姑が頼んで呉れた村の医者は来た。六十ばかりの老翁(ぢい)さんであるが、「もう大丈夫」と明言した。諦覚(たいかく)もお清も少なからず喜んだ。
カンテラの火はゆらゝゝ(※1)と動いて、煙にまかれて、蚊が飛んで居るのが見えた。医者はたゞ静かに寝させて置くが好いと言つたのでお清も今は口を噤んで居た。
利吉が傍に来て、団扇でぱたゝゝ(※2)と其の近辺(あたり)を翻(あふ)つた。佇み乍ら、
「お清や、此の方が、奥様の叔父様だ!」諦覚を指して言つた。
「まあ、そうですか」とお清は始めて気が附いて、兎も角も二人は御辞儀を為(し)合つた。
「蚊帳を釣つて上げたらよからふ」とお清を顧みた。お清は直様(すぐさま)立ち上つて、奥の方から木綿の蚊帳を持ち出して来た。諦覚も手伝つて、四つの手を釣つて、又もや二人は蚊帳の中に、雪子を囲んで座つた。
「どうも不思議な縁で」と諦覚は小声で、お清と語り始めた。彼は其(その)時、法衣(ころも)を外して居た。白衣(びやくい)の姿が、蚊帳の外からも見えた。
「宜い都合で御座いました」と兎も角も言つたが、お清は実際、何が何だか判明(わか)らなかつた。如何(どう)ゆう訳で、叔父なる人が此処へ来て居るのか、早く此の解決がして欲しかつた。
「しますると、貴方様は、奥様の、実の叔父様で御座いますか?」
「如何にも、私は雪さんの父の弟ぢやが」
雪子は兄の事を言つても叔父の事は少しも語らなかつた。であるからお清は不思議さうに諦覚の語り出すのを見つめた。
「所以(わけ)があつて、私は雪さんの極小さい時分から、かうして方々を巡つて歩いたから雪さんは私の事は少しも知らないであらふ」
「そうで御座いますか、私も奥様からは一度も、貴方様の事を承つた事が御座いませぬでした。たゞ兄様(にいさま)のことばかりを被仰(おつしや)つて御在(おいで)になりましたが……」
「左様か」と感じ入つて、「兄さんの事をその様に申して居たか?」
「兄様(にいさま)に一度、逢(あひ)たい逢(あひ)たいとばかり、仰せになつて見えましたが…………お逢ひになる事が出来ましたか知ら?」
「まだ逢つては居ないだらふ!」
「兄様(にいさま)は、如何(どう)して見えますか、御存じで?」
「今は朝鮮に居る」
「御承知なので」と更に敦圉(いきま)いた。
「達者で居る」
「まあどんなに奥様が御喜びになる事で御座いませう」と雪子のすやゝゝ(※3)と呼吸して居る顔を見た。
「どうして、こんなみぢめ(※4)な事を為(な)さいましたでせう?」とホロリ(※5)と涙を溢した。其(その)原因は推せられて居るが、言ひ出さずには居られないのである。諦覚も胸が迫つた。
「実は今晩、渡し場で、不図(はからず)この有様に出逢つたので、私もある時雪さんを見た事があつたから、誠に驚いた訳ぢやが」
「奥様も、随分心配を遊ばしまして」
「私もかねて、知つては居るが」
「お気の毒様で御座います」とお清は、哀しさに堪え兼ねて、俯向いて了(しま)つた。
話音(わおん)は絶えて静まり返つた。蚊の音(ね)と、勝手の方で、利吉の話し声が聞えた。
其(その)時寝て居た雪子がうーんと言つて「あ痛た、あ痛た!」と寝返りをした。
お清は驚いて、
「奥様、どうなさいました、奥様!」
雪子は勃然(むつくり)と起き直つた。
「あ、痛た!」と俯向いて、腹の方へ手を遣つた。
「痛め(※6)ますか?」と後ろに廻つた。
(※1)(※2)(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)(※5)原文圏点。
(※6)原文ママ。
底本:『京都日出新聞』明治44年5月18日(第4面)
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(リニューアル公開:2009年3月16日 最終更新:2009年3月16日)