もなく、当の押毛が逃げてしまひました。朝になつて僕は一先づ帰宅して蒲団の中にはいりましたが、中々寝つくことが出来ませんでした。だんゝゝ(※12)心を静めて考へて見ると、夫人(おくさん)の言はれた言葉(※13)、はつきり記憶の表面にうかび出て来ました。さうだ、ことによると夫人は社長を殺した人間を知つて居られるかも知れん、又、富子さんを誘拐したのが誰である事をも知つて居られるだらう。これはもう一度夫人に逢つて、よく事情をたづねて見よう、それが自分の執るべき最初の方法だ。かう思つて一安心すると、いつの間にかうとゝゝ(※14)と眠つて、眼が覚めると、日の暮(くれ)近くでした。急いで食事をすまして、村井家を訪ね、夫人に逢つてたづねますと、夫人の言はれるには、最近社長が度々夫人に向つて、自分はことによると、殺されるかも知れない、若し自分が死ななければ、富子は他人(ひと)に誘拐(さら)はれてしまふかも知れぬと言はれたさうです。で、夫人が誰に殺されるのです、誰に富子をとられるのですときいても、どうしても話されなかつたさうです。でも夫人は社長に絶対に反抗なさらぬ習慣でしたから、心配しながらもそのまゝ暮れたのださうです。ところが、先日、あのやうに死亡広告が出て、それを機会に社長は模擬葬式をやり、そのあとで還暦祝(いはひ)をするのだと言ひ出されたので、夫人は涙を流して歎願し、どうか、この際そんな不吉なことはやめてくれと言はれたさうです。けれども社長の性質として、一旦言ひ出したことはやり遂げずには置かれず、還暦祝(いはひ)のあとで富子と中澤の結婚披露をするのだと打ち明けられたので、富子さんの結婚は一日も早いがよいと思つて、夫人は、とにも角にも承知なさつたのださうです。ところが連日の心配で、当日、急に病気が悪くなつて、御医者さんを迎へねばならなくなり、模擬葬式の間は、とても恐ろしくてならぬから、御医者さんに傍に居てもらつたのださうです。ところが、七時半ごろ、奇術師があわてゝ医師を迎へに来たので、夫人ははツと思つて心を痛めて居るところへ、僕が社長の死を告げに行くと、早くも夫人は、社長の平素の言葉が実現したと悟られたのださうです。』
 こゝまで語つて保は一息つき、更に語気を強めて言つた。『そこで、僕は夫人に向つて一たい社長は、いつ頃から、殺されるかも知れぬなどといふことを言ひ出されましたかと訊ねると、何でも九月になつてからだとの答でした。押毛は八月の末に会社に雇はれて来ましたから、つまり、押毛があらはれてから、社長は自分が殺されるかも知れぬと言つたり、自分が死なゝければ富子さんは人に誘拐(さら)はれると言つたりしはじめたのです。どうです、これでも、押毛が、この事件の中心でないと言へますか。』
 保は興奮のあまり著しくその頬を紅くして、三人の顔を順次にながめた。鹿島刑事は話の途中に手帳を出して何やら書きこんだが、教授はその顔面筋をぴりゝともさせずじつと聞いて居た。たゞ肥後君は、年が若いだけ、保の興奮を幾分か感受した。
『いかにも、押毛が、今回の事件に重大な関係を持つて居ることは明かですなあ。』と、鹿島刑事は言つた。『だから一刻も早く押毛のありかをつきとめねばなりませんよ。実をいふと、私も、押毛の捜索が何よりも大切だと思つて、二三の部下に命じて昨日から捜させて居るのです。けれども先刻(さつき)こちらへ来るまでには、まだ何の手がかりも得られませぬでした。然し、たつた一つだけ押毛の動静についてわかつたことがあるのです。それは、一昨夜、会社の久野支配人に、押毛の下宿して居る聞天館の主人が、たつた今、押毛さんから電話がかゝつて当分帰れないと告げたといふことでしたので、押毛がどこから下宿へ電話をかけたかを交換局で探索させましたら、名古屋停車場前の自働電話だとわかりました。』
