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疑問の黒枠(第二回)

第四章 病(なや)める夫人

 暫らくの間、十二畳の室(しつ)には、村井氏の死体を中心として、メタン瓦斯を発生する古沼のやうな沈黙が、むごたらしく渦巻いた。電燈の光が段々暗くなつて行くかと思はれるほど、並び居る人々の感覚は、眩暈と麻痺とを併発したやうな状態に置かれたのであつた。二十数人のものは、たゞ其処に、春をぬき迷(まど)ふ土筆のやうに、身動きもせずつゝ立ちながら、息をこらしてひたすらに、棺(くわん)の中の、眠つたやうな主人公を見つめるばかりであつた。つい今し方まで、気味悪く瞬いた眼瞼(まぶた)が、そのまゝ永遠に瞳に蓋をしたとは誰が信じ得よう。それかといつて眼の前の、がつくり首を垂れたその姿は、誰の眼にも、生ある人とは思はれなかつた。されば、人々は程度の差こそあれ、それゞゝ(※1)はげしい恐怖に舌肉(ぜつきん)を固(こは)ばらせて、誰一人言葉を発するものはなく、リンを落した伴僧は、リンを拾ひ上げることすら為(し)なかつた。況んや、模擬葬式の当初より不吉な予感に悩まされて居た中澤保は、その予感が、水の中から氷が出来るやうに実現して、まのあたり不吉の結晶を見せつけられたのであるから、もがいても及ばぬ底無沼に吸ひ込まれた時のやうに、あたかも全身の血液が今にも水垢のやうに血管の中で凝固しはすまいかと思はれるほどの、恐怖につつまれたもどかしさを感じた。さうしてその感じの中に、煙のやうに渦をまいて、彼の理性を司る脳細胞をうづゝゝ(※2)刺戟したものは、『押毛治六』の名と、その名を有する当の押毛治六の姿であつた。
 彼は、恰もその頭が鉛に化したでもあるかのやうに、重さうにあげ乍ら、村井氏を見つめて居た眼を離して、自分の前方に立つて居る押毛の顔を見た。若し押毛が村井氏の死に関係して居るならば、たしかに勝利の色を読むことが出来るであらう。若し反対に彼が村井氏の死に少しも関係して居ないならば、人々と同じく驚駭の色を漂はして居るだらう。振り向く途端にかう思つた保は、意外にも、押毛の顔に、勝利の色も驚駭の色もなく、たゞ憤つたやうな固い決心の色のみが漲つて居るのに驚かされた。さうしてその驚きは、恰度その時押毛の発言に伴う唇の動きによつて、一層強められたのであつた。
『松華さん。』と、押毛は奇術師の方を向いて言つた。『今晩、こゝへお医者さんが来て見えるでせう?』
『はあ、たしか離座敷(はなれ)の夫人(おくさま)の病室においでになる筈です。』
『すぐ、呼んで来て下さい。』
 先刻(せんこく)から松華の腰に蝸牛のやうにすがつて居た二人の少女(せうぢよ)弟子を押しのけて、松華は、そのまゝ物をも言はず廊下へ出た。
『あ、一寸。』と押毛の金属性の声が松華を呼びとゞめた。『夫人(おくさん)には何も言はないで、殿山先生に、大至急来て下さいといつて。わかりましたか。』
 松華はうなづいて、廊下に出て十二畳の座敷の、もつと先の方へ歩いて行つた。
 松華の足音が聞えなくなつてからも、人々はまだ物を言はうとしなかつた。保はいまの押毛の態度によつて、自分の予想が、何となく裏書きされたやうな気になつて、全身がひやりとした。
 突然、再び押毛の声が走つた。『住職! 実に大へんなことになりまして。』
 住職は先刻(さつき)から、中啓をもつて胸を圧しながら、眼だけを左右に動かして居たが、この言葉に、さつと中啓を離して言つた。
『さてゝゝ(※3)、思ひもよらぬことが出来たものです。一昨日(さくじつ)、模擬葬式の相談を受けたときに、きつぱり拒絶したならば、或(あるひ)はかうしたことにはならなかつたかもしれませぬ。』
『すると、住職は、村井社長が模擬葬式を行はれたために死なれたとお考へになりますか。』
 住職は聊かあわてゝ答へた。『さ、それは、もとより、お医者様の診断を待つてからでなくては、何とも言はれませぬが、死ぬ真似をして本当に死ぬといふことは、よくある世間の習(ならひ)。何事にも世間をあツと言はせようとなさつた村井さんが、平凡な世間の習(ならひ)に従はれたのは、定めし無念のことであつただらうと思ひます。』
 この時廊下にどさゝゝ(※4)と足音が聞えて、
『何事が起きたのですか。』
 と、甚だ取り乱したやうな態度をもつて、松華に伴はれてはいつて来たのは、村井家の家附(いへつき)の医師殿山六造であつた。彼はまだ三十を越したばかりの、色の浅黒い、あまり風采のあがらぬ、鼻下(びか)に短い髭を貯へて、フロツクコートを着た小男であつた。
 殿山医師は人々に軽く会釈をして、つかゝゝ(※5)と棺(くわん)のそばにより、
『どうしたのです? 一たい。』
 と、誰に言ふともなく言つて、村井氏の手を握つた。
『どうも頓死されたものではないかと思ひます。』と住職は、田螺のやうな眼を力一ぱい開いて答へた。
 医師は脈を診てから、村井氏の額に手を触れたが、さすがに、驚きの色を蔽(おほ)ふことが出来ず、
『をかしいですね。やつぱり死なれたやうですね。』と、幾らか顫へを帯びた声で言つた。
『いけませんか。もう助かる見込はありませんか。』と、押毛は少しく急きこんでたづねた。
『もう駄目です。冷たくなつて居るのですもの。それにしても、いつ頃死なれたのですか。もつと早くわからなかつたのですか。』
『さあ、それがよくわかりません。』と押毛は言つた。『先刻(せんこく)、読経の始まる前まではたしかに生きて居られたのですが、読経の半ばに眼をふさいだまんま、いつの間にやら死んで行かれたやうです。』
『不思議ですねえ。』と、医師は首をかしげて言つた。『顔をしかめるとか、又は唸り声を発するとか、さうしたことはなかつたのですか。』
『私には気がつきませんでしたが、どうです皆さん。』と、押毛は人々の顔を見渡した。
 然し、誰もそのやうな異常に気附いたといふものはなかつた。さういふことを気附き易い婦人連も、たゞ悲しさうな顔付(かほつき)をして居るだけで、何とも答へなかつた。中には、しきりに手巾(ハンカチ)を眼元に運ぶものもあつた。
『兎に角、このまゝでは十分検査することが出来ませんから、この箱から吊り出さうではありませんか。』
『待つて下さい。』と押毛は言つた。『畳の上へ吊り出すのも変ですから、女中を呼んで来て敷蒲団を敷かせませう。』
