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刹那の錯誤

小酒井不木

 岡村は、その細君の自殺によつて、精神に非常な打撃を受けた。その結果所謂「異常」を呈したらしかつたが、何しろ、むかしは恋女房だつたので、それはまことに無理もないことであつた。
 彼の細君が何故(なにゆえ)に自殺したのか、別に遺書が発見されなかつたからわからぬけれど、岡村にはその理由が十分に推察された。即ち、細君は、岡村の友人篠田と道ならぬ恋に落ち、嫉妬深い岡村のために発見されて、悔恨のあまり自殺したものであるらしかつた。
 岡村の嫉妬深いことは、殆んど病的といつてよい程であつた。若し細君が自殺しなかつたならば(、)(※1)彼は自分の手で細君を殺しかねないくらゐであつた。そのむかし恋女房であつたゞけ、不義を発見した時の彼の怒りは強かつた。彼は細君を憎むと同時に、その不義の相手たる篠田を、はかりしれぬ深さをもつて憎んだ。彼はその不愉快な発見の後、古風な言葉ではあるが、二人を重ねて置いてまつ二つにしたいと希(ねが)ひ、その機会を覗つて居たけれども、遂に細君に死なれてから、それを永久に失つてしまつた訳である。
 その夜細君は寝室の梁の釘に岡村の兵児帯をかけて縊死して居た。それはちやうど岡村の不在中のことであつて、岡村が帰つて来て見ると、この有様なのに大(おほい)に驚き、手を触れて見ると、もはや冷たくなつて居たので、医師を招く前に警察に届け出でたのである。
 尤も、このことは岡村が検屍官に語つたところであつて、誰も他に目撃したといふものはなかつたから果して岡村の言葉が真実か否かはわからぬけれど、検屍の結果、別に怪しむべき点もなかつたので、細君の死は自殺と決定されたのである。
 ところが、岡村は細君の変死に逢つてから一種の強迫観念に襲はれはじめた。多分それは悲歎のせゐだつたかも知れぬ、細君の葬式を済ますなり一室に閉ぢこもつて、頻(しきり)に、ある一事について考へこむのであつた。
 その一事といふのは外でもない、彼の細君の、いはゞ間接の死因となつた篠田を殺してしまはうといふ恐ろしい計画であつた。彼が何故(なにゆえ)にそのやうなことを企てたかは、もとより知る由もなかつたが、恐らく、二人を共に殺してしまひたいといふ予ての欲望を満たさんがためであるらしかつた。実は、細君の自殺した晩、彼が家をあけたのも、篠田を誘(おび)きよせるためであつて、たしかに彼の想像したごとく、篠田は彼の家を訪れたらしかつたが、彼がひそかに帰宅して見ると、意外にも篠田は居らずに細君が自殺して居たので、すつかり計画が狂つた訳である。従つて、彼が新たに篠田を殺す計画を立てたのは、当然のことゝいふべきであつた。

 彼は篠田のやうな卑しむべき人間を殺して自分も、それがために命を失ふといふことは堪へられないと思つた。で、彼は、何とかして、痕跡を残さぬやうに、換言すれば自分が殺したといふことが探偵たちにわからぬやうに篠田を殺したいと願ふのであつた。従つて、彼の殺人計画は容易ならぬ苦心と考慮とを必要とした。
 そればかりでなく、彼の殺さうとして居る篠田は、実に狡猾極まる男であつた。実際、その悪智慧の発達した点に於ては、彼は到底篠田の敵ではなかつた。彼の細君も、要するに篠田の巧言と奸智のために不倫の汚名を残すに至つたといつてよかつた。だから、岡村が篠田を殺す計画を立てゝだんゝゝ(※2)焦燥を増して行つたのも無理はなかつた(。)(※3)
 彼は、先づ如何(いか)なる手段をもつて篠田を殺さうかと考へた。細君のやうな繊弱な人間ならば、絞殺して置いて、縊死したやうに見せかけるといつたやうな手段を講じ得ないとも限らぬが、篠田は彼よりも膂力がすぐれて居たので、絞殺は到底不可能のことゝ思はれた。
 そこで次に彼は毒殺ではどうであらうかと考へて見た。然し、毒殺をするには、当然篠田に馴れ馴れしく近づいて、共に食事でもとり、ひそかに食物の中へ毒を投じなければならぬが、かうした関係になつた以上、篠田は決して打ち解ける筈がなく、又たとひ首尾よく毒殺を遂げても、死骸が解剖されて死因がわかれば直ちに嫌疑を受けねばならぬから、毒殺は、彼の計画には不相応なものであつた。
 して見ると、もう残つて居る普通の手段といへばピストルか短刀かである。ピストルはその音によつて発覚し易いから、どうやら短刀による刺殺が一ばん適当して居るやうに思はれた。即ち篠田が夜分外出するを待ち、人の居ないところで突然躍りかゝつて、その心臓部を刺し、そのまゝその場から逃げてしまへば、一ばん簡単で、一ばん効果の多い方法であらうと思はれた。
 かう考へると岡村は、はじめて、先日来の焦燥の念が静まつた。そこで彼は、かねて秘蔵して居た白鞘の短刀を懐にしのばせ、毎夜篠田の家の附近に出かけて篠田の外出するのを待ち受けた。

