「御用だ、御用だ」
蹴たたましう格子戸を排(はづ)して、乗込んだ一人の警官が、角燈を引携げて踏み入る後(うしろ)からは、筒袖を着た例の稲垣探偵が従つた。
須磨屍体事件に就て稲垣探偵の苦心は実に言語道断であつた。
警察の側(がは)では、内部に種々の異説が持ち上つた。凡て長引く事件には区々(まちまち)の議論が百出して、益(ますます)迷宮に進み行く例(ためし)が尠(すくな)くはない。然し稲垣探偵は始めからの自分の主張を飽く迄も持続せしめて、立証を、立証をと苦心した。即ち彼は、犯人の中(うち)少なくとも女の方は東京市に潜伏して居ると確信した。それ故に反対者に対して一刻も早うと努力に努力を重ねたのである。
彼は若手の腕利きである。勝気の強い男である為に、兎や角の批判を蒙るのが忌々しい、其故(そのゆへ)に彼は気を揉むだ、大(おほい)に焦心(あせ)つた。けれども日数は徒らに積つて行くばかりであつた。
ところが先日花盛りの一夜、上野公園で不思議だと思ふ物に出逢つた。それ故車夫に尋ねて其(その)住所を突き留めたが、やはり有耶無耶に帰して了(しま)つた。
偖(さ)て、何故(なにゆへ)に芳江の借家住居(ずまゐ)が、最寄の巡査に怪しまれなかつたかといふに就て、こんな話がある。
以前に遡るが、監督の巡査が、芳江の家に尋ねて来て、色々と検(しら)ぶる所があつた。其の際、芳江はあらゆる奸計(たくみ)と甘言とで、巧妙に身の上を説明して、なり来(きた)つた経歴をも臆する所なく述べて対手(あひて)の胆を挫(ひし)いだ(。)(※1)其の時巡査は強く魅せられて了(しま)つた。近づき易い女だと悟ると同時に、心臓の鼓動が一(ぴん)から十(きり)まで異様なる響を伝へたのである。
巡査は職務と云ふ事を忘れて、只管勃起し来る感情の抑制に勤めねばならぬ様になつた。最早かうなつてはたゞ、其(その)女の傍に行つて、沁々と話して見たくなつた。その欠陥をば芳江は夙に看破つた。危ふきに近寄らずの掟があるが、積極的の行為には、どんゝゝ(※2)と為掛(しか)けて行くのが適当だと解つた。それ故勝清の留守中には折々会して話した(。)(※3)芳江は男を上手に操縦し兎や角して光陰は経過した。
■(※4)(ざつ)とこんな次第であつたに依つて、稲垣探偵の苦心は水の泡に帰するが常であつた(。)(※5)云はゞ非常線の妨害を受けたのである。
然れども商売は其(その)道によりて賢しとも、又は蟒蛇(じや)の道は蛇とやら、今宵機を得て巡査部長と共にこの家を襲つたのである。
部屋は真黒である。何の物音もない、夜は闌(たけなは)であるから、土地の閑静に伴(つ)れて、しん(※6)とした事此の上もない。
二人は疑問の頭(かしら)を傾げて、とんゝゝ(※7)と階段を踏んだ。
異様の香(か)が鼻を撲(う)つたので、馴れたる警官は早くも感附いた。
「いかぬぞ!」と稲垣探偵に注意した。無言で燈(とう)を差し向けて見れば、一人の男が仰向けに畳の上に横(よこた)はつた。
「残念! 逃したつ!」と稲垣探偵は歯を喰ひしばつた。
勝清は無惨にも死んで居た。
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病気であつた廣子は、この事を聞くや否や、直様(すぐさま)病募つて、其儘帰らぬ人となり終つた。
(※1)原文句読点なし。
(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文句読点なし。
(※4)一文字判別不能。雁垂+「各」?
(※5)原文句読点なし。
(※6)原文圏点。
(※7)原文の踊り字は「く」。
底本:『京都日出新聞』明治44年4月19日(第4面)
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(リニューアル公開:2009年1月26日 最終更新:2009年1月26日)