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紅色ダイヤ(三)

 私は俊夫君をどうして慰めてよいかに迷ひました。そのとき私はふと、今日、理化学研究所をたづねたことを思ひ出しました。今まで暗号のはうに気をとられて、私は肝腎の用事を話すことを忘れ、俊夫君も、それを気づかずに居るらしいでした。
「俊夫君、すつかり忘れて居たが、実はこの切抜きの記事のついて居る新聞を買つて持つて来たんだ。」
 俊夫君はあまりうれしくもない顔をして、私の差出した新聞を受け取つたが、やがてその新聞を開いたかと思ふと、急にうれしさうな顔になつて、
「兄さん、有難う!!」
 かう叫んだかと思ふと、先刻(さつき)暗号の解式を発見したときのやうに、こをどりし乍ら私の頭につかまつて、足をばたゞゝ(※1)させました。
「どうしたんだ?」私は呆気にとられてたづねました。
「犯人がわかつたよ!」
「え?」  私は俊夫君の言葉を疑はずに居られませんでした。
「あゝうれしい。」かういつて俊夫君は又もや、室(へや)の中を走りまはりました。私は読売新聞を開いたばかりで、どうして犯人がわかつたか、さつぱり見当がつきませんでした。
「犯人は誰だい?」
「それは今いへない。今日はもうこれ以上きいては厭だ。さあ、ゆつくり御飯を食べませう。」

 あくる朝俊夫君は、昨夜(ゆうべ)、叔父さん宛に書いたといふ手紙を投函してくるといつて出かけたまま、正午(ひる)頃まで帰つて来ませんでした(。)(※2)俊夫君は出がけに兄さんについて来て貰つては困るといつたので、私は家にとゞまりましたが、何だか心配になるので、其の辺を捜しに出かけようかと思ふと俊夫君はにこゝゝ(※3)して帰つて来ました。そして私が、どこへ行つたか訊ねぬ先に、俊夫君は私に向つて、今晩七時に紅色ダイヤを盗んだ犯人が、こゝへ訪ねて来るから、兄さんは力一ぱい働いて捕へてくれと申しました。
 犯人を捕へに行くのなら兎に角、犯人がこちらへ訪ねてくるとはおかしいと思つて、その理由(わけ)を訊ねると、
「来なければならぬからさ!」と俊夫君はすましたものです。
「何故?」
 俊夫君は黙つてポケットから紫色のサックを取り出して言ひました。
「兄さん、そーら中を御覧よ。」
 そしてサックの蓋をあけたかと思ふと、ぱつと閉めましたが、中には紅色(くれなゐいろ)の宝石がまがひもなくきらゝゝ(※4)と輝いて居りました。
「盗まれたダイヤか?」と私は驚いてたづねました。
「さうよ!」
「どうして君の手にはひつた?」
「犯人が隠しておいた所から取つて来たんだ。だから今晩犯人が、これを取りかへしに来るんだ。」
「一たいどうして探偵したんだい?」
「今晩犯人をつかまへてから御話するよ。」
「一寸そのダイヤを見せてくれないか?」
「いけないゝゝゝゝ(※5)。」かういつて俊夫君は意地悪さうな笑ひ方をして、ポケットの中へ、サックを入れてしまひました。

