インデックスに戻る

あら浪 第四十四回 離れて呉れ

不木生

 勝清の頬は赤く輝いた。
 漸く自分の思ふ事を言ひ得る迄に、彼は幾杯となく盃の数を重ねた。かうしてどうやら決心の礎が固まつて来た(。)(※1)
 食卓は片附けられて、二人は復(ま)た以前の様に坐つた。酒の為に二人共血管は大なる鼓動を伝へて居た。
「芳江!!」と語気は稍鋭かつた。けれども直様、蛞蝓が塩に逢つた様に、張つた弓弦を弛めた様にぐしやり(※2)と挫けて了(しま)つた。
「え?」と芳江は問ひ返した。
 彼女は自(みづ)から苦悶しつゝはあるが、勝清の今日に限つて少なからず様子が変つて居るのに、疑惑の雲を散らす事が出来なかつた。常ならば言葉に丹青を凝らして、綾なす調子で訪ねたでもあらふが、今は僅かに眼を挙げて、勝清が言ひ出さんとする所を待ち構へた(。)(※3)然し芳江の顔も酒の為に生気を帯んだ(。)(※4)
 乗り出した船だと勝清は、
「今日から僕と離れて呉れ!!!」
「えーつ?」
「どうしても別れなくちやならぬ義理となつた!」
 芳江には全然(すつかり)意外であつた。今が今迄斯様(こん)な事は夢想にもして居なかつた(。)(※5)(さ)れども彼女に取りては寧ろ好都合といふべしだ、勝清と別れるのは目下の最上策ではないか(、)(※6)果して芳江は喜んで其(その)手順に応ずるであらうか(※7)
 ところが決してそうではなかつた。彼女は女の弱点を名残なく具へて居た(。)(※8)芳江は勝清に愛せられたゞけ、勝清をも恋慕した、今目の前で、他人とならうといはれては、首足を(※9)(も)ぎ取らるゝ程ではないとしても、若草の根の執着は消えないのである。
 この藪から棒の相談に対して、芳江は解釈に礑(はた)と苦しんだ。何の為にか様な事を言ひ出し玉ふか、或(あるひ)は自分の罪状が耳にでも入つたのではあるまいか(、)(※10)(たしか)にそうだと気を廻して、若しそうとせばこの人も敵の一人(いちにん)か?
 この時芳江も大分酔(よひ)機嫌になつて来た。翻つて考ふれば、自分の気の塞いだのを矯める為の一時の冗戯(ぜうだん)か、冗戯(ぜうだん)にしても聞き棄てにはならぬ。
「冗戯(ぜうだん)いつちや厭ですよ」といふ声も転(うた)た快活であつた。
「いや全くだ。芳江、堪忍して呉れ!」
「うそばつかり!」
「そうだない、僕は悪かつた!」
「そんな話は止しませうよ」
 芳江の紅い顔の色、潤んだ眼元はどん底までも美麗に光つた。勝清は恍惚として離れ難(にく)い気がむらゝゝ(※11)と蟠(わだかま)る。連城の璧(たま)を放すよりも惜しい思(おもひ)、なれどもこの時と、動悸と共に勇を鼓した。
「済まないが今迄の事は水に流して諦めて呉れ!」
 再び理由が気にかゝり始めた。今は茶化す事も出来ぬ。
「どうして? 貴方! どうして?」と声は真面目である。
 勝清は悲しくなつて来た。
「芳江! 僕には妻がある……判明(わか)つただらう?」
 云はれて見れば満更、解らぬでもないが邪推かしらぬがまだ別に仔細がある様に思はれる。けれど毛を吹いて疵を求める習(ならひ)、うつかりした事を口走つてはと、
「死んでも貴方の傍を離れるのは厭だわ! 何処までも附いて居るわ!」かういつた声は真心の幾分をも含んで居た(。)(※12)
「芳江! 尤もだ、けれど僕が言ふ迄もない(、)(※13)察して呉れ、御前に別れる僕の心もどれ程苦しいか…………今迄の事は一旦の夢だと諦めて、お前は改めて、」といつたけれど、先立つは、乱れた思ひ、二の句は更に続げなかつたが、漸く気を取り直して、
「よう! どうしても二人は一所に居れぬのだから……僕の心も察して呉(くれ)!」

(※1)原文句読点なし。
(※2)原文圏点。
(※3)(※4)(※5)(※6)原文句読点なし。
(※7)原文ママ。
(※8)原文句読点なし。
(※9)手偏+「宛」。
(※10)原文句読点なし。
(※11)原文の踊り字は「く」。
(※12)(※13)原文句読点なし。

底本:『京都日出新聞』明治44年4月17日(第4面)

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1911(明治44)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2009年1月26日 最終更新:2009年1月26日)