 ところが、悪賢い篠田は、早くも、岡村が自分を殺す計画を立てゝ居ることを感知したのか、夜分は家に引こんで、ちつとも外出しなかつた。時として、岡村は寒い冬の夜を、マントに身をくるんで、手足が凍えるほどであるのをかまはず、遅くまで、見張つて居ることもあつた。かつては夜の外出をこの上もなく好んだ篠田が、ふつつりと外出しなくなつたのは、どうしても、殺されるのを恐れて居るとしか思はれなかつた。
 岡村は又もやだんゝゝ(※4)いらゝゝ(※5)して来た。彼は遂に篠田を殺さなくては、自分が死なねばならぬと思ふほどの苦しさを覚えるに至つた。篠田が生きて居る間は、自分は決して安らかな日を送り得ないと思つた。けれども、篠田は、いくら待つても夜分外出しなかつた。恐らく、そのうちには、篠田も堪へられなくなつて外出するにちがひなからう。篠田が夜のカフエーを好む程度は猫が鼠を好む程度よりも甚だしかつたから、今暫らく辛抱強く待つたならば屹度機会が得られるであらう。とは思つて見ても、岡村のもどかしさは日にゝゝ(※6)まさつて行くのであつた。
 いつそ、彼は篠田の家をたづねて、直接篠田に逢はうかとも思つたけれど、それでは罪の発覚を蔽ふ術もないし、又、よく考へて見れば、篠田がすなほに自分に逢つてくれさうにもなかつた。
「どうしたらよからう。どうしたら篠田を殺すことが出来よう。」
 この問題は、今や、岡村の覚醒時間中、否、時としては睡眠中にまで、彼の脳細胞を刺戟して、彼の心を刻一刻と憂鬱ならしめた。さうして彼は殆んど機械的に、毎夜、重たい足を引摺つて、篠田の家を見張るのであつた。
 ところが、彼のこの熱心は遂に酬ひられた。ある夜、篠田は遂に外出したのである。が、篠田の家を出たのは、篠田一人ではなかつた。即ち、彼が物蔭に佇んで様子を覗つて居ると、篠田は一人の友人らしい男と一しよに彼の家を出たのである(。)(※7)
 彼は覚られぬやうに、出来るだけ二人に接近したが篠田と連れ立つて居る男の顔を見るに及んで(、)(※8)彼は驚きのあまり、危ふく叫び声を発するところであつた。といふのは、その男は、篠田と仇敵の間柄なる浅川であつたからである。
 浅川が篠田をにくむ程度は、彼が篠田をにくむ程度の数十倍数百倍であるといつてよかつた。どういふ理由があるのか、それは浅川と篠田のみの知つて居るところであつたが、浅川はいつも篠田を機会があれば殺してやると宣言し、篠田も同じ言葉をもつて浅川に酬ひたほどの仲であつた。その二人がいま打連れ立つて歩くといふことは、何か重大な理由があるにちがひないと岡村は思つた(。)(※9)
 けれども、よく観察して見ると、二人はいかにもなれゝゝ(※10)しく語り合つて、恰も年来の親友でゞもあるかのやうに、人通りの多い街をゆるやかな歩調で進んで行つた。
 この新しい謎に出逢つて、岡村は、一時自分の使命を忘れ、二人が、どういふ理由で、再びあんなに親しくなつたかを考へて見た。けれども、それは容易に解ける謎ではなかつた。
 やがて二人は篠田の行きつけのカフエーにはいつた。岡村はさすがにはいりかねてガラス窓越しにぬすみ見ながら、彼等の出て来るのを待つて居たが、程なく出て来た二人は、一旦やはり相連れ立つて篠田の家にかへり、浅川は入口で篠田と別れて帰つて行つた。
「はてな。」
と、岡村は考へた。
「ことによつたら、狡猾な篠田は、甘言をもつて浅川を釣り寄せ、ひそかにわが身を保護させて居るのではあるまいか。」
 この考(かんがへ)は果して間違つて居ないらしかつた。といふのは、その後、篠田が外出するときには、必ず浅川が一しよに連れ立つことになつたからである。

