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疑問の黒枠(第一回)

プロローグ

 泣きたい秋だと栄養不良の詩人は言ふであらう。擽(くすぐ)つたい秋だと頭の尖(とんが)つた常習犯罪者は言ふであらう。もどかしい秋だとうぶ(※1)毛の多い恋の女は言ふであらう。昨夜JOCKで「西の風曇り」と報ぜられた空が、皮肉にも精巧なカツトグラスを見るやうに澄んで、紫外線に富んだ十月の午後の陽は、人の心をとりゞゝ(※2)に興奮せしめずには置かない。たゞ、科学者の世界だけには、秋に拘はらず、空に拘はらず、冷静と沈着と、帰納と演繹とが、厳然として存在するばかりである。
 顕微鏡、試験管、孵卵器、各種の標本……かうしたものが処(ところ)狭きまでに、机の上四囲(ゐ)の棚にならべられた研究室で、先刻(さつき)から法医学者小窪介三教授と、助手の肥後俊助君とが対座して居た。
『……ですけれど先生、法医学の領分を、犯人捜索、犯罪の科学的研究にまで拡げることは、寧ろ、法医学の発達を遅らせることになりはしませんか。』と、少壮気鋭の青年学者が訊ねた。
『これまでの法医学者は皆さういふ考へ(※3)居たよ。』と、老教授は硝子越しに庭を眺めて答へた。其処には無果花の大きな枝のところゞゝゝ(※4)に、面疔のやうに紫に染(そま)つた果実が、巨大な蛭の喰ひ跡ででもあるかのやうに紅く裂けて生(な)つて居た。
『然しそれは誤りだよ。法医学に限らず、医学乃至一般科学は、従来あまりにも分析といふことばかりに力を入れて来た。即ち幹から枝、枝から葉、葉から葉脈、葉脈から気孔といふ風に、微に入り細を穿つといふ方針で研究されて来た。だから多くの科学者の室(しつ)には顕微鏡がある。現に此処にも顕微鏡がある。けれど、顕微鏡で研究された結果は、要するにネアンデルタールから発掘された石器時代の人骨のやうに、ばらゝゝ(※5)の纏りのないものばかりだ。すれば結局、今の科学は一種の寸断遊戯に過ぎないのだ。即ち顕微鏡は一種の玩具に過ぎないのだ。尤も、人生そのものが一種の遊戯ではある。たゞ然しその中に死のみは厳肅な事実だ。だから、その死を研究する法医学では、少なくとも遊戯を避けたいと思ふ。我々はもう分析をやめて、合成に移らなければならない。』
『けれども、まだ法医学の領域には、わからぬことが沢山あるではありませんか。』
『わからぬことは沢山あるけれども、その多くは、分析によらず合成によつて解決すべきものだ。それをいつまでも分析によつて説明しようとするから、永久に失敗に終るのだ。』
『すると具体的にはどうすればよいのですか。』
『それが繰返して言ふところの、法医学を犯罪捜査にまで拡げることだ。』
『といふと例へばあのフリーマンの小説に出て来るソーンダイク博士のやうに、法医学者が探偵として活動すればよいといふのですか。』
『違ふ、違ふ。ソーンダイクの方法は、あれは、たゞ物的証拠を分析するだけだ。即ち、従来の法医学的知識を犯罪捜査に応用したといふに過ぎない。』
『では、先生の仰しやるのは、どんな風にするのですか。』
『まづ何よりも先に、人間の心を研究するのだ。』
『ミユンスターベルヒの心理的探偵法といつたやうなものですか。』
『違ふ、違ふ。心理的探偵法も、やはり浅薄な分析に過ぎない。……僕はいつも考へて居るのだよ。今の科学者は、あまりにも人間の心を無視して居るとね。例へば医学者は病人の心を無視して居る。だから病は治らない。裁判官は罪人の心を無視して居る。だから正しい裁判は出来ない。それと同じやうに、犯罪捜索者は、犯罪者の心を無視して居るから、容易に犯人がわからないのだ。いかに冷酷無情の犯罪者でも、木や石で出来て居る訳でないから、必ず心がある筈だ。だから、その心を捜索の対象とするのだよ。今こゝに一つの犯罪が行はれたとする。例へば殺人がね。従来は現場の死体の位置を観察したり、死体を解剖したり、或は血痕を分析したり、指紋を採取したりして犯人を推定したのであるが、うまく推定の出来るときは稀で、推定の出来ない場合が大部分を占めたものだよ。して見ると、これまでの科学的捜索なるものは、まつたく偶然に支配されたのだ。犯人逮捕に成功したのはまぐれ当りに過ぎなかつたのだ。それでは何にもならない。これが所謂分析の罪なのだ。で、これからは、どうしても犯罪捜査に必然性を持たせなければならない。如何なる場合にも必ず成功をする探偵法に工夫を凝らさなければならない。それがためには我々は従来の分析法を捨てるべきだよ。言ひ換へれば顕微鏡を捨てるのだ。さうして、もつぱら犯人の心を研究するのだ……わかつたかね?』
『どうもよくわかりません。』
『わからない? そうだらうとも、わからぬのは当然だよ。まだ世界の何人にもわからないのだから。それがわかつたら、未解決の犯罪といふものはない筈だ。ところで、犯人の心の研究は何によつて行ふかといふに、いふ迄もなく、社会そのものを研究することなのだ。犯罪は社会の反映であつて、社会の矛盾と欠陥は犯人の心によつて代表されて居るのだ。然らばその社会の矛盾と欠陥とを何によつて一番手短かに研究するかといふに、それは被害者の心を研究すればよいのだ。そこで僕はかねてから、犯罪方程式なるものを考へて居るのだよ。例へば殺人に就ていふならば、
        殺人=犯人の心(※6)被害者の心
 といふのがこれだ。極めて平凡な式であるけれども、この方程式を十分理解し得たならば、どんな犯罪も解決されるのだ。勿論探偵がこの方程式を応用するに当つては、探偵自身の心をもつて活動しなければならない。従来の探偵の際には、主として知識のみを使用して事足れりとして居たのであるが、この方程式を以て解決に当る場合は、全人格を働かせねばならぬのだ。……わかつたかね?』
『わかつたやうな、わからぬやうなものです。』
『ふむ。』と教授は微笑した。『抽象的な議論といふものはとかくわかりにくいものだよ。仮りに君が、僕のこの説を、ある探偵小説の中へでも書いたとしたら、読者はきつと厭いてしまふだらう。だが、もう少し辛抱して聞きたまへ。従来の犯人捜索といふことは、犯人を発見逮捕するといふ単なる興味を以て行はれようとしたのだ。然し、それは根本的な誤りだ。探偵が全人格をもつて活動するときは、好奇心などの浮ぶ筈がない。全人格をもつて活動した結果、どうにも逃れられぬ破目になつて犯人がこちらの手のうちに飛び込んで来たとき、やむを得ず逮捕すればよいのだ……』
