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十円紙幣

小酒井不木

 富雄君はことし十三歳で、浅草馬道の紅木屋といふ、あまり大きくない呉服店の丁稚であります。幼い時分に両親に死に別れて孤児となりましたが、非常に忠実に働きますから、主人に大へん可愛がられてゐるのであります。けれど富雄君には二つの欠点があるのです。第一に富雄君は性急で粗忽なのであります。平たい言葉でいふならば、あはてもの(※1)で、そそつかしや(※2)なのであります。例へば主人が何処其処へ使ひに行つておいでといひつけると、使ひの趣をきかない先に飛び出し、先方へ行つて、何しに来たのかわからず、頭を掻いて帰つて来るといふやうなことが度々ありました。
 第二に、富雄君は活動写真が三度の食事よりも好きで、使ひに出ると、走つて用をすまし、十分でも二十分でも時間をあまして活動写真館へはひるのでした。しかし富雄君は非常に快活で怜悧でありましたから、主人のみならず家中(うちぢう)の人から可愛がられてをりました。
 一月のある日、富雄君は、主人から、十円紙幣(さつ)を渡され、田町の××漆器店へ、かねて註文してあつた蒔絵の箱を取つて来いと命ぜられました。富雄君は風呂敷を懐にねぢこみながら、例の如く、小走りで店を出ましたが、止せばよいのにわざと公園を通つて、せめて活動写真館の看板でも見て行かうと思つたのであります。富雄君はチャーリー、チャプリンが大好(だいすき)でしたが、そのチャプリンの新映画がF館で封切りされたといふことを、今朝番頭さんからきいたので、使(つかひ)に出されたのを幸(さいはひ)に、F館の前までやつて来たのであります。
 丁度午後三時半頃で、両側に活動写真館のならんでゐる街は、かなりに雑踏をしてをりました。F館の前まで来ると、チャプリンが、雪の中で犬を連れて、寒さうに顫へてゐる絵が大きな看板に貼り出されてありました。山高帽の下からはみ出すもぢやゝゝゝ(※3)の頭髪(け)と、ぼけたやうな眼、人を馬鹿にしたやうな口髭、古びたたぶゝゝ(※4)のズボン。その滑稽な姿を見ると、富雄君は、矢も楯もたまらなくなつて、思はず懐中(ふところ)に手を入れました。と、意外にも、主人から渡された十円紙幣(さつ)を入れた財布がありません。はつ(※5)と思つて、附近(あたり)を見まはしますと、その瞬間、富雄君の眼に異様な光景が映りました。
 富雄君の前方に、四十恰好の女の人が十二三歳の娘の手を引いて、立ち止り乍ら一生懸命に看板を仰いで見てをりましたが、その左の袂の中へ、その背後(うしろ)にゐた鳥打帽をかぶつた二十五六の男の手が、つツとはひつたかと思ふと、あつといふ間に一個の女持ちの財布を引き出すのを見たのであります。
「掏摸だ。俺の財布もこの男に(※6)られたにちがひない。」
 かう思ふが早いか、富雄君は、いきなり、鳥打帽の男にとびかゝり、
「こん畜生!」
と叫んで組みつかうとしました。
 男は不意を喰(くら)つて、非常に狼狽したらしかつたが、ぱつと身をかはしたかと思ふと、群集をかきわけて鼠のやうに走り出しました。
 富雄君は走ることにかけては平素自慢してゐるくらいですが、何分、相手は二十五六の男ですからかなひません。「泥棒! 泥棒!」といつて追ひかけましたが、見るゝゝ(※7)うちに二人の距離は大きくなつて行きました。二三丁走つて男は人通りの少ない街に出(い)で、やがてある路地を曲りましたが、その拍子に、路地から出ようとする、蕎麦屋の出前持ちに、したゝか突き当つて、二人ともすつてんころりと転がりました。丼が割れる、蕎麦のつゆ(※8)が飛び出す、いやはや大騒動が持ち上りました。
 富雄君は、起き上らうとする掏摸の傍にかけよつて、背後(うしろ)から、その頸にしがみつきました。
「こん畜生、俺の金を(※9)りやがつて、返さなきや承知しないぞ!」といふなり男の肩に噛みつきました。
「痛い! 痛い! 貴様の金なんか盗りやせん!」と、男はもがきました。
「盗らぬことがあるか? 早く返せ! 返せ!」
 打ちどころが悪かつたゝめか、蕎麦屋の男衆は、暫らく気絶したやうに俯向いてをりましたが、この時、「うーん」と唸(うめ)いて起き上らうとしましたので、掏摸は気が気でありません。それに、富雄君が大声をあげるので、今に人集りがして来ては面倒だと思つたのか、
「いくらだ?」と、掏摸はたづねました。
「十円だよ!」
「よし返してやる」
 かういつて彼は懐から紙入れを取り出して、富雄君に十円紙幣(さつ)を与へました。
「財布も返せ!」
「財布はないよ。」
「そんな筈はない。」
「捨てゝしまつた。」
「ぢや、小遣銭を五十銭よこせ!」
 男はすなほに富雄君に五十銭銀貨を与へました。
「よし、逃がしてやる。」と富雄君は申しました。
 男は再び疾風の如く走つて行きました。富雄君は蕎麦屋の男衆のそばに寄り、助け起して介抱してやりましたので、間もなく男衆は立つことが出来ました。しかし、割れた丼をながめながら、しばしぼんやりして居りました。
「蕎麦屋さん、御気の毒だつたね。今の男は掏摸なんだよ。盗られた財布には僕の金が二十銭しかはいつてゐなかつたが、僕は五十銭取り上げてやつたから、割れた丼の代にこれをあげるよ。」
 かういつて富雄君は、五十銭銀貨を、お盆の上にのせて呆気にとられて返事もすることの出来ぬ男衆を後に残して、かけ出しました。
「あゝ、危なかつた。旦那から渡された十円紙幣(さつ)をなくしちや、旦那に合せる顔がない。いや、とんでもないことに時間をつぶした。さあ、これからマラソン競争だ!」

