おなつかしきT様、
私は、何といつて私の今の心もちをあなたに御伝へしてよいやら、本当に迷つてしまひました。あなたは今頃定めし私を怨んでおゐでになることゝ思ひます。本当に私かうして筆を執つて居ましても、恐ろしいやうな、恥かしいやうな、また悲しいやうな思ひになりまして、何から書きかけてよいやらわからなくなりました。私はこれから、あなたにとつてはまつたく意外な、世にも恐ろしい私の秘密を御伝へ致さうと思ひます。さうして私は心からあなたに御わびして、あなたの御ゆるしを乞はうと決心致しました。この決心をする迄に私はどれ程苦しんだか知れません。しかしその苦しみは、秘密があなたに発見される時の苦しみに比べれば何でもないものであらうと思ふと、私は一切を告白せずに居られなくなりました。無論両親は大(おほい)に反対致しましたが、私が頑としてきゝ入れぬものですから、遂にやむを得ず同意してくれました。これから私は私の犯さうとした大罪を潔よく白状致します。それはあなたの想像にも及ばないところで、きつとあなたは吃驚なさると同時に、限りなく腹を立てられるだらうと思ひます。然し私は危ふい瀬戸際に至つて、その大罪を犯さずに済みました。それが、せめてもの私の慰さめでもあり、又、比較的軽い気持で、あなたに御わびすることが出来るのであります。
不思議な御縁によつてあなたの許に嫁ぎ、新婚の一夜を過(すご)して、その翌日、実家へ戻つて、そのまゝ、御そばに伺はぬ私の行ひを、あなたは憮(さぞ)(※1)かしお怒りで御座いませう。でも私は、罪を犯して長い一生を送る気にはなれないので御座います。あなたを御慕ひ申せば申すほど、却つて心苦しくてならぬので御座います。あなたの御なつかしい姿は、ふかくゝゝゝ(※2)私の心にきざみ込まれて、ともすれば私を美しい夢の世界に誘ひ入れますが、私の秘密を思ひ出しますと、愕然としてその夢からさめるので御座います。
思へば、結婚前に、何故、一切の事情を御仲人様に打ちあけなかつたかと、今になつて後悔でゝゝゝ(※3)なりません。たとひ両親がどういふ意志でありましても、私さへ勇敢に打ちあけて居りましたら、かうした遣瀬ない悲哀に沈まないでよかつたものをと、かへすゞゝゝ(※4)も私の弱い心を恨まずに居られません。その私の弱い心が、あなたにまで深い禍(わざはひ)を及ぼすに至つたかと思ふと、まことに穴があつたら、はひりたい心地が致します。両親を恨むのは勿体ないことで御座いますが、両親から一切を秘密にせよと勧められて、つひゝゝ(※5)気遅れのしたのも事実で御座います。然し、又とない良縁を喜ぶのあまり、秘密にすることを強ひた両親の心にも私は同情しないでは居られません。まつたく私の秘密は、私が若し大胆に振舞ひさへしたらば恐らく当分の間は発見されずに過すことが出来たであらうと思ひます。さうしてそのうちの(※6)私たちの間に、愛らしい子供が出来ましたならば、たとひその秘密が暴露されても、必ず、あなたは私をお許し下さるだらうと思ひます。実際、さう考へたればこそ、心の中(うち)では済まぬ済まぬと思ひながら、つひ見合ひまですましてしまひ、それから話が急に進んで、忙(せは)しい結婚準備に追はれ、そのまゝ引き摺られるやうにして、たうとう式まですましてしまつたので御座います。
このやうに申し上げても、恐らく、あなたは、私の秘密が何であるかを御察し下さることは不可能だらうと思ひます。或は結婚前に私が他の男と関係したのではないかといふやうな想像をなさいますかも知れませんけれども、私の秘密は、まつたく、それとは性質を異(こと)にして居るので御座います。それは……あゝ、かうしていざ打明けようと決心してさへ、なほも筆が進みかねるので御座いますが、思ひ切つて申します……実は私は右の眼の明(めい)を失つた、片輪者なので御座います。と、申し上げましたら、どれ程驚きになることか、又、どれほどお怒りになることか。然し、どうかこの手紙をしまひまで御読みになつて下さいませ。片輪者ではありますけれど、生れつきの片輪ではなく、一昨年の冬、突然網膜炎に罹つて、明(めい)を失したので御座います。然し、網膜炎のことで御座いますから、外部から見ては健康な眼と少しもちがひ無いので御座(※7)ます。ですから、御仲人様は勿論、見合を致しました時に、あなたにも気附かれずに済んだので御座います。あゝ、あの見合の時の恐ろしさ。裁判官の前へ出た罪人の心もこれ程ではあるまいと私は思ひました。尤も、あなたは強度の近視眼で、眼鏡をおかけになつて居ても、普通の人ほどには御見えにならぬとの事で御座いますから無理は御座いませんが、たとひ専門の御医者様でも、一瞥しただけでは、御わかりにならぬくらゐで御座いますから、両親も、私のこの欠陥を十分かくし通すことが出来ると主張し、私も両親を喜ばせるために、心を鬼にして、秘密をもつたまゝ嫁入りしようとしたので御座います。
