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あら浪 第五十一回 知らぬ俤(おもかげ)

不木生

「奥様、私です、お清で御座います」
「おゝお清か?」
「奥様、如何(どう)遊ばしました。」
「お清!」と雪子は振り向いた。見ればお清は坊やを背負つて居る。
「奥様、坊様にお乳を!」
「おう!」と雪子は、眼を大きく明けて、
「坊やか、坊やか、どうして来たの、お清、まあよく助けて遣つて呉れたね! さあ、お母さんが抱いてあげよう、まあ寒かつたゞらう、(」)(※1)かういつて雪子はお清の背から坊やを受取つた。
 坊やは雪子の腕に抱かれて、すうすうと呼吸して、無邪気に乳首を喰へ乍ら、ボチリゝゝゝ(※2)と母の顔を眺めた。
「奥様、お可愛(いと)しう厶(ござ)います」
「…………………」
「何故(なぜ)、貴女は此所へ入らうとなさいますか、私が居るでは御座いませぬか、何故(なぜ)このお清に黙つてなさいますか、私は何時迄も貴女のお傍に附いて居るではありませぬか、奥様?」
「お清、私の胸の中(うち)を…………」と雪子は泣き始めた。
「奥様、早まつてはいけません、坊様がこの通に達者では御座いませぬか、私も無事で居りますのに、何故(なぜ)奥様一人がそんな事をなさいますか!」
「お清、私はもう生きて居る瀬が無いわ!」
「過ぎた事は仕方が御座いませぬ。奥様、この坊様御一人が貴女の杖で厶(ござ)います!」
 何時の間に日が暮れたのであらうか(、)(※3)月が朦朧(ぼんやり)と照つて、四面は夢の様に淡い、風が一しきり強く吹いて、水の音は愈(いよいよ)激しい。
「お清! 私ばかりが何故(なぜ)こんなに憂い目、辛い目に逢ふのだらふ? 旦那様には死なれる、御母(おつかあ)様はあの様なむごい目、寧(いつ)そ死(しん)で………」
「奥様、私はどうしても貴女を死なせませぬ! 奥様、さあ帰りませう」
「お清、何処へ帰るの?」
「奥様! 私に附いて来て下さい、貴女を待つて居る人が御座います!」
「え?」と雪子は怪訝な顔をした。
「奥様、来て下さい、実は貴女を呼びに参りました!」
 言はるゝ儘に、原(もと)来し道を帰つた。彼方(かなた)に閃々(ちらちら)と火の影が動いた。無言の儘月を踏んで、軈(やが)て一軒の家に着いた。
 前には寒菊が夜目にも明(あきら)かに咲いて居た(。)(※4)美はしい匂(にほひ)を嗅いで戸口を潜り入ると、行燈(あんどう)の灯が薄暗く輝いて居た。スーツと風が入つたので、ゆらゝゝ(※5)と焔は左右に動いた、家(いへ)の中(うち)には人影もなく、静けさは死んだ様である。
「奥様! 奥様!」とお清は雪子を促がした。雪子は坊やを抱いた儘、土間に突つ立つた。
「奥様!」といふ声が、半丁も隔つた所から聞えた。お清は最早其のあたりには見えなかつた。雪子は唯一人となつた。
「お清! お清!」と慌てゝ呼んだ。けれど答ふるものは何もなかつた。これは如何(どう)した事かと心細さに身動きもならなかつた。
「お清! お清!」となほも続け様に叫んだ。抱いて居る坊やは「わつ」と泣きかけた(※6)
 しん(※7)とした家(いへ)の中(うち)で、待てどもお清は帰らない、気味が悪くなつて悚然(ぞつ)とした。同時に不安の念が油然(わくわく)と起つた。雪子は凝(かた)くなつて立ち竦んだ。
 不図奥の方に眼を放つと、行燈(あんど)の影に、ぼんやりと立つて居る一人の男があつた(※8)
 雪子はぎよつとして足を縮めた。
「雪子! 雪子!」と呼ぶ声が響いた。
 誰かと見つめても、知らぬ俤(おもかげ)
「雪子!」と彼方(かなた)は更に言(ことば)を強めた。雪子はなほも、眼を据ゑた。彼方(かなた)の頬には薄笑みが散つて居た。
 突然雪子は叫んだ、
「お父さま!」
「おゝ判つたか?」

(※1)原文閉じ括弧なし。
(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)(※4)原文句読点なし。
(※5)原文の踊り字は「く」。
(※6)原文ママ。
(※7)原文圏点。
(※8)原文ママ。

底本:『京都日出新聞』明治44年4月24日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年1月30日 最終更新:2009年1月30日)