皆さんは多分、常岡探偵の名を記憶して居て下さることゝ思ひます。麹町の露本家の令嬢殺害事件に関係して、喰べさしの林檎からみごとに犯人を推定したのは、わが常岡探偵でした。
その常岡探偵が、今、自分の部屋にとぢこもり、机の上に血に染んだ一冊の日誌を開いて、頻りに考へをめぐらしてをるのであります。七月下旬のある暑いゝゝ(※1)日の午後のことゝて、常岡氏の頬には玉のやうな汗が幾条(すじ)となく流れ落ちましたが、氏はそれに気づかぬものの如く、わき目もふらず日誌のあるページを凝視してをりました。いふまでもなく、常岡氏は、現に、ある殺人事件の犯人を探索中でありまして、その血染の日誌から、有力な手がゝりを見つけようと苦心してゐるのであります。
……北村幾三は今夜遂に最後の談判に来た。もし自分が彼の要求を入れなかつたらば、彼は自分を殺すと言つておどかした。しかし、自分は応じなかつた。殺すなら殺せと言つてやつた。果して彼は何事もしないで帰つて行つた。自分はこの世にたつた一人きりである。自分が死んだとて何人にも迷惑を及ぼさない。だから自分は少しも死を怖れないのだ。
彼を送り出してから自分はいまこの日誌をつけるのだ。彼のために熱せられた頭はなかゝゝ(※2)冷えようとしない。ペンを持つ手が可なりに顫える。さうだ、暫らく灯(ひ)を消して、大空をながめよう。……自分の大好きな天王、松から桐に渡るまで見送つたら、やつと頭が冷えて来た。さうして、今冷静に考ふるならば……
常岡探偵の凝視してゐるページの文句はこれで終つてをります。いや、もつと明瞭に言ふならば、この日誌を書いた人は、こゝまでペンを運んだとき、正面から額の真中にピストルを撃たれて俯伏しにたほれ、これ等の文句を鮮血で染めたのであります。
と、いつたばかりでは、皆さんも何が何やらわからないでせうから、これから簡単に事件の経過を話しませう。
ちやうど今朝の五時頃です。郊外F町の文化住宅地の一軒なる牛山修方へ、牛乳配達夫が牛乳を配達して、ふと垣根越しにながめると、書斎のガラス窓があいたまゝになつてをりました。牛山氏はいつも朝寝坊であるから、不審に思つて窓の前へまはつて見ると、驚いたことに、牛山氏は机の上に俯伏して血にまみれて死んでをりました。
急報に接して、警察からは、常岡氏はじめ三四人の人々がかけつけて捜索に当りました。牛山氏は一人住ひの小説家で四十を二つ三つ越したばかりの年輩で、医者の鑑定によると前夜六時から十二時までに殺されたことはたしかであるが、はつきりした時間はわからないとのことでした。さうして、牛山氏は、書斎で前掲の日誌をつけつゝあるとき、窓の前へしのびよつた犯人のために射殺されたものだとわかつたのであります。
ピストルが発射されたのですからその音を附近の人が聞いたかも知れぬと思つて、常岡氏が隣りの家々をたづねまはると、二軒だけその音をきいたといふことでした。丁度、そのすぐ裏に鉄道線路があり、表には比較的大きな道路があつて、時々自動車のパンクすることがあるから別に深く気にもとめなかつたといふことでした。
しかし、その音のしたのが何時(いつ)頃であつたかといふ問に対して、二軒とも十一時半頃だつたと答へました。一軒では、主人が十一時十五分頃帰宅して、夫人が勝手元へ水汲みに行つた時だつたから、よく覚えてゐるといふことでしたし、もう一軒では、十一時過ぎにお蕎麦をとつて、みんなが食ひ終つた頃にその音がしたといふことでした。
そこで、牛山氏は十一時半頃に射殺されたといふことにきまつたのですが、ピストルの音をきいても、犯人の姿を見た人はありませんから、常岡探偵は牛山氏の家にもどつて、書斎の中をよく調べて見ましたが、これといふ手がゝりを得ませんでした。
ところが、牛山氏が死の直前(すぐまへ)に書いた日誌に、「北村幾三」といふ名が記され、しかも、どうやら、その人は牛山氏を殺すべき動機をもつてゐるやうに思はれましたから、常岡探偵は、この「北村幾三」なる人を探し出して、訊問しようと思ひ、牛山氏の交友名簿を葉繰つて見ると、果して、その中にこの名が見出され、しかも住所まで記されてゐたのであります。
北村幾三氏はその日の正午頃警察へ連れられて来ました。
「御年齢(おとし)は?」と、常岡探偵はたづねました。
「三十八歳です。」と北村は平静な態度で答へました。
「御職業は?」
「N会社の技師です。」
「牛山修氏とは古くから御交際でしたか。」