『えツ、それでは押毛は、富子さんを連れて汽車で高飛びしたのでせうか。』と、中澤は顔色をかへて叫んだ。
『強ち、さうとは限りますまい。ことに、この脅迫状を押毛の書いたものだとすると、汽車で高飛びしたとは考へられぬではありませぬか。』と、刑事は落つき払つて言つた。
 保は聊か判断に迷つた。停車場前の自働電話を使つたといふことは、汽車に乗つたと考へねばならぬし、汽車に乗つたとすれば、脅迫状を送つたことがよく理解出来なくなる。して見ると、押毛は、やはり、汽車で高飛びする風を装つて、市内に潜伏して居るのだらう。いやどこまでも、づうゝゝ(※15)しい男だと、結局は、押毛に対する彼の疑惑を深めるだけであつた。で、そのことを語ると、刑事は、
『あなたはよほど、押毛に対して敵意を持つて居ますなあ。』と、感心したやうな顔付をして言つた。
『中澤さん。』と、この時教授ははじめて口を切つた。『とに角、その脅迫状の文句には警戒しなければいけませぬよ。真実か真実でないかを判断するときには、あらゆる先入見を排しなければならぬ。今回の事件はあなたの考へて居るほど簡単でないかも知れぬ。あなたの推察によると、押毛が村井氏を殺したことになつて居ります。ところがです、村井氏は僕の結論によりますと、毒を中心に含んだ丸薬を、模擬葬式の行はれる少し前にのんだことになるのです。村井氏は、脳溢血予防の丸薬を恐らく日に三回宛(づつ)のんだのでせうから、若し他殺であるとすると、犯人は模擬葬式の行はれる少し前に毒を含んだ丸薬をケースの中に入れたと考へねばならない。何となれば、若し二日も三日も前に毒の丸薬を入れて置いたとすれば、村井氏は、もつと早く死んで居らねばなりませんから。ところが押毛は、昨日、鹿島君の話したところによると、模擬葬式のはじまる以前には村井家に居なかつた様子です。して見ると、押毛が毒の丸薬を投じたとは一寸考へにくゝなるのです。』
 この教授の説明は、保のみならず他の二人をも驚かした。
『では、押毛は誰かを手先として、毒の丸薬を投じさせたのでせうか。』と、保はせき込んで言つた。
『さ、そんなに気短かに結論してはいけません。若し、押毛が村井氏を殺さうとしたのだつたら、押毛が手先を使つたといはねばならぬが、さもなくて別の人間が独立に毒を投じたのかもわからない。けれどもこれは他殺だつたらといふ仮定の上の議論に過ぎませんよ。若し仮に村井氏が自殺したとすれば、一番簡単に解釈がつくではないですか。』
 言はれて見れば如何にもそのとほりである。けれども保は容易に自殺説を承認することが出来なかつた。
『自殺する人が、還暦祝(いはひ)の用意をさせたり、又、麻裏草履や鳥打帽を懐に入れて居る筈はないと思ひます。尤も、僕と富子さんの結婚披露をするといふのに、奇術師によつて姿を消してもらふといふことは理解が出来ませぬけれど。』
『そこですよ。この事件には不可解なことが沢山あるのですよ。』と、教授は力をこめて言つた。『今のところでは、自殺だか他殺だか、或は又過失死だか、さつぱりわからぬのですよ。厳密にいへば、死骸(したい)(※16)を解剖しないのだから、毒の丸薬説も単なる推定にとゞまるが、青酸中毒による死であることだけは、最もプロバブルだと僕は思つて居ます。しかし、如何に事件が複雑して居ても、真実は唯一つきりだから、だんゝゝ(※17)捜索の歩を進めて行けば、必ず一本の大道(だいだう)に到達するでせう。が、くれぐれも、この脅迫状には警戒しなさい。』
『警戒します。』と保はまだ、奥歯に物のはさまつたやうな態度で答へた。『然し、僕は決して富子さんを隠して居ないのですから、どうにも仕方がありません。たとひ、どんなことが起つても、僕は全力を尽して戦ひ、かならず富子さんを捜し出さずには置きません。』