『する(※7)、犯人が巧みに逃げれば、逃がして置いてもよいといふのですか。』
『まあ待ち給へ。必ずしも一概に言ふことは出来ぬよ。智慧があつて逃げかくれる奴は、より以上の智慧を出して捕へればよいが、心をもつて逃げかくれる奴は、先方から飛び込んで来る迄は逃がして置くべきであらうよ。』
『すると先生は悪人の味方をされるのですか。』
『何? 悪人? 悪人なんてこの世の中にはめつたにあるものではないよ。たゞ書物の中に沢山あるだけだ。』
 かういつて教授は髭の多い顔を歪めてにこりと笑つた。ホイスラーの描いたカーライルそつくりの顔をした小窪教授は、先年学位を辞退して問題となつた。教授はそれについて何の理由をも説明しないが、日本否、世界有数の学者でありながら東京に住まぬのは、東京がうるさいからださうである。学問研究は田舎の町に限る、かう主張して、教授はこの名古屋の大学に籍を置き、それが今では名古屋の誇りの一つとなつた。助手の肥後君はこの九月に東京大学を去つて、わざゝゝ(※8)小窪教授の門に入つたのであるが、今日は土曜日であるにも拘らず午後まで居残つて、はからずも教授に犯罪方程式の説明をきいた訳である。
 中央線を走る列車の音が秋の空気に強く響いて来た。今まで論議に熱中して居た教授は突然、言葉の調子を変へて、
『秋だねえ。』と言ひ放つた。
『まつたく秋になりました。これからは犯罪の数が減じます。』
『さう、統計上犯罪は春から夏にかけて一番多く、秋から冬にかけて漸次減ることになつて居る。けれどそれは突発性の犯罪にのみ当てはまる統計だよ。計画された犯罪は、却つて秋から冬にかけて多いものだよ。即ち、先刻(さつき)話した犯罪方程式に当てはまる殺人の如きは、この季に最も多く行はれるのだ。何しろ、秋から冬にかけての気候は、冷静に事を計画するには都合がよいからね。』
『然し、兎に角、ことしも、秋になつてから犯罪の数が少なくなつて来たやうにおもはれます。』
『それはさうだ。だが、僕には、近いうちに何事か起りさうに思はれるね。少くともこの名古屋の平和を撹(か)きみだすやうな事件が。』
 肥後君は一寸驚いて教授の顔を見つめた。
『それには何か拠りどころがありますか。』
『あるね。』
『どんなことですか。』
『例へば先日来二回市中をさわがしたあの死亡広告事件のごときものだ。』
『あれは、単純な悪戯ではないでせうか。』
『さうかも知れない。けれど世間を騒がす悪戯といふものは、必ず悲劇に終るものだよ。』
『すると先生は、あれを何か犯罪事件の前駆(せんく)と見られるのですか。』
『さあ、僕は予言者でないからそれを断定する力はない。然し、すべて珍らしい現象といふものは、天然的のものであつても、また人為的のものであつても、或は客観的のものであつても、なほ又主観的のものであつても、多くの場合悲劇に終るのがこれまでの慣例となつて居る。君も歴史を繙き物語を読んで思ひ当ることが沢山あるだらう。』
『では、大事件の発生を待ちますかな。』
『待たなくてもよい。期待といふことは科学者に禁物だよ。』
『すれば、事件をしてそれ自ら発展せしめよですか。』
『さうだ。さうして事件が起つた時……』
『我々をして犯罪方程式を応用せしめよですか。』
 かう言つて肥後君が、好奇心に満ちた眼(まなこ)をもつて教授の顔をながめると、教授は微笑のまゝ軽くうなづいて、再び窓外の秋色に眼を移すのであつた。

第一章 死亡広告

『……何しろ驚きましたよ。自分の死亡広告を自分の眼で読むなどといふことは、六十年の生涯に始めての気味の悪さでした。』
 と、訪問の客は、出張(でば)つた、厚い然し血の気の少ない下唇を、変にねぢらせて苦笑しながら、更に言葉を続けた。
『前(ぜん)に二回かういふ悪戯があつたから、同じ驚くにしても、まあその程度は割合に少なかつたのですが、もし拙者が真つ先に槍玉に上つて居たとしたら心臓のよくない拙者は、本当に死んでしまつたかもしれません。いやもう、とんでもない悪戯をする人間が世の中にはあるものです。お蔭で昨日今日は弔問の客や弔電が引きも切らぬ有様で、やつと今、少し暇が出来たので御邪魔にあがりました。』
 客は名古屋でも指折りの富豪で、村井商事会社を経営して貿易界に羽振りをきかせて居る村井喜七郎氏である。氏は今、檀那寺なる中区老松町の東円寺をたづねて、昨日、新聞に自分の死亡広告を出された顛末を、住職の友田覺遵(かくじゆん)師に語るのであつた。
『いや。定めし御迷惑のことで御座いましたらう。愚僧も新聞を拝見したときびくつとしましたよ。牛肉の罐詰だと思つて開いた中から、石ころが出たといふやうな驚きよりも数倍強いものでした。取りあへず人を走らせて真偽を御たづねに上らせた訳ですが、予期したことゝいひ乍ら、詐(いつは)りだと聞いた時は胸を撫で下しました。だが村井さん、人間は出る息入(い)るを待たぬ習ひ、今回のことにつけても、後生の一大事を御心懸けにならねばなりません。』
 がつしりした体格をもつた、いはゞ大入道といつた感じのある友田師は、小柄な村井氏とはよい対照をなして居た。かういふ僧侶の口から、後生話が出るのは、ちよつと不似合なものであるが、強大な信仰といふものは、かうした不似合な人に存在し易いもので、似合な、尤もらしい僧侶には、信心は通常縁遠いものである。
『ありがたう御座います。』と、村井氏は平素の態度に似合はず、しんみりとした調子で答へたものである。すでにその顔附(かほつき)からが助産蟇(じよさんがま)を思はせるやうな滑稽に満ちて居るとほり、その性質も極めて滑稽味を帯んで居る村井氏は、及第点に達する狂歌や俳句を弄び、色々人前で滑稽なことを演じては相手を笑はせ、或(あるひ)は途方もないことをして人の度胆を抜くことが好きであつた。たまゝゝ(※9)念仏は申すけれども、何のために申す念仏であるかを知らず、時には朝夕(てうせき)の勤行(ごんぎやう)に仏壇の前で阿弥陀経の一巻ぐらゐ読み上げるけれども、浄土真宗がどんな宗派であるかを知らなかつた。従つて信心も安心(あんじん)も未だ嘗て獲得(ぎやくとく)したことなく、『朝(あした)には紅顔ありて夕(ゆふべ)には白骨となれる身なり』の御文章(おふみ)にも一度も感動を催ほさなかつた。その村井氏が、いまさもゝゝ(※10)心から『無常迅速(むしやうじんそく)』を悟つたかのやうに発した言葉は、むしろ、村井氏の平素を知つて居る住職に取つては意外であつたが、宿善開発とはこんなことを言ふのであらうかとも思つた。