実際、結婚の当日までは、私は自分の罪をさほど深いものとも思はずに暮しました。ところが結婚の日の朝、思ひ設けぬ月のものが、突然まゐりましたのには、さすがに戦慄を禁ずることが出来ませんでした。予定の日より十日も早くまゐつたので御座いますもの、どうして驚かずに居られませう。もとより、かうした例(ためし)は世の中に沢山あることださうで御座いますが、脛に傷持つ身には、神様よりの警告としか考へられぬので御座いました。私はその時、本当に恐ろしくなつてしまひ、両親に向つて、どうか先方(さき)様へ私の秘密を告げて、結婚を差し控へて下さいと、涙を流して頼みましたけれど、今になつてはどうにも仕様がないではないかといふ、理由にならぬ理由をもつて、両親は無理やりに私を引つ張つて行つてしまひました。自動車で運ばれる途中、御宅で式を挙げる時、それから披露の宴席に列なりました間、私はたゞもう恐ろしい夢を見て居るやうな心地がしましたが、幸ひに近視眼であらせられるあなたには、私のたゞならぬ顔色も不審がられずに済みました。
両親も多少は狼狽したものか、御仲人様に私の身体の不浄を申し上げたのは、披露の宴も大方すまうとした頃で御座いました。御客様がたは、だいぶ御酒(ごしゅ)を召しあがつて、随分上機嫌におなり遊ばしましたが、私は恐ろしいやら、苦しいやら、恥かしいやらで、心も上の空で御座いました。さうして、愈よ二人きりになりました時も、私にとつては、あの柔かい褥(しとね)がいはゞ針の筵で御座いました。私の身体の不浄は、せめてもの幸ひといつてよろしく、若しさうでなかつたならば……と考へて、私はあの夜一睡も致しませんでした。若し子供が出来で(※8)、私のこの恐ろしい眼病が遺伝したならば、どんなに悲しいことであらう。あなたを欺いた罪が、無邪気な子供に酬いたならば、どんなにつらいことであらう。と、そんなことを考へて、まんぢりともせず、はては涙までこぼして、あなたに気附かれてしまひました。あなたは、しきりに私に向つて、何故泣くのかと御たづねになりましたが、あの際どうして本当のことが申し上げられませう。その上私は、あなたの接吻をさへ拒みましたので、あなたはつひに御怒りで御座いましたが、私はもう、まるで夢中で御座いました。仮りに若し、あなたが私と同じ網膜炎であらせられて、私がそれを気附かず、結婚の当夜に、その真相を御告げになつたとしたならば、恐らく私は気狂(きちが)ひにでもなるか、さもなくば悲しみと怒りのあまり、あなたを……いえ、どんなことを仕出かしたかもわかりません。それを思つて私は、どうしても打明けかねたので御座います。然し私は、自分で打明けなくつても、今にあなたに、私の秘密を発見されはしないかと思つて、びくゝゝ(※9)しながら、時々涙を拭つて見えぬ方の眼を隠すやうにして居りましたが、どうした訳か、あなたは眼鏡をさへ御とりにならず、また私の顔を正視なさることもありませんでしたから、わたしはほつ(※10)としたので御座います。
かやうな、いはゞ薄氷(うすごほり)を踏むやうな一夜が明けるなり、私は逃げるやうにして実家に戻りました。両親は驚いて、頻りに私を責め、一刻も早く帰るやうにすゝめましたが、私の決心は確乎として動きませんので、たうとう降参してしまひ、私の自由に任してくれました。さうしてやつと心の落ついた今、この手紙を書くので御座います。この手紙を御読み下さつたあなたは、始めて、あの夜私があなたを怒らしめた理由を御知り下さつて、私の心に同情して下さることゝ存じます。無論、私があなたを欺いたことには御腹も立ちませうが、一面から申しますれば、あなたを欺きとほして不幸に陥れなかつた私の心には、むしろ感謝して下さるだらうとも思ひます。すべてはあなたを慕ふのあまり、あなたの幸福を思つて執つた私の態度で御座いますもの、若しあなたが私を愛して下さるならば、きつと御許し下さるだらうと思ひます。