 私は俊夫君がどうして犯人をつきとめ(、)(※6)その犯人の手から紅色ダイヤを奪つたかを考へて見ましたが、さつぱりわかりませんでした。暗号の文句は、あのとほり俊夫君をからかつたものに過ぎないし、昨日の読売新聞も、私の見た範囲では、犯人の手がゝりになるやうなこともなかつたので、いくら考へても解釈はつきませんでした。けれど私は俊夫君の性質をよく知つて居ますから、強ひてきくのは悪いと思つて、俊夫君の命ずるままにしようと決心しました。
 五時半に夕食をすまし、やがて六時になりました。戸外はもうまつ暗で、人通りも少なくなりました。七時に犯人が訪ねて来たら、俊夫君が扉(ドア)をあけ、私がとびかゝつて行つて手錠をはめるといふ手順でした。かねて柔道で鍛へた腕ですから、どんな人間にぶつかつても何でもありませんが、犯人がどんな風な人間だらうかと思ふと、私の心は躍りました。
 たうとう七時が打ちました。すると果して実験室の外がはに足音が聞え、次で扉(ドア)をコツヽヽ(※7)叩く音がしました。俊夫君は私に眼くばせして、立ち上り乍ら扉(ドア)をあけに行きました。
「やつ」
と一声、私は入つて来た男をめがけてとびかゝりました。
「何をするんだ。俺だよ!」といふ先方の声は、どこかに聞き覚えたところがありましたが、色眼鏡をかけて顔一ぱいに鬚髯(ひげ)をはやして居ましたから、こいつ胡散な奴だと思つて捩ぢ伏せにかゝりますと、先方もさるもの、猛然として、私をつきのけようとしましたので、次の瞬間、ドタン、バタンといふ格闘が始まりました。俊夫君もこのとき犯人の方へ駆け寄つて、何事かして居たやうですが、やつと私の力がまさつて、犯人に手錠をはめようとすると、俊夫君は、「兄さん、さうしなくてもよい。叔父さん、色眼鏡と附け(ひげ)(※8)を御取りなさい。」と叫びました。
 私はハツと思つて手をはなしました(。)(※9)
「俊夫! 一たいこのいたづらは何のことだ!」といつて、起ち上つて、色眼鏡と附け髯をはづした男の顔は、まがひもなく赤坂の叔父さんでした。
「叔父さんすみません。けれど紅色ダイヤの犯人をつかまへる約束だつたでせう?」
「それはさうさ!」と叔父さんは塵埃(ほこり)を払ひ乍ら、苦い顔して申しました。
「叔父さんがその犯人ですからつかまへようとしたゞけです。その代り紅色ダイヤを御返しします。」
 かう言つて、俊夫君はポケットからサックを取り出し、蓋をあけて叔父さんの前にさし出しました。
 燦然たる光を放つダイヤモンドを見た叔父さんは、顔色かへて驚きました。
「こりや、本当の紅色ダイヤだ!」かういつて、叔父さんは上衣(うわぎ)の内側のポケットから、同じやうなサックを取り出して、顫へる手であけて見ました。
「やつ、贋物だ! いつの間にすりかへられたゞらう?」と叔父さんは不思議さうに俊夫君の顔を見つめました。
 私は何が何だかわからぬので、しばし呆然として、其処に立つて居ました。

