「もうぢき、弘（ひろむ）ちやんが帰つてくるから、さうしたら、病院へつれて行つて貰ひなさい。」
由紀子は庭のベンチに腰かけて、愛犬ビリーの眼や鼻をガーゼで拭つてやりながら、人の子に物言ふやうに話すのであつた。
「ほんとうに早くなほつてよかつたわねえ、お昼には何を御馳走してあげませうか。」
ビリーはまだ、何となく物うげであつた。彼は坐つたまゝ尾をかすかに振るだけであつた。呼吸器を侵されて、一時は駄目かと思はれるほどの重病から、漸く恢復したことゝて、美しかつた黒い毛並も艶を失つて、紅梅を洩れる春の陽に当つた由紀子の白いきめ（※1）を見た拍子に、一層やつれて見えるのであつた。
「これでいゝ。どれ、見せて頂戴、まあ、綺麗になつたこと。」
拭き終つた由紀子は、かう言ひながらガーゼを捨てゝ、エプロンのポケツトから、ビスケツトを取り出してビリーに与へた。ビリーは、あまへるやうにして、由紀子の股（もゝ）に、咽喉のあまりをぴつたりつけて食べるのであつた。
由紀子は暫らくの間、自分もビスケツトを食べながら、一度は傷いたことのある肺臓へ今はふつくりとした胸壁を上下させながら、春の空気を思ふ存分呼吸した。弟の弘と二人暮しの閑寂な生活で、ビリーは自分の愛児のやうになつかしかつた。
「弘ちやんは遅いのねえ、きつとまたどこかへ寄り道をしてくるのよ。悪い人ねえ。」
突然、ラウドスピーカーが昼間演芸の放送をはじめた。零時十分なのだ。
「さうゝゝ（※2）、お薬をのまなけりや、ちよつと待つていらつしやいよ。」
彼女が膝の塵をはたきながら立ち上ると、ビリーは、どたりと腹を地に据ゑて、前脚をつき出した。
前の放送の終つた頃にのませるべき筈だつたのを、うつかりして居た責任感から、由紀子はあわてゝ縁側にかけ上つた。さうして、ラヂオセツトの前に来ると、ビリーの薬袋はどこへ行つたか見当らなかつた。
「放送が始まつたら、ビリーに薬をやることにしませう。さうすりや、いくら忘れつぽい姉さんでも大丈夫だらうから。」
ビリーが病気にかゝつた時、弘はかう発議して、いつも、薬袋を其処へ置くことになつて居た。その薬袋がないのである。由紀子は暫く考へて居たが、
「さうゝゝ（※3）、今朝弘ちやんが、楊枝をつかひながら嚥ませて居たから、……さうかも知れない。」
独り呟き、独りうなづいて、彼女は階段を上りかけたが、突然中途で、釘づけにされたやうに立ちどまつた。二階へあがつて弘の部屋にはひつても、部屋へはひつたといふことが知れてはならなかつたからである。弘には妙な癖があつて、彼女がたまゝゝ（※4）留守中に部屋へはひるとあとで弘は、襖の閾に線を引いて置いたが、それがちがつた位置になつて居るとか、硯箱について居た指紋が僕のとちがふとか、蜘蛛の巣が破れて居るとか、書物の置き方が乱れて居るとかいつては、由紀子をなぢるのであつた。
「あなたのお部屋にはどんな秘密があるの。」
ある時由紀子がたづねると、
「なに、秘密なんかあるもんですか。たゞ、あの部屋は僕のオアシスです。それに塵（ほこり）つぽいから姉さんの呼吸器に毒です。」
と、弘は答へるだけであつた。
かうした訳で、久しく由紀子は弘の部屋を訪れなかつたが、折角治りかけたビリーの薬が遅れても困るので、思ひ切つて階段をあがると、彼女は八畳の隣りの弘の部屋の襖を何の躊躇もなくすーつとあけた。
「まあ、きたないこと！」
由紀子は思はず顔をしかめた。部屋の中は足を踏み立てるひま（※5）もないほど乱れて居た。机と火鉢と座蒲団が一所（ひとゝころ）にかたまつて、其の周囲には、書籍だの新聞だの雑誌だの、紙屑だのが、無茶苦茶に放り出してあつた。「大へんなオアシスだこと！」かう呟いて由紀子は吹き出したくなつた。鴨居の上には二段にして、くるりと四方へ、種々雑多な煙草の空箱が積みならべてあつた。突き当りの袋棚の下の縁（とこ）板の上には夜具が敷きつ放され、唐草模様の更紗のカーテンが半分ほど引かれてあつた。