 押毛はつかゝゝ(※6)と玄関の方へ歩いて行つたが、程なく、女中のお竹を伴つて来て、隣りの室(しつ)の押入れから敷蒲団を出させた。お竹は、主人の突然の死にあつても少しも取り乱した様子がなく、静かに蒲団を棺桶のそばに敷いた。
『では、どなたか一人、手をかして下さい。』
 かう言つて医師が死体の両脇に手をかけると、傍に立つて居た住職は、伴僧を顧みて、
『おい了諦、お前、足の方を御手伝ひ申せ。』と命じた。
 リンを落としたまゝ拾ふことの出来なかつたほど恐怖に襲はれて居た伴僧は、住職の命令を受けても手を出さうとはしなかつた。
『僧侶に似合はぬ臆病な性質(たち)だな。』かういつて、住職は、中啓を頸筋の襟にさし、法衣(ころも)の袖をまくつて、村井氏の膝の下に手をかけ、医師と二人で持ち上げて、敷蒲団の白い敷布(しきふ)の上に寝かせた。
『棺桶をどうしませう? 畳んでしまひませうか。』と、松華は押毛にむかつてたづねた。
『まあ、』と押毛は手をもつて制した。『今暫らくそのまゝにして置いて下さい。それよりも社長の着て居られる衣服(きもの)を脱がせて下さい。』
 松華はつかゝゝ(※7)と歩みよつて、村井氏の手から珠数(ずず)をとり、村井氏の纏つて居た白い木綿の衣服(きもの)の一隅(すみ)に手をかけたかと思ふと、眼にもとまらぬ早さで、引張り取つてまるめてしまつた。即ち、その白い衣服(きもの)は、その実衣服(きもの)ではなくて、上面(じやうめん)から蔽(おほ)ひかぶせてある布片(ふへん)に過ぎなかつた。
 白い衣服(きもの)が取り去られると、こんどは眼の眩むほど鮮かな緋色の絹の衣服(きもの)があらはれた。松華は同様にして、手早く剥ぎ取り、手の中にまるめてしまつた。
 その緋色の衣服(きもの)の下には、羽織袴の村井氏の礼服姿があつた。医師は羽織の紐を解き、ふくらんだ懐中に手を入れたが、引き出された手には、意外にも一対のまだ買つたばかりの、黒い鼻緒をつけた、麻裏草履がつかまれて居た。医師はそれを畳の上に置き、更に手を入れて、こんどは鳥打帽子を取り出した。
 鳥打帽子に麻裏草履!
『ふむ』といひ乍ら、医師は暫らく手をやすめて考へて居たが、又もや手を入れて、金側の懐中時計と、鰐皮のずつしりした財布とを取り出した。然しそれ等のものは、それゞゝ(※8)鎖と黒い絹紐によつて帯に結びつけられて居た。
 医師は着物の胸を開き、更に襦袢を開き、シヤツのポケツトから、丸薬のケースを取り出した。
『あ、これは、私の差上げた村井さんの持薬だ。』
 かう低声(こごえ)で言つて、ケースの蓋を開き、暫らく、手で揺り動かしながら、中の丸薬を検(あらた)めて居たが、再び蓋をして草履のそばに差し置いた。さうして、シヤツのボタンをはづし、出来るだけ胸を露出せしめ、ポケツトから聴診器を出して、心臓部にあてがひ、息をこらして聴くのであつた。
 保は先刻(さつき)から、化石したやうに突つ立つたまゝ、医師の検査の一々を、恰も海浜の砂の中に落した真珠をさがすやうな熱心さをもつてながめて居た。白い衣服(きもの)が取り去られて緋色の衣服(きもの)があらはれたとき、模擬葬式の後(のち)に還暦祝(いはひ)をするといひふらした村井氏の言葉をよく理解することが出来たけれど、麻裏草履と鳥打帽子を見るに及んで、彼の想像は、はたと行(ゆ)きづまつた。
 彼はこの小さい、然し乍ら、何か重大な意義をもつて居さうな謎に出逢ふなり、もはや医師の検査は眼に入らなかつた。といふのは、彼はこの謎が、何を意味するかを理解し得なかつたと同時に、彼の想像が突然富子の上に及んだからである。
 富子は一たいどうしたといふのであらう。模擬葬式の場に来なかつたばかりでなく、今に至るもその姿をあらはさないのは何故であるか。故意にどこかに隠れて居ない限り、彼女は飛んで来て然るべきである。彼女はそれともこの家に居ないのであらうか。急用が出来て外出でもしたのであらうか。彼女は今もなほ還暦の祝(いはひ)の後(のち)に行はるべきことを樂しみにして居るのであらうか。が、この鳥打帽子と麻裏草履の謎は、恐らく彼女にも解き難いであらう。それにしても、彼女はこの重大な異変を知らないのにちがひない。一刻も早く彼女に逢つて、出来るだけ驚きの少ないやうに知らせてやらねばならない。かう思ふと保はぢつとしては居られないやうな気持になつた。けれども、村井社長の突然の死が、普通の死とちがふことを確信して居る以上、その場を去るのは、永久にチヤンスを失ふやうな気がして、焦燥(いらだち)を抑へてそこに止(とど)まつた。
 突然、保の想像は殿山医師の声に破られた。
『いけません。絶望です。』
 人々は今更ながら、異様な悲哀に打たれるのであつた。
『死因は何でせうか。』と、押毛は医師の顔をのぞきこむやうにしてたづねた。
『よくわかりません。』と、医師は二三度、顔(かうべ)を掉(ふ)つて答へた。
『窒息では御座いませぬか。』と、松華はおづゝゝ(※9)しながらたづねた。
『窒息? 何か窒息の疑ひを起すやうなことがあつたのですか。』
『実は、読経がすみました時、三つのリンを合図に、村井さんと生前の御約束通り、棺(くわん)の蓋をしめたので御座います。さうすると、すぐ中から合図がある筈でして、合図があつたら蓋を開くことになつて居りました。ところが合図がないものですから、つい、三四分間蓋をして居たので御座いますが、もしやその間に窒息して死なれたのではありますまいか。』
『さあ、二三分ぐらゐで窒息が起るとも思はれません。』と、医師は棺(くわん)をのぞき、更に死体をながめて言つた。『それに、窒息らしい徴候はあらはれて居らぬやうに思ひます。尤も僕は経験も少ないし、それに夜分のことですから、こまかいところがはつきりわかりかねます。』
『すると、やつぱり解剖に附せなければなりませぬか。』と、押毛は幾分か顔を曇らせて言つた。
『解剖?』と医師は反問した。『こんなことを表沙汰にするのですか。』
『さあ、私もなるべくなら、村井家のために事を穏便に運びたいと思ひますけれど。』
 かう言つて押毛は並居る人々の顔をながめた。
 保はこの言葉をきくなり、全身の血液が一時(じ)に逆上するを覚えた。
『それはいけないと思ひます。』と、彼は癇高い声をふるはせて言つた。『若し、若し、社長が、万が一にも他人の手にかゝつて死なれたやうなことがあれば、それを明かにするのは社長に対する我々の義務だと思ひます。』
