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あら浪 第四十九回 其(その)子を返せ

不木生

「こら、待たぬか?」と勝清も続いて飛び出した。雪子も此の時庭に走り降りた。裳(もすそ)を掲げる隙(ひま)も無くて、嫋々たる姿を急いで運ばせた。
 前面(おもて)には平坦なる原野が曠々(ひろびろ)として横(よこた)はつて居る。冬の空気はあちらこちらと流れて、鳥が頻りに飛んで居た。
 砥石の様な一本の長い道が逶■(※1)(ゐだ)として横(よこた)はつて居る。枯芝は茅々(ぼうぼう)と道の両側を蔽(おほ)つて居る。芳江は坊やを抱いた儘彼方へと走つた。勝清も力の限り走つた。雪子との距離は段々遠くなる許りであつた。
 道は森に連(つらな)つた。枯木が半ば占めて居るけれど、鬱蒼たる常盤木(ときわぎ)がきつしり並んで居た。
 芳江と勝清の影は何時しか森の中に隠れて了(しま)つた。雪子のか弱き身体は刻一刻と呼吸が迫つて、喘ぎゝゝ(※2)て行く内に、足は棒の様に固くなつて来た。最愛の坊やは如何(どう)して居るか。如何(どん)な難儀に逢ふかも知れぬと思つて、疲れた脛(はぎ)を強いて動かした。
 森は其処(そこ)ぞと見えても間隔は依然として居る様に思はれた。
 夫は果して坊やを取り返して呉れたであらうか。今は夫に祈るより外はない、不安苦痛、疲憊(つかれ)の念が混淆して、我知らず走つて居る内、何時(いつ)の間にか森の中に居た。然し二人の影は消えて了(しま)つた。
 太い太い松の根元を潜り抜けて、雪子はなほも足を引摺つた。
「ヒーツ、ヒーツ」といふ声が何処からともなく聞えて来た。
「坊やの泣声だ」と思ふと、もう身(からだ)が痺れた様になつてしまふ。けれども棄てゝ置(おい)ては尚更とハアツハアツと強い呼吸をして、漸く並木の外縁(はづれ)まで来た。
 再び広い野原である。見れば芳江と勝清とが戦つて居る、芳江は坊やを抱いた儘刃向つて居る。
「こ、これがあるから、貴方は迷つて居るのでしよう」と芳江がいふ。
「放せ! 其(その)子は僕の子だ、お前が兎角(とかう)言ふ必要はない」
「いえ、あるのよ、何処(どこ)までもあるわ!」
「何処(どこ)にある、いゝから其の子を返せ!」
「いえ、よう返さないの!」
「愈(いよいよ)、返さないといふか?」
「貴方はまだ迷つて居なさる! こ、こんな者を殺して了(しま)つたら、迷(まよひ)が解けるでしよう」かういつて芳江は懐から一本の匕首を取り出した。さらり(※3)と片手で鞘を払うと見ると、秋水耀々として光つて。
 驚破(すはや)、坊やは殺されて了(しま)ふ。雪子は我を忘れて駆け附ける。ハツと思ふ一刹那、こはそも如何(いか)に!
 忽然として其処に大なる川が横(よこた)はつて、雪子は此方(こちら)の岸に、二人は彼方(むかう)の岸に。
 水は滔々と北から南に流れて居る。其(その)速い事矢の様である。激流は岸を洗つて、仮令(よしや)百万の軍勢なりとも辟易に値する。
「何をするつ!」といふ勝清の声が手に取る様に聞えた。傍には人の影も見えぬ。雪子の心は矢竹(やたけ)に噪急(はや)れども、手を空しくして地蹈■(※4)(ぢだんだ)ふむより外はなかつた。
「何です?」と芳江は忽ち勝清に白刃(やいば)を向けた。と同時に
「うーん」といつて、勝清はどたりと仆(たふ)れた。
「アーツ」と雪子も悶え転んだ。
 芳江は■々(※5)(きき)と笑つた。
「ホヽ」と更に狂気の笑ひを洩して、返す血刃(ちがたな)に坊やを貫かうとした。
 万事休矣(もうだめだ)、と思ふ途端にどうした■勢(※6)(はづみ)か芳江の手は異様に顫(ふる)へて、自分の胸板にぐさりと突き立てた。
 (※7)(どう)と仆(たふ)れる音を聞いて、「坊やは助かつた」と思つて、雪子は再び正気附いた(。)(※8)
 河の幅は遽(には)かに倍(いや)まさりて、岸は薄霞んで、遠い遠い彼方(かなた)に見えた。
 折からばたゝゝ(※9)と後方(うしろ)に跫音が聞えて、
「雪さや、雪さや」
 振返つて見れば、それは母の廣子であつた。

(※1)一文字表示不能。「二点しんにょう」+「施」の右側。
(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文圏点。
(※4)一文字表示不能。「なめしがわ」+「備」の右側。
(※5)口偏+「喜」。
(※6)一文字判別不能。
(※7)手偏+「堂」。
(※8)原文句読点なし。
(※9)原文の踊り字は「く」。

底本:『京都日出新聞』明治44年4月22日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年1月26日 最終更新:2009年1月26日)