由紀子は入口の閾に棒立ちになつたまゝ、暫らく室内を見まはしたが、やゝあつて、薬袋を本箱の上に見出したので、爪先ではひりながらなるべく歩かないやうに、白い腕をのばして取りあげた。
すると、ちやうど、その下の、スクラップブックにしては小さ過ぎる、黒鞣皮（くろなめしがは）の表紙の本に目がとまつた。由紀子はふと好奇心に駆られてその表紙をはぐと、
「犯罪の魅力は生命の魅力にまさる。」と、筆太に記され、次の新聞の切抜が貼られてあつた。
火薬爆発して生命危篤
愛猟家の奇禍
三日午後六時頃府下大崎町桐ヶ谷×番地無職近藤進方にて轟然たる音響が起り同時に窓より朦々たる白煙の噴出するを通行の者が認め直ちに駆け附けたるに同家の主人にして愛猟家たる近藤進（三〇）は全身に大火傷を蒙りて書斎の床上に打ちたふれ苦悶中なりしをもつて即刻附近の医院に昇ぎこみて応急手当を施したるも顔面及び上半身は火薬の爆発によりて目も当てられぬほどの惨状を呈し生命危篤なり原因その他に就ては目下取調中
火薬爆発は過失と判明
去る三日午後六時半火薬爆発によりて生命危篤に陥れる府下大崎町桐ヶ谷×番地愛猟家近藤進（三〇）は遂に意識を恢復せずして四日午前九時絶命せるが其後原因取調中一時は五ヶ月以前に愛妻を失ひたる厭世自殺ならむかとも疑はれしが右は全く同人の過失にて同日書斎にて猟用二連発銃のケースに火薬装填中過つて爆発せしめしものと判明せり因みに同家は召使ひの老婆と二人暮しにて半年たゝぬ内に重ねゝゝ（※6）の不幸とて附近の人々は至極同情を寄せ居れり
この二枚の切抜に続いて、「犯罪日誌」の四文字が記され、弘の手蹟で、細かな文字が、その後の幾頁かを埋めて居た。由紀子は、今はもうすつかり腰を落ちつけて、吸ひつけられるやうに読みはじめた。
× × × × ×
また犯罪日誌の書けるのが悦ばしい。獄舎の鉄窓（てつそう）をもれる月光のもとに、絞首台の幻影を掻きわけながらペンを走らす犯罪日誌は、本人にとつて聊かの悦びをも齎らさないであらう。然るに自分はどうだ。何の悔恨の情もなく、たゞ喜悦の情のみをもつて、自分の犯した罪をいつもの如くさらゝゝ（※7）と書くことが出来るではないか、悪魔よ随喜の涙を垂れてくれ。
近藤進の過失死が実は他殺であること、而もその犯人がこの自分であることは悪魔のみの知る秘密である。さうして、自分が今こゝにその真相を書き残さなかつたら、永久に知れずに済むであらう。けれども、永久に知れずに済ますにはあまりに惜しい。俗謡に、「知れちやいけない二人の仲をかくして置くのも惜しいもの」とある、その心理で、今囘もまた自分はこれを書き残すのだ。
近藤進と自分とはまつたく路傍の人であつた。それだのに何で自分が彼を殺す気になつたのか、直截（ちよくせつ）に言へば彼の鼻である。彼の鼻が自分の気に喰はなかつたからである。それでは彼の鼻のどこが自分の気に喰はなかつたのか、それはいまだに自分にもわからない。別に彼の鼻がずばぬけて大きかつたのでもなく、また低過ぎたのでもない。曲つて居たのでもなければ、仰向いて居たのでもない。けれども私は、はじめて彼に道ですれちがつたとき、思はずもぞツと身ぶるひした。つまり、全体の感じが悪かつたのだ。さうしてこの鼻を滅ぼさなければ、到底自分は生きて居られないと思つた。だからその瞬間に彼を殺すことに決心して、彼のあとをつけて行つたのである。