 一人でさへ殺しにくいのに、まして二人居るところを殺すことはとても成功しさうにない。
 かう思つて岡村は殆んど絶望に近い焦燥を感じた。けれども、篠田を殺さうといふ脅迫(※11)観念は、反対にますゝゝ(※12)膨脹して行つた。
「さうだ。自分は篠田を殺して自分だけ生き残らうとしたからいけないのだ。篠田を殺して自分も死ねば、何もそんなにいらゝゝ(※13)する必要はないではないか。」
 かう決心すると、彼の心の不安は拭うやうに除き去られた。それと同時に、短刀をもつて篠田を殺すよりもピストルをもつて殺す方が容易であると思つた。といふのは、短刀ならば、篠田のそばへ寄らねばならず、傍へ寄れば浅川に邪魔される憂(うれひ)があるけれど、ピストルならばさうした憂がなくて、安全に篠田を殺すことが出来るからである(。)(※14)
 その代り、ピストルを使用するには熟練を要する。けれども一心になつて練習すれば、訳なく上達し得る筈である。
 そこで岡村はピストルを買つた。それはブローニングと称する便利な自動連発式であつた。彼はこのブローニングをもつて、射撃の練習を始めたが、熱心といふものは恐ろしいもので、僅かに三日の練習で、彼は二間の距離にある、直径一寸の的を、百発百中射抜くことが出来た。
 岡村がピストルを懐に入れて喜び勇み乍ら篠田の家を見張りに行くと、運命といふものは不思議なもので、丁度その夜篠田は例の如く浅川と共に外出するところであつた。
「今夜こそは、彼を殺すことが出来るのだ。」かう思ふと、彼の心臓は高鳴りを覚えた。が、次の瞬間、
「自分も死ぬのだ。」
と考へたとき、突然、暗い気持が心の一隅に起つた。
「いけない、いけない。」と、彼は強ひて力づけた(。)(※15)
「どうせ自分は生きる甲斐のない身体ではないか、篠田を殺して自分も死ねば、それで本望ではないか。」
 われとわが身を鼓舞しながら、二人の跡からついて行くと、二人はやはり、いつものカフエーにはいつた。その夜は殊更に寒い風が吹いて、あまり外出する人もなかつたゝめか、カフエーの中には篠田と浅川の外に客が居なかつた。
 岡村は暫らく立ちどまつてガラス窓越しに様子を覗つて居ると、二人は一ばん奥のテーブルに対座して、女給にコーヒーを命じた。それから女給がコーヒーを持つて行くまでの間、岡村の心は異様に緊張した。やがて演ぜらるべき惨劇の光景を胸に描いて、一種の嘔気をさへ催すに至つた。
「しつかりしなければいけない。」
 決然としてカフエーの中にはいつた岡村は、篠田を目がけて、まつ直ぐにテーブルの間を進みながら、右手にブローニングを差し上げてつかゝゝ(※16)と近寄つた。
 と、その時である。篠田は、岡村を見てつと立ち上つたが、同時に厳粛な顔をして浅川を指して言つた。
「岡村君、君は僕を殺しに来たのだらう。然し君(、)(※17)君が奥さんを絞殺するのを見たのは、僕ではなくて、この浅川君だよ!!」
 これをきいた刹那、はツと理性を失つた岡村は(、)(※18)篠田に向けて居た銃口(つつぐち)を浅川に向けるなり、思はずも引金をひいた。

    ×     ×     ×

 轟然たる響と共に浅川が悲鳴をあげてたふれると、はじめて岡村は我に返つたが、その時、すでに篠田の姿は見えなくなつて居た。さうして、狡猾な篠田の言葉に、一石二鳥の恐ろしい奸計が含まれて居たといふことを、本当に了解し得ない前に、彼は銃口(つつぐち)を自分の胸に向けて再び引金をひいた。(をはり)

(※1)原文句読点なし。
(※2)原文の踊り字は「ぐ」。
(※3)原文句読点なし。
(※4)原文の踊り字は「ぐ」。
(※5)(※6)原文の踊り字は「く」。
(※7)(※8)(※9)原文句読点なし。
(※10)原文の踊り字は「く」。
(※11)原文ママ。
(※12)(※13)原文の踊り字は「く」。
(※14)(※15)原文句読点なし。
(※16)原文の踊り字は「く」。
(※17)(※18)原文句読点なし。

底本:『文芸春秋』昭和2年3月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1927(昭和2)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(公開:2015年2月4日 最終更新:2015年2月4日)