『この死亡広告が機縁となつて決定(けつぢやう)が出来れば、あなたはまことに御仕合(おしあはせ)です。』
『左様、やつぱりこれは阿弥陀様の御方便とでもいふので御座いますかな。』と、村井氏は羽織の襟を正して言つた。
 開け放たれた障子のむかふには、幅の広い板縁を隔てて、閑静な、奥深い庭があつた。老松(らうしよう)にからむ蔦の蔓は滝のやうに垂れさがつて、亡者の血の色かと思はれるやうな雁来紅(はげいとう)と接吻しつゝ、やがて程なくどうだん(※11)と共に、焔のやうな紅葉(もみぢ)の幕を飾るべき下準備をして居るかのやうに、忙(いそが)(※12)はしくその葉をゆすぶつて居た。緑の波のうねりを思はせる地面一ぱいの苔の中から、津波の前に姿をあらはす海中の奇巌のやうに突き出て居る庭石の蔭には、蟷螂(かまきり)の脚のごとき幹をもつた秋海棠(しうかいどう)が、さびしさうに花を開いて居た。
 村井氏は西方(にし)に傾いた日かげに照(てら)された庭の面(おもて)を、暫らくの間、放心の態(てい)でながめて居たが、折から、一疋の蝶が、迷子のやうに縁の方に踊つて来たのを見るなり、急に思ひ出したやうに言つた。
『時に和上、今日は御相談があつてまゐつたので御座います。』
『御相談とは?』
『和上に叱られるかも知れませんが、死亡広告の中に、明後日(あさつて)が葬式の日であると書かれて居りますについて、いつそ葬式をやつて見ようと思ふのです。』と、村井氏はいつものにこゝゝ(※13)顔を取りかへして言つた。
『葬式をやつて見るとは?』と、友田師は不審な面持でたづねた。
『なに、例の拙者の十八番(おはこ)ですよ。拙者もどうせもう長いことは生きて居れぬと思ひますが、まだゝゝ(※14)死なれません。娘によい聟をあてがはねばならぬし、会社の方にも、すつかり任してしまへる人物が見つかりませんからな。和上に迷信を語つては相済まぬが、死亡広告を出されるなどは、あんまり縁喜がよく御座いませんのぢや。そこで拙者はこの際縁喜なほしがしたいものだと、昨日からいろゝゝ(※15)考へました結果、これはやつぱり、死亡広告どほりに、いはゞ模擬葬式をやつて見ようと思ひついたので御座います。』
 住職は田螺のやうな眼をむいて村井氏の語るところを聞いて居たが、
『模擬葬式!? なる程な。愚僧も長い間数多くの葬式をやつて来たが、模擬葬式といふ言葉は今日始めて聞くし、また一度もやつたことはありません。ですが、模擬葬式をやると、それが、どういふ訳で、縁喜なほしになりますか。』
『実は恰度、来月の二十日が拙者の誕生日に当りまして、今年は還暦なので御座います。そこで還暦の祝(いはひ)を一ヶ月早めて、模擬葬式のあとで、本卦がへりの宴(えん)を開かうと思ひますのぢや。世間では赤児にかへるといふところから赤い襦袢を着ますが、拙者はその死んで生きかへるところを徹底的にやらうと思ひます。往生は生れるといふ文字を書きますから、死ぬことは生れること。これまでの村井喜七郎を模擬葬式で葬り去つて、新らしく村井喜七郎が生れようといふ趣向です。なんと和上、これで縁喜なほしは出来ますまいか。』
『なるほど、これは珍趣向。阿弥陀様も御賛成下さるかも知れません。』と、住職も相好を崩して言つた。
『では勿論、和上は御賛成下さいますな?』
『賛成します。世間ではたとひ真似事でも葬式などをやることは、大へん縁起を悪がるにちがひありません。それを敢てせられるあなたの度胸には感心します。』
『これは有難い、実は、葬式の真似事をするなどといひ出したら、きつと和上に反対されるものと思つて居ましたよ。』
『なに、この世の中の人は、みんな真似事しかやつて居りませんよ。坊主は坊主の真似事、医者は医者の真似事、学者は学者の真似事をして居るだけです。末法五濁の世とは、言ひかへて見れば真似事の世の中といふ事です。ですから、この際、知名のあなたが、模擬葬式を御やりになるといふことは、世間に対する一種の諷刺になりませう。御開山聖人は、『愛慾ノ広海ニ沈没(ちんもつ)シ、名利ノ大山(だいせん)ニ迷惑シテ、定聚ノ数ニ入ルコトヲヨロコバズ、真証ノ証(さとり)ニチカヅクコトヲタノシマズ』と仰せられましたが、名利と愛慾に眼のくらんで居る今の世の中では、なるべく大がかりな方法をもつて、諷刺し警告するより他はありません。模擬葬式とはまことに時機を得たものと思ひます。』
『いや、別に拙者には、それほどの深い考(かんがへ)があるのではありませんが、和上の賛成を得て大(おほい)に意を強うしましたのぢや。家内などはそれこそ縁喜を一そう悪くするから、およしなさいと病床に居りながら頻りにとめますので、少々閉口致しましたが、和上が味方になつて下されば拙者も快くやることが出来ます。そこで申すまでもなく模擬葬式には和上自身おいでが願へませうか。』
『参りますとも。葬式の時間は何時と出て居ましたか。さうゝゝ(※16)新聞を取り寄せればわかりますなあ。』
 かう言つて住職は、後ろの襖を顧みて、隣室に向ひ、
『おい了諦、昨日のN新聞をもつて来てくれないか。』と大声で叫んだ。
 間もなく、三十ばかりの伴僧山場了諦が襖をあけ、新聞紙を手にしてはいつて来た。彼は先刻(さつき)村井氏にお茶を出してから隣室に伺候して、住職の命令を待つて居たのである。
 新聞紙を受取つた住職は、最後の頁を見て言つた。
『うむ、こゝにありますな。』
 其処には二段に亘つた黒枠の中に次の文句が書かれてあつた。

村井喜七郎儀本日午前十時脳溢
血ニテ死去仕リ候間此段御通知
申上候

 追而葬儀ハ来ル二十日午後七時自宅ニ
 テ相営ミ申スベク候

 大正十五年十月十六日
           妻  浪  子
           親 戚 一 同