「叔父さん、まあ御かけなさい(。)(※10)兄さんもそちらへ御かけなさい。」
 かういつて俊夫君は、得意気に今迄の探偵のすぢ道を語り始めました。
「叔父さん、叔父さんは、このダイヤを僕にくれてやらうと思つて、僕の力をためしたのでせう? はじめ、あの匿名の手がみを見たとき、見覚えのある筆蹟だと思ひました。それから手紙の上の指紋をとりましたら、それは叔父さんの指紋でした。いつか僕が、お父さんやお母さんや、叔父さんの指紋を集めたことがあつたでせう。僕はそれと比べて見たのです。それから金庫の上にあつた指紋も叔父さんのでした。ですから叔父さんが犯人かもと思つたですけれど、叔父さんの紙を誰かが盗んでつかつたのかもしれず、金庫の上に叔父さんの指紋のあるのは、あたり前であるし、それにあの暗号が気になつたものですから、叔父さんを犯人と断定するのはまだ早いと思ひました。
 ところが暗号を解いて見ると、僕を嘲つた文句が出ました。そこへさして暗号を切り取つた新聞が、昨日の読売新聞だつたので、僕は犯人が叔父さんだといふ、たしかな証拠を得たのです。窃盗は前夜行はれたのですから、外からはひつた犯人なら、昨日の朝の新聞を切り抜いて入れる訳がない。又たとひ犯人が、叔父さんのうち(※11)のものであつても、叔父さんが真先によむ新聞を切り抜く筈はない(。)(※12)それに叔父さんは、もと逓信省に居て、電信符号のことを、よく知つて居るから、愈よ犯人は、叔父さんだと推定したのです。
 犯人が叔父さんだとすると、叔父さんは僕の力を試すために、やったことだと思つたから、犯人がわかつたと告げてこちらへ来て貰へば、叔父さんはダイヤをもつて来てくれるにちがひないと考へたのです。そこで僕は昨夜(ゆうべ)、叔父さんに手がみを書き、今朝投函しに出た序に、銀座へ行つて、贋のダイヤとサックを買ひ、兄さんをだまして、叔父さんと格闘してもらひ、どさくさまぎれに、叔父さんのポケットをさぐり、本物と贋物とをすりかへてしまつたんです。」
 叔父さんの先刻(さつき)の怒り顔は、いつの間にかにこゝゝ(※13)顔に変つて居ました。
「いや全く感心した。紅色ダイヤはお前にやる。」と叔父さんは申しました。
「昨日の朝の新聞を切り抜いたのは俺の手ぬかりだつたよ。四五日前から気をつけて、何か科学に関した記事はないかとさがして居たが、丁度あの記事が目についたので、暗号を作つたのさ。暗号に身がはひつて、うつかりそのことに気がつかず、早速電話をかけてお前を呼びよせたのさ。それにしても大野君、随分ひどい目にあはせたね?」
 私は穴があればはひりたいやうな気になりました。
「どうも失礼しました。俊夫君もひどいいたづらをさせたものです。」
「だけど、叔父さんをひどい目にあはせることは、あの手紙に書いて置いたよ。」
「え?」と叔父さんはびつくりして言ひました。
「手紙をもつて来たでせう?」
 叔父さんは、チヨッキのポケットから俊夫君が今朝出した手紙を取り出しました。
「針で孔のあけてある字を読んでごらんなさい。」
 叔父さんは手紙を開いて、しばらく電燈の光にすかして読んで居ました。
「さうか。変装の方へ気を取られて、これには気がつかなかつた。」
 かういつて叔父さんは私に手紙を渡しました。私は左(さ)に、その文句をうつし取り、針で孔のあけてある字だけを例の如く点を打ちます。
叔父さん、たうとう犯人がわかりました。僕は首尾よくダイヤを取り返しました。今晩七時に変装して来て下さい。兄さんを驚かしてやりたいのですから、序ダイヤのサックとこの手紙を持つて来て下さい。あの暗号には、随分苦しい思をさせられました。委細は御目にかゝつて御話しますよ。乱筆おゆるし下さい(※14)。 俊夫より
 叔父上さま(」)(※15)
 針で孔をあけた字を一しよにあはせると、
「叔父さん今晩兄さんに苦しい思(おもひ)をさせられますよ。おゆるし下さい。」となります。
「俊夫にはかなはん。」
 たうとう叔父さんも、俊夫君の智慧に降参してしまひました。
 かくて紅色ダイヤは目出度く俊夫君のものとなりました。(完)

(※1)原文の踊り字は「ぐ」。
(※2)原文句読点なし。
(※3)(※4)(※5)原文の踊り字は「く」。
(※6)原文句読点なし。
(※7)原文の踊り字は「く」。
(※8)原文ママ。
(※9)(※10)原文句読点なし。
(※11)原文圏点。
(※12)原文句読点なし。一文字空白。
(※13)原文の踊り字は「く」。
(※14)原文圏点。
(※15)原文閉じ括弧なし。

底本:『子供の科学』大正14年2月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1925(大正14)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(公開:2017年11月3日 最終更新:2017年11月3日)