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あら浪 第六十七回 叔父上様

不木生

 七日の法事も済んで、万端の世話と毎夜の泊り番をして呉れた篤司は、用事の多い身体であるから、一先づ自宅へ帰つて行つて、跡は洪水(おほみづ)が減(ひ)いた様に、がたりと寂しくなつた。
 小間使と二人きりで、雪子は起(た)つても寝ても怺(こら)えられぬ様になつた。偶ま眠れば恐ろしい夢を見、起きて座れば悲しさが潮(うしほ)の様に湧いた。混沌とした思想が融合して、今は一随に、只管(ひたすら)に悲しさに泣いて、果(はて)は無闇に、悲法にわめいた。心の駒は彌(いよい)よ狂つて、取り静むべき手綱が却つて、強く結ぼれたのであるから、なるに委せて打ち放(や)つて、底が底まで、考慮(かんがへ)を深からしめた。
 煩悶は第一に腹に宿れる子の始末であつた。生れて如何(いかん)? 死んで如何(いかん)? 生き居たなら、苦想の源泉。死んだとすれば藤枝の家系は断絶。嫁いだ者の身としては、飽く迄辛抱(こら)へて育て上げるが、そもの義理である。だつて憖(なま)じひ永らへて、何の目的(あて)にて暮されよう。子が育つも罪なれば、子の育たぬは尚更の罪。進退此(ここ)に谷(きは)まつては、五尺の身体が癪に障る。この身があらばこそか様な惨(むご)い憂き目を見るのだ、たとひ腹の子を犠牲としても、寧(いつ)そ死んだが此の場の上策と(※1)思ひ詰むれば詰むる程、生死の縫目が綻ろびて、若い女の常として、往くだけ知つて還るを知らぬ、雪子は漸次、其の信念(おもひ)を募らした。
 篤司は雪子の性質を十分、知り抜いて居たので、万一の事でもあつてはならぬと、出来得る限りに慰め、宥めてこの際、徹頭徹尾(あくまで)冷静に、よく落着いて振舞ふ様に、言(ことば)を尽して言つて聞かせた。
 篤司が家に居て呉れた間は、兎や角と紛れて居つたが、今たゞ一人、物思ふ場合となつては、本来の観念は騰(のぼ)り雲の様に、油然(わくわく)と胸に漲つた。
 二三日経つて、ある日の午後。雪子は巻紙を取つて、机に向つた。
 ぽたりゝゝゝ(※2)と熱い涙が、紙を潤(しめ)した(。)(※3)筆取る手元に万感を罩(こ)めて、長い長い手紙を認めた。
 軈(やが)て小間使に言ひ置いて、ふらりと我が家を去つた。

  ×  ×  ×  ×  ×

 其の晩方、篤司は気遣はし気に尋ねて来た。洋燈(らんぷ)は薄黒(うすぐら)う照つて、空気はこの家(や)のみ、変に動いた。小間使は悄然(しほしほ)として台所に座つて居た。
「雪さんは如何(どう)した?」
「御出掛になりました!」
「え?」と少し駭(おどろ)いて、「何時(いつ)頃だつた?」
「四時頃で御座いました」
「通常(ふだん)の儘でか?」
「着替へて御出かけになりました(※4)
「何とか言ひ置いて?」
「用事があるから、チヨツと出て行くと御仰(おつしや)つたばかりで御座います」
「晩方に帰るとでも言つて行きはせなかつたか?」
「いゝえ、別に」
「そうか」と力無い返事をして、小首を傾(かたむ)けた。雪子に遅くまで用事の在る筈がない。墓参としたらば、もう帰つて好い時分だ。
「或(あるひ)は」といふ観念が忽然、篤司の胸に閃めいたから、其(その)儘奥の座敷へ歩むだ。
 室は■然(※5)(ひつそり)として、主(しゆ)なきを憂(かこ)つかの様である。文晁の山水が、寂し相に、小間使の捧げた洋燈(らんぷ)に照された。
 机の上に目を移すと、篤司は思はず近寄つた。
「叔父上様」と鮮かな文字が、封皮の上に美(うる)はしく読まれた。

(※1)原文ママ。
(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文句読点なし。
(※4)原文ママ。
(※5)原文一文字表示不能。門構え+「貝」。

底本:『京都日出新聞』明治44年5月10日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年2月23日 最終更新:2009年2月23日)