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あら浪 第六十回 自己の破壊

不木生


 呼ばれて見れば、遉(さす)がに、昔の気が湧いて、近藤と倶(とも)に聞いた言葉が、ありゝゝ(※1)と思ひ出された。斯様(こん)な女であらうとは露も知らなかつた其の古(むかし)と、恨怨(うらみ)を晴した今の感情と、欺かれて一生を水泡(あぶく)に帰した近藤の身の上などが一時に胸に沸騰して、突差の間には、如何(どう)と分別もつかぬが、
「何?」と軽く言つた。
「貴方、私を……殺して了(しま)つて、下さい!」
 なる程、自分の発した銃丸(たま)で、死ぬにも勝る痛傷(つうせう)を悩むで居るかと、不憫に得堪えぬ所もある、殺して呉れろと言はれては、何方(どちら)が慈悲かと迷つて居ると、
「貴様は、安々と死なすべき女ではない!」
と真島(まじま)巡査は代つて言つた。
「もう、どう、どうせ死なねば…ならぬ…身体です。」
「君は気の毒にも近藤を殺したんぢやな?」
「大村さん……ゆ……許して下さい」
「我輩が許すも許さぬもない。許(ゆるし)を乞ふべき近藤は死んで了(しま)つた。たとひ許(ゆるし)を乞つたとて死んだものがどうして帰る。気の毒にも、罪のない近藤を、よくも無惨な死に目に逢はせたものぢや!」
「みんな、私が……悪かつたので厶(ござ)います。大村さん、貴方の手で、殺して下さい……私は本望です……」
「謬(あや)まつて撃つたのは自分に違ひない(、)(※2)それは悪かつた。けれど自分は殺すべき役ぢやない。一体、近藤を、何の為に殺したのか?」
 芳江は黙つた。大村はなほも返答如何(いか)にと見詰めた。井上は腕を組むで立つた。
「今更、どう申し上げても、戻りませぬ、私はもう死んだ方が……ましで御座います」
「死ぬ時はもつと先だ」と真島巡査は飽く迄厳格であつた。
「私、一人の了見で、悉皆(みんな)作つた罪で御座います、けれど……」
 三人は息を凝らした。
「大村さん、一通り、私の身の上も聞いて下さいませ?」
 井上は何を思つたか、
「聞きませう」と挿し添へた。
 芳江は苦し相に、呼吸(いき)を為(し)乍ら、
「私は、岡山の三里西の田舎に生れました。五歳(いつつ)の時までに両親を亡くして了(しま)ひました、それが私の身の崩れる原因(もと)で御座いました、少しばかり御座いました貯産(たくはえ)を、私の叔父は取り上げて、私を預かつて呉れました。すると十二の歳に、叔父は、無情にも、私を岡山へ酌婦に売り込みました。それから私は十六の歳に、云ふも恥かしい事で御座いますが、他人に騙されて、売春婦として、この朝鮮へ渡つて来ました」
 嘗て塩原で、勝清に物語つた所は、満更虚偽(いつはり)ばかりでも無かつた。幼少より親の手を離れて、残酷な叔父の手に養はれた彼女は、世の中の暗黒面に、空気を呼吸して居たのである。
 十二から十六までに、芳江は全然自己を破壊して了(しま)つた。岡山近傍は人心が穏かで平凡である。その平凡が境遇の激変によつて極端なる異例を生じたのである。
 一たび売春婦となつては、一言一行は悉く本能的であつて、凡てが露骨である。洞慾な叔父が、金羸(まう)けの種にする程、彼女は美貌であつた。其(その)美貌が媒介となつて、男に対する呼吸が十分会得せられた。それ故に男の弱点に乗ずる事は、限りなく巧妙であつた。習(ならひ)遂に性となつて、彼女は特種の気質を具へたのである。
 今や彼女は自分の身の上を語りつゝある。彼女が一生の犯罪的行為は、遠く遡つて叔父の仕打に依るのである(。)(※3)彼女は如何(いか)にこの際叔父を恨むだであらふか。
 声は途切れて響き、月は徐(おもむ)ろに照つた。

(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)(※3)原文句読点なし。

底本:『京都日出新聞』明治44年5月3日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年2月9日 最終更新:2009年2月9日)