『では、どういふ手段で富子さんを捜し出さうとしますか。』と刑事は言つた。
 保はこの質問にはたと当惑した。事実、彼には富子を捜し出す計画が立つて居なかつたからである。
『それは、僕が御たづねしたいと思つて居たところです。』と、保は歎願するやうな眼をして言つた。
『さうですなあ、』と刑事は考へながら言つた。『押毛の行方を部下に捜させてありますから、押毛の当夜の行動がわかれば、それから、富子さんの行方もわかるかも知れませんよ。で、差し当り、あなたは、これから村井家へ行つて、死骸の紛失したことを夫人に告げて下さいませぬか。はなはだ厭な役ですが、やつぱりこの役はあなたでなくてはいけません。私はこれから、東円寺へ行つて、埋葬の用意を中止してもらひ、それから村井家へ立寄り、ことによると夫人に御目にかゝつて、二三質問させて貰ひます。それがすむと、一しよに門前署へ来て頂きませう。この脅迫状は私が預らせて頂きます。時に、』と刑事は肥後君の方を向いた。『肥後さんには、さし当り死体の行方を捜して頂きませうか。さうして夕方に門前署へ来て頂きませうか。』
『いよゝゝ(※18)担任事項がきまつたね。』と、教授はにこゝゝ(※19)して言つた。『しつかりやつて呉れたまへ。大(おほい)に諸君の成功を祈つて居るよ。』

第九章 遺言状

 鹿島刑事と中澤保とは打ちつれ立つて法医学教室を辞し、次で医科大学の門を出た。すぐ眼の前の鶴舞公園の中には秋の日光を思ふ存分浴びた子供等が、つい近所に不思議な事件が起つたとも知らず、■々(きき)(※20)として遊び戯れて居た。刑事は石門の前で保と別れ、中央線の鉄橋の下をくゞつて老松町をさして進んだが、沿道の如何なる物も眼に止まらず、たゞひたすらに事件についての考(かんがへ)をめぐらすのであつた。
 鹿島刑事は従来の探偵に最も重んぜられた推理といふことをあまり重要視しなかつた。推理は必要であるけれども、それは平凡人が常識によつて行ふ推理で沢山である。たゞ、熱心に、根気よく事件に頭をつきこんで居さへすれば事件は自然に展開して解決の光を見る。といふのが鹿島刑事の主張するところであつた。もとより、刑事はその主張を一度も口に出したことはなく、又、自分の思つて居ることを、はつきり言葉にあらはし得るやうな理論家でもなく、小窪教授の所謂『全人格をもつて活動する』タイプの実際的探偵であつた。
 刑事は歩きながら、この事件に関係する出来事の主要なるものを順次に心の中で数へあげた。即ち、村井氏が押毛の入社以後、度々夫人に向つて、『俺は殺されるかも知れぬ、俺が死なねば富子は人に誘拐(さら)はれる』といつた事、次に誰の手によつて出されたともわからぬ死亡広告の事、次に押毛が奇術師を雇ひに行つて、模擬葬式を行ふ最中に村井氏が毒死した事、次に通夜の場で丸薬のケースが紛失した事、次に富子が裏庭で泣いて居てから行方不明になつた事、次に押毛が姿を晦ました事、次に村井氏の死体が法医学教室から紛失した事、次に富子と結婚すべき筈であつた中澤保のところへ脅迫状が来た事。かう数へあげてさてこの中から一本の筋道を捜し出さうとすると、刑事ははたと行き詰らざるを得なかつた。さうして、これだけの材料だけで事件を判断するのはもとより危険であると思つた。だが、これ等の材料を通覧して感得されるのは、今回の事件を一つの大きなジヨークと見れば見られぬことがないといふことであつた。而も、そのジヨークは村井氏の死といふ悲劇に終つたのであるから、この事件の背後には、ある恐ろしい事情が横(よこた)はつて居ると考へられるのであつた。何となれば、ジヨークをその表面として居る悲劇は、つねに、たゞの悲劇よりも十倍も百倍も怖ろしいものであるからである。といつて、今のところ、刑事には、事件の背後に潜んで居る悲劇的事情の片鱗をも認め得なかつた。村井氏の死は一つの悲劇であるけれども、その悲劇を発生せしめた原動力たる悲劇的事情に至つては、その寸毫も明かになつて居なかつた。換言すれば、村井氏の死が自殺であるにしろ、他殺であるにしろ、その動機となる悲劇的事情は少しもわかつて居なかつたのである。
