『残念ながら、今となつては手遅れだ。もう、どうにも手のつけやうが無い。』
私は、肌脱ぎにさせた男の右の肩に出来た、小児の頭ほどの悪性腫瘍をながめて言つた。
『それはもう覚悟の上です。』と、床几に腰かけた男は、細い、然し、底力のある声で答へた。『半年前に先生の仰せに従つて思ひ切つて右手を取り外して貰へば、生命（いのち）は助かつたでせうが、私のやうな労働者が右手を失ふといふことは、生命（いのち）を取られるも同然ですから、何とかして治る工夫はないものかと、弘法様に願をかけたり、大師様の御利益にすがつたり、方々の温泉を経めぐつたりしましたが、できもの（※1）はずんゝゝ（※2）大きくなるばかりでした。もういけません。もう助からうとは思ひません…………』
傍に立つて居た細君の眼から、涙がぽたゝゝ（※3）と診察室のリノリウムの上に落ちた。真夏の午後のなまぬるい空気が、鳴きしきる蝉の声と共に明け放つた窓から流れこんで来た。私は男の背後に立つて、褐色の皮膚で蔽はれた肋骨の動きと共に、ともすれば人間の顔のやうに見える肉腫の、ところゞゝゝ（※4）噴火口のやうに赤くたゞれた塊の動くのを見て、何といつて慰めてよいか、その言葉に窮してしまつた。
患者は私の方を振り向かうともせず、俯向きになつて言葉を続けた。
『それについて先生、どうか私の一生の御願ひをきいて下さいませんか？』
『どんな願ひかね？ 僕で出来ることなら何でもしてあげやう。』と、答へて、私は患者の前の椅子に腰を下した。
患者の呼吸は急にせはしくなつた。
『きいて下さいますか。有難いです。』と、御辞儀をして『お願ひといふのは他ではありません、このできもの（※5）を取つて頂きたいのです。』かういつて彼は始めて顔をあげた。
私はこの意外の言葉をきいて、思はずも彼の顔を凝視した。
まだ三十を越したばかりの年齢（とし）であるのに、その頬には六十あまりの老翁に見るやうな皺が寄り、その落ち窪んだ眼には、私の返答を待つ不安の色が漂つて居た。
『だつて…………』
『いえ、その御不審は尤もです。私は治りたいと思つて、このできもの（※6）を取つて頂くのではありません。私の右の肩に陣取つて、半年の間、夜昼私をひどい責め苦にあはせた、にくい魔物に、何とかして復讐がしてやりたいのです。先生の手で、この畜生を、私の身体から切り離して頂くだけでも満足ですけれど、出来るなら、自分の手で、思ふ存分、切りさいなんでやりたいのです。その願ひさへ叶へて下さつたら、私は安心して死んで行きます。ね、先生、どうぞ御願ひします。私の一生の御願ひです。』
患者は手を合せて私を拝んだ。辛うじて動かすことの出来た右の手は、左の手の半分ほどに痩せ細つて居た。私は患者の衰弱しきつた身体を見て、手術どころか、麻酔にも堪へ得ないだらうと思つた。で、私は思ひ切つて言つた。
『かねて話したとほりに、これは肩胛骨から出た肉腫で、肩の骨は勿論、右の手全体切り離さねばならぬ大手術だからねえ。こんなに衰弱して居て、手術最中に若しものことがあるといけない。』
患者は暫らく眼をつぶつて考へて居たが、やがて細君の方を見て言つた。
『お豊、お前も覚悟しとるだらう。たとひ手術中に死んでも、この畜生が切り離されたところをお前が見てくれりや、俺は本望だ。なあ、お前からも先生によく御願ひしてくれ。』
細君は啜り泣きを始めた。彼女は手拭で涙を拭きゝゝ（※7）、たゞ私に向つて御辞儀するだけであつた。
私は暫らくの間、どう返答してよいかに迷つた。治癒の見込のない患者を手術するのは医師としての良心に背くけれど、人間として考へて見れば、この際、潔く患者の願ひをきいてやるのが当然ではあるまいか。たとひそのまゝにして置いたところが、一月とは持つまいと思はれる容態である。若し、患者が手術に堪へて、怖ろしい腫物の切り離された姿を見ることが出来たならば、たしかに患者の心は救はれるにちがひない。
『よろしい。望みどほり手術をしてあげよう。』
と、私ははつきりした声で言ひ放つた。
『気がついたかね？ よかつた、よかつた。手術は無事に済んだよ。安心したまへ。』
翌日の午前に行はれた手術の後（のち）、患者が麻酔から醒めたときいて、直ちに病室を見舞つた私は、白布の中からあらはれた渋紙色の顔に向つて慰めるやうに言つた。寝台（ベツド）を取り囲んだ細君も看護婦も不安げに彼の顔をのぞきこんだ。
『有難う御座いました。』
と、患者は、まだ、かすかにクロヽホルムのにほひ（※8）をさせ乍ら答へた。
『静かにして居たまへ。』
