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あら浪 第五十三回 鰌(どぜう)を畚(ふご)から

不木生

 飄然(ふらり)と其処に時雄の姿が顕(あら)はれた。
「兄さん!」と思はず叫んだ。
「おゝ妹か? 逢ひたかつた!」と言つて雪子の傍に坐つた。
「わつ」と言つて坊やは又も泣き始めた。時雄は驚いて身を反らした。
「お前は誰の子を抱いて居る?」
「兄さん………………」
「判明(わか)つて居る。お前はこの子の為に少なからぬ心配をして居るのだ、まあよく無事で居てくれた、私はどれ程お前に逢ひたかつたかしれぬ。お前は如何(どう)して此所に来てくれた?」
「兄さん………………」
「好く私の居る所が知れたね、妹、二人(※1)は寂しい、心細かつたゞらふ、もう如何(どん)な事が起つても、お前とは離れぬ。二人は兄妹だ、血を分けた仲だ、死んでも二人は離れまい!!!」
「時雄! 時雄!」と呼ぶ声に駭(おどろ)いて時雄は振向いた。今迄其処にあつた行燈(あんどう)の灯が、何時しか消えて了(しま)つて、真の闇中(あんちう)から、白う、白う、父の姿が浮(うか)み出でた。
「おう、御父さん!」と矢庭に叫んで「如何(どう)して此所へ?」
「お前はよく言つた。雪子心配をするな!」
「お父さん!!」と時雄の声(。)(※2)
「時雄」
「好い所へ来て下さつた。」
「私(わし)は全然(すつかり)安心した」
「妹は私が引受けました」
「頼むぞ!」と更に語調を変へて、
「雪子! 坊やは暫らく私が預かつて遣る!」
「………………………」
「私の為には初孫(うひまご)だ」
「妹、御父さんに渡しなさい! さあ」
 雪子はなほも手放すに躊躇した。そして坊やの頬に強く唇を当てた。坊やはぽつちりと目を明いて、慈母(はは)の顔を眺めた。
 暗(やみ)の中ではあるが、万事は顕然(まざまざ)と見えた。坊やの顔をつくゞゝ(※3)と眺めると、夫の顔がありゝゝ(※4)と思ひ出された。茲(ここ)に到つて雪子は■然(※5)(ぼうぜん)となつた。忽ち胸の中(うち)は鰌(どぜう)を畚(ふご)から明け散らした様に入り乱れた。
「兄さん!」と云ひ様、坊やを時雄の手に渡した。
「おゝ、そうだ!」と時雄は受取つて更に父の手に授けた。
 亡霊は坊やを抱いて徐(そぞ)ろに揺り乍ら(、)(※6)
「束の其の間も子を思ふ、
       心の末にひまもなく、
 胸のふし戸に、膝の庭、
     出(いづ)るに入るにかしづきし、
 心尽しは、はかりなく、
    そのいつくしみ、比(たぐ)ひなし、」
 声は玲瓏として、身も心も澄み渡つた。
「母のいますは、まひるにぞ、
     夜半(よは)とは母のまさぬなり、
 母あり、月のかげ清く、
      母なし、四方(よも)ぞ闇深き。」
 声は段々遠くなつて、微妙(みめう)の響(ひびき)は眠るが如く薄らいで行つた。二人の兄妹は其の場にひれ伏した。
「お父さん!」
「お父さま!」
 声を限りに呼べど、叫べど、何時しか影は雲の様に消えた。
 軈(やが)て何やらむ、耳元にさらゝゝ(※7)と音がした、時雄の姿も、最早雪子の傍には見えなかつた。
「妹、妹!」といふ声が、波の遠音の様に聞えて、雪子は、不思議に感じて顔を挙げた。
 こはそもいかに!
 今迄家の中とのみ思つた所が、何時の間にか平坦な原野となり変つて、雪子の前には一個の石碑が、寂寞(せきばく)として立つた。
 奇怪なるに、ホツと思ふと、暁の夢は愕然として覚めた。

(※1)原文ママ。
(※2)原文句読点なし。
(※3)原文の踊り字は「ぐ」。
(※4)原文の踊り字は「く」。
(※5)原文一文字判読不能(立心偏+「曲」「ワ」「目」?) 。
(※6)原文句読点なし。
(※7)原文の踊り字は「く」。

底本:『京都日出新聞』明治44年4月26日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年1月30日 最終更新:2009年1月30日)