『えゝ?』と医師は叫んだ。『それでは村井さんは誰かに殺されたのですか。』
『さあ。』と保はどぎまぎして言つた。『それはもとより、ま(※10)誰にもわかりませんけれど、この模擬葬式は、誰が出したともわからぬ死亡広告が動機となつて行はれたものです。ですから、其処に、疑へば疑ふべき余地があると思ひます。』
 医師はぢつと考へこみ、押毛も黙つてしまつた。暫くは一種の殺気が室内に満ち渡つた。
『愚僧が口出しするのもをかしいですが。』と、住職はどつしりした声を出した。『どこまでもはつきり死因をわからせた方が仏に対する唯一の供養かと思ひます。どうです親戚のお方々?』
 すると、白髯(はくぜん)を生(はや)した老人が静かに口を開いた。『私は村井喜七郎の従兄に当りまして、而も私が一番濃い親戚なので御座います。若し、何か怪しい事情があれば、むろん、表沙汰にすべきでありますが、それについては、先づ、村井の家内と、娘の富子に一応相談して頂くのが順序であると思ひます。』
 この言葉には、何人(なんぴと)も異存がなかつた。
『中澤君!』突然、保は押毛に我が名を呼ばれてぎよつとした。『君は富子嬢とは特別の関係がある。将来富子嬢と結婚すべき人である。社長がなくなつた今、君は当然、この家の相談役とならねばならぬ人だ。早く離座敷(はなれ)へ行つて、夫人(おくさん)に、異変の次第を告げ、警察へ届けるべきか否かをきいて来てくれたまへ。』
 死体の方を向いて居た殿山医師は、押毛のこの言葉をきくなり、くるりと頭を振り向けて、鋭い眼附をしながら保の顔をじろりと見つめた。医師ばかりでなく、その他の人々も、始めてきくこの言葉に、好奇の眼を輝かせながら、一斉に保の方に視線を投げた。
 保はさつと顔をあかくし乍ら、逃げるやうに廊下に出た。彼はあまりに意外な押毛の言葉に、前後の考(かんがへ)もなく、廊下へ踏み出したものゝ、さて、自分の使命が、容易ならぬものであることに気づいて、思はずも、離座敷(はなれ)に通ずる渡り廊下の中に立ちどまつた。自分は、如何なる言葉をもつて、夫人に、この恐るべき真実を伝ふべきであるか。思ひもよらぬ報告によつて夫人の病気が一層重くなるであらうことを考へると、彼は到底自分の役目を果すに足るべき神経の持主でないことを自覚した。
 彼はいつそ引き返さうかとも思つた。けれども、彼は押毛のことを思ふと、引き返して再び押毛に皮肉を言はれたくはなかつた。それにしても押毛は何といふ皮肉な、意地の悪い男であらう。いはゞ彼は先刻(せんこく)押毛の意見に反対したかたきをみごとに打たれたやうなものである。さうだ、押毛は表沙汰にすることを厭(いと)ひ、自分はそれに反対したのだ。だから、どこまでも自分は夫人に事情を告げ、夫人の同意を得て、村井社長の死因を明かにしなければならない。かう思ふと、彼は急に元気づいて、両足の軽くなるのを覚えた。
 けれども離れの一番奥にある病室の障子の前に立ちどまつたとき、さすがに彼は一寸躊躇せざるを得なかつた。彼は手巾(ハンカチ)を取り出して、額ににじみ出た汗をぬぐひ、ほつと太息(ためいき)をついた。
 と、その時、細い声が室(しつ)の中から流れた。
『誰?』
 間違ひもなく夫人の声である。
『僕です、中澤です。』と、保は思はず大声で答へた。
『あ、中澤さん。』かういつて起き上らうとする音がしたので、保は、手早く障子をあけた。その時すでに、夫人は半身を起して左の手で支へ、両眼(りやうがん)を光らせて、保のはいつてくるのを待ちまうけて居た。
『中澤さん、良人(たく)がどうかしましたか。』
 いきなり、かうたづねられて、保はすつかり面喰(めんくら)つた。
『実は、実は……』言葉が彼の意志に従はなかつた。
『あゝ、』と夫人は崩れるやうに肱をつき、『わかつて居ます。良人(たく)は死んだのでせう? ね? 死んだのでせう?』
『本当に、本当に……』
 夫人は保の答を待たず、突然枕に両手を置き、顔を伏せて身体を搖(ゆす)つた。その時はげしい咳嗽(せき)が起つて、半白(はんぱく)の珠に結んだ髪の毛が、はげしく上下に躍つた。
 保は思はず傍にひざまづいて、その背中をさすつた。
『中澤さん。』と夫人の声は湿つて居た。『良人(たく)は殺されたのです。たしかに殺されたのです。』
 保はぎよつとした。
『かうなることはわかつて居たのです。良人(たく)は人手にかゝつたのです。』
 保はこゝだと思つて、
『ですから、今、あちらでは警察へ届けようか、どうしようかといつて居るのです。』
『警察?』と夫人はむくりと顔を上げた。『警察へ届けるのですか。』
『でも、誰かゞ社長を殺したとすると、警察へ届けなければなりません。』
『あゝ!』と夫人は絶望的の叫びを発した。『仕方がありません。仕方がありません。』
 かういつて再び夫人は、両手に顔を埋(うづ)めた。
 保は、何といつて慰めてよいかに迷つた。
『では、早速、その手続をしませう。』
 かう言つて立ち上らうとすると、夫人は、
『中澤さん、一寸。』と呼びとめた。『あなたはきつと、富子と結婚して下さいますでせうねえ。』
 保は思はず顔を紅くした。
『富子はかはいさうな女です。一人娘で、頼るべき兄弟も何にもありません。どうぞ、いつ迄も連れ添つてやつて下さい。』
『御心配なさつて下さいますな。僕は誓つて……』彼はそれ以上言ふことが出来なかつた。さうして、ふと、気づいて、
『時に、富子さんはどこに居るのですか。』
 この言葉をきくと、夫人の顔に、急に緊張の色があらはれた。
『え? 富子に御逢ひにならなかつたですか。』
『逢ひません。今晩一度も顔を見ません。』
『すると、富子はまだ、良人(たく)の死んだことを知らないのですか。』
『無論さうだと思ひます。僕は富子さんが、用事でも出来て、何処かへ行つたことゝ思つて居ました。』
『いゝえ、六時頃までこゝに居ました。』かう言つて夫人は暫らく考へて居たが、『中澤さん、あなたは今夜、還暦祝(いはひ)のあとであなたと富子の結婚の披露をすることをきいて居ましたか。』
 中沢ははつ(※11)と思つた。
『えゝ、昨日(さくじつ)、富子さんに内密(ないしよ)に聞きました。』
 夫人は又もや暫らく考へて居たが、急にヒステリツクな声を出した。
