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あら浪 第四十五回 苦痛の色

不木生

「厭だわ! 厭だわ」
「厭ではあらうが、長い夢を見たのだと思つて、」
「そんな位なら私、死んで了(しま)ふわ!」
「そ、それがいかぬ」
「だつて、生きて居られないですもの!」
「まあ、そう言はないで、よーく考へて呉れ!」
「考へたつて其の通りだわ!」
「なる程お前のそう言ふのも無理はない、そら、僕が無理だ、純潔無垢な女を疵(きづつ)けたといふ罪は僕に在る……」
「そんな事はどうでもいゝわ、貴方の傍に居ればいゝわ!」
 今は六さんの事を思ふ余地は無かつた、大負傷を蒙つて呻吟して居る戦士が、却つて小刀(ナイフ)の切り傷に気を奪はるる様なもので芳江に取りて、六さんが前者、勝清が後者に譬へ得るものか、
「飽く迄、僕が悪かつたのだ」
 言はゞ弄んだも同様である。過去を閲歴して見ると、なる程受動的(パツシブ)に違ひない。動機を与へたものは正に芳江である、か様な運命を形(かたちづく)つたのも芳江其(その)人である。責(せめ)は芳江にあるべきであるから、今振り切つたとて、疚しい所以(いはれ)が無い。なれども行為者は自分である。仮令(よし)や、芳江にかゝる運命の素質があつたとしても、其(それ)に衝動を与へて発現に(※1)したのは自分である。すると自分にて責任は免れないのである。理窟から言つてもそうであるに、情の方面から押せば一も二もなく気の毒でならぬ。けれども自分は厭になつて捨てるのではない、両全し得ないが為に犠牲といふ惨酷なる法度を以て、瞼を閉ぢて無理やりに、最愛の女と別れるのだ、此方(こちら)の心も言ふに言へぬ。
「よく、よく、僕の心を察して呉れ」
 芳江は黙つて俯いて居たが、遽かに、
「貴方、私を殺して下さい!」
「な、何を言ふのだ?」
「いえ、貴方に殺されたら本望ですもの」と頑固なる面魂(つらだましひ)
「そんな無法なことを言ふものがあるか」
「魂ばかりになつて貴方の傍に居るわ!」
「頼むから、其(そん)な無茶を言はないで居て呉れよ!」
「真面目だわ!」
「まあいゝからさ」といつたが、どうした事か手がつかぬ。
 昨夜(ゆふべ)から今日にかけて芳江の脳味噌は敗絮(ふるわた)の様に疲れて居た。剰(あまつさ)へ恐怖、惶懼(かうく)の念が、粘液腺細胞の原形質の様に充ちて居たところへ、酒を注いだ為に異常に興奮して怒濤に揺らるゝ短艇(ボート)の様に、くらゝゝ(※2)と心地が怪しくなつて気は狂つた様。
「私が若し死んだら貴方は………」
「もう止せつてば!」
 一種悽愴の空気に包まれた。制せらるゝのも肯かずに、
「たとひ死んでも……」と言ひ乍ら懐に手を入れた。勝清は呆気なさに、其儘口を噤むで、酔眼の底に苦痛の色を秘めて居た。
 チカリと網膜を刺激した。
「何をするの!?」と矢庭に強く言ひ放つて、思はず芳江の傍に寄る。
「ど、どうして持つて居るのだ!」と言ふも口早である。
「もう」
「危ないつ!」と云ひ様勝清は、芳江の手から拳銃(ぴすとる)(※3)(も)ぎ取らうとした。
 途端に、
「ズドン」と一声。
 アツといつたは、男の声であつた。

(※1)一文字判読不能。
(※2)原文圏点。踊り字は「く」。
(※3)手偏+「宛」。

底本:『京都日出新聞』明治44年4月18日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年1月26日 最終更新:2009年1月26日)