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あら浪 第五十回 女の腕で

不木生

「雪さや! 勝清はどうしたよ?」といふ廣子の声は途切れゝゝゝ(※1)であつた。
「御母(おかあ)さま、御母(おかあ)さま」
「勝清はどうしたよ、何処に居るよ?」
「御母(おかあ)さま、」
「勝清はお前に預けてあつた。何処に居るよ? 逢はして呉れ!」
「悲しう厶(ござ)います」
「何をお前は悲しんで居るの?」
「御母(おかあ)さま、旦那様は、旦那様は……」
「何だよ?」
「あれ、彼処(あすこ)に彼処(あすこ)に」
「どこだよ?」
「こ、殺されて……」
「え?」
「し、死んで了(しま)つて……」
「何故、お前は勝清(あれ)を殺したの? 勝清は私の大事の子だよ、さあ活(いか)して返してお呉れ! 雪さ、よくもお前は私の一人息男(むすこ)を……」
「お、お母様、そ、それは……」
「お前は坊やも殺しただらう?」
「お、お母様、何故(なぜ)そんな事を? 彼処(あすこ)のあの女が、旦那様を殺して、自分も死んで……」
「何処にそんな女が居るの?」
「あの川の彼方(むかう)で御座います!」
「さあ、お前は今から、この川を渡つて、その女を連れて来なさい。」
「それはあんまり……」
「お前が行かなければ、私が行くよ!」
「迚(とて)も、無理で厶(ござ)います、危なう厶(ござ)います」
「危なくてもかまわぬよ」
「お母さま、流されて了(しま)ひます!」
「いえ行くよ!」といつて彼方(かなた)を望んで、
「勝清! お前は何故(なぜ)、私一人を置いて行くのだよ? 親を忘れるといふ者があるかよ? お前が来ねば私が行くよ、一人で嘸、寂しかつただらう、よしゝゝ(※2)行つて遣る、待つてお居でよ! お前は私の子だないか、私の腹から出た子だもの、庇つてやるのは私ばかりだ、今行くから」といつて岸に間近く走り寄つた。雪子は後背(うしろ)から廣子の袖を引き留めた。
「何故(なぜ)、お前は邪魔するのだよ?」
「お母さま、まあ待つて下さい!」
「いえ、いえ、待つては居れぬ」
「お母さま、私が代つて……」
「いゝよ」と云ひ様、ざんぶと河へ飛び込んだ。
 跡は忽ち巴渦(うずまき)を形づくつて、廣子の姿は水の中に隠れて了(しま)つた。
「お母さま、あーつ」といつて雪子は汀に蹲まつた。
「お母さま、私も死にます、後から飛び込んで行きます、もう皆んな死、死んで了(しま)つて、どうして私が生きて居れませう」かういつて更に又岸の彼方(あなた)を眺めて、
「坊や、坊や、お母さまは今行くよ、寒いだらう、さあ、乳を上げに行くよ!」
 此の時、水面を伝つて幽かに子供の泣き声が聞えた。
「あゝ、よしゝゝ(※3)」といつて雪子は再び立ち上つた。
 見れば水流は轟々の音を立てゝ、水の色は深く蒼う光つて居る。
 河の中央を黒い塊が見えつ、隠れつ南へ南へと縫ひ行くのが見えた。
「あゝお母様が、あんな風になつて了(しま)つて」と慨然。
「私もお伴を致します、否々助けて上げます、」
 かういつて水に分け入らうとしたが如何(どう)したものか、足は地面に釘附けられたかの様に、悶躁(もが)けども更に其の効がなかつた。一歩も進退が叶はぬのである。
 風は強く袂を吹き上げて、肌は凍る様に感じた。
 更に勇を鼓して、身を躍らした時、雪子は後から、女の腕で抱き留められた。

(※1)(※2)(※3)原文の踊り字は「く」。

底本:『京都日出新聞』明治44年4月23日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年1月30日 最終更新:2009年1月30日)