 いつの間にか刑事は黒塗の板塀に沿つて歩いて居た。気がつくとそれは目的地たる東円寺であつて、塀のむかうに、大きな銀杏(いてふ)の樹が二本、巨大な傘(からかさ)のやうにつゝ立つて、そのむかうに聳(そび)ゆる本堂の屋根には、多数の鳩が飛び交(かは)して居た。
 門をはいると、つき当りが本堂で、その、向つて左手が庫裡の玄関になつて居た。可なり広い境内には誰一人居らず、あたりはひつそり閑として居たので、来訪をつげる刑事の声が、秋の空気に、けたゝましく谺した。
 出て来たのは、一昨夜通夜の場で見たことのある伴僧即ち東円寺の役僧たる山場了諦であつた。
『和上はいま裏の墓地に見えますから、墓地へ御案内致しませう。』
 かう言つて了諦は、其処にあつた下駄をはいて刑事の先になり、本堂の横をとほつて、裏の墓地に来た。石塔の立ちならぶ間に、ところゝゝゝ(※21)尾花がさびしく招いて、彼処此処(かしこここ)に枯れ残つた手向(たむけ)の華が見ぐるしくちゞこまつて居た。
 見ると一ばん奥の、塀に近いところに、住職の友田覚遵師は数人の人夫を指揮して土を掘らせて居たが、刑事の姿を見るなり、つかゝゝ(※22)とこちらへ歩いて来て、
『やあ、鹿島さん、御苦労で御座いますな。』と挨拶した。
『早速ですが御院主、実は村井さんの死骸が法医学教室から盗まれたのです。』
『え、死骸が盗まれましたつて?』といつたのは、傍に居た了諦であつた。彼はこの意外の報告をきいて何となくそはゝゝ(※23)し出したので、住職は彼に向つて、人夫の監督を命じ、彼が立ち去つてから、声を低(ちひ)さくして言つた。
『それは大変な事、して、いつ盗まれましたか。』
『多分昨晩中に盗まれたことゝ思ひます。』
『死骸のやうな大きなものさへ盗む人間があるとは。――それでは村井さんの解剖は?』
『無論出来ませんでしたが、原因は……』
といひかけて口を噤み、暫らく考へてから声をひそめ、
『毒にあたつて死なれたのです。』
と思ひ切つて告げた。
『ふむ、毒にあたつて? それではあの、村井さんが持薬として居られた丸薬の中へ、毒がまぜてあつたのではありませんか?』と、住職は、その田螺のやうな眼を力一ぱい開いて、刑事の顔をのぞきこんだ。
 刑事は住職の推定の当を得て居るのに聊か驚いて、住職の顔から何ものかを読まうとしたが、すぐ、冷静にかへつてたづねた。
『多分さうだらうと小窪先生は仰しやいましたよ。御院主にも何か御心当りがありますか。』
『いえ、なに。』といつた友田師の声はたしかに狼狽の響(ひびき)を伴つて居た。『たゞ、ふと、さうではないかと思つたばかりで。』
 この時、了諦がつかゝゝ(※24)近寄つて来て言つた。
『和上、人夫頭が一寸御いでを願ひたいと申して居ります。』
 住職が去つても了諦は其処に居残つて居た。彼は住職が土掘人夫と話しかけたのを見るなり、刑事の方をむいて、住職に憚るやうに低声(こごえ)で言つた。
『刑事さん。一昨夜、あなたが御調べのとき、和上は何も知らぬやうに言つて居られましたが、葬式の前々日、村井さんがこちらへ来られたとき、葬式の当夜の計画を二人でいろゝゝ(※25)密談された様子です。』
 刑事は了諦の顔をじろりとながめた。恐らく住職に口留(くちどめ)でもされたのであらう。それを刑事に話すために、たしかに興奮して居るらしかつた彼の眼は、刑事の視線に逢つて、つと傍(わき)の方をながめた。
