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あら浪 第五十四回 二人の警官

不木生

 虎の尾を踏んで、漸(やつ)と毒蛇の口を遁(のが)れた芳江は、今京釜鉄道に依つて、北へ北へと運ばれつゝある。
 当(まさ)に死すべき運命を持(たも)ち乍ら、不思議に生命(いのち)を永らへて、一葉の桐が、風を待つ間の心細さに揺られつゝも、朝鮮の山間を運ばれて居る彼女(かれ)の心底は、譬へば氷の窖(あなぐら)を暗(やみ)の夜に辿る趣であつた。
 たとひ、本国を無事で抜ける事が出来たとしても、法規の網は隈なく敷かれてあるが為に、女心の遉(さす)がに気弱さ! 汽車は其(その)網の目を一つ一つ縫ひ行く様な風に思はれた。
 今日に限つて乗客が馬鹿に少ないのは、彼女(かれ)にとつて幸福であつた。水晶(※1)の数には閉口しないが、譬へば八ツ目鰻の前端に位する一双の眼球が、気に懸る胚子(たね)であつた。
 自分は六さんを尋ねて居るのだ。一緒に死なうと約した六さんの後を追つて居るのだ、六さんも自分も、云々(うんぬん)附きの身体である。それがたゞ一髪の間隔を以て、生と死とを堺(さかひ)せられて居るばかりだ、六さんは果して自分を待つて居るであらうか。
 対坐して居た洋服姿の紳士は遂に口を開いた。
「貴女は御一人ですか?」
 単調な景色に倦いたものであらう。
「はい」と極軽く答へた。
 三時間ばかり、膝を突き合せて居たのであつた。
「何処まで御行きですか」
「京城まで参ります」
「そうですか、私も左様で厶(ござ)います」
 それから又、須臾(しばらく)、黙る。
「何処から御乗車(おのり)になりました?」
「はい……釜山から」
 芳江は何だか奇妙な感を抱いた。至つて気味の悪い眼附だと彼女は達者に見抜いた。一方では自分の身の上も気懸りで、自然(おのづ)と言(げん)は絶えて了(しま)つた。
 汽車は又もや、平原や、低い山の間を、厭(い)やな響(ひびき)を立てゝ走つた。
「眠くなつて来るですな?」とうそり(※2)と唇を崩して、芳江の顔を横目に見た。
 何だか頬の工合が、勝清に似て居るので、彼女(かれ)は、先夜、殺す気もなく殺した始末に考へ及んで、何故(なにゆゑ)あの儘、死んで了(しま)はなかつたかと疑つても見た。
「左様です!」と問(とひ)に対しては兎も角答へたが眠れる程の勇気が、この際あつたならば、単に天晴れと言ふ丈に留まらぬ。
 然し、空の色はどんよりと鈍(にぢ)むで、鶏林の初夏は見るからに、欠伸の種であつた。其処へ差して、ギーゝゝ(※3)と軌轍(わだち)の摺れる音がして、何だか、急に睡(ねむ)くなつて来た。
 がやゝゝ(※4)と多勢(おほぜい)の人が入つて来た物音に驚いて跳ね起きると汽車は、ある停車場に着いて居た。大凡(おほよそ)二三時間、前後も知らず寝込んだらしくあつた。先刻の男はもう影も形も見えなかつた。
 あまりよく寝過ぎた。催眠術にでも掛けられたのではあるまいかと気附いて急に懐(ふところ)へ手を入れた。
 こはそも如何(いか)に、財布が無い、帯の間に切符があるのみで、袂から、何から、探つても、果(はて)は立つて身を振つても、尚ほ在所(ありか)が知れぬ。
 掏られたのだ!
 今は一刻も早く六さんに逢つてと、心は奔馬と苛立つ折、汽笛の音諸共(もろとも)、汽車は緩く動き始めた。
 停車場の名を見ようと思つて、彼方(むかふ)側に眼を配ると、群集の内(うち)に、是は如何(どう)して?
 六さんが二人の警官に擁(よう)せられて、釜山行(ゆき)の列車を待つて居る。
「あーつ」といつて土の様に蒼ざめ乍ら芳江は尻居(しりい)(※5)(どう)と倒れた。

(※1)原文一文字判読不能。「売」か?
(※2)原文圏点。
(※3)(※4)原文の踊り字は「く」。
(※5)手偏+「堂」。

底本:『京都日出新聞』明治44年4月27日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年1月30日 最終更新:2009年1月30日)