然しながら、かうして一旦秘密を打明けました上は、もはやあなたの御手許へは帰れなくなりました。たとひ私がどんなに御慕ひ申し上げ、又あなたが私のすべてを御許し下さつても、片輪者として、御そばで一生を送ることは、私の堪へられぬところで御座います。両親も、もはや今となつては、すつかり諦めて居ります。まだ御仲人様には申し伝へにまゐりませんが、その代り、私がこの手紙を書くことに同意してくれました。実は、両親は御仲人様のところへ出かけるのに、頗る先が重いらしいので御座います。
不思議な御縁もこれで■■■夢となつてしまひました。どうぞ、私のことは一切忘れて下すつて、御身体を大切に遊ばし良い御縁を御求めになり、幸福な御生涯をお送りになるやう蔭ながら御祈り申し上げます。まだ色々申し上げ度いことも御座いますが、書けば書くほど未練な心も生じ、涙が頻りに出ますから、これで失礼致します。末筆ながら御両親様によろしく御伝へ下さいますやう。乱筆を御許し下さいませ。
×月×日 文子
おなつかしきT様、
何といふ意外なことで御座いませう。私は夢を見て居るのではないかと思ひます。今日御仲人様がおいでになりまして、私の手紙に対するあなたの御返事を承はり、且つ、あなたの御一身上の秘密を伝へきゝましたとき、嬉しいといふよりも、むしろびつくりしてしまひました。本当に私たちはどういふ奇(あや)しき因縁のもとに生れたので御座いませう。あなたもまた私と同じやうに、左の眼の網膜炎に罹つて明(めい)を失つて御いでにならうとは、偶然とはいへ、あまりにも偶然過ぎることで御座います。右の眼と左の眼とは相違こそあれ、共に一眼(かため)が見えないといふこと而もそれを双方が秘密にし合つたといふことは何といふ皮肉な運命で御座いませう、似た者夫婦といふ言葉がありますが、こんな風に似ようとは、お互に思ひもよらぬことで御座いました。両親はじめ私も、こちらの秘密を隠すことに気をとられて、つひゝゝ(※11)あなたの御眼には気がつかなかつたので御座います。まさかあなたが同じ病に罹つておいでにならうとは、どうして考へられませう。もとより御仲人様からはその話はなく、今日御仲人様が見えまして、はじめて双方の秘密をお知りになり、知らずしてこれまで双方を欺いて居たと言つて苦笑して居られました。然し、若しこれが、双方のだましあひの喜劇に終らず、一方だけがだまされる悲劇に終つたとしたならば、御仲人様の責任は決して軽くはないと思ひます。
思へば結婚の当夜、褥(しとね)の上でさへ、眼鏡を御取りにならなかつた理由が、今になつて私にもはつきりわかりました。さうして、あなたも、私と同じやうに、なるべく私に覚られまいと苦心して御いでになつたかと思ふと、何だか笑ひたいやうな気になつて来ます。あの時、二人が潔く打あけ合つて居たら、どんなにか、心を軽くすることが出来たであらうにと、今更残念がつても致し方が御座いません。
それにしても、あなたが、私と同じやうに潔く秘密を御打ちあけ下さつて、私に是非共帰つて来るやうにと仰せ下さることは、あなたを御慕ひ申し上げて居る私にとつて、どんなに嬉しく且つ恥かしいか、到底筆紙のよく尽すところでは御座いません。両親もほつ(※12)と一安心致しましたが、御仲人様に対しては急に御挨拶も出来ず、一先づ帰つて頂いて、かうして私が、あなたのうれしい御言葉に対して、胸を躍らせながら、御返事を認める次第で御座います。
二人とも片眼を失つて片輪者であるといふことは、却つて二人の仲をかたく結び付けるよすがとなるかも知れません。ただ、二人の間に出来る子供のことを思ふと、さすがに恐ろしいやうな心持ちになりますが、必ずしも片輪ものが生れて来るものとは限りますまいから、さほど心配するには及ぶまいかと思ひます。秘密を包んで持つて居る間は、少しのことでも心配の種となりますが、秘密を打あけて了解を得た暁は、むかしの取越苦労をむしろ笑ひたいやうな気になるものです。二人で二つの眼しかないといふことは悲しいといへば悲しいことですが、お互に外観はちつとも健康眼に変らないのですからあなたが承知して下さつた以上、私は喜んで一生涯そばに暮させて頂きます。両親はもとより望んで居た御縁で御座いますから、今かうしてあなたが、御不自由の身とわかつても、同情こそすれ、少しの不愉快をも感じないで、私の帰ることに同意してくれました。況んや、こちらにも同じやうな欠点があるのを、潔く貰つてやると仰しやる御心には、涙を流して感謝致して居るので御座います。