 と、その時、住職がこちらへ歩いて来たので、了諦は逃げるやうに、以前のところへ去つた。
『村井さんの埋葬の用意でしたら、一時中止なさつてはどうでせうか。』と刑事は住職に言つた。
『それを今、愚僧も人夫たちに話したところでした。いや、どうも村井さんは重ねゝゝ(※26)御気の毒な目にあはれます。まるで、生前に姿をかくす計画が失敗に終つたので、死後に姿をかくして見せようとて、さういふことをなさつたのではないかと思はれるくらゐです。』
『村井さんはそれほど、冗談が御好きでしたか。』
『何事でも人の意表に出(いづ)ることが大好きでした。』
『それについて、』と刑事は急にあらたまつて言つた。『御院主に御きゝ申したいことがあります。何でも葬式の前々日に、村井さんがこちらへ見えたさうですが、その時、当夜の計画について、何か御院主に密談されたやうなことはありませぬか。』
 住職はチラと了諦の居る方に眼をやつて、暫らく考へてから答へた。
『実は内密の相談を受けましたよ。だが、それを御話するまへに一寸念を押して置かねばなりませんぢや。』
『どんなことですか。』
『村井さんが果して殺されなさつたかどうかといふことです。』
『それはまだ確定しません。』
『それでは一寸申し上げ兼ねるが……』
『とは又何故(なぜ)です。』
 住職は返事をしなかつた。刑事はさぐるやうな眼付で、住職の、自分に劣らぬ偉大な体格を見つめながら言つた。
『中毒死ときまつても、過失死か自殺か他殺かは、取調べをすゝめなくてはわかりません。けれども、今はその何れであるかを決めねばならぬ重大な時期であります。若し、他殺ときまれば、一刻も早く犯人を捜し出して、村井さんの霊を安んじなくてはなりませんからなあ。どういふ理由があるかは存じませんが、仏のために、今回の事件に関係したことは、腹蔵なく話して頂きたいと思ひますが。』
 刑事のこの言葉に住職はたしかに動かされたらしかつた。
『それでは、故人の意志にそむくことになりますけれど、話しませう。模擬葬式の当夜の計画については、一昨夜、あなたが御調べになつた以上に、愚僧にも話されなかつたのです。即ち、模擬葬式の後に還暦祝(いはひ)をやり世間を驚かすために奇術師をやとつて来て忽然として姿を消すといふのでした。』
『あ一寸(ちよつと)(※27)、』刑事は口を挟んだ。『その時令嬢の結婚式のことは御話がありませぬでしたか。』
『その話は愚僧にも申されず、愚僧ははじめて通夜の場で知つたことです。』
『それからどんなことを村井さんは言ひましたか。』
『それからが頗る妙な話でした。村井さんの言はれるには、一旦姿を消してから、再びあらはれるのですが、それが、その晩あらはれるか、一日二日たつてあらはれるか、或は一月たつてあらはれるかはわからない。又、どういふ姿になつてあらはれるか、それも今は申し上げられない。わざと申し上げぬのではない自分にもまだはつきりしたことはわからない。兎に角世間を驚かすに足るあらはれ方をする。と、まあざつとかういつた話しでした。』
『ところが、』と住職は刑事が口を出さぬ先に語りつゞけた。『それからの村井さんの言葉が愈よもつて奇怪なのでした。即ちこんどのこの計画は奇抜であるかはりに生命(いのち)の危ふいことにも出逢はねばならぬかも知れない。ことによると自分は殺されるやうなことにならぬとも限らない。万々一自分が殺されたならば、自宅の金庫の中に自分の遺言状が入れてあるから、和上の手で金庫を開いてもらひたい。然し、自分が殺されたときまらぬうちは決して金庫に手を触れてもらひたくはない。どうか拙者の今申し上げたことはかたく守つて頂きたい。かう言つて懐の紙入から封筒に入れたものを取り出し、こゝに金庫の符号の書いた紙と金庫の鍵とが入れてあるから、これを和上に御預けして置くといつて、渡して行かれたのです。』