 こゝで作者は先日来、中京の地を騒がせた死亡広告事件なるものを簡単に紹介して置かうと思ふ。
 十月六日の朝、S新聞を見た一部の人々は知名の呉服店主谷村英三氏の死亡広告に少なからず驚かされた。谷村氏の親戚一同は広告主となつて居ながら谷村氏の死を知らなかつたので、その驚きは世間の人のそれよりもはげしかつたが、何といつても一番驚いたのは生きて居る谷村英三氏その人であつた。それから大騒ぎとなつて、警察では、誰が広告を依頼しに来たのか厳重に取り調べたけれども、何しろ新聞社の広告係りは多忙のためよく記憶して居らず、たうとう有耶無耶のうちに過ぎてしまつて、たゞ迷惑したのは谷村家だけであつた。然し、世間の好奇心といふものは妙なもので、このことがあつてから、今まであまり繁昌しなかつた谷村呉服店が急に賑ひ出し、いはゞ谷村家にとつては、禍(わざはひ)が転じて福となるに至つた。
 ところが、十月十二日の朝、S新聞は又もや生きて居る人の死亡広告を載せた。死亡したと広告されたのはやはり知名の人で、薬種商を営んで居る市川長兵衛氏であつた。警察では時を移さず取調べにかゝつたが、やはり誰が広告を依頼しに来たのかさつぱりわからず、たゞ市川家が迷惑をしたといふ外、別に他に累を及ぼさなかつたので、恐らく、悪戯好きな人間が単に、世間を騒がせるために行つたことに過ぎないであらうと解釈されたのである。
 するとこんどは、N新聞に、村井喜七郎氏の死亡広告が出たのである。それは昨日即ち十月十七日の朝のことで、谷村英三氏も、市川長兵衛氏も、別に死亡広告を出されたからといつて、何事も行はなかつたのに反し、村井喜七郎氏は、冗談好きの性質が、じつとして居ることを許さず、模擬葬式を計画して、今日、東円寺住職にその執行を依頼しに来たのである。
『午後七時ですなあ。夜の葬式とはめづらしい。俗に、貰ふものなら日の暮の葬礼でもよいといふ諺がありますが、これはもう一歩進んで居りますわい。』と、住職は笑(わらひ)を含んで言つた。
『然し、午後七時と書いてくれたので、こちらの趣向をこらすには大へん好都合でした。』
 と村井氏は答へた。
 傍に坐つて居た伴僧了諦はこの時村井氏に向つて、不審さうな顔をして、
『広告通りに葬式を御やりになるのですか。』
 とたづねた。
 住職は簡単に村井氏の計画を説明して聞かせた。
『さういふ訳だから、明日はお前と二人で村井さんのお宅へ伺つて、色々準備をして、極めて厳かに式を営むことにしよう。』
『それはよい思ひつきです。』と、了諦は村井氏の方を向いて諛(こ)びるやうに言つた。『村井さんなればこそで、一寸普通の人には考へつかぬことでもあり、たとひ考へついてもその実行を躊躇するだらうと思ひます。よほど太つ腹の人でなければ、死人の真似をすることは出来ますまい。』
『いやなに。』と村井氏は頗る上機嫌になつて言つた。
『太つ腹も何もない。たゞ拙者はかういふ冗談をすることが好きなだけで、この年になつても子供気が抜けないのですよ。尤も赤ん坊に還るのですから、それも無理はないかも知れぬが。はゝゝゝゝ。』
 蒼白い面長の顔をした了諦は、この時お附合ひに少し笑つて、急に真面目顔になり、
『それにしても「脳溢血ニテ死去仕リ候」とは思ひ切つたことを書いたもので御座いますねえ。』と、村井氏の顔をぢつと見つめて言つた。
 この時村井氏は、突然、
『おゝ、さうゝゝ(※17)。』といつて袂の中に手をやり、円形のボール紙製のケースを取り出して蓋をあけ、中の褐色の丸薬数粒を掌の上に受け、それを頬張つてから、膝元に置かれてあつたお茶をもつてのみ下した。
『いや。本当にこれだけは図星をさゝれましたよ。実は脳溢血になるのが怖さに、かうして、毎日予防の丸薬を用ひて居るのです。お医者さんに見て貰ひましたら、血圧が百何十やらあつて、動脈が硬化して居るさうで、その上心臓もあまり丈夫でないといふので、これを処方してもらひましたよ。』
『今のお医者さんは取越苦労をしますな。』と、この時友田師が口を出した。『病気を治すことさへ出来ぬものが、病気の予防をするなど、ちと、烏滸(をこ)がましくはありませんか。一たい、仏性(ぶつしやう)の具はつて居る勿体ない身体を下根(げこん)の医師に見せるといふことがそもゝゝ(※18)間違つて居ると思ひますよ。村井さんも明日は生れ変りになるのだから、せめて生れ変つてからは、医者なんどに身体を御見せにならぬのがよろしからう。』
『いや、さう仰しやればその通りですが、拙者はまだ和上のやうに悟り切れませんので。』
 村井氏の聊か閉口した体(てい)を見た了諦は、話題をかへるために、
『それにしても、この広告を出したものはどういふ人間でせうか。』とたづねた。
『さあ。』と、村井氏は元気づいて言つた。『警察でもさつぱりわからないのださうです。わざゝゝ(※19)金を使つて、一文の得にもならぬ悪戯をするなんて、よほどの好事家(ものずき)でせうな。』
『始め二回はS新聞に出し、こんどはN新聞に出したところを見ると、発覚しないやうにと注意して居ることが、わかります。けれど、警察も警察ですねえ。同じことが三度重なつても、悪戯の主をつきとめることが出来ぬとは、人民保護が聞いて呆れます。』
『なに。』と住職が口を出した。『警察は人民を保護して居ればこそ、さうしたことがわからないのだ。どこの警察でも死亡広告保護といふことはやつて居らんからな。』
『御冗談は兎に角。』と、村井氏は住職の真面目顔に、一寸吹き出しさうになつて言つた。(『)(※20)警察でも調べられるだけのことは調べたでせうが、やつぱり広告主の方が役者が一枚上なのでせう。』
『さういふ広告主を相手にして、模擬葬式をやるといふことは、少し気を附ける必要がありますまいか。』と、了諦は何となく興奮したやうな口調でたづねた。
『大丈夫だらう。村井さんは、その広告主よりも、更に役者が一枚上だからな。どうしてこれだけの役度胸のある人は、恐らく日本中に無いよ。』と、住職は相変らず、とぼけたやうな顔をして言つた。
『それについて、実のところ、明日の晩はまだ、もつと外に、計画して居ることがあるのです。このことは、失礼ながら和上だけに……』
『謀(はかりごと)は密なるを要すといふのですな。』と、住職は村井氏の言ひにくさうにして居るところを察して言つた。『では了諦、お前は庫裡の方へ行つて居てくれ。用があつたらまた呼ぶから。』