『中澤さん、ことによると富子は……』
 あまりに調子のはづれた声に、中澤は思はず、
『えツ?』と叫んだ。
『……若し、何処を捜しても居ませんでしたら、きつと誰かに誘拐(さら)はれたのです……』
 かう言つて夫人は、又もやうつ伏して泣き入つた。

第五章 刑事の出張

 十二畳の座敷では、保が去つてから、再び沈黙が続いて、東円寺住職のかすかに唱へる念仏の声が人々の気分を重たくしたが、やがて押毛は親戚や会社の人々に向(むか)つて言つた。
『かうして皆さんに立つて居て頂いても御気の毒ですから、一先づ別室へ退いて、何か召し上つて頂くことにしませうか。実はお料理の用意がとくに出来て居るさうです。』
『この際、とてもゆるゝゝ(※12)御馳走になつて居る気は致しません。』と、白髯(はくぜん)の老人が言つた。
『それよりも、序(ついで)といつては誠に変な言ひ草ですが、これからこゝでお通夜をさせて貰ひたいと思ひます。どうです、皆さん?』
 これにはもとより誰も異議がなかつた。そこで、押毛は再び室(しつ)を出て女中のお竹をよんで来て、人々に座蒲団を出させた。住職は伴僧に命じて、仏間へ香具を取りに行かしめ、お通夜にふさはしい準備をせしめた。
 一しきり一座はごてゝゝ(※13)した。と、そこへ中澤保が離座敷(はなれざしき)から小走りに帰つて来た。先刻(さっき)真紅(まつか)な顔をして出て行つたにも拘はらず、今は全く反対に血の気のすつかり失せた顔をして居たので、それを見た押毛は、
『どうした、君?』
 とたづねた。
『富子さんが居ないのです。』と、保は吐き出すやうに、誰に言ふともなく言つた。
『何? 富子さんが居ない?』と、叫んだのは、フロツクコートの殿山医師であつた。
『何もさう驚くに及ばぬことではないかね。』と、押毛は落つき払つて言つた。『令嬢はきつと、どこかの室(しつ)に居られるか、或(あるひ)は庭へでも出て居られるのだらう。君、一つ、これから捜しに行つて来たまへ。それはさうと、警察へ届けてもよいと夫人(おくさん)は仰しやつたかね?』
 保は首を縱に掉(ふ)り、『僕これから、富子さんを捜しに行つて来ます。』といつて、今来た反対の方へ去つた。
 押毛はこの時、四十あまりの禿頭の紳士に向(むか)つて言つた。
『久野(くの)さん、誠に御面倒ですが、これから門前署へ電話をかけて、刑事の出張を頼んで下さいませんか。私はこれから、台所へ行つて何か食べ物の用意をさせます。だいぶ時間も経つて、皆さんはお腹(なか)がすいたでせうから。』
 久野(くのう)(※14)といふのはその名を義雄といつて、村井商事会社の支配人であつた。彼は、昔流にいふならば、『温厚篤実の君子』であつて、先刻(さつき)から、押毛が采配をふつてゐるのを少しも不愉快な顔をせずに見て居たが、今かうして押毛に、いはゞ命令されても、不服どころか、却つて、手助けの出来るのを喜ぶかのやうに、そゝくさと立ち上つて玄関脇の電話室に急いだ。
 令嬢の捜索に当つた中澤保は、とりあへず令嬢の居間の襖をあけてその中へはいつた。令嬢の居間は玄関を隔てゝ応接室と反対の側にある書生部屋の隣りにあつて、中庭を隔てゝ表門に面して居た。室(しつ)の中には電燈が寂しく輝いて、主(ぬし)のない机や本箱をつめたく照して居た。中澤にとつては、かねてこの室(しつ)は、世界のどの室(しつ)よりもなつかしいものであつたが、今夜は何となく、ぞくゝゝ(※15)するやうな感じを与へられた。これまで時々、富子は押入れの中にかくれて居て、突然、襖をあけて、『バァ』といひながら、中澤をびつくりさせては興(きよう)がつて居たが、今夜こそ中澤はその『バァ』をどんなに希(こひねが)つたか知れなかつた。
 彼は思はず、低声(こごえ)で、
『富子さん、富子さん。』
 と二声(こゑ)呼んで見た。けれども、もとより答へはなかつた。彼はつかゝゝ(※16)と机のそばに走り寄り、若しや自分に宛てた手紙でもありはしないかと、恐るゝゝ(※17)机の抽斗をあけて見たが、別にそれらしいものはなかつた。彼が失望して富子の室(しつ)を出ようとすると、恰度そこへ女中のお霜が通りかゝつた。
『お霜さん、富子さんを知らない?』
 お霜はお竹よりも年が若くて、うぶであるだけ、村井氏の死に少なからぬ心の打撃を受けたらしく、それがよく顔付(かほつき)にあらはれて居た。
『お嬢さんが見えませぬのですつてね。をかしいと思ひますわ。』
『お竹さんは知らないだらうか。』
『知らないと言つて居ましたわ。』
『若しや庭の方にでも居ないだらうか。』
『もうとつくに庭からお帰りになつた筈ですわ。』
『え? それでは富子さんは庭に出て居たのかい?』
『えゝ、二時間ほど前、裏庭でお嬢さまにお目にかゝりましたわ。』
『その時、富子さんは何とか言つた?』と、保はせきこんでたづねた。
『いゝえ、別に、たゞ気分が悪いから、戸外(そと)へ出たと仰しやつてゝ、何だか泣いていらつしやつたやうですわ。もつとも暗かつたからよくわかりませんでしたけれど。』
 保はこれをきくなり、お霜と別れて玄関に出て、靴をはいて中庭に降り、それから建物をぐるりとまはつて裏庭に来た。曇つて居た空がいつの間にか晴れて、陰暦九月十四日の月が中天に懸つて居た。八幡山の森が黒雲のやうに前方にはびこつて、肌にしみるやうな夜風が、木の葉をさらゝゝ(※18)となめた。
 保は庭石づたひに、裏庭を横切つて、高塀のほとりを歩いたが、もとより富子の姿は発見されなかつた。
『若し、何処を捜しても居なかつたら、きつと誰かに誘拐(さら)はれたのです。』といふ夫人の言葉が、先刻(さつき)から保の頭を占領した。富子は果して誰かに誘拐されたであらうか。夫人はどうして、さうした推定をしたのであらうか、あの際夫人に立ち入つた質問をすることが出来なかつたけれども、又質問しても到底言はないであらうけれど、夫人はたしかに何人かに疑ひを持つて居るにちがひなかつた。
 誰であらう? 然し、夫人が誰に疑ひを持つて居ようとも、保には、押毛以外の人に疑ひを持つことが出来なかつた。押毛の先刻来の態度は一つゝゝ(※19)、彼のこの疑ひを増さしめたのであつた。『よし、若し、真に令嬢が押毛のために誘拐されたのであるならば、自分はどこまでも、押毛と戦つて、令嬢を奪ひ返さう。』