 刑事はこの村井氏の奇怪な言葉を伝へ聞いて、不思議な驚きを感じ、すぐに言葉を発し得なかつた。
 住職は畳みかけて言つた。『そこで愚僧は何か重大な理由があるにちがひないと思つて、色々たづねましたが、それ以上はどうしても返答されなかつたので、とに角村井氏の頼みをきいたのです。先夜あなたが皆さんの前で愚僧に御たづねになつたとき、このことを話さうかとも思つて見ましたが、殺されたときまつたらといふ村井さんの言葉があつたので、わざと默つて居たのです。はじめ愚僧は村井さんが棺(くわん)の中で死なれたのを見て、さては自殺するつもりであつて、あゝなるのが予定の計画だつたかと思ひましたが、草履や鳥打帽子を懐中して居られたところを見ると、どうやら村井さんが愚僧に言はれたのが本当で、あの場合に死ぬつもりは毛頭なかつたやうに思はれます。』
『いや、よく御話し下さいました。』と、刑事はうれしさうな表情をして言つた。『どうやら少しは事情がはつきりして来ました。けれども、どういふ理由で村井さんが殺されるかも知れぬといはれたのか、今の御話ではわかりません。それは恐らく金庫の中の遺言状に書かれて居ると思ひます。で、誠に恐れ入りますけれど、村井さんの預けて行かれた封筒を渡して頂けませんでせうか。これからすぐ村井家へ行つて開いて見たいと思ひますから。』
『承知しました。』と、住職は快くうなづいた。『本来ならば、愚僧が立会ふべきでありますが、誓の破りついでにあなたに御願ひ致しませう。あとで、遺言状の内容をきかせて頂けばよろしいです。然し、愚僧は法律のことを、少しも存ぜぬが、遺言状を開くには、親戚の者とか又は裁判官とかの立会を乞はねばならぬことはありませんか。』
『さうですなあ。』と、刑事は幾分か困つた顔をした。『自筆か又は秘密の遺言状でありますと、その封は監督判事立合の上でなくては、開いたが最後無効になりますけれど、公証役場で出来た遺言状ならば、金庫の中にはその謄本があるだけでせうから、遺言状の内容を知るには却つて便利です、都合によつては裁判所へ行つてもよいと思ひます。』
『兎に角それでは、預り物を居間へ行つて取つて来ますから、玄関の方で御待ち下さい。』
 刑事が玄関へ来ると、程なく住職は、白色小型の西洋封筒をもつてあらはれ刑事に手渡した。
 東円寺の門を出るなり刑事は宙をとぶやうに歩いて、八幡山下の村井邸をたづねた。玄関のベルを押すと女中のお竹が出たので、中澤さんを呼んでくれといふと、すぐ奥に走つて行つた。暫くして中澤は刑事を出迎へに来たが、その顔には、たしかに憂色が浮んで居た。
『どうかなさつたのですか。』と刑事は靴をぬいであがりながら、心配さうにたづねた。
『夫人が今朝から高熱を発せられたのです。』と中沢はいよゝゝ(※28)顔を曇らせた。
『それはいけませんなあ。殿山さんに来てもらひましたか。』
『先刻(せんこく)女中が電話をかけたら留守ださうで、帰られ次第に行つて頂くと、書生が返事をしたさうです。』
『それぢや、村井さんの死体の紛失したことは夫人に御話しなさいませぬでしたらう。』
『いえ、僕が御目にかゝると、解剖の結果はどうだつたと頻りに御たづねになるので、止むを得ず一伍一什(いちぶしじう)を告げました。けれども、僕の心配したほどはそれをきいて悲しまれなかつたのです。』
『何しろ御気の毒なことですが、無理もありませんなあ。それぢや今日私が夫人に御目にかゝることは差控へて置きませう。』
『さうして下さい。頻りにさびしがつて、僕に傍(そば)に居てくれと言はれますから、御医者さんの来るまで居て上げようと思ひます。』
