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あら浪 第六十三回 御気の毒

不木生

「決して殺す心積(つもり)は御座いませぬでした」
「拳銃で射殺(いころ)したのだないか」と語気は荒びて居た。
「今から考へて見ますと、全く夢の様で御座います、ある夜(※1)、六さんが妾宅(うち)へ訪ねて来て呉れました。其の時、二人の強盗が這入(はい)つて居りました、それが知つた男で御座いました。六さんは怒つて二人共射殺(いころ)して了(しま)ひました。六さんも私も、迚(とて)も助かる法がないと思ひました、死ぬならば二人で死なうと約束しまして六さんは其(その)足で朝鮮(こちら)へ来ました。翌日(あくるひ)主人が来られまして、私に縁を切つて呉れろと申されました(。)(※2)其の時分私の気は狂つた様になつて居りました。私は主人の前で死ぬといつて、六さんの忘れた拳銃(ぴすとる)を取り出しました。主人が私を後ろから抱き止められました、其の拍子に私は引金を引きました。主人は無惨にも死なれました(。)(※3)私も一緒に死なうと思ひましたが、不図六さんの事が気に懸つて、どうしてもゝう一目逢はねば置かぬと決心しました。それで私は再び、此方(こちら)へ参りました。それに六さんは御気の毒にも………」
 慨然として芳江は口を噤んだ、汽車の出懸けにたゞ一目、それが見納めなるさへも六さんは少しも気附かなかつた。
 六さんは暗い暗い牢獄(ひとや)の中で呻吟する身となつた。屹度(きつと)我が身の上も気遣つて居て呉れるであらう。吁(ああ)、何故あの夜、枕を並べて死なゝかつたであらうか。死ぬよりも辛い今の思ひ、死んだら二人で居れようものに、(※4)(なま)じ命を惜んだ報ひ。生き乍ら隔てらるゝ苦しみ、芳江は胸が迫つた。
 一方、勝清は這(こ)んな風に若い一生を果てた。芳江は勝清にも離れる事が出来なかつた。始めはたゞ時分の生命(いのち)の危急を救ふ為に勝清を欺いた。けれど馴れて来ると、淡泊(あつさり)とした中流紳士の生活も気に向いた。そして勝清に対しては、遂に恋路を辿る仲となつた。自分が死ぬならば、主人も共に死んで貰はう。叶はぬ迄も主人を他人手(ひとて)に委(まか)すは厭だと、芳江は日頃考へて居た。
 ところが先夜、芳江は種々の煩悶の為に殆んど正気を失つて居た。死なう、死なうといふ観念が最も激しく刺撃した。そこで日頃の考(かんがへ)が支配したのか、誤過(あやま)つたのであるか、遂に主人を我が手で、而(しか)も殺して了(しま)つたのである。
 一たび狂乱が整ふと、自分が死ぬ元気は消えて了(しま)つて、六さんの事ばかりが一徹に気遣はれた。それ故に、主人の骸(むくろ)を見棄てゝ、到頭逃げ出したのである。
「そして貴様は……そう! 慥(たし)か藤枝だつた……藤枝某を殺して直ぐに出発して来たのだな?」
「君其の男は藤枝?」と井上は驚いて「藤枝何といふのだ?」
「はい藤枝勝清……」と芳江が答へた。
「えつ!? それは本当なのか? 細君の名を知らない?」といふも性急であつた。
「雪子様……」
「あーつ」といつて井上は足踏みをした。
「大村! 妹は危急に迫つて居る。僕は今から東京へ行つて来る。もう捨てゝは置けぬ。失礼するぞ!」
 大村は始めて気附いた。
「井上、待てつ」と肩を攫(つか)むだ。
「待つて居れるものか、一刻も猶予は出来ぬ」
「井上君如何(どう)したのだ?」
「大村に聞いて呉れ給へ、藤枝は僕の知人だ」
「井上! 今は夜ぢやないか?」
「いや、兎に角失礼する。真島君宜敷(よろしく)頼む!」
「井上君、君に差し上げる物がある」
「何?」
 真島巡査は隠袋(かくし)から数葉の紙を取り出した。
「これが報告書。藤枝氏の住所が茲(ここ)に書いてあると」。(※5)井上に手渡した。
「有難う!!!」

(※1)原文ママ。
(※2)(※3)原文句読点なし。
(※4)「來」の右に「のぶん」+下に「心」。
(※5)原文ママ。

底本:『京都日出新聞』明治44年5月6日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年2月16日 最終更新:2009年2月16日)