インデックスに戻る

あら浪 第八十回 平安

不木生

 利吉が、客と言つたのは、木村篤司と井上時雄の二人である。
 警察に願つても、待ち遠しかつたによつて、二人は遂に捜しに出懸けた。隅田川の上流に違ひなからふと、夜通し尋ねたが、丁度朝になつて、利吉に聞いて見たら、斯く斯くの様子を語つたので、其れこそと、利吉に伴はれて、槙林を這入つた。
 田舎の朝は、此の上もなく静かであつて踏む土の色にも、太平の俤がしのばれた。飛び石が不規則にならんで、夜来の露に濡れて居た。家の中から煙が押し出されて、其の端(さき)が花壇を襲ふのも見棄て難かつた。
 途中、時雄は篤司に、芳江が友人大村の為に撃たれて、逮捕せられた事を物語つた。篤司は羽織、時雄は洋服を着て、二人共、中折帽を頂いて居た。
 篤司は家の中に入り、時雄は、小用を達しに出た諦覚と出逢つた。
「あれ、日本橋の叔父様が」とお清は篤司を一目見るなり驚いて叫んだ。
「お清さん、これは、まあ御世話だつた!」と雪子の傍に来て、
「雪さん! 無事であつたか」と言つたばかり。
「叔父様、許して下さい!」と雪子は俯向いた。
 戸外では時雄が、
「叔父さん、やあ、」と、こんな所で逢へるとは夢にも思はぬ。(※1)いや又、逢へる(※2)の語(ことば)を思ひ出す余裕も無かつた。
「時雄くんか、これはどうして」とあまり不思議なのに、物も言へずして佇立(ちよりつ)した。
「雪さん、勝清を殺した女は、既に逮捕せられた!」
「まあ、奥様! 怨みは晴れました」
「朝鮮で、御前の兄さんの友人が、野猪(しし)と間違へて撃ち当てたのだ!」雪子が顔を挙げると同時に、「御前の兄さんは今、私と一緒に……」
「え? まあ、あの」と雪子が、
「兄様が」とお清が言つた。
「妹の危急を知つたものですから、尋ねて来ました」と時雄は諦覚に説明して「貴方はまた、如何(どう)して此所へ?」
「それは後で話す、雪子は無事で居る!」
「妹は無事ですか」となほも念を入れる。
「待ち焦がれて居るぞ!」
 この時篤司の声で、
「井上さん! 井上さん!」
 時雄はすでに閾を跨いだ。
 三人は一斉に時雄の姿を見た。靴を脱ぐのも焦燥相(もどかしさう)に、帽子を上り端(ばな)に棄てゝ、畳の上に乗つた。
「井上さん、これが貴方の妹御だ!」と雪子を指した。其の時、凡ての人の眼には、涙が一ぱいに充ちて居た。
 諦覚も、利吉も上つて来た。
 時雄と雪子は、無言で顔を見合せた。時雄は立つて居る。雪子は坐つて仰向いて居る。
 あゝこの瞬間!
「妹!」と時雄は矢庭に雪子を抱いた。
「兄さん!」
「よく生きて居て呉れた」
「はい」と言ふ声も幽か、
「逢ひたかつた!」
 一座の人は悉く、嬉し泣きに涙を啜つた、
 荒なみはか様に平安に帰した。
 うらゝゝ(※3)と日は昇つて、葉末の露は真珠の様に輝き渡つた。(大団円(おはり)

(※1)(※2)原文では二重括弧。
(※3)原文の踊り字は「く」。

底本:『京都日出新聞』明治44年5月23日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年1月19日 最終更新:2009年1月19日)