『兄さんその暗号がわかる?』
と、暫くたつてから俊夫君は私にたづねました、私はその新聞紙の切抜きの記事を幾度も読んで見ましたが、それは理化学研究所の人が新らしい写真術を発見したといふに過ぎないのであつて、このダイヤ紛失事件と何の関係がある訳でもなく、また針で穴をあけてある活字だけを読んで見ても、少しも意味をなさなかつたので、
『どうも、何が何だか少しもわからない』と答へました。
『そんなにすぐわかつてたまるものか』と俊夫君は笑ひ乍ら言ひました。
『では俊夫君にもまだわからぬ?』
『わからん!』
これ迄俊夫君は、『わからん』とか『出来ん』とかいふ言葉が大嫌ひで、よほど困つたときでないと使はないのですが、この暗号はむづかしいと見えて、苦い顔して吐き出すやうに言ひました(。)(※1)
それから俊夫君は、その切抜きを私の手から奪つて、凡そ十分ばかり一生懸命に見つめて居ましたが、やがて、
『兄さん、この針で孔のあいて居る字だけを写し取つて下さい』と申しました。
私は、白紙(しらかみ)の上に左(さ)の通り写し取りました。
を行つて での写真 違つて今ま 能と見做さ た赤をは 黄や緑 至る迄そ く白い様に しむる事 に写真術 影者(えいしや)が之を とに最もお
俊夫君は私の差出した紙片を手に取つて暫らく見て居ましたが、『兄さん、こりやとても一時間や二時間で解ける暗号でないよ。御昼飯(おひるはん)をたべてから、ゆつくり考へよう。』と申しました。
食後俊夫君は、あの新聞の切抜きが、何日の何新聞にあるか調べて、出来るなら、その新聞を持つて来てくれと私に申しました。私はそれを聞いて大(おほい)に弱りました。あの新聞の切抜きは必ずしも東京の新聞と限らず、また一月前の新聞やら、二月前のものやらわからぬから、捜し出すのは容易なことでないと思ひました。
『その新聞をどうするの?』と私はたづねました。
『どうしてもいゝよ!』と少々機嫌が悪い。
『だつて、いつの新聞だやら、どこの新聞だやらわかぬ(※2)から、一日や二日で捜せるものぢやない。』と私は言ひました。
『馬鹿だな、兄さんは!』と俊夫君はいよゝゝ(※3)面(つら)ふくらして言ひました。
『だつて、さうぢやないか?』
『兄さん、ちと、頭を働かせて御覧なさい。それ位のことは僕が言はないでもわかる筈だよ。さあ、この切抜きをあげるから、本郷なり何処へなり、早くいつて来て下さい‥‥』
機嫌の悪い時に反抗するのはよくないと思つて、私は逃げ出すやうに外へ出ました。が、一たい何処へ行つたらよからうかと、立ち止つて考へたとき、ふと、俊夫君が今『本郷なり何処へなり』と言つたことを思ひ出し、私は思はず股(もゝ)を打ちました(。)(※4)切抜きの新聞記事は本郷駒込の理化学研究所のことではありませんか?
私は俊夫君の智慧に感心しながら、本郷行の電車に乗り、富士前で降りて、研究所に行き、近藤研究室の花井氏を訪ねました。すると花井氏は快く逢つてくれました。
まさか暗号のためとも言へないので(、)(※5)新らしい写真術の御話を承りに来たと申しました。
『あゝ、あの読売新聞の記事を見たのですか?』と同氏は笑ひ乍ら言はれました。私の胸は躍りました。
それから凡そ二十分ばかり花井氏の深切な説明を聞いた後(のち)、私は暇(いとま)をつげ何気ない風を装つて、
『読売の記者はいつ御伺ひしたでせうか?』と訊ねました。
『昨日の午後でした。』
昨日の午後ならば、あの記事は今日の新聞に出たにちがひない。かう思つて電車停留場へ来ますと、向ひ側に新聞取次店があつたので、転ぶやうにその店へ入つて、読売新聞を買ひました(。)(※6)拡げて見ると、第三面の下から三段目に、切抜き通りの記事がありました。
新聞の捜索が意外に早く片附いたことを喜びながら、早く俊夫君に渡してにこゝゝ(※7)顔が見たいと思ひましたが、生憎、日比谷公園前で停電に逢つて、家(うち)に帰つたのは、秋の日も暮れかけた五時半頃でした。
扉(ドア)をあけて俊夫君の室に入ると、俊夫君は手に鉛筆を以(も)(※8)つて、私が来たのも知らずに考へて居りました。
『どうだね、暗号は解けた?』と私は訊ねました。俊夫君は顔をあげましたが、その眼は遠い所を見つめて居ました。やがて我に返つた俊夫君は、
『まだ解けん』と苦々しく言ひました(。)(※9)見ると机の上には暗号に関する洋書が五六冊開かれて居りました。
と、その時電話のベルが鳴りましたので、私は立つて受話機を外しました(。)(※10)ところが、今まで机によりかゝつて居た俊夫君は、何思つたか、つと立ち上つて、
『しめた、わかつた!』と言ひ乍ら、室の中をあちこち躍りまはりました。
『俊夫君! 電話だ!』と私が申しましても耳へ入らばこそ(、)(※11)しまひには私の腰にぶら下つてくるひかけるのでした。
『俊夫君! 叔父さんから電話だ!』と私は声を強めて申しました。『叔父さん』ときいて、俊夫君は受話器を耳に当てました。叔父さんの声が大きいので傍に立つて居た私にはよく聞えました。