「十年来の友達です。」
「昨夜あなたは牛山さんを御たづねになりましたか。」
「たづねました。」と、少しく躊躇してから北村は答へました。
「それは何時頃でしたか。」
「八時少し前にたづねて、十五分ほどで帰りました。」
「あなたは、その時、牛山さんに向つて、自分の要求を容れなければ殺すと仰しやつたさうですが、それはどんな要求でしたか。」
これをきいて北村氏は少しく顔色を変へましたが、やがてきつぱり言ひました。
「それは、牛山君の秘密に関することですから言へません。」
常岡探偵は暫らく考へてから言ひました。「牛山さんは昨夜何人かにピストルで殺されました。さうして捜索の結果、あなたが最も有力な容疑者と見做されました。」
「僕は何も知りません。」と、北村氏は少しく声を顫はせて言ひました。
「それではあなたは、牛山さんの家を出てから、どうなさいました。」
「僕はそれから一時間半ほど散歩して、下宿に帰りました。」
「それから、また外出なさつたでせう?」
「いゝえ、ずつと下宿にをりました。下宿屋の人たちに聞いて下さればわかります。」
それから、常岡探偵は色々と追求してたづねましたけれども、やはり要領を得ませんでした。
で、一先づ訊問を打切り、北村氏を留置して、自分の部屋に帰りました。それから、念のために北村氏の下宿へ電話をかけてきいて見ると、北村氏は昨晩十時頃に帰宅して、それから朝までどこへも出なかつたといふことでした。
けれども、常岡探偵は、北村氏の外に恐らく犯人はあるまいと思ひました。たゞ残念ながら、北村氏が犯人であるといふ証拠は何一つありません。ことにピストルの音は十一時半頃にしたのに、その時分に北村氏が下宿にゐたといふことは最も大きな反証であります。
だが、一見立派な反証と思はれることでも、よく調べてみると、それが人工的に作られたものである場合が屡々あります。さうして常岡探偵はこれまで度々そのやうな経験をして来ましたから、何とかして、この反証をうまく除くことは出来ぬものであらうかと考へました。
そこで、常岡氏は、牛山氏が死の直前(すぐまへ)までペンを走らせてゐた日誌の最後のページを開いて、何か手がかりになるものはないかと研究したのであります。
氏は日誌の文字を繰返しゝゝゝ(※3)読んでは考へました。ことにその最後の文句、即ち、「自分の大好きな天王が、松から桐に渡るまで見送つたら、」といふ言葉が何を意味するかを考へました。
はじめ常岡氏には「天王」といふ言葉が何であるかわかりませんでしたが、段々考へてゐるうちに多分それは星の名であらうと思ひました。しかし常岡氏は天王がどの星であるかを知りませんでした。で、常岡氏は、大学へ行つて、天文学の専門家にたづねることに決心しました。
その日の夕方、天文学の教室を出た常岡氏の顔には満足の笑(えみ)が浮んでをりました。氏はそのまゝ牛山氏の宅へ来て、夜になるのを待ち兼ねました。書斎の窓際の机を前にして腰をかけると、丁度、目の前に松の木と桐の木がありましたから(、)(※4)はじめて、松から桐に渡るまでといふ文句の意味がはつきりわかりました。
やがて八時近くになると、常岡氏は緊張して、腰かけたまま南の空をながめました。それから凡そ一時間半ばかりの間ぢつと空を見つめ、時々時計を出しては時間をはかりました。
遂に、九時頃になつて、常岡氏は満足をして空の観察をやめると、間もなく、裏手の線路を轟然たる音響を出して汽車が通り過ぎました。
その時、常岡探偵は弾かれたやうに立ち上りました。さうして大急ぎで走り出して途中で自動車を雇つて聯合通信社に赴き、明日の都下の各新聞に、次の記事を入れてもらふことにしました。
一昨夜、午後十一時半頃、郊外F町の文化住宅地で、ピストルを発射したものがある。最初それは牛山氏の加害者であると考へられたが、取り調べの結果、他人に頼まれて空砲を発射したものとわかつた。発砲者は多分、自分が加害者と見られてゐることを恐れて自首しないであらうが、殺人事件と関係のないことがわかつた以上、一刻も早く警察へ出頭してほしいとの事である。
翌日の午前、果して一人の青年が自首して来ました。常岡探偵は自分の推定の誤らなかつたことを喜びながら、その青年を引見しました。青年はおづゝゝ(※5)しながら控へてをりました。
「君は一昨夜、誰に頼まれて発砲したのかね?」と、常岡氏はやさしくたづねました。
