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犬の幻想

小酒井不木

 これは、私の父が、存命中、ほとんど一つばなしのやうに語つた怪談であります。
 父は郷里の美濃で医者をして居りました。××村といふ、G市から三里ばかり奥の、極めて辺鄙なところで、二百軒ばかりの農家しかありませんでしたから、医業の方は頗るひま(※1)でありました。
 たしか明治四十三年だつたと思つて居ます。その十年ほど前に、その村からアメリカへ出稼ぎに行つた佐吉といふ男が可なりの金をためて帰つて来ました。彼は長らくの習慣で、日本の家屋に住むのを不便がり、村のある小高い丘の上に、さほど大きくない西洋館を建てゝ、遠縁に当る老婆を雇つて二人きりで暮して居りました。然し何故か村人とはあまり交際せず、殆んど家にのみ引つ込んで居りましたが、後には庭の手入れをすることさへもしなくなつてしまひました。
 年の暮も差し迫つて、ちらゝゝ(※2)の雪の降るある晩のこと、思ひがけなくも佐吉の家の老婆が、私の家をたづねて、父の往診を乞ひました。
『是非、先生に来てもらつてくれ、何だか今にも死にさうな気がするからといふことでした。』と、老婆は提灯をつけたまま、佐吉の願ひを語りました。
 父は晩酌をすまし、陶然として寝床に入らうとして居りましたが、義務的観念の強い人でしたから、別に厭な顔もせず、老婆のあとから、往診鞄をさげて、雪の降る中を、マントにくるまりながら風を切つて出かけて行きました。
先方へ着くなり、父は佐吉の寝室に案内されました。寝室の一隅には寝台が置かれてあり、マントルピースの下には石炭が燃えて居りました。
 めつたに西洋造りの家にはひつたことのない父は、先づ物めづらしさうにあたりを見まはしました。マントルピースの上には、七宝の花瓶が二つ置かれ、その上の壁には油絵の大きな風景画の額がかけられて居ました。窓には茶色のレースの窓掛が重く垂れ、床の上は、モザイクのリノリウムが敷かれてありました。十年前には、見すぼらしい百姓だつた佐吉が、かうした美しい家に住むことが出来るやうになるとは、人間の運命といふものは実に予測することが出来ないものだと、暫くの間、父は、感慨に耽つて其処に彳(たたず)みました。
 その時、
『先生!』
 と呼んだ(※3)昔ながらの佐吉の声に、はつ(※4)と我に返つてベツドの方を見ると、其処には、あたりの美しさとは正反対に、昔よりも、遙かに見苦しい顔をした佐吉が、白い掛蒲団に包まれて悄然として横(よこた)はつて居りました。十年以前には極めて元気さうな顔だつた彼は、急に三十も年取つたかと思はれる位、老けて窶れて見えました。
『お金を貯めるのは、やつぱり並大抵の苦労ではないのだ。』
 かう思つて父はベツドの方へ近よつて、すゝめられた椅子に腰かけました。
『どうもお寒いところをよくおいで下さいました。アメリカから帰つて一度御挨拶に伺はうと思ひましても、どうも気が進まず、御無沙汰致しました。然し、今晩は、いよゝゝ(※5)思案にあまつて、先生に来て頂いたので御座います。』
 佐吉は、低い力のない声で語りました。
『一たい、どうしたのです?』と父は、薄暗い電燈に照された佐吉の蒼白い顔を不審さうに見入りました。
『先生、私は、この頃中、犬のまぼろし(※6)に悩まされどほしなのです。』と、佐吉は、恰も眼の前に犬が居るかと思はれるやうな眼付をして言ひました。
 父は何となくぞつ(※7)としました。
『そりや、お前俗に言ふ神経なのだらう。夢に犬の姿を見るだけなのだらう。』
『いゝえちがひます。たしかに起きて居るときに見るのです。夜になると、いつもあらはれるのです。先刻(さつき)も、ながいこと、丁度今、先生のおいでになるところにあらはれて居りました。』
 父は身体をぶるつ(※8)と顫はせました。
『おいゝゝ(※9)、そりやお前、何かの見違へだらう。』
『いゝえ、決して見違へではありません。』
『それぢや、その犬はどんな形をして居るかね?』
 佐吉は一寸躊躇するやうな顔付をしましたが、
『その犬ですか、その犬は白と黒の斑で、顔の左半分だけが真黒で、真白の両耳がとがつて突き出て居ります。』と言ひました。
『そりや、お前、源助の犬ぢやないか?』と父は言下に答へました。
 これをきくなり、佐吉はぶるゝゝ(※10)と身体を顫はせ、掛蒲団をすつぽりかぶつてしまひました。