 了諦が去ると、住職と村井氏は一しきり、低声(こごえ)で何事をか話し合つた。さうして、村井氏が、帰宅すべく席を起(た)つたときには、秋の日は暮れて、あたりが薄暗くなつて居た。
 かくて、法医学者小窪教授がその研究室で中京の平和を攪きみだすやうな事件を起すかも知れぬと言つた二回の死亡広告の謎は、恰度その翌日、第三の謎を生み、その謎を基(もと)として、模擬葬式といふ、世にもめづらしい計画が建てらるゝに至つた。然らばはたしてこの計画が、教授の推察のごとく大事件に至る階段となるものであらうか。

第二章 恋人同志

『いけないですよ。断然中止しなければいけませんよ。なぜあなたはお父さんに忠告してやめさせないのですか。』と、青年は言つた。
『だつて、父は一旦言ひ出したら決してあとへは引かない性分ですもの。』と、女は答へた。
 鶴舞公園を連立つて歩いて居るのは、村井喜七郎氏の一人娘富子と、富子の恋人なる村井商事会社々員中澤保とであつた。中澤は今日会社で、明日の晩村井氏邸で模擬葬式が行はれるといふ通知を支配人から受けて、八幡山下の村井氏邸に駆けつけ、富子を誘ひ出して公園を散歩し、富子に諭して、明日の模擬葬式を中止せしめようと企てたのであつた。
『模擬葬式といふ言葉を、聞いたゞけでもぞつとしましたよ。孟子ではあるまいし、葬式の真似事などあまりに大人げないぢやありませんか。』
『父のすることはいつでも、子供くさいですわ。けれどもそれは生れつきだから、仕方がないではないの。父は子供くさいことをやりながら、兎も角今日を築いたのですもの、強ち、父の子供くさい行為を排斥するには及ばぬと思ふわ。』
『けれども、同じ子供くさいことゝいつても、その事によりけりです。葬式は一生に一度ときまつたものですよ。たとひ模擬葬式でも、それを行ふといふのは、恐ろしさに堪へられぬことです。お父さんは、あなたの言葉なら、きつときゝ入れます。ね、お父さんにさう言つてやめて貰つて下さい。』
 二人はいつの間にか、ヒマラヤ杉の密生して居る低い丘の間の、人通りの少ない路を歩いて居た。どこからともなく漂つて来る木犀の香(か)にも気づかぬらしく、保はステツキを力強くにぎつて富子の返事を待つのであつた。
 が、富子は保の真面目な態度とは反対に微笑さへうかべて答へた。
『ですけれど、模擬葬式のあとで還暦の祝(いはひ)をするのですから、何もそんなに恐ろしがらなくてもよいわ。』
『それがいけないのですよ。還暦祝なら還暦祝だけを世間に普通行はれて居る方法でやつたらいゝではありませんか。それも、普通の時に、還暦祝だけでは平凡だから、その前に葬式の真似をやるといふのなら、まだ許さるべきですが、誰ともわからぬ人間に死亡広告を出されて、その死亡広告に書かれてある時間に模擬葬式をやるといふことは、恐ろしい罠の中へ飛び込むと同じことだと思ひます。実際何処にどんな恐ろしいことが潜んで居るかわかりません。本当に、想像するさへ全身の神経が痺れるやうです。』
『まあ。』と、富子は保の顔を見上げた。『それはあんまり杞憂過ぎるわ。前(ぜん)に二回出された人たちには別に何事も起らなかつたではありませんか。』
『その人たちは何事も企てなかつたから、何事も起らなかつたのです。人が悪戯をしかけたとき、笑つて過せば、二度と何事もしないのですが、その悪戯に相手になればきつと、むかふがより以上の悪戯をしかけて来るのは世の中の通則です。だからどんな悪戯にも相手にならぬに限るのです。』
 富子は答へないで、暫らくの間地面を見つめて歩いた。
『するとあなたはお父さんの計画に賛成したのですか。』と保はいらゝゝ(※21)しながらたづねた。
『賛成しましたわ。だからあなたも賛成して下さい。』
『いけません。絶対にいけません。』と保は頗る興奮して叫んだ。
 富子は、それにも拘はらず、相変わらずにこゝゝ(※22)して居た。
『実はねえ。明日の晩には、模擬葬式と還暦祝の他にまだ色々のことをするのですつて。私はそのうちたつた一つだけ父から聞かされたのですが、それをきいてすつかり賛成してしまつたわ。』
 保の眼は、急に好奇の色に輝いた。
『どんなことを聞いたのですか。』
 富子は一寸狡猾めいた笑ひを浮(うか)べた。
『それは今、御話(おはなし)しない方がいゝわ。』
『あなたは僕にまで秘密になさらうとするのですか。』と、保は更に興奮した。
『まあ、怖いお顔。』と、富子はやさしく言つた。『そんなにむきにならないで下さい。さあ、暫らくあそこで休みませうよ。』
 かう言つて富子は保の手を引いて、道ばたのベンチの方へ歩き寄り、相並んで腰をかけた。富子は依然として保の手を握りながら、
『ねえ、あなただつて、秘密といふことはお好きではありませんか。』と、媚びるやうに身体を保の方へ捩ぢ向けて言つた。
『あなたはいまだに、あなたの素性を仰しやらないではありませんか。たゞ、長い間アメリカに居たことがあると仰しやるきりで、過去のことを少しも聞かせて下さらないではありませんか。』
 保は両頬(りやうほほ)を心持ち紅くして言つた。
『それを言はれると僕は困るのです。僕はたゞ自分の過去を語りたくないから語らぬのです。かといつて別に人に語つても恥づべき過去ではありません。たゞ僕は過去に於て自分の好まぬ生活を余儀なくされたので、過去を語る興味がないといふに過ぎません。人は兎角、自分の過去を語りたがります。苦しかつた過去を持つ人は、過去を語つて同情を求めようとします。花やかだつた過去を持つ人は、過去を語つて示威運動を試みます。さうしたことが僕には到底出来ないのです。無論、そのうちには僕の過去を語る時が来るでせう。それまで待つて居て下さい。然し、僕が過去を少しも語らないに拘はらず、あなたのお父さんは僕を任用して下さいましたし、あなたは僕の恋を受け入れてくれました。僕はそれを何ものにも劣らぬ強い心で感謝して居ます。』