「御話すれば、全く出鱈目だと思ひになるかも知れませんが(、)(※6)とに角、ありのまゝを申し上げます。」と、見すぼらしい服装(なり)をした青年は申した。(※7)「僕は先日来、就職口を失つて、一昨夜R神社の境内のベンチに腰かけて空腹のまゝ夜明しをしようと思つてをりますと、突然一人の紳士があらはれました。その人は色眼鏡をかけ、口から顎にかけてもぢやゝゝゝ(※8)した髯をはやかしてをりました。紳士は僕に向つて馴れ馴れしく話しかけました。だんゝゝ(※9)話して行くうち、紳士は僕の悲境に同情して、もし自分の言ふとほりの行動をしてくれたなら、二十円報酬をやるがどうだといつて、懐から手の切れるやうな二枚の紙幣(さつ)を取り出しました。僕はそれを見て、どうにも欲しくてならず、自分の身でできることなら、どんなことでもすると答へました。すると紳士は、ピストルを取り出しました。僕はそれを見て、さては危険なことでもするのかとぎよつとしました。紳士は笑つて、なにびつくりしなくてもよい。これは空砲だ。今夜十一時半に郊外F町のこれゝゝ(※10)といふところへ行つて、天に向つて一発射(う)ちはなし、誰にもつかまらぬやうに一生命懸(めいけん)(※11)逃げてこゝへ戻つて来さへすればよい。仕事はたゞそれだけだとの事でした。いつもならば紳士の言葉を疑つて辞退したかも知れませんが、何しろ二十円貰へると思つたら、矢も楯もたまらなくなつて、たうたう引受けてしまひました。すると紳士はその二十円のうち十円を渡し、十二時頃こゝへ来て、あとの十円を渡すといつて立去つてしまひました。それから僕はその十円をもつて西洋料理屋へとびこみ十分腹をこしらへ、十一時少し前まで待つて、教へられたとほりのことを行ひ、幸ひ誰にも見つからずにR神社へ帰つて来ました。ところが、先程の紳士は十二時過ぎ、一時過ぎても姿を見せませんでした。僕は何となく気味が悪くなつて、その晩ある木賃宿へ行つて泊りましたが昨日の夕刊に郊外F町に人殺しがあり、しかも兇器はピストルだとの記事があつたので、びつくりして、宿をとび出し、ピストルを途中の河の中へ捨て、昨晩から今朝へかけて、木賃宿へも行かずびくびくして野天で暮しましたが、今朝の新聞に、あの記事が出ましたので、ほツとして早速自首した訳でございます。」
青年の語るのを、うなづきながらきいてゐた常岡探偵の顔には満足の色がうかびました。「よくわかつた。全く想像したとほりだ。で、その紳士がどんな服装をしてゐたか覚えはないかね?」と、常岡氏はたづねました。
「洋服をきてゐたことだけは覚えてをりますが、暗かつたので、こまかいことはわかりませんでした。」
「君は、そのピストルをよく調べて見たかね?」
「いゝえ、僕はあゝいふものを見ると、身体が顫へますから新聞紙へつゝんだまゝ河へ捨てゝ来ました。」
それから常岡探偵は一時間ばかり外出して、帰つてくるなり、昨日から留置してあつた北村幾三を呼び出しました。
「北村さん、残念ながら、あなたを牛山氏殺害の犯人とみとめなくてはなりません。どうか潔よく白状して下さい。」
常岡探偵は、北村氏の顔をぢつと見つめました。
「僕は知りません。」と、北村氏は反抗しました、(※12)
「僕を犯人だと見做す証拠がありますか。」
常岡探偵はにこりと笑つて言ひました。「それでは私がどうしてあなたを犯人と見做すに至つたかを順序正しく御話ししませう。牛山さんは、いはゞ、その日誌によつて、見ごとにあなたに復讐したといつてよいのです。牛山さんは一昨夜あなたが去られてから、すぐあなたとの口論の顛末を日誌に書きました。さうして、途中で一度灯(ひ)を消して、腰掛けたまゝ大空を眺めて、その熱した頭を冷やしました。それから再び灯(ひ)をつけて日誌を書き、自分の大好きな天王が松から桐に渡るまで見送つたら云々と書いた時、窓の前へ忍び寄つた犯人のためにピストルで射灯(う)たれて死にました。即ち牛山さんは、灯(ひ)を消して、天王が松から桐に渡るまで、ぢつと空を眺めてゐたわけです。ところで最初私はこの天王が何を意味するかがわかりませんでしたが、恐らく星のことにちがひないと思つて、大学の天文学の教室に聞きに行きますと、天王とは夏の夜南方に見える蠍座の一ばん強い光を発するアンタレスの支那名だとわかりました。蠍座のアンタレスならば私も知つてゐましたが、支那名が使つてあつたから私にはわからなかつたのです。