『俊夫! 犯人はわかつたかい?』
『まだです(。)(※12)』
『暗号は?』
『たつた今解式がわかりました!』
『たつた今?』
『叔父さんから電話がかゝつたのでわかりました。』
『それは妙だなあ!』
『妙でせう?』
『何といふ暗号だい!』
『これから解くのです。』
『さうか、しつかりやつてくれ。たゞ一寸様子をたづねたゞけだ。』
『しつかりやります。左様なら。』
電話がかゝつたので暗号の解式がわかつたとはどういふ訳だらうか。それは私にも謎の言葉でした。私がそれを訊ねようとすると、俊夫君は書棚へかけつけて、しきりに書物を繰りひろげて見て居ましたが、暫くして、
『困つたなあ、あれの書いてある本がなくちや。』とさも落胆したやうに申しました。
『僕が買つて来ようか?』
『いや、青木でいゝ。』かういつて、机の上のベルの釦を押すと、暫くして本宅の書生の青木が入つて来ました。俊夫君は紙片に何か書いて、青木に渡しながら、
『この本を、角の丸山書店で、大急ぎで買つて来てくれ。』と申しました。
『兄さん今日は本当に苦しんだよ』と俊夫君は、机の前に腰掛けてにこゝゝ(※13)しながら申しました。
『何しろ、これは日本の暗号だから、外国の書物を見たとて、わかる筈はなし、それかといつて、日本には暗号のことを書いた本はなし、全く僕一人の力で解かねばならぬからね。先づ僕はこの『を行つて』『での写真』『違つて今ま』といふのが一つ一つの文字即ち『ア』とか『イ』とかをあらはして居るにちがひないと思つたんだ。ところでこの十二組のうち、どれを見ても五字より多いのはないから、何か『五つ』に縁のあるものはないかと頻りに考へて見たんだ。はじめ盲人の点字を暗号になほしたのではないかと思つて見たが、点字は『六つ』から出来て居るので(、)(※14)その考へは捨てたんだ。丁度、兄さんが帰つて来たときに、仮名は仮名としてある記号を代表し、漢字は漢字としてある記号を代表するにちがひないといふ所までこぎつけたんだ。すると叔父さんから、電話がかゝつて来たでせう。僕ははつと思つたよ。‥‥わかつたかい、兄さん?』
『どうもわからぬね。』
『だつて電話と言やすぐ思ひ出すだらう?』
『え、何を?』
『仮名がトンで漢字がツーさ!』
『何だいそれは?』私は益(ますま)すわからなくなりました。
『困るなあ、電信符号だよ!』
かう言はれて私は始めてなる程と思ひました。トンは電信符号の(・)ツーは(―)で、而も、文字は、トンツーの五つ以下から成つて居ることを私は思ひ出しました。
この時書生の青木が小さい書物をもつて入つて来ました。見るとその表紙に『電信符号』と記されてありました(。)(※15)
『兄さん、仮名をトンにし、漢字をツーにして早く、この十二組の文字を書き直して、どういふ仮名文字に相当するか検べて下さい。』
私はやつとかゝつて左(さ)のとほり検べあげました。
を行つて ・ ― ・ ・
での写真 ・ ・ ― ―
違つて今ま ― ・ ・ ― ・
能と見做さ ― ・ ― ― ・
た赤をは ・ ― ・ ・
黄や緑 ― ・ ―
至る迄そ ― ・ ― ・
く白い様に ・(※16) ― ・ ― ・
しむる事 ・ ・ ・ ―
に写真術 ・ ― ― ―
影者が之を ― ― ・ ― ・
とに最もお ・ ・ ― ・ ・
折角検べて見ても、『カノモルカワニンクヲシト』では何のことかわかりませぬでしたが、ふと、顔をあげると、俊夫君は、にが虫をつぶしたやうな顔をして居ました。
『どうしたの?』
と私は訊ねました。
俊夫君は机をたゝいて、
『馬鹿にしやがる。』
と怒鳴りました。
『え?』と私は吃驚しました。
『倒(さかさ)まに読んでごらん!』
『トシヲクンニワカルモノカ』(俊夫君にわかるものか)
又しても犯人のいたづら! 折角苦心したあげく(※17)がこれでは、俊夫君の怒るのも無理はなかつた。
(つゞく)
(※1)原文句読点なし。
(※2)原文ママ。
(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)(※5)(※6)原文句読点なし。
(※7)原文の踊り字は「く」。
(※8)原文ママ。
(※9)(※10)(※11)原文句読点なし。
(※12)原文句読点なし。一文字空白。
(※13)原文の踊り字は「く」。
(※14)(※15)原文句読点なし。
(※16)原文一文字空白。
(※17)原文圏点。
底本:『子供の科学』大正14年1月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1925(大正14)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(公開:2017年11月3日 最終更新:2017年11月3日)