それから自分は彼の生活状態を熱心に研究して、彼の家にはしのび入り易いこと、彼は老婆と二人きりで暮して居ること、彼が愛猟家で書斎で火薬の装填を行ふことなどを知り、自分はすばらしい殺害計画を思ひついたのである。さうしてその後はたゞ時機を待つて居るばかりである。
三日――委しく言へば十二月三日の午後、自分は例のごとくぶらゝゝ（※8）歩きながら近藤進の家の方へ向つて居た。夕ばえが西の空をオレンジ色に染めて、雀が忙しさうに啼いて居た。すると、道辻にある餅菓子屋から五六軒行き過ぎたところで、前方からあたふた小走りに走つて来る老婆に出逢つた。見るとそれは近藤方の召使ひである。彼女は魚屋の前へ来て立ちどまると、
「今、使が来て、娘が急に産気づいたと知らせに来たからちよつと行つて来るが、家にはちやんと錠をかけて来たけれど、若し旦那様がこゝをお通りになつたら、そのことを話してくれないかね。」
「そりやお目出度いな。あゝいゝとも。」
「六時頃に千葉から御帰りになる筈だ。頼むぜ。」
「よし、よし。」
魚屋の主人は大きくうなづいた。
この会話をきいた時、自分は待ちに待つた機会が愈々到来したことを知つた。自分は急ぎ足で彼の文化住宅に近づき、やがてこつそり家の中へしのびこんだ。幸ひにどの窓にも厚いカーテンがおろされて居て、あたりは既に暗かつた。自分は安心して仕事にとりかゝつた。
先づ物置から火薬入りの鑵を取り出して薄暗い電燈のついて居る勝手元に置いた。それから書斎のドアを開いた。入口の、扉のあたる柱の内側に電燈のスヰッチがあつた。然し自分はあかりをつけないで絨毯の床を手さぐりで中央に進み、そこに置かれてある机の上の台附電燈（スタンド）のスヰッチを捻つて絶縁させた。これで電燈をつけるためには二重の手数を要する訳である。それから電燈を取りはづして勝手元に引きかへし、検べて見るとそれは、いつものとほりの艶消し瓦斯入りの、一〇〇ボルト六〇ワットの電球であつた。直ちにポケットから鑢を取り出して先端をこすると、間もなくビュンといふ音がした。
直径四ミリメートル位の、即製の孔に眼をあてゝ、自分は電球の内部をのぞいて見た。そこには、曇り硝子張りのドームを持つ建物のやうに美しい柔かな感じの世界がぼかし出されて居た。あらい蝙蝠傘の骨を張り拡げたやうな吊子に、ピアノの鋼線に似た繊条が、細い銀蛇のくねりのやうに、厳めしい硝子棒と日本の銅柱に押しあげられて居る。小さいけれども、詩の国のやうなこの荘厳を蹂躙するのは、人を殺害するよりも遙かに惜しい気がした。
はツと私は空想の世界を去つて、鑢をポケットに押し入れるなり、紙の漏斗を製つて、火薬を電球の中へ注入しはじめた。罌粟粒よりも微少な鉛色の火薬が、砂時計が時を刻むやうに乳白の電球の中へさらゝゝ（※9）と流れ込んだ。さうして、次第に口金の方から火薬が流れ込むに従つてだんゝゝ（※10）鼠色に染め上げられて行つた。さすがに一二度電球を持つ手が顫へたのを覚えて居る。
遂に火薬は充填された。鼠色の重たい爆裂電球は出来上つた。それを運ぶとき心臓が妙な搏ち方をした。若しあやまつて落したらそれこそ自分が死なねばならぬからである。でも幸ひにして、自分は注意深く書斎に達し、もとのソケットへはめこんだ。さうしてなほ念のために、火薬の鑵の蓋を開いて、台附電燈（スタンド）のむかう側に置いた。これで自分の計画は終つたのである。
