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あら浪 第五十八回 毒婦!

不木生

 銃を放り棄てゝ、一目散に駆け出した大村は、池の縁側(ふち)を廻つて、疑問の一物に近寄つた。
「しまつた!」といふ声が聞えて、井上も驚いて駆け附けた。
「やつぱり、人間だつた」と絶望の言(いひ)振り。
 見れば一人の女が仰向けに仆(たふ)れた儘気絶して居た。月の光が蒼白い顔を照した。二人は女を取り囲むだ。
 散弾は腹部を冒して居る。捨てゝは置けぬと女を抱き起した。
「貴女、確乎(しつかり)して下さい」と大村は太い声を振り立てた。何時しか酒気は失せて了(しま)つて、顔は異様に見えた。
 撫でつ擦りつして居る内、女は僅かに呼吸の息を取り返した。
「あーつ」と苦悶の唸り。
「気を確かに持つて下さい!」と揺(ゆす)り乍ら、耳元近く声高に言ひ聞かせた。
 夜目で、縞模様はくつきり判明(わか)らぬが、着物の色は卑しからず、漆の様な髪の毛が頸元に乱れかゝつて、美(うる)はしさが、自然の色に似合つて居る。
 何の為に唯一人、昼間も物凄い所へ彷徨(さまよ)ひ来(きた)つたであらふかと、落附いて胸に描くの隙もなく、只管(ひたすら)、この女の生命(いのち)の程が気遣はれて、能ふ限りの手当をと、言ひ合はさねど二人は決心した。
「大村!」と突然叫んだ井上の語勢は常になく不穏の反響を持つた。
「例のH公(エツチこう)だないか?」
 言はれて吃驚(びつくり)、女の顔を見つめた大村は思はず手を放した。
「や、花ちやんぢや!!!」
 化石した様につゝ立ちて、二人は迭(たが)ひに顔を見合せた。
 近藤を殺したのが丸よしの花ちやんである事は大村も、井上も聞いて知つて居る。今が今まで、近藤の為にと誓つた其の仇敵(かたき)が、現に、自分の発した弾丸(たま)に中(あた)つて、将に死に頻して居る。そも不思議!
 毒婦! 毒婦! 其(その)肉を八裂(やつざき)にして、炙つて食つたとて、この腹は癒えまいと日頃大村は切歯(はぎり)した、どうにかして近藤を瞑ぜしめたいと、折さへあれば腕を扼した。男の性分として莫迦に女々しい振舞もならぬから表面(うはべ)だけは、日日に疎しの掟に連れた。
 其の不倶戴天の仇讎(かたき)が、この通り断末魔の苦息を出入させて居る、大村は心地よしと内心思つた事であらう。野猪(のじし)だと酔眼に誤謬(あやま)つたのではあるが、正(まさ)しく日頃の思ひに適つた手順は、これ社(こそ)天のお祐(たす)けよと、大村は喜んだであらう。而(そ)して最後の空気を呼吸して居る女を睨むで、嘸(さぞ)かし大村は気味好く感じたであらう。
 もう介抱する気も失せて了(しま)つて、大村はたゞ腕を拱んで、ぼんやりと立つた。ところが女は、虫の息を漸次に強めて、甦り始めたのである。
 日頃の思念から割り出せば、大村はこの際、この儘、この女を殺して了(しま)ひたかつたであらふ。けれど例ひ甦つた所が、もう羂(わな)にかゝつた鳥である。近藤に向つては、加害者に違ひはないが自分の為には正徳の無関係である。
 苟且(かりそめ)にも無関係の者を殺すといふのは、由々しき大事だ、僅かの傷を帯ばせるさへも容易ならぬ犯罪だ、過失とはいふものゝたゞでは済むまいと、我に帰ると、空恐ろしい気持になつた。さはさり乍ら、憎たらしい女よと考へると殺気がむらゝゝ(※1)と起つた。
「貴女は、丸よしの花さんぢやないか?」と強い声で呼んだ。
 夜目にも女はきりゝ(※2)と顔を動かした(。)(※3)
 其の時、後方(うしろ)に、どたゝゝ(※4)と靴の走(※5)音がして、同時にさーべる(※6)の響(ひびき)もした。
 二人は驚いて振り向いた。

(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文圏点。
(※3)原文句読点なし。
(※4)原文の踊り字は「く」。
(※5)原文ママ。
(※6)原文圏点。

底本:『京都日出新聞』明治44年5月1日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年2月4日 最終更新:2009年2月4日)