 この時、村井家の親戚の人らしい男が、奥の方から廊下を歩いて来たので、刑事は保と応接室にはいつて対座し、低(ちひ)さい声で言つた。
『実は、東円寺住職に逢つて、非常に有力な解決の鍵をもらつて来ましたよ。』
『解決の鍵とは?』
 刑事が白い封筒をポケツトから出して、テーブルの上に軽く投げると、金属性の音が起つた。
『何ですかこれは?』と保は驚いてたづねた。
『村井家の金庫の鍵です。』
『どうしてこれが解決の鍵ですか。』と保は一層怪訝さうな顔をした。
 そこで刑事は住職から聞いた話を残らずに保に伝へた。保は、ますゝゝ(※29)不審に堪へぬといつたやうな顔をしてきいて居たが刑事が語り終るなり、
『遺言状があるところを見ると、社長は自殺されたのでせうか。』
『然し、村井さんは人に殺されることを覚悟されて居たやうですな。夫人に御話しになつたばかりでなく、住職にも話されたのですから。』
『殺されると知つて居たら、それを防ぐ方法があつただらうではありませんか。殺されると知つて平然と殺されるといふことはをかしいではありませんか。それはやはり自殺と同じことではありませんか。が、さうなると押毛の行動がわからなくなる。』
 押毛を犯人と考へて居る保にとつて、村井氏の自殺を結論しなければならぬのは、一種の心のヂレンマであつた。刑事はその心を察して言つた。
『先刻(せんこく)も住職が言つて居られましたが、棺(くわん)の中で死ぬことは村井さんの予定しては居られなかつたことゝ考へた方が至当のやうです。兎に角、これからその遺言状を拝見しようではありませんか。さうすれば、恐らく委細がわかるでせう。』
 保は刑事と共に立ち上つて言つた。『金庫を開くとなると、一応夫人に御話するのが本当ですが、また御心配をかけて病気を重(おも)らせるといけませんからやめて置きませう。又、親戚の人に立合つて頂くことも、捜索の都合上よくないかと思ひます。』
『無論、私たち二人して開きませう。金庫が何処にあるか御承知ですか。』
『知つて居ます。このすぐ隣りの書斎にあります。』
 保は刑事を案内して洋式の書斎にはいつた。書斎といつても、書物は小さな書棚の上に、書物がほんの申訳けにあるだけで、中央に大きなデスクが置かれ、廻転椅子を隔てゝ、壁の前の金庫と向ひあつて居た。
 刑事はデスクの上に立てゝあつた一枚の手札形の写真を指して言つた。
『これは誰の写真ですか。』
 保はそれを見て不快な表情をした。
『それが押毛ですよ。』
『さうですか。この人ですか。』と刑事は取りあげた。『なるほど皮肉な顔をした男ですなあ。かうして机の上に置かれてあるところを見ると、よほど村井さんの信用が厚かつたのでせう。この写真は捜索の都合上貰つて置きます。実は昨日、会社の方へ押毛の写真を貰ひにやりましたが、誰も持つて居られないので、やむを得ず、人相をきいて部下に押毛を捜させて居た訳です。』
 かう言つて刑事は、押毛の写真をそのニツケル製の枠からはづしてポケツトに入れ、金庫の前にしやがんだ。さうして、白い封筒の中にあつた紙片を取り出して、そのコムビネーシヨンを読んだが、それがOSIGEと書かれてあるのに苦笑した。彼はこの文字に従つて調節し、それから鍵を取つて金庫の扉を開いた。
 中澤保は先刻(さつき)から、どんな遺言が見られるかと、背筋の暑くなるほど緊張して居たが、ピシリといふ金庫のあく音がしたとき、どきりと心臓が躍動した。
 金庫の中は中央の棚で仕切られて居て、下には宝石類のケースが沢山置かれてあつたが、上の段には唯一個の大型の封筒が置かれてあるだけであつた。刑事は別に興奮した様子もなく、封筒を取り出したが、見るとその表面には『公正証書謄本』と書かれてあつた。