『そんなにやさしく仰しやらなくてもよいわ。』と富子は少しく狼狽して言つた。『お互に素性や過去がわからなくては恋が出来ぬといふやうな、窮屈な、旧時代的な恋ならば、そんな恋、犬に喰はれてしまへですわ。お互に出来る限り大きな秘密を包んで恋をしたら、どんなに熱烈なものだらうと、私よく考へることよ。だから、私はあなたが、なまじ過去を打ちあけて下さらないことを寧ろ望んで居るの、幻滅は如何なる場合にも附きまとふものですものねえ。たゞ、残念なことは、私があなたの好奇心をそゝるに足るだけの秘密を持つて居ないことですわ。けれど、これは今更どうにも仕様がない。』
 保は富子の手を強くにぎり、富子の顔を見つめて言つた。
『秘密など、僕はほしくありません。その眼だけで沢山です。』
 かう言つて保は、暫らくの間、富子の眼を接吻したいやうな顔をして、ぢつとながめて居たが、何思つたか軽い太息(といき)をついた。
『それにしても、お父さんが、僕等の結婚をまだ許してくれぬのはどういふ訳でせう。』と保は、心配さうな調子を帯ばせて言つた。
 富子は何とも答へないで俯向いたが、心配して居るやうな様子は更になかつた。
『ねえ、富子さん。』と、保はのぞきこむやうにして言つた。『僕はそれが昨今気がかりになつてならないです。あなたと僕とが、この公園で、はじめて恋を語つたのは八月十日の夜でしたでせう。あの時分は本当に僕の一ばん楽しい時でした。ところが間もなく、会社へ押毛治(おしげじ)六といふ男が雇はれて来ました。何処から来たのか、まるで地からでも湧いたやうに突然あらはれて、而(しか)も重要な地位を与へられました。あの押毛の人相の悪さ! 僕は恐ろしくて彼の眼を正視することさへ出来ません。尤も彼は眼鏡をかけて居ますが、ことに彼の八字髭は人を愚弄する道具であるかのやうに、尖つた唇の上に陣取つて居ます。ところが、さういふ男であるにも拘はらず、お父さんは彼を誰よりも大切にして居ます。と、いふよりも、お父さんは何だか、彼を大切にすべく余儀なくされて居られるやうに思はれます。僕はお父さんが僕たちの結婚を許してくれないのが、何だか、あの押毛のせゐだといふ風に思はれてなりません。ことによるとお父さんは、あなたを押毛に与へるつもりがあるのではないかと、僕は気が気でないのです。』
『まあ。』と富子はびつくりしたやうな顔つきをして言つた。『それはあんまりな邪推だわ。父は一度も私にそんなことを話したこともなく、あなたの今の御言葉は全く寝耳に水でしたわ。けれどたとひ父が何といはうとも私の心が動かねばいゝではないの? それに……』
『本当ですか。押毛はあなたに逢つても、一度も、それらしいことをほのめかしたことはありませんか。』
『ありませんとも。』
『屹度(きつと)ですね?』
『えゝ屹度(きつと)。』
『それで安心した。』と、保はほつ(※23)として言つた。『けれど、あの押毛といふ人物があればこそ、僕は明日の模擬葬式に一層の恐怖をいだくのです。あゝいふ人物がうろついて居るところへは、何人(なんぴと)も足をふみこむものではありません。ですからやつぱり模擬葬式(※24)やめてほしいと思ふのですが、一たいお母さんはこんどのことをどう思つておいでになるのですか。』
『母はあのとほり身体が悪くて寝たり起きたりですし、それに父には絶対服従なのですから、こんどのことでも、母は反対でしたに拘はらず、父の意に任せましたわ。本当に母はよく出来たものだと思ふわ。父の言ふことには何一つさからはず、それで居て、父のためならば自分の身を犠牲にしても敢て辞せぬといふ態度ですもの。私時々涙ぐましくなることがあるのよ。尤も母は若い時随分苦労して父に救はれたのださうで、それを恩に着て父のために尽すといつて居るのですが、近頃は少し病気が重(おも)つたやうで、本当にかはいさうです。』
 富子のしんみりした口調に、保は一種の哀愁を催ほした。
『弱りましたねえ。』と、保はじつと考へこんだ。『ではやつぱり、模擬葬式は行はれるべき運命にあるのですね。』かう言つてから急に元気づき、『さうゝゝ(※25)、先刻(さつき)何やら、あなたにきく筈になつて居ましたねえ。さうだ。あなたが模擬葬式に賛成した理由といふのは一たい何でしたか。』
『さうねえ。どうせ明日になればわかることですからお話しませうか。では一寸耳を貸して下さい。』
 保が首を傾けると、富子は吸ひ附くやうに口を寄せて、長い間何事をか囁いた。見る見るうちに保の顔はあかるくなり、その小さな口もとから喜びの色が起つて、波紋のやうに忽ち顔一面に拡がつた。
『やあ、大へん御親密ですねえ。』
 突然ベンチの後ろの小高いところから叫んだものがあるので、二人は弾かれたやうに立ち上つて、声のする方をながめた。其処には一本の太い松の樹の傍に、つい今しがた、保と富子との話に上(のぼ)つた押毛治六が、銅像のやうにつゝ立つて居た。彼は帽子をとつて、にこゝゝ(※26)しながら富子のそばに近づき、保の方には目もくれず、
『今日は大へんよい天気なので、ぶらゝゝ(※27)散歩にやつて来て、はからずも御目にかゝつた訳です。時にお父さんは今回大へんな御迷惑なことでした。然し、お父さんはこれを利用して模擬葬式と還暦のお祝(いはひ)をなさるさうで、実に奇抜な計画だと感心致しました。明晩は私もお招きに預つて居りますから、是非参上して、大(おほい)にお喜び申し上げたいと思ひます。どうぞお帰りになりましたら、お父さんによろしく仰しやつて下さいませ。』
 言ふだけ言ふと、押毛は、もぢゝゝ(※28)して返答をしかねて居た富子に活(※29)(ぱつ)に御辞儀をし、保の方に軽い会釈をして、さつさと、むかふへ歩いて行つた。
『厭な奴だ!』と、保は吐き出すやうに言つた。『折角、いゝ話をきいて喜んだ甲斐もなく、あいつのためにすつかり不愉快にされてしまつた。』
 かう言つて保は憎悪に充ちた眼をして、だんゝゝ(※30)小さくなつて行く押毛の姿をぢつと見送るのであつた。
『ね、中澤さん。』と、富子は宥めるやうに言つた。『さういふ訳ですから、あなたも明日の計画には賛成して下さるでせう?』
 保はなほも、押毛から眼を離さなかつたが、やがて押毛が横道にまがると、はじめて我にかへつて言つた。
『賛成します。だが、あいつが来るとなると、模擬葬式のすむ迄は油断がなりませんよ。』

第三章 模擬葬式