『おい、どうしたのだ?』
 父が驚いて掛蒲団を取らうとしますと、佐吉はしつかりとつかんで居て放さうとしませんでした。戸外には風が吹き募り、ガラス窓を打つ雪が、さらゝゝ(※11)と音を立てました。
 父は致し方がないので、再び椅子に腰かけて、物思ひにふけりました。今、佐吉が、その名をきくと同時に蒲団をかぶつた源助といふのは、その昔佐吉と犬猿もたゞならぬ仲でありました。
 ある朝、源助が、何ものかに殺されて、森の中に横(よこた)はつて居りました。警察では熱心に取り検べ、佐吉も当然疑ひをかけられたのですが、別に確実(たしか)な証拠がなかつたので、つい犯人が知れずにすんでしまひました。それから佐吉は間もなくアメリカ行きを思ひ立つたのですが、こんど帰国してから、十年も前に源助が飼つて居た犬の幻想になやまされるとは、不思議なことがあるものだと、父は考へこみました。
『先生!』と突然、佐吉は蒲団から顔を出し、穴のあく程父の顔を見つめてたづねました。『あの、源助の犬は、その後、ど、どうしましたか?』
『なるほどお前はあれからすぐ米国へ(※12)つて行つたから知らない訳だね。犬といふものはまことに主人に忠実なもので、源助が死んでからは、少しも食べ物を取らず、とうとう、ある日、源助の墓のそばで、餓死(うゑじに)して居たよ。』
 これをきくと、佐吉は兎のやうな大きな眼をして、煖炉の方を見つめました。然し其処にはたゞ石炭が紅い焔を出してゆらゝゝ(※13)と燃えて居るだけでした。
『先生。』と佐吉は嘆願するやうに言ひました。
『御願ひです。どうか今夜は私の家にとまつて下さい。私はとても恐ろしくてなりません。一生の御願ひです。』
 父は佐吉のあはれな姿を見て、それを振り切つて帰る気になりませんでした。で、老婆を家に走らせて、今晩は帰宅しない旨を家族に伝へ、佐吉の寝室の隣りの室(へや)に寝ることになりました。
 その室(へや)は佐吉の室(へや)と扉(ドア)によつて交通して居りました。父は佐吉の脈を診たり、胸を検査してから、佐吉を宥めて、隣りの室(へや)にはひり扉(ドア)を閉めました。生れてはじめて寝台の上に横(よこた)はつたのですから、父は長い間寝つくことが出来ませんでした。戸外には吹雪が一そうはげしく音を立てました。
 でも、いつの間にか父は深い眠りに落ちました。と、突然寝室から物凄い叫び声が聞えて、何か重いものが落ちるどさり(※14)といふ音がしました。
 はつ(※15)と思つて父ががば(※16)と飛び起きると、物音をきいて老婆も駆けつけてきました。父は急いで、扉(ドア)に手をかけましたが、中から鍵がかけられてあつたと見えて、どうしてもあけることが出来ませんでした。
 その時、佐吉の寝室の物音はぱつたりやみましたので、父は大声で、佐吉の名を呼びました。然し、返事がありませんでしたから、もはや我慢がしきれず、老婆に鉞を持つて来させて、扉(ドア)を破つて、やつと中へはひりました。
 見ると、寝台(ベツド)の上に居た佐吉は、床の上に俯向きに横(よこた)はつて居りましたが、咽喉部から、夥だしく血が流れて居りましたので、父は思はず、
『あツ。』と叫んで、近よつて見ますと、はや、佐吉は完全に死んで居りました。
 驚いた父は、とりあへず、傷口を検査しましたが、その時又もや、
『あツ。』
 と叫ばざるを得ませんでした。佐吉が自殺したのだらうと思ひの外、傷口はたしかに犬の牙の痕だつたからであります。
 父はぎよつとして、機械的に首を動かして、室(へや)の中を眺めまはしましたが、犬の姿はどこにも見えませんでした。
(をはり)

(※1)原文圏点。
(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文ママ。
(※4)原文圏点。
(※5)原文の踊り字は「く」。
(※6)(※7)(※8)原文圏点。
(※9)(※10)(※11)原文の踊り字は「く」。
(※12)原文ママ。
(※13)原文の踊り字は「く」。
(※14)(※15)(※16)原文圏点。

底本:『令女界』大正16年2月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細(昭和2年)」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(公開:2006年3月10日 最終更新:2006年3月10日)