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あら浪 第五十七回 仙境の妙趣

不木生

 郊原は永久に窮(きは)まりない。
 自分の影を踏んで、兎や角、語つて行く内に、二人は鬱蒼たる森に近づいた。其の森の彼方(かなた)には面積の広い、深い池がある。二人はずつと以前に来た覚えがあつて、先日の新聞紙にはこの森の近辺を一頭の野猪(しし)が徘徊して居たと書いてあつた。
 それが目的(あて)でやつて来た訳ではないが、歩む序でに逍遙の股を運んだのである。人家はこのあたりには見えぬが半里(はんみち)ばかり先には小なる村も有る。
 草鞋の緒の断(き)れた事を思ひ出して、井上は何だかこの森に入るのが気味悪く思はれた。されども銃は護身の大道具怖くはないが聊爾(いささか)躊躇(ため)らつた。
 大村が元気よく這入つたに続いて、井上も並木を潜つた。天を衝くばかり亭々(ていてい)たる巨木が、満支(ぎつしり)と居並んで、月の光が朧に洩れる許(ばかり)で、辛ふじて森の中が判明する。
 真中(まんなか)どころで立ち止つて、大村はピーツと嘯(うそぶ)いて(※1)(その)音がずーつと彼方(かなた)に響き応へて、余韻嫋々(でうでう)と、松も杉も一斉に山彦(こだま)を返した。其処に自然の寂しさもあれば、夜の妙味も胚胎して居る(。)(※2)
 崇高なる景色に見惚(みと)れて居た井上は喚び覚された様に身を繕ろつて、
「こんな所だ、古(むかし)の詩人が自然の声を聞いたのは!」
 大村はなほも多少の酔機嫌が残つて居る。
「こういふ所も変つていゝものぢや」
「此の中に座禅を組んで居たら、どんな六ヶ敷い哲学の問題でも解決がつくだらう。」
「そうぢや、空気は好し、四辺(あたり)は静かぢやし、此所(ここ)で瞑目したら、千里眼は確かに受け合ひぢや。」
「一つ試みにやつて貰はうか?」
「うむ、君の妹は今、何をして居るかといふ事と、今一つ、近藤の殺害者の所在ぢやな!」
「それは面白い、」
「先づ君からやつて見い!」
「君が言ひ出したから、手本を示(※3)!」
「それには君が適当して居る!」
「それでは僕が妹を透視して……」
「我輩が近藤の方かね、」
「そうだ」
「遣つて見ようぢやないか?」
「よかろう」
 暫らく言葉は絶えて、葉摺れの音が夏虫の遠音よりも幽微(かすか)であつた。
 三十秒も経たぬ内に、
「出来た、出来た、君の妹は無事ぢやといふ事がわかつた!!」
「僕もわかつた、近藤の殺害者はもうぢきに……やつと! これは反対(あべこべ)だ、君が近藤の方を見る筈だつた!」
「やあそうか」と笑つて、「やり害(そこ)なつちや駄目ぢや、もう池の方へ出よう!」と促がした。
 巨木の根元を潜り抜けて、漸く森の終点に出た。唯看る前面に渺茫(べうぼう)たる湖水。
 浩瀚(こうかん)の表面は鏡の様に月に照つて、漣(さざなみ)は近くに眼(め)だてど、万象は朧の内に包まれて美観は絵筆も及ぶ所ではなかつた。
 遠くは薄う霞んで、近くの岸の草叢(くさむら)は、其(その)儘裏返しになつて水に映つて居る風情!
 二人は■然(※4)(ぼうぜん)と其処に立ち留つた。人影一つなき、仙(※5)(けう)の妙趣。
 大村は忽ち、彼方(かなた)の岸の小高き所に一の黒い塊を見出した。気の(※6)(せい)か、動く様にも見えた。
 野猪(しし)だと一随に思ひ詰めて、銃を構へて発砲の準■(※7)(したく)
 井上もこの時気附いた。正体こそ判然(はつきり)せぬが、人間ではないかと思つた。そうだない様にも見えた。けれど、
「先づ待て」といつたは遅し。
「ドーン」と森にも水にも、
「ヒヤツ」といふ高い声が、対岸に起つた。

(※1)原文ママ。
(※2)原文句読点なし。
(※3)原文ママ。
(※4)原文一文字判読不能(立心偏+「曲」「ワ」「目」?) 。
(※5)(※6)原文ママ。
(※7)原文一文字判読不能。「備」か?

底本:『京都日出新聞』明治44年4月30日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年2月2日 最終更新:2009年2月2日)