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あら浪 第七十八回 叔父さま!

不木生

「私はお前の父傳蔵の実の弟ぢや。不思議な縁で逢ふ事が出来た」
「まあ、そうで御座いますか」と半信半疑の眼(まなこ)を以て諦覚を見た。
 雪子は先程より先夜の夢を思ひ出して居た。今また諦覚の姿が、夢で見た父と少しも異なつて居ないのに驚いた(。)(※1)
 丁度母の廣子が飛び込んだ河は、隅田川に似て居た。然し場所(ところ)は自分の嘗て行つた事のない朝鮮であつた。先程お清の口から朝鮮といふ言葉を聞いて不思議に思つた所へ今また諦覚の姿を見て、更に驚いた。それから自分が飛び込まうとした時お清の夫ではなくてお清自身に抱き止められた。続いてお清に伴はれて、とある家に入つた。其の家の恰好と云ひ、花が庭に咲いて居る体裁といひ、丸で其儘そつくりである。剰(あまつ)さへ、あの時、お清は待つて居る人があると言つた。それは即ち父であつたが、今は鬚の生へ工合までも父と似て居る其の人が我が眼の前に、而も父の弟だと言つて名乗つたではないか? たゞ事の奇異なるに胆を潰して、雪子はなほも諦覚の口元を眺めた。
「云ふも恥かしい話ぢやが、私は若い時に放蕩をした。それが為に兄には少なからぬ厄介になつた。最後に兄に逢つた時、御前が生れたばかりで、お前の兄の時雄君が、四歳(よつつ)であつた。其から私は心を替へて、今の様な旅僧の身分となり、お前達には一度も逢はなかつた。ところが先日谷中の墓地で、お前が父の墓に参詣して居た。私も丁度其の時、先祖の霊に告げようと思つて行つた。そこで、お前が叔父なる人と話をして居た為に、私は物蔭で聞き乍ら待つて居た。お前が傳蔵の子である事も、また藤枝勝清氏の妻である事も叔父さんとの会話(はなし)や、其の外の事から知れた、私はお前に逢ひたくはあつたが、何だか、時節が到来して居ない様に思はれたから、無事でさへ居たら、何時でも逢はれる事と、お前に告げたい事があつたけれども少(しば)らく機会(をり)を待つて居たのぢや」
 語調と云ひ、音声と云ひ、夢で聞いた父の声と少しも変る所がなかつた。再び夢を辿り帰るのかと、雪子は一言(ごん)も発せずして俯向き勝に諦覚の語り草を聴いた。
 諦覚は雪子の思ひを察して、
「雪さん、お前に知らせたいと言ふのはお前の兄の時雄君の事ぢや!」と更に語(ことば)に力を添へて、
「実は私が先日、朝鮮へ渡つて行つた其の折、私は偶然時雄君に見附けられて、そして話を色々したのぢや、三時間ばかりで、其儘別れて了つたが、時雄君は妹に逢ひたい逢ひたいと言つて居た。それで此頃、お前を知つてから、直様、お前が無事である事を報じて置いた。時雄君は屹度喜んだ事と思ふ。生き返つて呉れて誠に、時雄君への私の面目も立つ。」
 熱心に聞いて居たお清は、
「奥様! 兄様は、もう疾くに、貴女の事を知つてお在(いで)になります!」
 夢の中で、父は兄に逢はせて遣らうと兄を呼び出して呉れた。今、此処に於て、諦覚は兄上の事を語つた、兄上は仮(よ)し朝鮮に居られても、もうかうなつた上は逢つたも同じ事である。すると愈(いよいよ)、先夜の夢が不思議である。現在のこの場が夢であつて、先夜の夢が現実であるか、今は全然(すつかり)判明(わか)らなくなつて了つた。けれども夢ではない、お清も居れば諦覚も居る。而も自分の頭脳は清々として来た。
「叔父さま!」と叫んだ声は、艶を帯んで居た。
「嬉しう御座います!!」

(※1)原文句読点なし。

底本:『京都日出新聞』明治44年5月21日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年1月19日 最終更新:2009年1月19日)