戸外に出ると、もう真闇（まつくら）であつた。自分は近藤進がこの計画によつて殺される姿を想像しながら、星あかりの道をあるいた。進が帰宅して書斎のドアを開き、入口のスヰッチを捻る。電燈が点じないので、つかゝゝ（※11）と中央の机に近づいて台附電燈（スタンド）のスヰッチを捻る。それで万事は終るのである。電球はシエードに蔽はれて居るし、まさか電球が爆弾に変化して居らうとは、どんな人間だつて気のつく筈がないから、彼を殺すことに間違ひのないと同じに、他殺の計画を見破られることも決してあり得ないのである。かくて、近藤進を除くことが出来、あの鼻を永久にこの世から消し去つて、はじめて自分は安心して生活することが出来るのである。自分は晴れやかな気持になつて家に帰つた。
けれども新聞を見るまではさすがに案じられた。電球一ぱいの火薬がどれほどの威力を持つかは未知数であつた。ところがあくる日の新聞は自分の予想を裏切らなかつた。さうして、過失死と断ぜられて事件は落着した。自分は永久に安全地帯に置かれたのである。
エドガー・アラン・ポオの小説を読むと、他人の眼を忌んで殺人を行ふ話がある。けれども鼻を忌んで殺人を行つた人間は古往今来自分一人であると思ふ。さうしてその珍らしい動機にふさはしい方法で殺人を遂行したことは、あの鼻を除いた以上に自分に得意の感を与へてくれた。
かうしてだんゝゝ（※12）犯罪をかさねて行くうちに、若しや自分は面白さのあまり自分の姉さんまでも殺してしまひはしないかと不安に思ふ。近頃何となく、姉さんの腕の白過ぎるのが気になり出して来た。早くこの邪念が去つてくれたらと、なるべく姉の腕を見ぬやうにつとめて居るのである。
× × × × ×
読み終つた由紀子は、眩暈を感じてその場に膝を折つた。さうして思はずもその本を落して、袖をもつてその白い腕を蔽つた。見るゝゝ（※13）うちに頬の血が去つて、瞳がどんよりと曇つた。弘の性質、行動、その他百千のことが頭にうづをまき、たゞ怖ろしい感じのみが残つて彼女の全身を戦慄させた。
突然、ラウドスピーカーから、明快なメロヂーが流れた。それと同時に階下に口笛の音がした。
「姉さん――姉さん。」
由紀子は返事が出来なかつた。
トン、トン、トンと、軽快にあがつて来る弘の足音が続いて起つた。由紀子はあわてゝ立ち上つた。
「姉さん、おや、こんなところに居たね。ビリーに薬をのませてくれた？」
「いま、とりに来たところよ。」
やつとこれだけ由紀子は言ひ得た。
「おや、大変顔色がわるい。どうしたんです。」
由紀子は弘が快活であるだけ、それだけ怖ろしい気がした。
「もう直き、弘ちやんに殺されなければならぬから。」
「あはゝ。」と弘は、由紀子の前に落ちて居る「日誌」を見て笑つた。「見てしまつたね。少し薬がきゝすぎましたか。」
「え？」
「では……」
「それは僕の薬ぶくろですよ。」
「…………？」
「といつてはわかりませんか。而もあき（※14）袋です。僕の病気は普通の薬では治らないのです。薬をのむ代りに、そこへ書くのです。つまり安全弁です。姉さんだつて、時々涙をこぼして日記を書くぢやありませんか。書いてしまへば心の病気はけろりと治るでせう。それです。この薬袋のある間は、僕は殺人もしなければ発狂もしません。たゞ姉さんの腕の白過ぎるのは気になるけれどね。」
由紀子の頬はあかく染まつた。弘はビリーの薬袋をつかむなり、呆気にとられた姉を残して、階下へ走り降りて行つた。（了）
（※1）原文圏点。
（※2）（※3）（※4）原文の踊り字は「く」。
（※5）原文圏点。
（※6）（※7）（※8）（※9）（※10）（※11）（※12）（※13）原文の踊り字は「く」。
（※14）原文圏点。
底本：『文学時代』昭和4年5月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1929（昭和4）年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録（小説の部）」
（最終更新：2015年4月1日）