「真島(まじま)君ぢやないか?」
「や、大村君、井上君も、これは」と真島巡査は早く認めて、
「どうして此処へ?」と驚いて附け加へた。けれども倒れたる女を一目見るや、返答をも待たずに、
「やあ、此処に居た、此女(これ)だ!」と一種の物凄い言ひ振りであつた。
「君は此の女を捜して居たのか?」と大村は想像して尋ねた。
「そうだ、君、この女だ、近藤君を殺したのは!」と言ふ声も強い。
「うむ、丸よしの花ちやんぢやろ?」
この間に真島巡査は、ぢろりと女の方を見たが、又忽ち大村に向ひ、
「一体君達はどうしたのだ?」
「実は今夜、二人でかうして此処まで来た。彼方(あつち)から見たらどうしても野猪(しし)と見えたのぢや、で一発見舞つたら、この始末さ!」
「そうか、僕もこの女が京城に来たといふ評判を聞いて、尋ねては尋ねては、追つ蒐(か)けて来た、君等が居なかつたら或(あるひ)は見逃したかもしれぬ。まあ好かつた!」と云ふ声には言ふに言へぬ■々(※1)(きき)の情が籠つた。
この時井上が語る。
「逃げる覚悟ではなかつただらう。僕等が見出したのは、既に池の岸に佇むで居た時だ、身投をする覚悟だつたに違ひない」
「身投したとしても、面倒は免れぬ、畢竟(ひつけう)天命が尽きたのだ」
「天には勝つ事が出来ぬ!」と慨然、「大村君、其(その)同犯の男も実は昨日捕縛せられた!」
「そうか、本当か?」
「そして慥(たし)かに、本国に護送せられた!」
「苦心は一通りではなかつただらふ!?」
「随分骨が折れた。まづ然しこれで一段落を告げた。か様な複雑(こみい)つた事件は、めりゝゝ(※2)と早く片が附くものだ」
「うむ、好かつた!」
「君等の御蔭だ!」
月は鮮明(あざやか)に四人を照した。
女は憐れに横(よこた)はつて居た。誰一人手を掛けて呉れるものは無い。花ちやん即ち芳江は「生」の苦痛を肺臓の伸縮に伴はせて居た。
三人の会話が耳の鼓膜を刺撃した。腹部の苦痛に応へて、一句一句は腸(はらわた)を寸裂(ぜた)切りにする様に覚えた、こんな位ならば、何故射たれた儘絶命しなかつたかと、感ずる隙もなく、全身は凝(かたま)つた様になつた。
「近藤を殺した許(ばか)りではない。この女は東京で猶多くの人を殺した。」
「え?」と井上は駭(おどろ)いた。
「何をしたのぢや?」
「畢竟(つまり)、ある男を欺いて、其の人の妾となつて、最後に其の男を殺したのぢや」
「非道い奴ぢや」
「君、この儘ではいかぬだらう?」と井上は真島巡査を促した。
軽く点頭(うなづ)いて、芳江を見た。
この時芳江は余程の程度まで、正気を恢復して居た。正気附けば附く程、苦痛は増した。自分の傍(そば)で話して居る人の姿も、声も区別が出来る様になつた。
芳江は大村が居る事を知つた。同時に近藤の事を思ひ出さゞるを得なかつた。
今は猫の前に置かれた鼠である。願はくば大地が割れて、此儘(このまま)地下に埋(うづ)められたく思つた。
四面は皆鬼である。地獄に墜ちた罪人は苦しき余り、自分の知つて居る人の名を悉く呼ぶと言はれてゐる。こうなつた以上は知つた人が柱である。苦しき時の神頼みでよしや仇敵(かたき)であらふとも背に腹は変へられぬ。
「大村さん!」と細い声を搾り出した(。)(※3)
(※1)口偏+「喜」。
(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文句読点なし。
底本:『京都日出新聞』明治44年5月2日(第4面)
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(リニューアル公開:2009年2月9日 最終更新:2009年2月9日)