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あら浪 第七十回 死んでは居ない

不木生

 雪子の遺書(かきおき)と事実とが、如何(どう)も合点(がつてん)が行かぬ。勝清の死んだ事を知つて居るとはと、
「貴方は何処に御在(おいで)になりましたか?」
 不審の眉を顰めた。
「朝鮮に居りました」
「勝清の死んだ事が、よくわかりました!?」
「はい、一寸した事から知れましたので、遽(には)かに尋ねて来ました、妹は無事で御座いますか?」と気が揉めた。
「井上さん! 御話は是ですと」(※1)折り畳んだ手紙を拡げた。
「読むで下さい、雪さんが書かれたのですから」
「はつ」といつて受取つた。
 遺書(かきおき)を読みかけて自害と知つた。かうなる事とは、予(かね)て想はぬではなかつた。けれどもそれは万が一の予想であつて、今は寝耳に水である。もう何事も言はれなくなつて、たゞ淘然として読むのみであつた。
『唯一つ心残りの候は、妾(わらは)が兄上の御事に御座候……兄上若しましまさむには、妾(わらは)もさまで、心を狭め候はざりけむものを……妾(わらは)の事ども絶えず思ひたまへば、妾(わらは)の先立ちて死せしと聞こしめす時嘸(さぞ)かし怒り歎(なげ)き玉ふらむ……』
 死ぬが死ぬ迄、妹は時分の事を忘れて居なかつた。かう迄、思ひ、思はれた兄妹が然も妹は自分が無事で居るさへも知らずに、一度も逢はでこの悲しみに逢はうとは。而して自分は今、妹の居た家に来て、そして………………
 時雄が読むで居る間に、篤司は傍(かたはら)から、姑の廣子の死や、勝清に対する雪子の平常(ふだん)の態度やらを説明した。
『か様に相成り候事も、皆自(みづ)からの致すところに外ならず候て、誰一人恨み申すべき者も無之(これなく)候………」
 妹は斯く迄も、心狭う死んだのだ(、)(※2)怨めしさも胸に納めて、身を棄てたのだ(、)(※3)(ああ)不憫よと、我に立ち帰ると、始めて驚駭と憐慇と、其の意外さとが渦巻をなして、どしゞゝ(※4)と胸に靡(なび)き寄つた。
「これは何時(いつ)の事ですか?」と問ふ声は、此の世のものとは思はれなかつた(。)(※5)。灰の如く時雄は色を変じて居た。
「つい、先程の事です、」
「え?」
「私も、先刻(さつき)、此所(ここ)へ来たばかりです。雪さんの出懸けたのが午後の四時頃……」
「それではまだ、死んでは居ないでせう!」
「そうです、それで只今、婢(をんな)を警察に走らせて置きました。」
 すると、雪子はまだ死んでは居ないのだ。妹は自分に間近く、まだ此の世に呼吸(いき)して居るのだ、未だ逢ふ事の出来る一縷の望みがあるのだ、好し、どうしても逢はなくては止まぬ。どうしても妹を救はなくては置かぬ。身投をする覚悟で家出をしたのなら、行く方面は知れて居る。いざ早速出掛けて捜し出さう!
 けれども今は夜だ! 知らぬ所だ。生れた土地ではあるが、決して判明(わか)る筈がない。あゝ自烈度い。一分延びたら一分だけ妹の生命(いのち)は危(あやふ)い、いや、管(かま)はぬ。行かう、どうしても捜し出さう。
 かう考へた時雄は、最早座つては居れなくなつた。
「これから、捜しに行きます」と遂に立ち上つた。
「え?」と顔を挙げて、「私も行きます(。)(※6)然し今に婢(をんな)が戻つて来るでせう。貴方も知らぬ所は不自由だから、一緒に行きませう」
「では、そうしませう」と復(ふたた)び座つた(。)(※7)

(※1)原文ママ。
(※2)(※3)原文句読点なし。
(※4)原文の踊り字は「ぐ」。
(※5)(※6)(※7)原文句読点なし。

底本:『京都日出新聞』明治44年5月13日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年3月2日 最終更新:2009年3月2日)