看護婦に必要な注意を与へた後（のち）、かういつて私が立ち去らうとすると、
『先生！』
と患者が呼んだ、その声には力がこもつて居て、今、麻酔から覚めたばかりの人の声とは思へなかつた。私はその場にたたずんだ。
『御願ひですから、できもの（※9）を見せて下さい。」
私はびつくりした。患者の元気に驚くよりも、患者の執念に驚いたのである。
『あとで、ゆつくり見せてあげるよ。今はぢつとして居なくてはいけない。』
『どうか、今すぐ見せて下さい。』かういつて彼はその頭をむくりと上げた。私は両手を伸して制しながら、
『動いてはいかん。急に動くと気絶する。』
『ですから、気絶せぬ先に見せて下さい。』と、いつて彼は再び頭を枕につけた。
私は一種の圧迫を感じた。腫物の切り離された姿を見たいといふ欲望を満足させるために、施してならぬ手術を敢てした私が、どうして彼の今のこの要求を拒むことが出来よう。私は看護婦に向つて、先刻切り取つた、彼の右の手を持つて来るやうに命じた。
やがて、看護婦は、ガーゼで覆はれた、長径二尺ばかりの、楕円形の琺瑯鉄器製の盆を捧げてはひつて来た。それを見た患者は、
『おいお豊、起してくれ！』
と言つた。
『いけない。いけない。』
私は大声で制したけれども、彼は駄々をこねる小児のやうに、どうしても起してくれと言つてきかなかつた。起きることはたしかに危険である。危険であると知りながらも、私は彼の言葉に従はざるを得なかつた。で、私は、右肩（うけん）から左の腋下（わきした）にかけて、胸部一面に繃帯をした軽い身体の背部に手を差し入れ、脳貧血を起させぬやう、極めて注意深く、寝台（ベツド）の上に起してやつた。患者は気が張りつめて居たせゐか案外に平気であつたが、でもその額の上には汗がにじみ出た。
私は看護婦に彼の身を支へて居るやう命じ、それから、患者の両脚を蔽つた白布の上に、琺瑯鉄器製の盆を、そつと載せガーゼの覆ひを取り除けた。五本の指、掌（たなごころ）、前膊、上膊、肩胛骨。その肩胛骨から発した肉腫が頭となつて、全体が恰も、一種の生物の死体ででもあるかのやうに、血に塗れて横はつて居た。患者の顔には、無力にされた仇敵を見るときのやうな満足な表情が浮び、二三度その咽喉仏が上下した。彼の眼は、二の腕以下の存在には気づかぬものの如く、ひたすらに肉腫の表面にのみ注がれた。
凡そ三分ばかり彼は黙つて見つめて居たが、急にその呼吸がはげしくなり出した。ヨードホルムのにほひが室内に漂つた。
『先生！』と彼は声を顫はせて叫んだ。『手術に御使ひになつた小刀を貸して下さい。』
『え？』と私はびつくりした。
『どうするの？』と細君も、心配さうに彼の顔をのぞき込んでたづねた。
『どうしてもいゝんだ。先生、早く！』
私は機械的に彼の命令に従つた。二分の後私は、手術室から取つて来た銀色のメスを盆の上に置いた。
すると彼は、つと、その左手をのばして、肉腫を鷲づかみにした。彼の眼も鷲のやうに輝いた。
『うむ、冷たい。死んでるな！』
かういひ放つて彼は細君の方を向いた。
『お豊！ この繃帯を取つて、俺の右の手を出してくれ！』
この思ひもよらぬ言葉に私はぎよつとした。はげしい戦慄が全身の神経を搖ぶつた。
『まあ、お前さん…………』
怖ろしい沈黙の十秒間！ その十秒間に患者は、自分の右手が切り離されて眼の前にあることをはつきり意識したらしかつた。
『ウフ、ウフ…………』
うめきとも笑ひとも咳嗽（せき）ともわからぬ声を発したかと思ふと、彼は突然その唇を紫色に変へ、がくりとして看護婦の腕にもたれかゝつた。その時、彼の左手は身体と共に後方に引かれたが、左手の指が肉腫の組織に深くくひ込んで居たゝめ、切り離された右手は、盆をはなれて白布の上に引つ張り出された。
さうして、五秒の後、断末魔の痙攣が起つた時には、その右手も共に白布の上で躍つて、あたり一面に血の斑点を振りまいた。（完）
（※1）原文圏点。
（※2）（※3）原文の踊り字は「く」。
（※4）原文の踊り字は「ぐ」。
（※5）（※6）原文圏点。
（※7）原文の踊り字は「く」。
（※8）（※9）原文圏点。
底本：『新青年』大正15年3月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1926（大正15）年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録（小説の部）」
（リニューアル公開：2017年4月14日 最終更新：2017年4月14日）