 さて読者諸君(みなさん)。想像力の豊富な諸君は、当然の順序として、筆者がこれから模擬葬式の場面を描くことを察せられるであらうと同時に、探偵小説の筆法に通暁せられる諸君は、筆者(わたし)が、模擬葬式の当日、村井喜七郎邸に起つた出来事を順序正しく述べないで、いきなり葬式の場面から叙述しはじめることをも知つて居られるであらうと思ふ。
 十月二十日午後七時、模擬葬式は村井邸の一ばん奥の十二畳の室(しつ)で、極めて厳肅に執行された。朝から空が曇つて何となく陰鬱な気分を起させるやうな日であつたから、中澤保は、ともすれば暗くなりたがる心を抱きながら、六時半頃に村井氏邸を訪ねると、すでに玄関脇の応接室には、村井家の親戚の老若男女と、商事会社々員併せて二十数名のものが、談笑にふけり乍ら、煙草をふかし、茶を飮んで、葬式気分など毛頭もなき陽気な光景を作つて居た。勿論その中には、彼の一ばん嫌ひな押毛治六も居たが、保は治六を見るなり、胸を強く殴られたやうな感じを起した。
『村井さんはどうしたであらう。富子さんは何をして居るのであらう。』
 主人側から誰一人挨拶に来ないのを保は不審に思つて、かうした疑問を胸に浮べつゝ、堪へられないやうな不安に沈んで行くのであつた。
『早く模擬葬式の一幕がすんで来れるといゝ。』保は言ふに言へぬ焦燥に駆られながら、時々押毛の方に眼をやつたが、押毛は如何にも快活に何の屈託もなささうに人々と語つて居た。
 七時になると、応接室へ、異様な服装をした女がはいつて来た。見るとそれは、先日まで大須の宝生座で魔術奇術を興行して居た旭日齋松華であつた。彼女は舞台に出るそのまゝの濃い紫色の洋装をした、後ろに二人の少女(こども)弟子を従へて居た。
 人々は、この突然なる魔術師の出現に、あツと思つて、暫らく呆然としたのか、
『御案内致しますからどうぞこちらへ。』
 といふ松華の言葉をきいても、すぐ様立ち上るものはなかつた。
 松華の来会は保にも知られて居なかつたので、彼も少なからず驚きながら、村井氏が今晩一たい何を演るだらうかとしきりに好奇の心を湧かした。が、それと同時に、払へども払へども力強くもどつてくる不安を感じないでは居られなかつた(。)(※31)
(※32)恐らく人々の意表に出る計画がめぐらしてあることだらう。だが果して予定どほりにその計画は遂行されるであらうか。
 彼は人々にまじつて長い廊下を歩む間、ともすれば脚が顫へて、走り出したいやうな衝動に駆られた。
 十二畳の室(しつ)には五十燭光ぐらゐの電燈が、あかるく室内の人と物とを照して居た。床の間には誰の筆になるのか、『二河白道(びやくだう)』の絵がかゝつて居た。左に火の河、右に水の河。その二つの河を境(さかひ)して、一本の細い白い道が横(よこた)はる。その白道の上を一人の亡者が、こちらの岸からむかふの岸へ渡らうとして居る。むかふの岸には五彩の雲がたなびいて光明十方に普ねき阿弥陀如来が出現したまひ、こちらの岸には火龍、虎狼の群及び鉾を携へた魔性の人物が亡者の後を追はうとして居る。保はこの絵が何を意味するかを知らなかつたが、炎々たる焔、まんゝゝ(※33)たる水に迫られて居る亡者の姿に一種の恐怖を感ぜざるを得なかつた。
 亡者! さうだ。その亡者の真似をしようとして、村井喜七郎氏は今座敷の中央に据ゑられた棺(くわん)の中に座を占めて居るのだ。普通の棺桶ならば白木の板であるべき筈であるのにこれはまた一種異様な体裁を具へ、一寸見たところ、かの奇術師の用ひる『不思議なトランク』を思はせるやうなものであつた。通常の棺桶の代りに、かやうな棺桶が用ひられて居るのは、何か其処に村井氏の計画が潜んで居るにちがひなかつた。さればこそ、人々を案内した奇術師松華は、棺桶のそばに近寄るなり、その蓋――それも普通の棺桶のそれとはちがつて、トランクの蓋のやうに作られて居た――に手をかけたのである。さうして松華の少女(こども)弟子二人はさも意味があるといはんばかりに、彼女の後ろにぴつたりと控へた。
 棺桶の中には村井喜七郎氏が経帷子とは見えぬ白無垢の衣裳をまとひ、脚を折り、手に珠数をかけて、桶にもたれながら唇に微笑をうかべ、大きく瞬(またたき)をして、いかにも気楽さうな様子で、はひつて来る人に軽く目をもつて会釈し、一言も発することなしにうづくまつて居た。保は村井氏の無言で瞬く姿を見て、大声で叫びたいほどの恐怖を覚へるのであつた。たとひ模擬葬式とはいへ、棺桶の中で白無垢を纏つた人が瞬きをするのは、彼の繊細な神経の堪へられないところであつた。むしろ村井氏が本当に死んで居る姿を見た方がどれだけ恐怖が少ないであらうかと思つた。
 真実の葬式ならば、花が飾られ、香が焚かれるのであるけれども、模擬葬式であるだけにさうしたものは、その室(へや)の何処にもなく、たゞ奇術師松華のつけて居る香水の匂ひが、いやに強く保の鼻を襲ふだけであつた。然し、たとひ香(かう)も花もないとはいへ、又、電燈の光があかるくあたりを照して居るとはいへ、沈黙から起る恐怖の感が、保に一種の悲しさを植ゑつけないでは置かなかつた。ことに棺桶のうしろに立つて居る二人の僧侶の姿を見て、彼は泣きたいやうな衝動にかられた。
 東円寺住職友田覺遵師は緋の衣に水色の袈裟をかけ、右手に中啓を持ち、左手に珠数をかけ、床の間に背を向けて、棺桶の頭部に立つた。続いて伴僧の山場了諦が黒の衣(ころも)に白の袈裟、左手に『リン』を持ち、右手に小さな棒をもつてつゝ立つた。
 松華によつて案内された客は、松華の無言の指図によつて、棺桶をなるべくせまく取り巻いた。保は住職と松華の間に立つたが、恰度自分のむかひに、彼の一番嫌ひな押毛が立つて居たので、言ふに言へぬ気味の悪さを感じた。さうして早くこの陰気な場面が経過してほしいと思つた。模擬葬式さへすめばあとは自分にとつて極めて楽しい場面となるのだ。さう思ふと、一層時間のたつのがもどかしくなつて来た。気のせゐか、押毛は一種の皮肉な笑(ゑみ)をもつて村井氏の顔を見つめて居るやうである。押毛の胸の中には果して何のたくらみも存在せぬのであらうか。或は何かおそろしいことを包んで居るであらうか。