 かう決心するなり、保はくるりと後ろをむいてすたゝゝ(※20)表の入口に帰つて来た。と恰度その時、門前に自動車がとまつて、中から一人の背広服を着たでつぷり肥えた男が降りてつかゝゝ(※21)と門内にはいつて来た。男は保の顔を見るなり、中折帽を取つて、
『私は、鹿島恒吉(つねきち)といふ門前署の刑事です。只今、電話でお招きがあつたから、やつて来ました。』
 保は刑事の姿を見るなり、アメリカの巡査を思ひ出した。彼は日本人には珍らしい体格で、どことなくゆつたりとしたところがあつて、その上一種の滑稽味を帯んだ、髭のない顔の持主であつたから、保は、なつかしいやうな、嬉しいやうな感じを起し、叮嚀に自分を紹介してから、刑事を案内して、家の中にはいつた。
 奥座敷へ来ると、伴僧の焚いた香の煙が静かにたゞよつて、本当のお通夜の気分が、室(しつ)一ぱいに充ちて居た。坐つて居た人々は刑事の入来(じふらい)ときいて、膝をなほして急に緊張したが、刑事は与へられた座蒲団の上に無雑作に坐つて、中央の死体をながめながら、
『やあ、本当に村井さんは死にましたなあ。先刻(せんこく)、電話がかゝつた時は冗談ではないかと思ひ、こゝへ来るまで、十分信ぜられなかつたのですが、こりや、やつぱり冗談ではありませんな。昨日の朝でしたか、例の死亡広告のことでこちらへ御伺ひしたら、葬式の真似事をするのだといつて居られたが、何ですか、葬式の真似事をして、本当に死んだのですか。』
 かういつて、鹿島刑事は、厳然として正面に坐つて居る住職に向つてたづねた。
『仰せのとほりです。』と住職は聊かまごついたやうな風をして答へた。
『一たい、どんな風にして死なれましたか、どなたか、一つ前後の事情を委しく話して下さいませぬか。』
 人々が一斉に久野支配人の方を向いたので、支配人は一同を代表して、事の次第を順序正しく述べ立てた。先づ模擬葬式の後(のち)に還暦祝(いはひ)があるときいて親戚の者、会社の者一同が午後六時半頃に集まつた事、七時に松華によつてこの室(しつ)に案内されると、村井氏はすでにこゝにある棺(くわん)の中にはいつて居た事、それから住職と伴僧の読経が始まると、それまで眼をあいて居た村井氏が眼をつむつた事、読経が終つてリンが三つ鳴らされると、松華が蓋をした事、然し中から合図がなかつたので蓋をあけて見ると村井氏の様子が変つて居た事、それから離座敷(はなれざしき)に居た殿山医師を呼んで、死体を吊出して検査してもらふと、白い衣と緋の衣の下から、羽織袴の盛装があらはれた事、懐の中から鳥打帽子と麻裏草履その他のものがあらはれた事、死体はもはや蘇生の見込がなく、而(しか)も死因がわからぬから、電話で刑事を呼んだ事、――これ等を比較的簡単に物語つた。
 刑事は肥満した人に特別な、ひゆうゝゝゝ(※22)いふやうな呼吸をして、時々手帳に鉛筆で何事かを書き入れながら、黙つてきいて居たが、支配人の話が終るなり、
『恰度、お医者さんが来て見えたのは好都合です。どうです、村井さんの死因はやつぱりわかりませんか。』と、医師に向つてたづねた。
『よくわかりません。』
『お医者さんにわからなければ、我々にもわかる道理がない。』と刑事は真面目顔で言つた。『では、当然、解剖といふことになりますが、その前に出来るだけ事情を明かにして置く必要がありますから、これから、御迷惑でも、皆さんは私の質問に答へて頂きたいと思ひます。』
 かういつて刑事は、麻裏草履と鳥打帽子とを取りあげ、更に言葉を続けた。
『いまの御話ですと、模擬葬式の後(のち)に還暦の祝(いはひ)があるといふ手筈だつたらしいのですが、この麻裏草履と鳥打帽子は一たい何の意味があるのですか。』
 この時医師がつと立ち上つて死体のそばにより、袴のあたりや敷蒲団の下を頻りにさがしにかゝつたので、刑事は不審をいだいて、
『どうなさつたのです。何を御捜しになるのです。』とたづねた。
『先刻(さつき)、草履と帽子と一しよに、丸薬のケースを取り出して置いたのですが、それが今見えないのです。』言ひ乍ら、なほあたりを捜したが、ケースはどこにも見つからなかつた。
『をかしいなあ。』と医師はいぶかしげに言つた。
『どういふ丸薬です?』と刑事はたづねた。
『私が処方して、村井さんが持薬として居られた、動脈硬化予防の丸薬で、たしかに、シヤツのポケツトから取り出して、こゝへ置いたのです。どなたか御存じありませんか。』
 然し、誰も知つて居ると答へるものはなかつた。
『無いものは仕方がありません。そのうちにどこかから出て来るでせう。』かう言ひながらも、刑事はせはしく手帳に書きこみながら、暫く考へて又言つた。
『それで、模擬葬式と還暦祝(いはひ)がすんでから、どんなことが行はれる筈になつて居たのか、どなたも御存じありませぬか。』
 先刻(さつき)から保は、自分と富子との結婚式の祝ひがある筈だつたといふことを言はうか言ふまいかと迷つて居たが、早晩知れることであるからと思つて、その事を刑事に告げた。
 保の説明をきくなり、ケースの捜索を続けて居た殿山医師は、険悪な顔付をして保を見つめたが、つと立つて自分の席へかへつた。
『いよゝゝ(※23)、草履と帽子の意味がわからない。』と、刑事は保の説明をきいて言つた。『あなたはそれ以上何が行はれる筈だつたかを知りませんか。』
『存じません。』
『ふむ、それにしても結婚式を行ふ人が、背広服であるとは、をかしいですなあ。殿山さんのやうにフロツクコートでも着て居られるなら兎も角。』
 殿山医師は苦笑したが、保は笑はなかつた。
『然し、このまんまで来ればいゝといふことでした。』
『誰がさういひました。』
『令嬢の富子さんです。』
『なる程、さうすれば、令嬢にきけば何もかもわかりますな。』
『ところが令嬢が居なくなつたのです。』
『え?』
『夕方まで居て、それから何処へ行つたか知れなくなつたのです。』と、保は声を顫はせて言つた。
『そりや、をかしいですな。今夜は色々なものが見えなくなりますな。丸薬のケースがなくなつたり、令嬢が……』
 皆まで言はぬうちに人々が軽く笑ひ出したので、刑事は口を噤み、眼をつぶつて、じつと考へこんだ。
『令嬢が本当に居なくなつたとしたら捨てゝは置けぬが、そのうちには帰つて来られるでせう。それにしても、何だかかう狐にばかされたやうな、いはゞ魔法にでもかけられたやうなことですなあ。』かういつて刑事は、魔法といふ言葉から思ひついたと見え、急に松華の方を向いてたづねた。