『これは好都合だ。』と刑事は言つた。『これならば裁判官の立合を要しないで、遺言の内容がわかります。』
 かういつてその封を開くと、美濃紙判の赤罫の証書が出た。
 刑事は、早く遺言の箇条が見たかつたと見え、第一面に書かれてある遺言者及び証人二名の姓名を読まぬ先に、中を開いて遺言の箇条を見た。そこには次のやうな文言が記されてあつた。

 第一条 遺言者村井喜七郎ハ、若シ不幸ニシテ死亡セシトキ、財産ヲ二分シテソレヾヽ(※30)妻浪子及ビ娘富子ノ名義ニ書キ替ヘ富子ヲ家督相続人トシテ指定シ、中澤保ヲソノ配偶者タラシメテ村井商事会社ヲ経営セシムベキ旨陳述シアリ。
 第二条 遺言者村井喜七郎ハ此遺言執行者トシテ名古屋市中区老松町三丁目東円寺住職友田覚遵ヲ指定スル旨陳述シアリ(。)(※31)

 主要なものはたゞこれだけであつて、あとは東区呉服町四丁目の公証人加藤末造の手続上の文言が書かれてあるに過ぎなかつた。
 刑事も中澤も予期した事情の書かれてないのに失望したが、中澤はさすがに富子との結婚が指定されてあることを喜ばずには居られなかつた。
 やがて刑事ははじめて完全に冷静になつて、第一面を見たが、その時あツと軽い叫び声を発した。其処には次のやうに書かれてあつた。
            名古屋市中区御器所町字北丸屋十一番地村井商事会社々長
                遺 言 者              村 井 喜 七 郎
                                 慶応二年十一月二十日生
            名古屋市東区本町三丁目七番地呉服商
                証   人              谷 村   英 三
                                   明治三年十月四日生
            名古屋市西区新柳町二丁目三番地薬種商
                証   人              市 川 長 兵 衛
                                   文久二年十月十日生
 刑事の発した叫び声に、富子との結婚の夢想からさめた保は、何事が書かれてあるかとのぞきこんだ。刑事は食指をもつて、証人二名の姓名を無言で示した。
 保はそれを読んで、
『はて、』といつた。
 彼はまだ心が上の空なのである。
『聞いたやうな名ですねえ。』と保は口ごもりながら言つた。
 刑事はとがめるやうな顔をした。
『聞いたやうなとは少し迂闊ですなあ。谷村さんと市川さんは、村井さんと同じやうに死亡広告を出された人々ではありませんか。』と、刑事はさすがに声を顫(ふる)はせて言つた。(つゞく)

(※1)(※2)(※3)(※4)(※5)(※6)(※7)(※8)(※9)(※10)(※11)(※12)原文の踊り字は「く」。
(※13)原文ママ。
(※14)(※15)原文の踊り字は「く」。
(※16)振り仮名原文ママ。
(※17)(※18)(※19)原文の踊り字は「く」。
(※20)口偏に「喜」。
(※21)(※22)(※23)(※24)(※25)(※26)原文の踊り字は「く」。
(※27)原文ママ。
(※28)(※29)原文の踊り字は「く」。
(※30)原文の踊り字は「ぐ」。
(※31)原文句読点なし。

底本:『新青年』昭和2年3月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1927(昭和2)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年10月31日 最終更新:2009年10月31日)