 客の一同が室(へや)にはいりきつてしまつたに拘はらず、令嬢富子のあらはれぬのが、保には頗る物足らなかつた。富子は一たい何処に居るであらう。昨日富子と公園を散歩したとき、帰り際に彼女は、あなたはたゞ皆さんのおいでになる時刻においでになればよいといつただけで、その外のデイテールに関しては何事も告げなかつた。否、告げられなかつたのである。即ち今日村井邸で行はれることは、昨日、富子にもわかつて居なかつたのである。恐らく、富子が模擬葬式の場に出ないのは今晩の予定の行動の一つであらうが、それにしても彼女の快活な姿が今の保にはしがみつきたいほど欲しかつたのである。
 応接室で盛んにはしやいで居た人々は、小咳一つしないくらゐだまりこくつてしまつた。保はこの余儀なくされた沈黙に一種の圧迫を感じ、若し、一二分間余計にこの沈黙が続いたならば彼はきつと『わツ』と叫び出したにちがひなかつた。
 が、この沈黙は伴僧の叩いた二つの『リン』の音に破られ、続いて、二人の僧侶によつて正信(※34)(しやうしんげ)の合唱が始まつた。住職はさすがにどつしりした体格をして居るだけ、少しの興奮も見せなかつたが、伴僧は年の若いせゐか、何となく落つかぬ様子をして居た。
 読経が始まると共に、今まで眼をあいて、周囲に気を配つて居た村井氏は、眼を閉ぢて死人を装つた。さうして正信(※35)(しやうしんげ)が終わつて念仏に移る頃には、首をがつくりと前へ垂れて、さもゝゝ(※36)死んでしまつたかのやうに振舞つた。保はその姿を見て、更に新らしい恐怖に襲はれた。何といふ気味の悪いことをする人であらう。これほどまでに真に迫つた冗談をしなくてもよいのにと、眼をつぶつてすましこんで居る村井氏の態度に腹を立てざるを得なかつた。
 念仏が済むと和讃に移つた。
    娑婆永劫の苦をすてゝ
    浄土無為を期(ご)すること……
 読経の声は高く澄んで、人々の心に哀愁の情が浮んだ。
  ……本師(ほんじ)釈迦の力なり
    長時に慈恩を報ずべし。
 哀調につれて人々は思はず、棺桶の方ににじり寄つた。見ると村井氏は、人々の哀愁をも余所に、あたかも読経を子守唄と間違へてでも居るかのやうに、気持よく眼を閉ぢて居た。或は、ことによると、真に睡気(ねむけ)を催ほして眠つて居るのかも知れなかつた。
 読経は最終に近づいた。
    願 以 此(し) 功 徳
    平 等 施 一 切
    同 発(ほつ) 菩 提 心
    往 生 安 楽 国
 『リン』が三つ鳴らされた。
 と、同時に、棺桶の蓋は松華の手によつてパタリとしめられた。保は突然の物音にびくつとして、少しくとび上つた。
 普通の人間ならば、棺の中の息づまるやうな感じに、何事をか口走るにちがひない。が、さすがに楽天家の村井氏のこととて、棺の蓋がしまつても、何事も言はなかつた。
 三十秒!
 一分!
 松華の顔にはにはかに緊張の色が漲つた。彼女は棺桶の方に首をかしげて、恰かも中から合図のあるのを待つて居るかのやうであつた。が、中からは何の物音も聞えなかつた。
 二分!
 三分!
 松華の顔には不安の色が湧き起つた。人々も異常に緊張した。保は手に汗をにぎつた(。)(※37)
 時間が一秒一秒たつにつれ、人々の胸には当然の恐怖が起つた。
 窒息!
 村井氏が窒息の危険に迫られて居るのを見ることは到底堪へられぬところであつた。人々は期せずして、松華に目くばせして早く蓋をあけよと催促した。
 松華の心にも同じ恐怖は起つたらしかつた。彼女はもはや我慢がならぬといつた風に、徐々に蓋をあけにかゝつた。
 男女の首が一斉に差し出された。
 パンドーラ姫がジユピターから貰つた黄金の匣を開いたときも、恐らくこのやうであつただらうと思はれる姿で、松華は棺の中を、のぞきこみゝゝゝゝゝ(※38)して蓋を開けた。
 保は村井氏の滑稽に充ちた声の起るのを期待した。が、期待したことは起らなかつた。恐らくすべての人が、各々その期待を裏切られたにちがひなかつた。
 中には、先刻(さつき)の儘の村井氏の睡り姿があるばかりであつた。松華は、恐らく、最も多くその期待を裏切られたのであらう。軽い驚きの叫び声を発して、つと右手をのばして村井氏の手を握つた。が、次の瞬間彼女は弾かれたやうにその手を引いた。それを見た住職は、その面積の広い顔面の筋肉を痙攣せしめながら、村井氏の肩に右手をかけ、強くゆすつて、
『村井さん、村井さん。』と、搖り起した。
 けれども村井氏は返事をしなかつた。
 人々は期せずして村井氏の名を呼んだ。
 保は我を忘れて棺を叩き、村井氏をその深い眠りからさまさうとした。
 棺の横側にまはつて、村井氏の口元に手をあてゝ呼吸(いき)をうかゞつた住職は、
『やツ。』と叫んで立ち上つた。その顔を見た一同は、住職が何を発見したかをたゞちに悟つた。伴僧は驚駭のあまり、畳の上にパタリと『リン』を落した。
 其処には……その不思議な棺桶の中には、つい今しがたまでにこゝゝ(※39)して居た村井喜七郎氏が、眠つた姿そのまゝに、満六十年を一期として、真実の死骸となつて蹲つて居るのであつた。(つゞく)

(※1)原文圏点。
(※2)原文の踊り字は「ぐ」。
(※3)原文ママ。
(※4)原文の踊り字は「ぐ」。
(※5)原文の踊り字は「く」。
(※6)(※7)原文ママ。
(※8)(※9)(※10)原文の踊り字は「く」。
(※11)原文圏点。
(※12)送り仮名原文ママ。
(※13)(※14)(※15)(※16)(※17)(※18)(※19)原文の踊り字は「く」。
(※20)原文括弧欠落。
(※21)(※22)原文の踊り字は「く」。
(※23)原文圏点。
(※24)原文ママ。
(※25)(※26)(※27)(※28)原文の踊り字は「く」。
(※29)さんずい+「發」。
(※30)原文の踊り字は「く」。
(※31)原文句読点なし。
(※32)原文ママ。閉じ括弧はなし。
(※33)原文の踊り字は「く」。
(※34)(※35)原文ママ。正しくは「偈」。
(※36)原文の踊り字は「く」。
(※37)原文句読点なし。
(※38)(※39)原文の踊り字は「く」。

底本:『新青年』昭和2年1月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1927(昭和2)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年4月14日 最終更新:2009年4月14日)