 蒔絵の箱を風呂敷に包んで店へ帰ると、帳場に坐つてゐた主人は、
「富雄! こゝへおいで! お前、何処で遊んでゐた?」と常にない真面目な顔できめつけました。
 さては道寄りしたことを感附かれたかなと思ひましたが、
「お使ひに行つたばかりです。」と、答へました。
「嘘を言つちやいけないよ。嘘をいふ人間は嫌ひだ。」
 富雄君は、恐るゝゝ(※10)風呂敷包みを解いて、蒔絵の箱を差出しました。
「おや? それぢや、先方は渡してくれたのか?」
「はい。」と富雄君は、主人の言葉を察しかねて、怪訝な顔をしていひました。
「代金は?」
「払つて来ました。」
「お前、自分の金がそんなに沢山あるのか?」
「いゝえ、旦那から頂いたお金です。」
「嘘を言つちやいけないといふに。」
「でも…………」
「でもぢやないよ。これは何だい?」
 かういつて旦那は一個(ひとつ)の財布を富雄君の膝の前へ投げました。
「やツ! これは?」と富雄君は思はずも叫びました。それもその筈、出がけにあはてゝ忘れて行つたと見えて、まさしく、それは自分の財布だつたからです。
 富雄君は思はず、財布の口をあけました。すると、どうでせう。中には、主人から貰つた十円紙幣(さつ)と、十銭銀貨が二個、ちやんとはいつてゐるではありませんか。
 では、掏摸から取り戻した十円紙幣(さつ)は?
 そこで、富雄君は、今日の出来事を、残らず主人に語りました。主人は黙つてきいてゐましたが、最後に、
「はゝゝゝゝ。掏摸から金をとつた人間は、東京中でお前一人ぐらゐのものだらうなあ!」
と、笑つて申しました。

(※1)(※2)原文圏点。
(※3)(※4)原文の踊り字は「く」。
(※5)(※6)原文圏点。
(※7)原文の踊り字は「く」。
(※8)(※9)原文圏点。
(※10)原文の踊り字は「く」。

底本:『日本少年』大正15年5月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細(大正15年)」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(公開:2006年2月24日 最終更新:2006年2月24日)