『松華さん、あなたは一たいどうしてこゝに来て居るのか。村井さんの御親戚ででもあるのか。』
『いえ、雇はれたので御座います。』と、松華は傍に坐つて居る二人の少女(こども)弟子を顧み、更に棺桶の方を見ながら答へた。『この不思議のトランクのやうに見える棺桶は、私たちが舞台でつかふのとはちがつて、たゞ折畳みが出来る仕掛になつて居るだけです。今晩村井さんは、礼服の上に、緋の衣をかけ、更にその上に白の衣をかけて、棺の中に御はいりになりました。御経さまがしまへて、リンが三つなると、それを合図にすぐ私が蓋をする。村井さんは棺の中で白の衣をおとりになつて、中から蓋を御たゝきになる。すると私が蓋をあける。それと同時に村井さんが、緋の衣をまとつて立ちあがられる。弟子たちが棺を畳みにかゝると、村井さんがあとへ退かれる。その時私が村井さんの緋の衣に手をかけると、そのまゝ村井さんが抜け出して、衣ばかり私の手に残るのですが、皆さんの目には、まだ村井さんが其処におゐでになるやうに見えます。それから私がその衣を手に畳んでしまひますから、いはゞ村井さんの姿が、皆さんの眼の前で煙のやうに消える……といふ趣向を行ふ手筈だつたので御座います。』
『ふむ、なるほどそれは珍しい趣向でしたな。然し村井さんのやうな素人が加はつて、そんなに手際よく出来るものかな?』
『出来ますとも。実は今日私は四時頃に伺つて、村井さんに練習をしてもらつたのです。』
 この時住職が口を出した。『その練習を愚僧も拝見したが、村井さんは忽然と消えることができました。』
『何でしたら一つあなたを消して見ませうか。』と、松華が言つた。
『いや、煙のやうに消えては妻子が困るから遠慮することにしよう。』といつて人々を笑はせ、急に真面目顔になつて続けた。
『冗談は扨(さて)置いて、無論消えたやうに見える村井さんはどこかその辺に居られる筈でせうな?』
『隣りの室(しつ)の廊下においでになるのです。』
『それから、村井さんはどうなさるつもりだつたのですか。』
『さあ、それから先のことは少しも存じません。私はたゞそこまでやればよいといふことでした。』
『住職も御存じありませぬか。』
『愚僧も一かう……』
『これはいよゝゝ(※24)益々をかしいですな。では還暦祝(いはひ)のすまぬうちに姿を消されるといふ訳でしたな。然し、あとで還暦の御(おいはひ)や、結婚の御祝(おいはひ)があるとすると、無論、再び姿をあらはされるつもりだつたでせうが、それにしても、麻裏草履や鳥打帽子や、懐中時計や財布の用意がしてあるところを見ると、一旦は外出せられるつもりであつたのかも知れませんな。』
 かういつて刑事は再びぢつと考へこんだが、やがてまたひとりごとのやうに言つた。『それに、肝腎の令嬢が居られなくてはさつぱり事情を明(あきらか)にすることが出来ません。うむ、さうだ、ことによると令嬢と打合せでもしてあつて、どこかへ落ち合ふといふやうな趣向だつたかも知れん。何にしても、こりや、一度、夫人(おくさん)に御たづねして見るのが早道だらう。』
 かういつてから、刑事が夫人のありかをたづねると、殿山医師は遮つて言つた。
『今晩、夫人(おくさん)はいつもより気分が悪く、それに、先刻(せんこく)、こちらから、突然の不幸のおしらせをしたので、きつと悲しんでおゐでになるにちがひありません。ですから、今晩は夫人(おくさん)に御たづねにはならぬ方がよいと思ひます。それに夕方、私は夫人(おくさん)と話しましたけれど、夫人(おくさん)も今晩のことは、やはり委しいことを御存じないやうでした。』
 保は医師のこの言葉をきいて、はじめて、医師がまだ村井氏の死をきいた夫人を見舞はないことを知つた。さうして、急に夫人のあはれな姿を眼の前に浮べ、医師に夫人の病床を見舞ふやうに忠告しようかと思つたが、その時刑事の声が彼の心を遮つた。
『殿山さんは今晩いつ頃おいでになりましたか。』
『六時半頃に来るつもりでしたが、五時半頃に電話がかゝつて、夫人(おくさん)が少しいつもより気分が悪いからとの事に、すぐ御伺ひ致しました。』
 刑事はそれから住職の方をむいた。『先刻(せんこく)のお言葉ですと、住職は四時頃におゐでになりましたか。』
『さうです。伴僧と共にその頃にまゐりました。』
『何か村井さんの様子に変つたところはありませぬでしたか。』
『気がつきませぬでした。たゞもう一生けんめいに奇術を練習されました。』
『その外、別に変つた人が出入りは致しませんでしたか。』
『どうだい、了諦?』と、住職は伴僧を顧みてたづねた。
『ちつとも気がつきませぬでした。』と、伴僧は相も変らず、おづゝゝ(※25)しながら言つた。
 刑事は何やら手帳の中に書きこんで、暫くの間黙つて鉛筆をなめた。
『何が何だかさつぱりわからん。』と、彼は吐き出すやうに言つた。『こりや、どうしても、死体を解剖して死因を明かにしなければ、どうも見当がつかん。』
 保は先刻(さつき)から刑事の態度をもどかしく思ふと同時に、支配人や他の社員が口を噤んで居るのに少なからず焦燥を覚えた。といふのは、彼はこの事件の一切の秘密は、押毛を訊問すればわかると思つたからで、人々が押毛の名を口にしないのを不思議に思つた。
 押毛は一たいどうしたであらう。先刻(さつき)から姿を見せぬのは何故であらう。彼はつひに辛抱がし切れず、支配人に向つてたづねようとすると、又もや、刑事の言葉が彼の心を遮つた。
『いよゝゝ(※26)、これは検事局に通知しなければならぬが、時に松華さん、あなたを雇ひに行つたのは村井さん自身だつたかね?』
『いゝえ、会社の押毛といふ方です。』と松華ははつきり答へた。
『おゝさうか。それぢや、その人にきけば、今晩の趣向がわかるかも知れんな。その人はどこに居るだらうか。』
『今までこゝに見えましたが、食物(たべもの)の用意をさせるとて、台所へ行つて居られます。』
 この時二人の女中が、お茶と餅菓子とを運んで来た。
『押毛さんはどうなさつたね?』と刑事はお竹にたづねた。
『あの、急用が出来たといつて、二十分ほど前に御帰りになりました。』
 人々は顔を見合はし、保ははツと思つた。
『逃げたな。』と、保は思はず叫んだ。
『何?』と刑事がとがめた。