まつたく、私の心は晴々と致しました。婚約が成立つて以来、一日として安らかな日を送つたことのない私は、今日はじめて楽しい心になりました。でも、こんど御目にかゝるとき、私はどんな思ひをするでありませうか。何だか御目にかゝるのが恥かしいやうな気がしてなりません。でも、私は勇を鼓して参ります。喜んであなたの腕に抱かれに行きます。そのことを思ふと手が振(ふる)へてなりません。どうか私の心を御察し下さい。両親よりよろしく申上げました。委細は御目にかゝつて申します。おなつかしきT様。
と、申し上げたら、あなたはきつと御喜びになるで御座いませう。然し、残念ながら、今の私には微塵もそんな心はないので御座います。思へば結婚式がすむ迄、私もやはり世の常の花嫁の抱くやうな楽しい夢を胸に描いて居りましたが、その夢は、披露の宴(えん)の際、忽然として消えました。御友人の一人……お名前は申し上げません……が、可なりに沢山お酒を召し上り、酩酊のあまり、私の母に向つて、あなたが網膜炎で片眼しか見えないと御告げになつた時の母の驚きは、何にたとへんすべのない程大きいもので御座いました。私もそれをきいたとき、くやしさに胸がはりさける程で御座いました。片眼しか御見えにならぬといふ事実よりも、それを隠さうとなさつた御心に腹が立ちました。何といふ恐ろしい御心で御座いませう。私たちは御仲人様をも恨みました。無論御仲人様も御承知はなかつたのですが、それにしてもあんまりな事だと思ひました。本当にこの恨みは一生涯忘れまいと覚悟しました。然し、あの場合、事を荒立てるのはよくないと思ひ、なほ又、御友人の言葉が果して真実かどうかわかりませんので、私はそれをたしかめようと決心して、先づ、両親から御仲人様に、その日の朝から月のものが来たと詐(いつは)つてあなたに告げてもらひ、それから褥(とこ)の上で私はあなたの眼を観察しようと思ひました。けれども用心深いあなたは、眼鏡を御取りにならず、私は私でくやし涙が出て、観察どころではありませんでした。全く、外観上は健康な眼と変りのないのが網膜炎の常だといふことですから、たとひ心を落つけて観察しても、素人にわかる筈はありません。でも、私は、あなたの接吻を断然拒み、あなたのために貞操も破られなかつたことを誇りと致します。実家に帰つても勿論真偽のほどがわかりませんから、あなた御自身の口から白状して頂かうと思つて、先便に差上げたやうな手紙を書いたので御座います。私自身は網膜炎にかゝつたことはなく、立派に両眼(りやうがん)が見えるので御座います。然し、あゝした虚偽の手紙を書かなければ、到底あなたのやうな卑怯な人を白状させることは出来ぬと思ひました。果して私の計画は成功しました。あなたはみごとに私の係蹄(わな)にかゝつて片輪ものであるといふことを白状なさいました。さうして私たちは、あなたに欺かれたことをはつきり知ることが出来ました。若しあなたが、縁談のはじめから打明けて下さつたならば、或は私は喜んで嫁したかも知れません。然し今はたゞあなたの心をにくむのみです。あなたの心をにくむと同時に、結婚を遊戯視しようとする一般男子の心をもにくみます。さうして又。私は日本の現代の結婚の習慣をもにくみます。あなたほどの極端な欺瞞はないにしても、結婚と虚偽とがとかく離れがたい関係にあることは、実に呪ふべき現像(げんしやう)(※13)だと思ひます。
私の申し上げたいことは略(ほ)ぼ尽きました。ではこれで御わかれ致します。永久に。
×月×日 文子
(※1)原文ママ。「嘸」の誤植か。
(※2)(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)原文の踊り字は「ぐ」。
(※5)原文の踊り字は「く」。
(※6)(※7)(※8)原文ママ。
(※9)原文の踊り字は「く」。
(※10)原文圏点。
(※11)原文の踊り字は「く」。
(※12)原文圏点。
(※13)原文ママ。
底本:『新青年』大正15年4月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細(大正15年)」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(公開:2006年3月 日 最終更新:2006年3月 日)