「奥様、御可愛(おいと)しう御座います」とお清は雪子の顔を、つくゞゝ(※1)と眺めて言つた。
「お清さ、私は悲しかつた。」と窶(やつ)れた顔に更に、悲観の色を附け加へた。諦覚も何となう悲しい思ひに誘はれた。
「奥様、御気分は如何(いかが)で御座いますか」と枕元に置いてある薬罎を見て、尋ねた。
「御蔭でもう……」といふを打消して、
「一たい、此度(こんど)の事は、如何(どう)いふ理由(わけ)で御座いますか?」
「お清さ!」と言つた儘、顔を下に向けた、(※2)熱い涙が頬(ほほ)を伝つて、蒲団を湿(しめ)した。お清も共に泣いた。
「旦那様は」とホツと息を切つて、「あの女に、こ、殺されて了(しま)つて」
「え? 奥様!」
「そればかりか、御母(おつかあ)様は、それが原因(もと)で翌(あ)くる日亡くなつて……」
「ま、奥様! まあ、本当で御座いますか」
と仰天した。
諦覚も更に驚いた。
「奥様、御察し致します」とお清が言ふを待たず、
「叔父様が………」
この時、諦覚はびくとしたが、自分の事で無いと知つて、雪子の言(ことば)に耳を傾けた。
「色々と親切にして下さつて、何もかも、皆(みん)な、御世話をして、私にも、よくゝゝ(※3)言つて下さつたが、どう考へても、生きては居られぬと思つたで」と一息して、「とうゞゝ(※4)、この様な厄介になつて、お清さ、よくも介抱してくれたね―、生れた子は…」
「はい、半産で御座いました」
「そう?」と深く考へて、「何から何まで、骨を折らせて」
「そんな事は、奥様!」と制したが、雪子の口から、旦那様と、御隠居様の事を聞いてお清の胸は乱れ果てた。ありとあらゆるこの出来事が、皆(みん)なあの憎んでも飽き足らぬ女の為と、いふにいはれぬ念(おもひ)が群がつた。嘗て雪子の前で「喰(くひ)附いてやりたい程で御座います」といつた事が、今は寸切々々(ずたずた)に裂いて、焼いて了(しま)つても腹が癒えぬ様に覚えた(。)(※5)
利吉は一挺の鍬を肩にして出て行つた。朝飯前に田面(たのも)を廻つて来るのが、この男の習慣であつた。
姑が朝餉(あさげ)の用意をするので、煤びた梁を伝つて、白い煙が、台所の方へ流れて来た。戸外(おもて)では、葉末(よずえ)の露が、はらゝゝ(※6)と朝風に揺られると、雀が先を争つて囀(さへづ)つた。
「お清さ、私は幸福(しあはせ)が悪かつた……」
と何か言はうとして止めた。
「叔父様にも黙つて、こんな事をして、屹度怒つてお在(いで)になるわ!」
「いえ、奥様、叔父様は貴女の事をよく御存じですから……………」
「けれど、どうしても忘れられぬのは、兄様(にいさま)の事だわ、天にも地にも便(たよ)る人は兄様(にいさま)より外はないわ、けれど……」
「奥様、」と雪子の言葉を遮つて、「兄様(にいさま)は、御達者で御在(おいで)になります!」と力強く言ひ放つた。
「達者だか、わからぬわ!」
「いえ、奥様、無事で御出(おいで)になります」
「……………」
「兄様(にいさま)は、今朝鮮に見えます!」
朝鮮! 朝鮮! 思ひ当る事がある(。)(※7)
「如何(どう)して知つて居るの?」と半ば疑ひ、半ば嬉し相に問ひ返した。
「此方(こなた)が証拠人で御座います! 奥様! 此方(こなた)は、貴女の実の叔父様で御座います!」
「え?」と雪子は寝返つて、諦覚の制するをも肯(き)かず、蒲団の上に座つた。
(※1)原文の踊り字は「ぐ」。
(※2)原文ママ。
(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)原文の踊り字は「ぐ」(原文ママ)。
(※5)原文句読点なし。
(※6)原文の踊り字は「く」。
(※7)原文句読点なし。
底本:『京都日出新聞』明治44年5月20日(第4面)
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(リニューアル公開:2009年3月23日 最終更新:2009年3月23日)