そこで私は、牛山さんが書斎から、アンタレスをながめてゐたことを知りましたので、昨夜、牛山さんが殺されて居た椅子に腰かけて、同じ位置から南の空をながめました。果して、正面(※13)蠍座のアンタレスが見えました。さうして、書斎の前方には松の樹と桐の木とが離れて立つてをりましたから、日誌の文句はこのアンタレスが松を過ぎて桐の木にかゝる時間といふ意味になります。そこで私は、アンタレスが松の樹をはなれる時間を見ると、丁度八時半でした。それから、桐の木にかゝるまで凡そ四十分かゝりました。この時間は、一昨夜も同じだつた筈です。そこで、牛山さんは九時二十分頃に再び灯(ひ)をつけて日誌を書きはじめ、間もなく殺されたことになります。して見るとピストルの音は九時半頃にきこゆべきであつて、十一時半に聞えたといふのは、牛山さんを殺したのとはちがつた発砲でなくてはなりません。しからば、何故に、人々は九時半に銃声を聞かなかつたといふ疑問は容易に解決されました。丁度、アンタレスが桐の木にかゝつてから暫く過ぎると、轟然たる音を発して汽車が通つたので、さては犯人はこの汽車の音を利用して、ピストルの音をごまかさうとしたのだとわかりました。して見ると、十一時半の発砲は恐らく犯人が警察をあざむくために、誰かを雇つて故意になさしめたものでなくてはなりません。かう考へて私は、聯合通信社へ行つて、雇はれた男に出頭するやうに新聞にかゝせました。果して私の想像通り、今日その男は出頭して、一昨夜、色眼鏡をかけ、髯を一ぱいや生(※14)した紳士に雇はれて十一時半頃発砲しに行つたことを告げました。その紳士は言ふまでもなく、牛山さんを殺した犯人にちがひありません。さうして、その犯人は、北村さん、あなたより外にありません。」
北村氏の顔には、常岡探偵が語り進むにつれて、だんゝゝ(※15)と恐怖の色が漲つて来ましたが、この時、無理に声をしぼるやうにして言ひました。「違ひます、違ひます。その紳士が僕だといふ証拠はないぢやありませんか。」
「北村さん。」と常岡探偵は厳かに言ひ放ちました。「あなたは一昨晩、牛山さんの家を出て、その附近をうろつき、再び、書斎の前にしのび寄つて、汽車の通るのを待つて発砲したでせう。あなたの計画は実際立派なものだつたのです。さうして、あなたが偶然雇つた青年も、完全にその役目をつとめてくれました。けれども、悪事は天が許しません。牛山さんが日誌をつけたのが、そもゝゝ(※16)あなたの運のつきです。もし、あの日誌がなかつたならば、牛山さんは十一時半に殺されたと決定され、あなたはその時刻に下宿にゐたといふ立派な証拠があるから、巧みに法網をのがれることができた筈です。あなたは今、青年に発砲を依頼した紳士が、あなただといふ証拠はないと言ひましたが、実は先刻(さつき)あなたの下宿へ行つて押入の中から、こんなものを見つけて来ました。」
かう言つて常岡探偵は机の抽斗の中から、色眼鏡と附け髯を出しました。
「どうです、これでもまだ白状はできませんか。」
「違ひます。」と北村氏は我を忘れて叫びました。「僕は附け髯を焼きました。だから下宿にある筈がありません。」
「はゝゝゝゝ」と常岡氏は物すごく笑ひました。「たうとう白状しましたね。この色眼鏡も附け髯も私自身変装用のものです。今日あなたの下宿をたづねましたが、用心深いあなたは何も手がかりになるものを残して置きませんでしたから、白状してもらふために、これを御見せしたゞけです。」
もはやのがれぬ運命と思つて、北村氏はその場で一切を白状してしまひました。(をはり)
(※1)(※2)(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)原文句読点なし。
(※5)原文の踊り字は「く」。
(※6)原文句読点なし。
(※7)原文ママ。
(※8)(※9)(※10)原文の踊り字は「く」。
(※11)(※12)(※13)(※14)原文ママ。
(※15)(※16)原文の踊り字は「く」。
底本:『日本少年』昭和2年10月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細(昭和2年)」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(公開:2007年2月13日 最終更新:2007年2月13日)