「雪さん!」と勝清の声は悲調を具へて居た。
「雪さん!」と更に響は高まつた。
雪子は玉の様な男の児を抱いて、端然、畳の上に座つて居る。
「よくも此処まで尋ねて来て呉れた!」
「………………」
「所夫(あなた)!」と雪子は僅かに顔を挙げた。
「おゝ雪さん!」
「坊やはこんなに大きくなりました。」
「おゝ!」
「可愛くはありませぬか?」
勝清は突然(いきなり)、雪子の抱いて居た子に接吻せんとした。
「いえ! いえ! いけませぬ!」と雪子は避けた。
「雪さん、僕は悔悟した、匹婦の為に欺かれてこの寒い朝鮮の土地まで来る! 雪さん僕の腹(はらはた)は腐つて了(しま)つた。三年の間、よくも辛抱して留守を護つて居てくれた。僕は夙(とつく)に悔悟した。雪さん、堪忍して呉れ!」
「………………………」
見れば勝清の眼から、沸騰した血がはらゝゝ(※1)と溢れた。頬を伝つて畳の上にぽたりゝゝゝ(※2)と落ちた。真紅の斑紋が……
雪子は驚いた。
「貴方! 如何(どう)遊ばした!?」
懺悔の為には血の涙を流す掟もある(。)(※3)
「そんな事は管(かま)はぬ、雪さん、坊やを僕の子と呼ばして呉れ!」
雪子は尚も答ふるに躊躇した。
「雪さん、僕はこの通り、改心した。今といふ今、すつかり以前(もと)に立ち帰つた。雪さん、僕は死(しん)(※4)でもかまわぬ。こんな莫迦なものは死んだ方が増しだ、それにしても雪さん、唯一遍でよいから坊やの御父さんとして呉れ!」
「…………………」
「なる程お前が怒るのも尤もだ、けれども今になつては謝るより外はない、この様に真から詫びて居る、雪さん許して呉れ!」
すやゝゝ(※5)と膝の上に眠る坊やを見つめて雪子は思はず涙を溢(こぼ)した、頬から頬に伝つた時、ワツといつて泣き始めた。
「おー、おー好い児だ、坊やは御母(おつかあ)さんに抱かれて居るのだろ!」といつて雪子は両手を揺つた。
勝清はもう堪らなくなつた。
「雪さん、許して呉れ、よう!」といつて坊やを抱かうとした。
唐突(だしぬけ)に襖を明けて入つて来たのは、美はしい女。勝清は驚いて振向くを見て、
「貴方は誰と話して居るの、私に黙つて、余所(よそ)の女を近(ちかづ)けるといふ事があるの、追ひ出して遣りなさい、汚らはしい、私は貴方の妻ですよ、妻に知らぬ顔して、女を近(ちかづ)けるといふ法があるの、宜しい貴方が厭なら私が代つて追出して了(しま)ひませう!」と眼に物見せむの元気、
「これ、芳江、まあ待て!」
「いえ、こんな者が此処へ来る筈がないわ!」
雪子は此(この)時キツ(※6)となる。
「私が此方(こなた)の妻です、藤枝勝清の妻です、この通り子まであります」
「うるさい! お前さんには話して居ませぬ」
「芳江! よく聞け、お前には云ふ事がある」
「いえ、聞かなくてもいゝわ」といつて芳江は雪子の方に飛び掛らうとした(。)(※7)勝清はやるまいと強く其間(そのあひだ)に分け入つて、
「聞かぬといふのか」と強い声。
「何をいふの! 妻に向つて、そうゆう事があるの、宜しい、わかつて居るわ」いゝ様(さま)、隙を伺つて雪子の方に近寄ると見えたが、忽ち雪子の手から坊やを奪つた。
「アツ」といつて雪子は思はず立つた。
「何をするつ!」といつて勝清も立つた。
此の時芳江は縁の外へ身を躍らせて坊やを抱いた儘、走り出した。
「こら待てつ!」
(※1)(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文句読点なし。
(※4)原文ママ。
(※5)原文の踊り字は「く」。
(※6)原文圏点。
(※7)原文句読点なし。
底本:『京都日出新聞』明治44年4月21日(第4面)
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(リニューアル公開:2009年1月26日 最終更新:2009年1月26日)