「雪さや! 勝清はどうしたよ?」といふ廣子の声は途切れゝゝゝ(※1)であつた。
「御母(おかあ)さま、御母(おかあ)さま」
「勝清はどうしたよ、何処に居るよ?」
「御母(おかあ)さま、」
「勝清はお前に預けてあつた。何処に居るよ? 逢はして呉れ!」
「悲しう厶(ござ)います」
「何をお前は悲しんで居るの?」
「御母(おかあ)さま、旦那様は、旦那様は……」
「何だよ?」
「あれ、彼処(あすこ)に彼処(あすこ)に」
「どこだよ?」
「こ、殺されて……」
「え?」
「し、死んで了(しま)つて……」
「何故、お前は勝清(あれ)を殺したの? 勝清は私の大事の子だよ、さあ活(いか)して返してお呉れ! 雪さ、よくもお前は私の一人息男(むすこ)を……」
「お、お母様、そ、それは……」
「お前は坊やも殺しただらう?」
「お、お母様、何故(なぜ)そんな事を? 彼処(あすこ)のあの女が、旦那様を殺して、自分も死んで……」
「何処にそんな女が居るの?」
「あの川の彼方(むかう)で御座います!」
「さあ、お前は今から、この川を渡つて、その女を連れて来なさい。」
「それはあんまり……」
「お前が行かなければ、私が行くよ!」
「迚(とて)も、無理で厶(ござ)います、危なう厶(ござ)います」
「危なくてもかまわぬよ」
「お母さま、流されて了(しま)ひます!」
「いえ行くよ!」といつて彼方(かなた)を望んで、
「勝清! お前は何故(なぜ)、私一人を置いて行くのだよ? 親を忘れるといふ者があるかよ? お前が来ねば私が行くよ、一人で嘸、寂しかつただらう、よしゝゝ(※2)行つて遣る、待つてお居でよ! お前は私の子だないか、私の腹から出た子だもの、庇つてやるのは私ばかりだ、今行くから」といつて岸に間近く走り寄つた。雪子は後背(うしろ)から廣子の袖を引き留めた。
「何故(なぜ)、お前は邪魔するのだよ?」
「お母さま、まあ待つて下さい!」
「いえ、いえ、待つては居れぬ」
「お母さま、私が代つて……」
「いゝよ」と云ひ様、ざんぶと河へ飛び込んだ。
跡は忽ち巴渦(うずまき)を形づくつて、廣子の姿は水の中に隠れて了(しま)つた。
「お母さま、あーつ」といつて雪子は汀に蹲まつた。
「お母さま、私も死にます、後から飛び込んで行きます、もう皆んな死、死んで了(しま)つて、どうして私が生きて居れませう」かういつて更に又岸の彼方(あなた)を眺めて、
「坊や、坊や、お母さまは今行くよ、寒いだらう、さあ、乳を上げに行くよ!」
此の時、水面を伝つて幽かに子供の泣き声が聞えた。
「あゝ、よしゝゝ(※3)」といつて雪子は再び立ち上つた。
見れば水流は轟々の音を立てゝ、水の色は深く蒼う光つて居る。
河の中央を黒い塊が見えつ、隠れつ南へ南へと縫ひ行くのが見えた。
「あゝお母様が、あんな風になつて了(しま)つて」と慨然。
「私もお伴を致します、否々助けて上げます、」
かういつて水に分け入らうとしたが如何(どう)したものか、足は地面に釘附けられたかの様に、悶躁(もが)けども更に其の効がなかつた。一歩も進退が叶はぬのである。
風は強く袂を吹き上げて、肌は凍る様に感じた。
更に勇を鼓して、身を躍らした時、雪子は後から、女の腕で抱き留められた。
(※1)(※2)(※3)原文の踊り字は「く」。
底本:『京都日出新聞』明治44年4月23日(第4面)
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(リニューアル公開:2009年1月30日 最終更新:2009年1月30日)