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あら浪 第七十四回 奥様!

不木生

 家の中では、少しではあるが蚊の声も聞えた。
 溺れた人は遠火に(※1)(あぶ)るが好いと聞いて居たから、男は母親に願つたので、母親は竈で藁を燃(もや)した。
 男は雪子を横に抱いて、火に翳した(。)(※2)この時雪子は大方水を吐き終(おは)つた。母親はたゞ同情の眼附を以て、若い婦人を見詰(みつめ)た。男は顎にて諦覚(たいかく)を指し乍ら母親に向(むか)て、
「此方(こなた)の叔父様だ」
「まあそうかよ?」と、雪子と諦覚とを見較べ、この珍らしき来客(まらうど)と、事の行きがゝりとに更に一驚して、「これは始めて」と挨拶をした。
 諦覚は慇懃に会釈して、
「飛んだ御厄介になつて」と断つた。
 この時幽かな息が雪子の口から洩れた。
「よし、大丈夫!」とうそり(※3)と笑つた諦覚は嬉し気に、鬚を動かした。
 奥へ着物を取りに行つた女が、この時側に走り寄つた。藁火に照された雪子の顔を見て、
「ま、奥様だ!」と大喝した。三人は一斉に眸を集めた。
「私が御世話になつた麹町のあの奥様!」
「まあ」と母親は殊更に驚いて、
「かゝ様、済まぬけれど御医者様を」と母親に言つて、夫が抱いた雪子の耳に口寄せて、
「奥様、確乎(しつかり)なさいまし、私です! お清です!」
「雪さん! 雪さん!」と大きな声で諦覚も呼んだ。
「もうよし」と、大方呼吸を回復した雪子を見て、男は叫びつゝお清の手から着替を受取つた。(※4)(やはら)かな絹縞が、木綿と変つた。
 軈(やが)て、台所に担いで来て、お清が敷いた蒲団の上に、静かに雪子を横へた(。)(※5)諦覚は雪子の知人がこの家(や)に在るを驚いて、一方心強く思つた。蚊が居るから燻しをかけて行燈(あんど)の灯をかき上げると、カンテラからは油煙が立つた。お清はその後雪子の傍に、諦覚と並び座つて、其処此処と身体を擦(さす)つた。
 お清は、この家に嫁して居るのである。今は姑が一人、亭主が一人、都合三人生活(ぐらし)である。亭主は利吉と言つて、気立が好い。弟が一人あるけれど今は軍人となつて居る、姑もまた雪子が嘗て願つて呉れた通りの性分であつて、親戚でもあるから、時々は我儘を言ふ事もあつた。
 別れる前夜、雪子が諭して呉れた言葉は決して忘れる事が出来なかつた。
(※6)嫁入つてからは、先方の人となるのだから……私を思つて呉れた通りの心になつて、夫を私だと思つて仕へるのだよ、やはり一通りの苦労はある(※7)この通り自分は夫に仕へたが、この言(ことば)の主人公が、眼(ま)のあたりこの憂き目、(※8)女と生れたからは苦労は覚悟で御居(おい)でよ(※9)と呉々も自分に諭して下さつた奥様がか程に苦労をなされた、其(その)原因はと言へば、言はずも知れたあの……
(※10)それでも愚痴は出る。私は何遍つまらぬ考へを起したやら(※11)(ああ)其の思(おもひ)が嵩じて、遂に竟(つひ)にこんな惨い目!、
 お清は今、実際楽しい生活をして居る。それに連れても奥様は如何(どう)なさいましたかと、日頃念頭に絶えなかつた(。)(※12)一度奥様に逢つて、沁みゞゝ(※13)と人の妻となつた後(のち)の種(くさ)ぐさを話したいと願つて居た。
 思ふ通りに望が叶つた。叶つて逢つた。逢つたけれどもこの姿で!
(※14)お清、何時迄も二人は姉妹(けうだい)だよ!(※15)
 万劫を経(ふ)とも、この言(ことば)は消えぬ。勿体ない姉上!
 其の姉上が今はか様に、
「奥様、奥様!」と雪子の正気を呼び起さうと、涙ながらに叫ぶのであつた(。)(※16)

(※1)火偏に「共」。
(※2)原文句読点なし。
(※3)原文圏点。
(※4)車偏+「而」の下に「大」。
(※5)原文句読点なし。
(※6)(※7)(※8)(※9)(※10)(※11)原文は二重括弧。
(※12)原文句読点なし。
(※13)原文の踊り字は「ぐ」。
(※14)(※15)原文は二重括弧。
(※16)原文句読点なし。

底本:『京都日出新聞』明治44年5月17日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年3月16日 最終更新:2009年3月16日)