『僕は、押毛といふ人物をどうも怪しいと思つて居たのです。』
『それは又どういふ訳で?』と刑事も聊かせきこんでたづねた。
『一方ならぬ社長の信任をうけて、万事わがもの顔に振舞つて居ました。けれども、僕は彼が必ず何か大きな陰謀をいだいて居ると思つて居ました。』
『それは、然し、たゞあなたの推定に過ぎないのでせう。どうです久野(くのう)(※27)さん。』
『もとよりさうとは言ひ得ませんが、社長が会社の事は勿論、内輪のことまで相談なさつて居たことは事実です。』
『その人はいつ会社へ雇はれて来ましたか。』
『たしか八月の末頃だと思ひます。』
『それまで何をして居た人ですか。』
『それは村井さんより外誰も知らないのです。』
『今どこに住(すま)つて居ますか?』
『聞天館(ぶんてんくわん)といふ公園前の宿屋に下宿して居ります。』
『恐れ入りますが、一寸電話をかけて、下宿へかへつたかどうかきいて下さいませんか。』
 支配人は立ち上つて電話をかけに行つたが、暫らくして、あわたゞしく帰つて来た。
『どうでした?』と刑事。
『宿へきゝましたところ、主人が出て申すに、つい今し方押毛さんから電話がかゝつて、急用が出来て、当分は帰れないからそのつもりで居てくれとの事でしたと申しました。』
『はて、』と刑事は言つた。『事件は何だか面倒になつたやうですなあ。』

第六章 教室の事変

 その日、医科大学法医学教室の研究室では、小窪教授が木乃伊(ミイラ)製造に忙がしかつた。
 木乃伊(ミイラ)の製造! それは別に目新らしいことではないが、教授は年来それに力をいれて研究を続けて来た。然し、教授の製(つく)らうとする木乃伊(ミイラ)は、古代のエヂプト人が、バルサムや松脂(まつやに)やその他の樹脂をもつて製造した、あの乾燥した褐色の肉塊とは聊かその趣を異(こと)にして居た。即ち教授は、人間の死んだ時そのまゝの姿、否、その人間の健康時そのまゝの姿を、死体によつて永遠に保たしめる方法を企てたのである。自動的に動きこそせざれ、そのまゝにして置けば、生きて居る人間と少しも変らぬ木乃伊(ミイラ)を製造しようと、たえず研究を続けて来たのである。
 かくの如き研究が、一たい人間の世界にどんな影響を及ぼすものであるのか、換言すれば人生にとつて、利益があるのか又は無いのか、もとより教授以外に誰も知る由がなかつた。恐らく教授自身も、そんなことは一かう無頓着に研究の歩を進めて居るにちがひなかつた。すべて学者なるものは、多くは自分の興味に従つて研究を進めるだけであつて、研究した結果が世の中を益するとかせぬとかは、学者にとつて第二義のものである。若し世間が、人生と直接関係のない研究に没頭して居るの故をもつて学者をわらふならば、それは世間が大箆棒(おほべらぼう)であることを自証するに過ぎないのである。
 小窪教授の木乃伊(ミイラ)製造の研究も、教授の好奇心から選まれた題目に過ぎなかつた。けれども研究そのものは可なりの苦心と独創とを要した。死体の腐敗を防いだり、死蝋を作つたりすることは訳のないことであるけれども、死んだときそのまゝの柔かさに肉体のあらゆる部分を保つて、永久に変色変形させぬといふことは決して容易なことではなかつた。けれども教授は多年の苦心の結果、昨今、漸くその研究の完成に近づきつゝあるのである。ことに死後最も早く変化し易い眼球を生前の儘にたもつことは、最もその苦心を要したところであつて、昨今は、一旦変化しかけた眼球でも、薬液の注射によつてある程度まで、生前の姿にもどすことが出来るやうになつた。
 その朝、教授は、千種刑務所で黎明に死刑を受けた女囚の死体を貰ひ受けたので、木乃伊(ミイラ)製造に取りかゝつたのである。最も理想的な、いはゞ生きたまんまの木乃伊(ミイラ)を作るには、死刑を受けた死体が一ばん適当であつた。何となれば例へば病死した死体は、病気のために、その肉体が変化を受けて、木乃伊(ミイラ)もまた病的な相貌を有するものしか出来難(にく)いからである。だから教授は、この引(ひき)とり人のない女囚の死体を貰つて、少なからず悦に入(い)るのであつた。
 台上に横(よこた)はつて居る女は、漆黒の髪と雪白の肉をもつた二十五六の美人であつた。彼女は多くの男を毒殺したために、死刑を受けたのであるが、かうして死体となつて、罪のない顔をして横(よこた)はつて居るところは、恩怨共にない教授に向(むか)つて、美しい絵を見るやうな感じしか与へなかつた。
 先刻(さつき)から教授は薬液の注射に忙しかつたが、最後に眼球への注射を行つて、黒の研究室衣(けんきうしつぎ)に包まれた身体を、ほつと一息つきながら伸ばすと、その折、扉(ドア)を叩くものがあつて、『おはいり』の教授の声に、つかゝゝ(※28)とはいつて来たのは、助手の肥後君であつた。
『先生、意外な事件が発生しました。』
『意外な事件とは?』と、教授は注射器を下に置いてたづねた。
『たゞ今、村井喜七郎氏が頓死されて、死因に疑はしいところがあるから、解剖に送るといふ、検事局からの電話でした。』
 これをきいた教授はさすがに少しく、いつもの冷静な態度を崩した。
『え? あの村井さんが?』
『さうです。先日死亡広告を出された村井さんが、昨晩何でも葬式の真似をして、棺(くわん)の中で真実(ほんたう)に死なれたさうです。』
『それは意外だ!』と教授は少しく顔色を変へて言つた。
『けれども、先生は、あの死亡広告が悲劇に終ると仰しやつたではありませんか。』
『それは、さう言つた。』
『いよゝゝ(※29)、悲劇に終つたではありませんか。』
 教授は何思つたか、腕を拱(く)み、眼をつぶつた。
『先生に犯罪方程式を教へて頂いた翌日、第三回の死亡広告が出ましたので、村井さんが槍玉にあがるとは皮肉だと、先生と話し合ひましたが、こんなに早く犯罪方程式を応用すべき事件が起らうとは、まつたく意外でした。』
『然し、』と教授は肥後君をみつめて言つた。『まだ君、犯罪が行はれたとはきまらぬぢやないか。でも、でも、をかしいなあ。』
 かう言つて再び教授は考へこんだ。
『まあいゝ。』と教授は夢からさめたやうな顔をして言つた。『事情をきけばわかるだらう。死体が運ばれて来たら、解剖室へ入れて、いつもの通り明日の朝九時に始めると、検事局と警察の人へ告げて置いてくれたまへ。』
 小窪教授は、習慣として、今日運ばれて来た死体は明日解剖することにして居た。教授の考(かんが)(※30)によると、解剖の際に先入見を持つといふことはよくないけれど、あらかじめ死体が生じた前後の事情をよく研究して置くことは、解剖の際の観察をたすけるもので、その方が従来の経験上、遙かに精確な鑑定を行ふことが出来るといふのであつた。
 それ故、村井氏の死体も、当然、明日の朝、解剖されることになつたのである。
 その日の午後、教授は自室に肥後君を呼んで言つた。
『君、今まで、門前署の鹿島刑事に、村井氏の死の前後の事情をきかせてもらつて居たよ。』
 かう言つて教授は、鉛筆で書いたノートを見ながら、刑事の語つたところを残らず、肥後君に伝へた。それは第五章に記載した事柄であつて、鹿島刑事は、あれからすぐ検事の出張を乞ひ、間もなく検事が来て、取調べたけれども、鹿島刑事以上に事情を明かにすることが出来ず、すべては死体解剖の結果をまつて取調べを発展せしめるより外はないといふことにきまつたのであるが、令嬢はたうとう朝になるも帰つて来なかつたといふのであつた。
『かういふ訳であるから、これだけの事情では村井氏の死因が何であるかは、ちよつと推定が出来にくいだらう?』
 肥後君は暫く考へて居たが、やがて言つた。
『自殺といふことは考へられませぬから、自然死か他殺かの二つになりますが、僕はどうも他殺と考へたくなります。』
『無論誰でもさう考へる。さう考へたればこそ、その筋の人も解剖でそれをたしかめようとしたのだ。だが、解剖する前に一応死体を見て置かうか。』
 それから教授は肥後君を伴つて解剖室に入り、解剖台上に横(よこた)はる死体の白布(はくふ)を取り除いた。其処には生前の姿と大差ない村井氏の肉体があつた。
『大へん栄養がよろしいですねえ。』と肥後君が言つた。
『六十歳とは思へぬほど皮膚が艶々して居る。どうだね、望診だけでは死因を鑑定することが出来ぬかね?』
 肥後君は解剖台のまはりを二三度まはつて死体を前後左右から観察したが、
『どうもよくわかりません。』
『無論さうだらう。たとひある程度まで推定を下したところが、解剖した結果の精確さには及ぶべくもない。』と教授はじつと死体の顔面を見つめて言つた。
『早く解剖して見たいと思ひます。』
『急ぐことはない。それよりも明日の朝まで、先刻(さつき)話した材料によつて、よく考へることだよ。すべてどんな複雑な事件でも、その核心をつかむと、比較的容易に解決が出来るものだ。』
 再び死体を白布(はくふ)で蔽(おほ)つて、教授は助手と教授室にかへつた。
『どうだね。若し村井氏が他殺ときまつたら、犯人の探偵をして見ないかね。』と教授は言つた。
『無論やつて見たいです。それこそ、犯罪方程式を応用することが出来ますから、』
 教授は苦笑した。『犯罪方程式か。犯罪方程式もいゝが、差し当り、君が素人探偵として活動する承認を受けなければならない。鹿島刑事の話によると、令嬢と結婚する筈の中澤君が、令嬢を探し出すために是非捜索を手伝はせてくれと頼んださうだ。刑事は快く承諾を与へたといつて居たよ。鹿島刑事は、ぼんやりしたやうなところがあるが、どうして、なかゝゝ(※31)しつかりしたものだよ。さうしてその度量が実に大きいから、君が探偵に加はりたいといふなら喜んで承知してくれるだらう。君も探偵小説ばかり読んで居ないで、一度は実際の探偵に従事し、さうして、如何に小説の世界と現実の世界がちがつたものであるかを味(あじは)ひたまへ。』
 肥後君の顔はうれしさうに輝いた。『やつて見ます。ことに先生の教(おしへ)を受けることが出来るのですから、なほ更愉快です。』
『いや。』と教授は遮つた。『折角の仕事を他人に教へて貰つてやつては面白くないよ。先づ自分自身の考(かんがへ)を中心として活動することだね。』
『出来るだけやります。』
 あくる日の午前八時半頃、検事局や警察の人々が、解剖に立ち合ふべく控室に集(あつま)つた。教授は早朝から、昨日の女囚の死体に、引き続き必要な処置を施して居たが、九時少し前になつて、助手の肥後君がはいつて来た。
『先生、解剖室の鍵を貸して下さい。小使が昨晩から、解剖室の鍵を失つたといひますから。』
 教授はそれをきいて怪訝な顔をしたが、黙つて、ズボンのポケツトから鍵を出して、肥後君に渡した。
 肥後君は、鍵を受取つて、手でひねりまはし乍ら、上機嫌で去つたが、程なく顔色をかへて走つて来た。
『先生!』といつたきり、あとが言へなかつた。
 教授は、肥後君のたゞならぬ姿を見て、驚いてたづねた。
『どうしたんだ君、しつかりしたまへ。』
『解剖室の…………』
『え?』
『村井さんの死体が…………』
『?』
『どこへ行つたか、なくなりました。』(つゞく)

■お謝り

 新年号「疑問の黒枠」第一回第四頁十八行目「犯罪方程式なるものを考へてゐるのだよ。例へば殺人に就ていふならば、……
     殺人=犯人の心=被害者の心――とあるは 殺人=犯人の心−被害者の心
 の誤植でした。この方程式は事件の進行と共に、大変重大になつて来るんだらうと思はれますので、作者小酒井氏並に読者諸君に謹んでお詫びを申して置きます。(※32)

(※1)原文の踊り字は「ぐ」。
(※2)(※3)(※4)(※5)(※6)(※7)原文の踊り字は「く」。
(※8)原文の踊り字は「ぐ」。
(※9)原文の踊り字は「く」。
(※10)原文ママ。
(※11)原文圏点。
(※12)(※13)原文の踊り字は「く」。
(※14)読み仮名原文ママ。
(※15)(※16)(※17)(※18)(※19)(※20)(※21)(※22)(※23)(※24)(※25)(※26)原文の踊り字は「く」。
(※27)読み仮名原文ママ。
(※28)(※29)原文の踊り字は「く」。
(※30)読み仮名原文ママ。
(※31)原文の踊り字は「く」。
(※32)『お謝り』該当個所については既に訂正の上公開しているが、資料性を考え本文と共に翻刻した。

底本:『新青年』昭和2年2月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1927(昭和2)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年9月15日 最終更新:2009年9月15日)